蕾の落ちる時2
時間と言うものは無情に過ぎ去るものであり、月日は陽と月の循環の中にかつてより見出されてきた。
かの王、麗しい宮殿の主人であるアンリ・ディ・カペルのもとに付き従う事を許されたルイスは、かねてより彼の国土、太陽の沈まぬ王国の、翳りの匂いを感じ取っていた。
彼の父、フェルナンドにとって、コバエが集る鬱陶しさに過ぎぬこの些細な小競り合いが、彼にとっては非常な不安となってのしかかっていたのである。
庭園を一望できるバルコニーにて、僅かな暇さえ帝王学の修学に励むこの生真面目な少年が、王は大層気に入っており、次期王に迎え入れるのも吝かではないという雰囲気ではあったが、それは彼にとっては一抹の不安を払拭する動力にはならなかった。
彼は日中の太陽につむじを焼きながら、青い瞳を憂いに濁らせながら、権謀術数論の章を読み耽る。焦げ付くような夏の匂いに新緑の萌える庭園を望めば、庭師が雑草を抜き、土を整え、埋もれた小さな花などに水を遣る。この箱庭は鮮やかな緑と鉄格子とに囲まれ、窮屈な向こう側にはこれまた窮屈な馬車の往来する街並みが広がる。大通りさえすし詰め状態のペアリスの喧騒は遥か宮殿のバルコニーにも確かに届き、ルイスの頭を搔き乱す幾つかの問題を僅かに想起させる。
ルイスは頭を抱え、精読をやめ、細かなミニアチュールにその酷く澱んだ瞳を向けた。視線の先には、数世紀前の著者が、田舎臭い王都の前でカペルの王と面会している様が描かれている。そこには四つの国‐彼の住むアーカテニアはない‐の地勢が細かくメモ書きされ、細密画と言うよりも地図と呼ぶ方が相応しい。巨大な勢力図を城壁にかけた二人の貴人は自慢げに各々の指を天突き立て、掌を空へと向けて自己の正しさを訴え合う。
‐いつから、このようになってしまったのであろうか‐
カペル王家の血と、古くはエストーラ大公の血と、アーカテニア土着の王の血とを持つ生粋の大貴族であるルイスは、しかし、この問いに対する答えを出しかねていた。
時代は世界を余りに拡大させ、そして複雑にさせた。陛下が言うには、ブリュージュを通してエストーラがカペル王国への侵攻を狙っているという。その証拠にジョアンナ・ドゥ・ナルボヌなる貴族が目にも鮮やかな令嬢の宮殿を売却した際に、エストーラは刺客として、あろうことかあのフアナを寄越したというのである。
そんな中、もし、祖国の問題が外部に漏れたとしたら……。良くて四か国が武器を交える大戦争、最悪がエストーラ大公の第二皇子がカペルを、第三皇子がアーカテニアを治める事になりかねない。新航路を通して獲得した莫大な財も、新大陸より齎される銀の恵みも、全てあの寝帽子の血なる者の手になるとしたら……。それはルイスにとって恐ろしい事であった。一人勝ちなど許してはならない。この均衡をこそ愛するべきで、この息の詰まる緊張感をこそ、守るべきなのである。
「お悩みのようですね、王太子」
ルイスが顔を持ち上げると、同じ年頃のカペル王国第一王子、ヴィエンヌ侯爵ピエール・ディ・カペルが、厭味ったらしく顔を歪ませて、彼の様子を窺っていた。
「その呼び名はやめてくれ、腹がむかむかする」
「いい気なもんですね。父上に認められて、勉学に励むふりして居眠りとはね。俺は軽蔑しますよ」
ピエールは肘をつき、不機嫌そうに庭園を一望できるバルコニーから景色を眺めた。ルイスは気だるげに髪をかきあげ、目を伏せたまま首を振った。
王太子とは、この場合には第一王子であるピエールにこそ相応しい肩書きである。しかし、アンリ王が余りにも弟君の王子を良く扱うので、いつしか、宮廷では王族のいない間に「王太子」と言えばピエールではなくルイスを指す呼び名となってしまっていた。
「ペドロ、君はこの良くない状況をどう思う?僕らは互いに次に王位を継ぐ事になるだろう。手を取り合って問題を解決するためには……」
「……ハッ!そんなものは君の手で解決したまえよ!折角王太子などともてはやされているんだからね!さぞかし素晴らしい大団円が待っている事だろうよ!」
ピエールは机を何度も叩く。その度に腹のむかつきが刺激されるルイスは、いよいよ重くなった脳に伝わる振動が頭痛を刺激する事に耐え切れなくなった。
「何だ、君は。僕は君と協力して問題を解決したいだけなのに……。それをこのように酷く馬鹿にして煽るなど!王太子の名が泣くぞ!」
「傍系王子が何を言う?大体ね、君は甘いんだよ!アーカテニアの飛び地の動乱など、大砲でも二、三発ぶっ放して黙らせておけばいい!それともアーカテニア人は魔法の一つも使えないのか!?プロアニアから武器でもこさえてくればいいだろう!俺からすれば、何をそう思い悩むのか、全く理解に苦しむね!」
首筋の血管を浮き上がらせて捲し立てるピエールに、怒りのあまり顔を真っ赤にしたルイスが、歯を剥き出しにして顔を突き出す。
「ペドㇿ、いい加減に……!」
「その名で呼ぶな!畏れ多くもカペルの王太子に対して、アーカテニアの訛りで呼ぶなど無礼千万、首が吹き飛んでもおかしくないのだがね!」
「……ッ!君に少しでも期待した僕が馬鹿だったよ!もういい!」
ルイスは怒りを必死に抑え、先程まで自分の理性を保つのに役立った本を机の上に叩きつける。肩を怒らせたままその場を去る彼には、しかし拭えない不安に対する明確な恐怖の念があった。
昼下がりの穏やかな庭園の景観も、彼の込み上げる恐怖に勝るものではなかった。




