9話 仮の名前
――まさか、生きてるなんて。
私は今日、処刑されて死ぬはずだったのに。なのに今はなぜか、カイルに抱きしめられ、優しく頭をなでられている。
(私のことを思い出してくれたのかと思った。けど、違うみたい……)
それでも、命がけで助けてくれた。それは、私の知っているカイルそのものだ。旅の途中、瘴気で狂った動物に襲われると、いつも体を張って皆を守ってくれていたのだ。師匠のジャレドの女遊びが嫌いで、正義感のかたまり。少し頑固なところもあったけど、弱い立場の人にいつも思いやりをもって接していた。
(そうだわ! 今の私は、彼にとって守らなくてはいけない弱い立場の人間。優しいのは当たり前! 恋人に戻った気になったらダメ!)
だって彼はアンジェラ王女の婚約者。否定する様子もなかったし、事実なんだろう。それなら私の無実が証明されても失恋確定だ。
(とにかく涙も止まったし、彼からは離れよう。適切な距離を保っておかなきゃ、あとで傷つくのは私だもん……)
カイルの胸をトントンと叩き、ぺこりとお辞儀をした。そういえばこの国にはお辞儀の文化がなかった。いつも私がお礼を言うとペコリ、謝るとペコリとするので、みんな次第に真似をするようになったっけ。
そんな懐かしいことを思い出していると、カイルは不思議そうに私の動作を見つめていた。やっぱり覚えていないみたい。寂しいけれどしかたがない。私はすっと立ち上がり、改めて「ありがとう」と口を動かし、深々とお辞儀をした。
「お礼を言っているのか? 気にしなくていいのに」
どうやら感謝の気持ちは伝わったようだ。ただ「ありがとう」の口の動きは読めなかったらしく、言葉そのものは伝わらなかった。ここに召喚されたときも、自動翻訳って感じだったもんね。私の口の動きは日本語のままなんだろう。
それでもカイルはお礼を言われたことがうれしかったのか、柔らかく笑った。言ってよかった。
「まだ昼前だが、食事を取っておこう。その間にこれからのことを説明する」
そう言うと、カイルはてきぱきと食事の準備を始めた。懐かしいその光景に、目の奥がじんわりと熱くなる。旅に出たときもこうやってカイルや教会の世話係だったアメリさんが、食事を作ってくれた。
(それにしても、マントの裏にいろいろ隠し持ってきてたんだ。これって、あらかじめ準備してくれたんだよね)
昔、一度カイルのマントを着させてもらったことがある。その時は防御魔術が施してあるただのマントで、今みたいに食料などは隠されてなかった。
「さ、できたぞ。パンと燻製肉だが、食べられそうか?」
そういえば、私は丸一日何も食べていない。差し出されたのは、美味しそうな白パンとベーコンのサンドイッチ。一気にお腹が空いてきて、うなずくよりも早く、ぐうっとお腹が鳴った。
「ははっ! 良かった。安心したら腹が減ったんだな。ゆっくり食べるといい」
(……恥ずかしい。でも体力つけなきゃ足手まといになっちゃう。よし! 食べよう! いただきま〜す)
自然と食べ物の前で手を合わせた私を、カイルはまた不思議そうに見ている。そういえばこの「いただきます」も、食材や料理をしてくれた人への感謝の気持ちを表しているんだと説明したら、みんな感激して真似してくれたっけ。そんなことを思い出していると、またじわりと涙がにじみそうになる。
(やばい、やばい! すぐ思い出に浸って感傷的になっちゃう! 食事に集中しなきゃ!)
気を抜くと、また泣いてしまいそうだ。私はそんな気持ちを振り払い、ガブリとサンドイッチにかぶりついた。
「いい食べっぷりだな。お茶を飲まないと喉につまるぞ」
言われたとおり、手渡された温かいお茶を飲み込む。喉から胸、そしてお腹へと、じんわり温かさが通っていく。
(私、本当に生きてるんだ……)
美味しい食べ物に、温かいお茶。それらが体にしみ込むことで、どこかふわふわしていた現状に実感が湧いてきた。私がまたカイルにぺこりとお辞儀をすると、彼は「それはお礼の動作なんだな」と笑った。
出された食事をすべて食べ終え、二杯目のお茶を飲みながら、カイルは地図を広げてこれから向かう場所の説明を始めた。
「まずは、ケーナという町に寄るつもりだ。そして最終的には聖教会に行こうと思っている」
「……っ!」
(嬉しい! 教会に連れていってもらえるんだ!)
私があからさまに喜んだ顔をしたからか、カイルは「教会に縁があるのか?」と尋ねてきた。私は勢いよくうなずいた。
「……そうか。信心深いのだな。それなら教会の信者として、名前が残されているかもしれない。君のことを知っている人がいればいいのだが」
(う〜ん。でもみんな忘れてるみたいだから、望みは薄いよね。それとも教会パワーで覚えてくれてたりして?)
「教会なら、事情を話せば君を匿ってくれるだろう。……そういえば、君の名前はなんというんだ? 文字は書けるか?」
残念ながら、ここでの会話は自動翻訳らしく、文字は読めないし書けない。私は首を横に振って否定した。黙秘していると思われるかもしれないが、本当のことだからしかたがない。
「……そうか。読むこともできないのか?」
コクリとうなずくと、カイルは少し険しい表情を浮かべた。私の非協力的な態度に、きっとカイルの対応も厳しくなるだろう。そもそも私は王宮に無断で侵入した犯罪者だ。優しさを期待するほうがおかしい。
「そうか。わかった。それなら仮の名前をつけていいだろうか?」
意外にもカイルは、態度を変えなかった。それどころか、私に名前をつけてくれるという。
(名前なら、あれがいいな……)
私は足元に落ちていた小枝を拾い、地面に花の絵を描き始めた。それはこのオズマンドでも春に咲く、桜にそっくりな花。カイルと一緒に眺めた、思い出の花だ。
「ん? この絵は花か? ……ああ、この名前にしてほしいということか?」
カイルはすぐに理解してくれ、私を見て微笑んだ。
「じゃあ、今日から君の名前は……サイラだな」
差し出しされたカイルの手をつかみ、立ち上がる。彼は少し懐かしそうに目を細め、呟いた。
「……良い名だ」
――サクラの名前はサイラと似ているんだな。オズマンド風の名だ。俺たちの子どもが女の子なら、サイラにするのもいいな!
プロポーズしてくれたあの日、満開のサイラの下で、カイルはそう言って私を抱きしめてくれた。
(もう一度、彼を取り戻したい……どうすればできるの?)
私は彼のまぶしい笑顔を見つめながら、絶望の中に一筋の光を探していた。




