黎明の章 三 松絽の告白
耿晨サイドです
戸の軋む音に続いて、やけに暢気な響きが耳に届いた。
「まだ目覚めないのかい」
松侶の声だった。
耿晨は寝台の前に腰掛けたまま、眠る緋雲を見つめていた。
「……ああ。眠ったままだ」
緋雲は、あのまま眠りに付いた。
生気を感じさせない青い顔。閉じられた瞳からは、時折涙が筋を作って流れた。
くるくると動く瞳も、万華鏡のように変わる表情も、消え失せてしまった緋雲は、何故か輪郭がぼやけて見えて、このまま霧散してしまうのではないかと思えた。
背後に松侶の気配を感じる。
遠慮をしらない松侶には珍しく、少し離れた位置からこちらを見ていた。
「……松侶はあまり驚かなかったな」
「私は君たち三人の中に王がいると思っていたからね」
「そういえば松侶は王を探していたんだったな。だから私達に協力したのか」
「まあね」
王を探していた松侶。
その王を見つけ、今松侶はどんな目で自分を見ているのだろうか。
そう考えると、振り向くのが怖くなった。
「……どうして、私なんだろうな」
「単純な話さ。今生存する人間の中で、一番霊力が高かっただけだ。莫迦でも狂人でも霊力さえ高ければ王となり得る」
「そんな理由で王が決まって良いのか」
「それが天の理だ」
「莫迦げた話だ」
本当に莫迦げている。
王には王たる資質が必要なはずだ。
霊力などではなく、人格で選ばれるべきではないのか。
玲凛だと思った。
彼女が王だと、何故か本気で信じていた。
彼女なら、陶を良き方向へ導いてくれる。官吏となり、玲凛を支える人生も悪くないとさえ思った。
「私なんかが王で、皆がっかりするだろうな。かく言う私自身が、一番失望している」
「そんなに落ち込む必要はない。何故か霊力を持つ者は、王たる素質を兼ね備えている場合が多いようだよ。歴史がそれを証明している。まあ、中には凶王と呼ばれた者もいたけれど、少数派だ」
飄然とした物言い。
けれど前提として耿晨を王と認める言葉に、激しい違和感を覚えた。
護って欲しかった。
拓達を、民を、陶を。
全ての願いを、まだ見ぬ王に託した。
救世主など、始めからいなかったのだ。
この世を悪夢に変えた恨むべき者は、自分自身だった。
天と自分自身に対する失望で、心が狂いそうだ。
「ただ力が強いという莫迦みたいな理由で、お前が王だと言われても、納得ができないんだ。お願いだ松侶。私を説得してくれ。納得させてくれ」
「じゃあどうする? 尻尾を巻いて逃げるかい。それも耿晨の自由だ。だが逃げ続ける限り黒夜は続く。陶を見捨てても構わないと思うなら、逃げると良い」
「見捨てたのは天だ!」
思わず逆立った声を上げた。
猛る背に、松侶の視線を感じた。
気のせいか、少しだけ寂しげな視線だった。
「――別の者に、玉座を託す方法はないのか」
「……あるよ」
耿晨は松侶に向き返り、続きの言葉を待った。
松侶は腕を組んだまま、しばらく黙した。
逡巡しているというよりは、拒んでいるような沈黙だった。
「死ねば良いんだ。そうすれば、次に霊力が高い者が選ばれる」
「死……」
死という言葉が、不思議と嫌悪感なく耿晨の中に落ちてきた。
赤の月さえ昇れば、次王はすぐに立つ。
聖紋の出現に気付かない間抜けは耿晨くらいだろう。
きっと、耿晨が立とうが、次の王が立とうが、時間的な差は一月やそこら。
自分一つの命で、陶に今よりマシな未来を齎す可能性があるのならば……。
無意識に緋雲に振り返った。
呼吸の有無すら判別できないほど、身動き一つしない青ざめた顔。
緋雲には、生きていて欲しい。
「私としては、このまま耿晨が王になってくれると嬉しいんだけどね」
「言っていた義理というやつか。でも、これで果たせたんじゃないのか」
返した言葉は、投げやりな響きになってしまった。
続いた松侶の沈黙は、どこか労わりに似ていた。
「いくらあの蚩尤に育てられたとはいえ、まだ幼さの残る十六の少女だ。耿晨の戸惑いは分かるよ。悩みに寄り添ってあげたいとも思う。ただ一方で、私の中の冷めた部分が、王ならば耐えて見せよと、君を突き放してしまう」
松侶が詫びるように言った。
衣擦れの音の後に、しきりなおしたように調子を改めた、松侶の硬い声が耳に届いた。
「私に課せられた義務は、王の捜索じゃないよ。―――――仕えることだ」
松侶は、少し昔話をするよ、と前置きして続けた。
「耿晨は応新派という言葉を聞いたことがあるかい」
「……いや」
「今の朝を牛耳っている連中の総称だ。まあ、陶の寄生虫だよ。乖王を幽閉したのも彼らで間違いない。応新というのは、嘗ての右宰相の名だ。今から二十年程前に暗殺された。刺客は楊将軍、つまり蚩尤だ」
「楊将軍……」
初めて耳にした、育て親の本来の名前を、耿晨は力なく繰り返した。
「当時蚩尤の参謀を務めた人物から聞いたんだ。間違いないよ」
「参謀?」
「先の宣州候杜義、字を真如。武の楊に文の杜。比類なき忠臣と謳われた二人は、親友でもあったらしい」
聞き覚え、いや見覚えがある名だった。
『真如様崩御』。
蚩尤の元に届いた手紙に認められていた墨蹟。
「王が姿を見せなくなったのは、時の冢宰がお亡くなりになってから程なくだったらしい。その後、王不在の朝を牛耳ったのは右宰相応新を筆頭とする応新派。彼らが王を幽閉しているという迄は誰にでも想像がついたそうだよ。だけど証拠がない。そこで暗殺という凶行に及んだのだそうだ」
松侶の語る昔話は、遠い国の芝居のようだった。
まるで現実感が沸かない。けれど真剣に聞かなければ、失礼に当たる気がした。
そう思わせるほどに、飄々とした言葉の端々に、何かを伝えようとする強い意思が感じられた。
「二十年も前に応新を討ったのに、何故乖王は幽閉されたままだったんだ」
「応新は只の贄人形だったんだ。本当の黒幕は闇の中、全く検討がつかない。便宜上応新派という名称が残っているに過ぎないんだよ」
「……蚩尤たちは刃を向ける先を見失ったわけか」
松侶は右肩を摩りながら、作ったような軽い口調で説明した。
「真如の言葉を借りると、蚩尤は筋肉莫迦だそうだ。蚩尤は目の前で乖王が身罷るまで、決して王を見捨てない、とね。事実そうなったしね。
真如は不幸なことに、蚩尤よりも頭が良かった。
今や応新派の道具と成り果てた、乖王を弑し奉る行為こそ国益だと気付いてしまったんだよ。
そして乖王も同様の考えを持つ筈だ、と」
「それでは、乖王を暗殺したのは……」
松侶は静かに首肯した。
「真如の手の者だ。だが手の者、という呼び方はおこがましいな。蘭昌は彼女の意思で、大逆者となってくれた」
蘭昌を語ったときの、蚩尤の寂しげな、そして愛しげな瞳が蘇る。
『そんな夢も、黒夜の始まりと共に消えた』。
蚩尤の言葉の本当の意味を、ようやく理解した。
大逆者の末路など、考えなくても分かる。
「聞き覚えのある名かい」
頷く顔に血の気がないことは、自分でも自覚できた。
「真如は、乖王が禅譲に及べば、墨節が長引くと予見していた。
膿を出し尽くす為には、五年の歳月が必要だ。
だがそうなれば、応新派だけでなく、真如や蚩尤、僅かに残った穏健派も全てがこの世から去る。
真如は考えた。新しい時代に、新王の味方が必要だ、とね」
松侶はいったん言葉を切った。
噛み締めるように、訴えかけるように、まっすぐに見つめてくる琥珀の瞳を、耿晨は全身で受け止めた。
松侶は跪かなかった。
ただ背筋を伸ばし、片手を胸に当て、もう一方の手を耿晨に差し伸べた。
「新王の為に用意された臣が私だ。私は杜克。先の宣州牧、杜義の末の息子だ。
私は新王を支える為だけに生を受けた。――――――死に行く者が残した君の臣だ」
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興奮と、戸惑いの黒夜が明けた。
月もまだ昇り切らない朝は、冴えた空気を切り裂くような、玲凛の叫び声で明けた。
「耿晨がいないの」
蚩尤を筆頭に、大維や乃器も寝室になだれ込んだ。
途端に狭い寝室は、人で一杯になった。
整えられた寝台。その上に丁寧に畳まれた袍が乗っていた。
双刀は見当たらない。一同が言葉を失う中、遅れて寝室に入ってきた松侶が、頭を抱えながら告げた。
「最悪だよ。天犬もいなくなってる」
耿晨が失踪です




