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黎明の章 五 黒夜の終わり

耿晨戻ってきました

 荒野を駆けてくる一団を眼下に見止めて、耿晨は天犬を舞い降りた。


 名を叫び呼ぶ声が聞こえる。


 幽かに泣いている様に感じるのは、玲凛か。

 松侶はやはり、こんな時でも大声は出さないんだな。

 ……蚩尤。あんな切迫した声も出せるのか。


 馬蹄の響きは三つ。緋雲は――いないようだ。


 馬から降り立った三つの人影は、何かを畏れるかのように少し離れたところで足を止めた。

 丘の中腹辺り。表情は分かる距離。

 だが三人を見るためには、耿晨は少し視線を下げなければならなかった。

 変わってしまったんだな、と実感する。

 跪き、頭を垂れる皆の中には、もう昨日までの耿晨はいない。


「耿……、聖上……」


 呟き出た玲凛の声を、風が運ぶ。

 耿晨は天犬から離れると、一歩前に出た。


「無断でいなくなってすまなかった。だが、私にとって必要なことだった。理解して欲しい」


 不安げに、怯えたような目で見上げてくる六つの瞳。

 そこにあるのは、悲愴なまでの労わりと心配。


「……護るべきものを、確認してきた」


 三人の顔に、明るさがさした。

 期待を込めて見上げてくる一人ひとりの顔を見渡して、耿晨は静かに頷いた。


「何故、私に聖紋が出たのかを考えていた。霊力が高いから? そんな話信じられるか。選ばれた私と、選ばれなかったその他大勢の者たち、一体どこが違うと言うんだ。何も違わない。私も陶の未来を憂う大勢の民の中の一人だ。では何故私が選ばれた。蚩尤のような忠も、玲凛のような智も、松侶のような孝も、私にはない。では私には何がある。何を持って天は私を王にした」


 耿晨の声は深く、意思を持って響いた。


「主上は仁のお方であらせられます」


 天を疑う余地はない、という蚩尤の諭すような声。耿晨は悠然と首を振った。


「辛そうな顔をしているな、蚩尤。陶を墨節に晒した罪に耐えているのか。だがそれは、傲慢というものだ」


 言い放った言葉に、三人が怪訝そうな顔をした。


「たかが人間が、呪も用いずに王気を隠しきれる筈もないだろう。

 確かに私に聖紋は出ていた。

 だが、いくら私が無能だとしても、自分の身体に起こった異変に四年も気付かずにいれるものだろうか。

 自分ですら気付けない程度の王気だったということだ。

 つまり聖紋はあれど、私にはまだ王たる真の資格がなかったんだ」


 耿晨は、片手を胸に当てる。


 今ならはっきりと分かるこの気脈の流れに、何故今まで気付かなかった。

 気付かなかったのではない、覚醒したのだ。


「どうやら私は未熟な王らしい。だから聖紋は、私が真の資格を手に入れるまで、隠れていたんだ。

 やっと私が資格を得たと判断したからこそ、聖紋は自ら他者の前に姿を現した。

 陶を死の大地に変えた罪は、一重に私の未熟さと、こんな私を選んだ天にある。

 この罪は天の領属。蚩尤、天帝がいたらこう言うぞ。

 人間ごときが傲慢にも、天の罪を被ろうとしている、とな」


 蒼白な蚩尤の顔を耿晨は無表情に見下ろした。


 跪く三人に向かい、耿晨はゆっくりと足を踏み出した。


「では今回の一件で私は何を得た。

 他者になくて、私にはあるもの。それはお前たち以外にない。

 私は未熟過ぎて、一人で国を支えて行けない出来損ない。

 だから天は、仲間と出会うまで待ったんだ。

 翻えせば、お前たちは王の一部。

 聖上と呼ぶ必要も、膝を折る必要もない。

 共に戦う気があるのなら、立ってくれ」


 大きな音量ではなかった。けれど岩に、大地に、空に染み入るような浪々とした宣言だった。


 玲凛が弾かれたように立ち上がった。


「良かった。正直聖上って呼ぶのむず痒くって」


 こぼれるような笑顔に、微笑み頷き返し、右手を差し出した。


「この二人と違い、玲凛にはなんのしがらみもない。玲凛には沢山の選択肢がある。

 この手をとって欲しいという気持ちと同じくらい、拒絶して欲しいと思っているんだ。

 国に尽くすとは、茨の道を歩くようなものだ。

 玲凛には、いつも笑っていて欲しいから。だから、良く考えて……」


 言い終わらない内に、玲凛がしがみ付くように耿晨の手をとった。

 両手で包み込み、輝く笑顔を向けてきた。


「大丈夫。私どこにいたって笑ってるの。耿晨が見飽きるくらい笑っててあげるんだから」


 松侶は少し口の端を持ち上げて、これみよがしにため息を付くと、地に立てていた刀を腰に戻しながら立ち上がった。


「参ったなぁ。私は臣下になるために生まれて来たんだよ」

「形は違えど、私を支える事実に変わりはない。松侶の孝に背く行為ではないだろう。だがどうしても不服なら、私と新しい約束をしよう」


 いいね、と松侶の瞳がいたずらっぽく光った。


「私の命は松侶にあげるよ。この意味、分かるな」


 松侶が息を呑む音が、月に冷やされた空気に響いた。

 松侶は少し放心したが、すぐに肩を竦めて苦笑した。


「私より、蚩尤のほうが権利を持っていると思うけどな」

「蚩尤に二度も同じ想いをさせれるか。

 それに、私の為に生まれてきてくれた松侶に返せるものなんて、他に思いつかない。

 勿論そんな日が来ないよう、全力は尽くすさ。

 これはその誓いだ。決意を受け取って欲しい。

 私を斃せるのは、天を除いて松侶だけだ。それまでは私の傍にいろ」


 松侶は何とか作った、という笑顔で頭を掻いた。


「どうしよう。今すごく、君に跪きたいよ」

「許可できないな」


 短い笑顔を交し合うと、耿晨は、未だ一人膝を付く漆黒の保護者の前に立った。

 気配を感じたのだろう、蚩尤の頭が一層低く下げられた。


「……立つ気はないか、蚩尤」

「私は時代の残滓に過ぎません」


 頑なな漆黒の髪は、はっきりとした拒絶を表していた。

 融通の効かない男。莫迦が付くほど真面目で、涙が出るほど誠実な、耿晨の片割れ。

 いくら罪を天に返せと言っても、蚩尤が是と言えぬとは分かっていた。


 蚩尤を引き止める言葉を、耿晨は持っていなかった。

 自由になって欲しいというのが正直な気持ちでもあった。だが。


(生きていてくれるか?)


 詰問は声に出せない。だがきっと伝わっていると信じている。

 自由になって欲しい、だが生きていて欲しい。

 これが耿晨の我侭だとしても。


 耿晨は拳を握り締めた。搾り出した声は、王者のそれではなかった。


「お前は、私の北鱗ほくりんなんだぞ……」


 目を硬く瞑り、なんとか紡ぎだした。

 風に攫われて消えてしまいそうな言葉は、耿晨の精一杯の気持ちだった。


 長い静寂の後、大刀の幽かな響きが聞こえたと思った。

 開いた視線の先には、まっすぐに立つ漆黒の守護者の姿があった。

 蚩尤の大きな手の平が、そっと耿晨の頬に当てられた。

 見上げると包み込むような深い海の瞳があった。


「ついこの間まで子供だと思っていたのにな……」

 目頭が熱くなるのを、押し留める。

「少しは頼りがいが出てきただろう」

「百年早いな」

「……蚩尤、お前本当は何歳なんだ?」

 恨めしそうに見上げた額を、蚩尤の無骨な指が弾いた。


「私たち三人の年齢を足しても、三分の一にすらならないよ」

 松侶が横から、暢気な茶々を入れた。


「でもこの中じゃ、一番立場は下よね。だって耿晨を泣かせたんですもの」


 玲凛が人差し指を立てて言い渡した。

 四人の視線が絡み、照れたように小さく微笑みあった。

 こんな出発も悪くない。


 耿晨は思いっきり伸びをすると、空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「さて」


 小さく宣言して顔を戻すと、皆の顔つきが変わっていた。

 青い炎のような、決意に満ちた仲間の目を読み取って、耿晨は力強く頷く。


「王宮に殴り込みをかけるぞ。脱落は許さない。

 皆必ず生き残れ。誰一人欠ける事無く、新しい陶を見るんだ」


 あまねく大地に響き渡るような声。

 横から吹く薄い風が、青天を写したような銀碧の髪を持ち上げた。


 一同が、王気に打たれたように、頭を下げて拱手した。


 友の姿を正面に捕らえ、耿晨はそっと瞼を閉じた。

 通り過ぎていく風を頬に受け、墨節の空気を吸い込む。


 再び持ち上げた瞼の向こうに、頭を下げる一同の背後立つ、紅い色が映った。


「緋雲……」


 風に運ばれた耿晨の呟きに、皆が顔を上げる。

 緋雲は覚束ない足取りで、佇む仲間の間を抜けると、耿晨の数歩手前で足を止めた。

 青ざめた顔の緋雲が、力なく立ち尽くしていた。


「耿晨、王様になるの?」

「……記憶が戻ったんだな」


 蜜柑色の頭が、苦しげに頷いた。どこまでも切なげな紅い瞳。


「お別れだよ、耿晨」


 予想していた言葉を、耿晨は正面から受け止めた。

 緋雲の記憶を見たときから、緋雲がこう言い出すだろうと覚悟はしていた。


「やはり、一緒には居てくれないのか?」


 蜜柑色の髪が、小さく左右に揺れる。

 運命を甘受した者の持つ、泡のような微笑がしっとりとした空気に落ちた。

 永い歳月の重さを感じさせる、暗い微笑みだった。


「無理だよ。僕はもう戻りたくない」

「そうか……」


 雲母のように、触れれば壊れそうな風情の紅い少年を見つめる。


「緋雲、私といるのは嫌か」

 緋雲が力なく首を振った。

「そんなわけないよ。僕は耿晨が大好きだ」

「それだけ聞ければ十分だ」


 耿晨が艶やかに笑った。


 放心したようにその笑顔を眺めてくる緋雲に向かい、耿晨は少し肩を竦めて見せた。


「ある人に、私は人が好すぎると言われたんだ。

 確かに、お陰で少し生き難い人生のような気がする。

 だからな、緋雲。私は今後は我侭になってやろうと思うんだ」


 緋雲が戸惑いながら首を傾げた。

 紅い瞳に向かって、耿晨は不敵に微笑んだ。


「私は緋雲でなきゃ、嫌だ」


「耿晨、僕は……」


「この我侭は通させて貰う。たとえ天に逆らったとしても」


 緋雲の言葉を遮って、耿晨は高らかに断言した。

 それは天に対する宣戦布告でもあった。


 躊躇う緋雲に向かって、まっすぐに手を伸ばす。


「この手を取るんだ緋雲。尹羝いんていまで私を運べ」


 抗うことを許さない、強い意志の篭った声。


 絶たれた道も、塞がれた風も、隠された陽も。

 全ての障害を吹き飛ばすような、超然とした覇気。

 全身から発せられる威光は、まさしく王気と呼べるものだった。


「必ず緋雲の命も護る。緋雲のままでだ。だから共に来い」


 ――――――緋雲の輪郭が解けた。

 途端に、眩い赤い光が緋雲を包み込み、辺りを光で染めた。


 眩さに視界を奪われ、手を翳す者たちの中、耿晨は瞬き一つせず、手を伸ばしたまま、光を見つめ続けた。


 目を指すような耀きが、徐々に薄らいだ。


 やっと瞼を持ち上げた人々が、光の中心に見たものは、――――――紅い羽ばたき。

 深く複雑な深紅の曲線が、宙に浮かぶ優美な姿。

 玲凛の自失した声が、赤い光に混ざる。


「鳳凰……」


 耿晨に寄り添うように、鳳凰が羽ばたいていた。

 全身を紅く発光させ、九尾が艶やかに風にそよぐ。


「美しい……」


 誰が発したか分からない、感嘆の溜息が、辺りに染み渡る。


 呆然とする仲間の前で、耿晨は軽々と鳳凰の――緋雲の背に飛び乗った。


「蚩尤、玲凛、松侶。白鄭で待て」


 羽ばたきの起こす風の中で、耿晨が凛と笑んだ。


「天に喧嘩を売って来る。信じて待ってろ」

 強風に髪を押さえながら、玲凛が叫んだ。


「耿晨、緋雲をお願い」


 任せておけ、という微笑み一つ残して、耿晨は緋雲の首筋を叩いた。

 鳳凰は、歌うように一声鳴いてから、空へと飛び立った。


 その日、曇天を裂く一条の赤い光が、陶の空を駆けた。

 乖墨五年十一月七日。新王、絽暉ろき践祚。


 ついに、黒夜は明けたのである。 

終わりです。

あと一話。エピローグまでお付き合いください。

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