黎明の章 四 守るべきもの
いなくなった耿晨。
会いたい人に会いに来ました。
松侶の話から伝わってきたこと。それは、多くの人の覚悟だった。
多くの人が新王の誕生のみを願い、命を散らし、人生を賭けてきたのだという事実。
彼らの覚悟の上に、今耿晨は立っている。
天に向かって不自然に腕を伸ばす黒い枝を見上げる。
天を掴もうとする柿の木。
枯れた幹に額をつける。空に太陽が戻れば、この木もいつか鮮やかな実を付けるのだろうか。
朝稽古の後、皆で木陰に座り込んで、柿を齧る。そんな穏やかな時間が戻るのだろうか。
あの後、松侶が感に耐えかねるように、一人吐き出した言葉。
「見ているか父さん。この方が、あなたが待ち望んだ陶の王だよ」
うっかり耳に拾ってしまった言葉は、耿晨の胸に突き刺さった。
砂利を踏む音を耳に捕らえ、振り向くと拓達がいた。
目が合うと、拓達は一瞬目も口も丸く開いた。が、すぐに真顔に戻ってゆったりと歩み寄ってきた。
「……どうしたんだ」
耿晨は返事に困り、ただ微笑むと、柿の木肌に手を沿わせ、天を見上げた。
「拓達に会いたくなったんだ」
そうか、と拓達は手拭を枝に投げた。
「変わった相棒を連れてるな」
中庭の端で身体を丸くしている天犬を顎で指した。
「騎獣なんだ。害はないよ」
「のようだな。嫌な感じがしねぇ」
「……分かるのか?」
「まあ、なんとなくな」
おざなりに言うと、拓達は柿の根元にどかっと腰を下ろした。促されるように、耿晨も腰を下ろす。
柿の幹は大して太くない。幹に背をつけるように座ると、二人微妙に違う方向を向く姿勢になった。
「蚩尤はどうした」
「蚩尤は……いない」
拓達は、再び、そうか、とだけ呟いた。
「……酷い匂いだろう。どれだけ擦っても取れないんだ」
拓達は困ったように、ボリボリと頭をかいた。
大勢殺した。身に纏う怨嗟を含む血の匂いに、拓達が気付かないはずがない。
「別に酷い匂いじゃねぇ。決意の匂いだ」
どうして、と思う。
どうして拓達は、耿晨の欲しい言葉をいつもくれるのだろう、と。
「……早いんだな」
「収穫期だからな。稽古の時間を作るにも一苦労だ」
拓達はごそごそと懐を探った。ほら、と目の前に差し出されたのは焼いた蓮薯だった。
一つ丸々。皮ごと焼いてある。触れるとまだ暖かかった。
「昨日採ったばかりだ。美味いぞ」
誇らしげな声を聞きながら、耿晨は手の中に収まる小さな丸い温もりを見つめた。
「美味しい」
だろ、と拓達が陽気に笑った。
口の中に広がる素朴で優しい味は、拓達そのもの。
子も作物も、育てた者に似るのだろうか。もしかしたら国も。
「私は、蚩尤に似ているか」
「何を今さら。育ての親なんだろ。似るのは道理だ」
常に深い愛情で包み込んでくれる蚩尤は、父であり兄であり師であった。
だが、最後まで友ではなかった。
思い返せば、最初に赤の月が昇った日、耿晨は倒れた。
息苦しさに目覚めた時の蚩尤の狼狽は、今でも鮮明に覚えている。後にも先にも、蚩尤の涙を見たのは、その一度きりだった。
育ててきた娘が求めた王だと知り、蚩尤は何を思ったのだろう。
耿晨がもっと強い王だったら、蚩尤はどうしただろう。それでも登極を阻止しただろうか。
不意に頭に柔らかい布がかかった。
顔を上げると、滲んだ視界に、拓達の表情を読み取れない、透き通った瞳が映った。
涙は止まらなかった。
拓達の前では止める必要はないのだ、そう思った瞬間、堰を切ったように流れ出した。
両膝に顔を埋め、嗚咽をもらす。震える頭の上に、拓達の暖かい手の温もりを感じた。
拓達は何も聞かなかった。ただ、黙って何度も耿晨の頭を撫でてくれた。
触れたのは、片手の手の平のみ。それでも、全身で包んでくれていると分かった。
涙で腫れた目で、耿晨は遠い空を見上げた。やけに低く感じる曇天の空。
「もし、もしもだよ。拓達に聖紋が出たら、どうする」
また、唐突だなぁと枯れ木で地面に、なにやら訳の分からない図形を描く。
どうやら果物のつもりだったらしく、失敗したのかすぐに足で消した。
「急いで収穫するな」
「はぁ?」
予想の遥か向こう側からの答に、調子外れの声が漏れた。
「だってそうだろ。今育ててるのは黒夜の作物だ。太陽が昇ったら枯れちまう。収穫しなきゃ勿体ねぇよ。尹羝に行くのはその後だな」
「天禊を受けるのか?」
「太陽が昇らなきゃ一生米が食えないだろ」
「そんな理由で良いのか」
「理由ってのは、単純なほうが真実なんだよ」
なるほど、と感心する
「自分より王に相応しい人がいるかも、とか考えないか」
「確かめる術がないんだ。考えるだけ無駄だな」
あまりの単純さに、思わず力が抜けた。
「拓達はやっぱりすごい。私の周りはすごい人だらけだ」
「すごかねぇ。立候補制じゃなく指名制なんだ。しかも拒否権なしだ。やるしかねぇだろ。耿晨は、人が良すぎるんだよ」
「そうだろうか」
「決まってる。功名心も持たない奴が、国のために王を探そうなんて、普通考えねぇよ」
国のため、自ら汚名を着た人物もいる。
国のため、自ら命を絶った王もいる。
国のために生きるという行為は、自らを殺して始めて成し得るのかもしれない。
耿晨は、片手を胸に当てて目を瞑る。
脈打つ鼓動は従前の響きと変わらない。
だが確かに、自分の身体が今までとは違うと感じていた。
その感覚を敢えて言葉にすれば、芽吹き。
雪の下で、人知れず流れ始める雪解けの清水のような、生命力を含んだ流れを奥底に感じる。
昨夜を境に、自覚するにいたった体中を駆け巡る芳醇な気脈の流れ。
覚醒したんだな、と認めざるを得ない、明らかな変化だった。
脈打つ鼓動に、自分は天の一部なのだ、と思い知らされる。
――――――時は、満ちたのだ。
止まっていた時計の針を動かしたのは、何だったのだろう。
瞳を閉じると、瞼の裏に玲凛の笑顔が浮かんだ。
耿晨は涙で汚れた顔を、乱暴に袖で拭くと、一気に立ち上がった。
拓達が、座ったまま静かに訊いた。
「……行くのか?」
「ああ。そろそろ戻らないと、皆が発狂する」
耿晨は引き剥がすように拓達から視線を外した。
踵を返した瞬間の腕を、拓達の大きな手が掴んだ。
思いがけない強い力に、目を戻す。
拓達は座ったまま、真剣な目をしていた。
熱ささえ感じるほどの、まっすぐな瞳。抑えがたい想いに、心臓が締め付けられた。
「辛いなら、止めて良いんだぞ」
何を、とは言わなかった。
「耿晨は、耿晨でしかないんだ」
「拓達……」
祈りあうような視線が絡んだ。
耿晨は腕を握る拓達の手に、左手で触れた。指先が震える。
耿晨に初めて故郷をくれた暖かな手。
浮遊感すら伴うような幸福な日々をくれた朴訥とした温もり。
奥歯を噛み締めると、耿晨はありったけの精神力をかき集めた。
左手に力を込め、拓達の手を、そっと引き離した。
「疲れたら、またここに戻って来ても良いかな」
拓達は離された自分の腕を見つめ、ゆっくりと握り締めた。
握りこぶしを持ち上げ、朗らかに笑った。
「いつでも来いよ。耿晨は平雍の人間なんだ」
耿晨も微笑む。拓達は立ち上がると、短い別れの言葉を口にした。
「またな」
「ああ。いつかまた、――柿の木の下で」
さよなら拓達




