黎明の章 一 乖王の最期
新章です。
エピローグをのぞくと、ここが最後の章です
「私に大逆者になれと仰いますか」
宮殿の奥深く。
決して人が足を踏み入れない岩塔の一室に、蚩尤の切羽詰った声が響く。
対するは蚩尤の激情を全て飲み込んでしまうかのような、穏やかな王者の声。
「非情な頼みだとは理解しています。ですが頼める相手が他にいないのです。私の味方は少ない。悲しいことですが」
「そんなことはありません。宣州侯はじめ未だ陶の善意は残っています」
「真如か。最期に今一度、真如の奏でる笛を聴きたかったな」
王の住まいとはとても思えない小さな空間。
調度品は全て目を見張る程の高価なものではあるが、窓一つない閉鎖された空間で、甘叙は空を眺めるような遠い目をした。
「今から何度でもお聴きになればいい。主上のお呼びとあれば、何をおいても飛んで参りましょう」
「そうは言っていられないのです」
甘叙は悲しげに首を振る。
「御璽も天杖も奪われてしまいました。今の私には何の力もありません。私が生きれば生きるだけ、応新派の横行は続くのです」
「我等が応新派を討ちます。必ず、この刀に代えましても」
蚩尤の差し出した刀を、甘叙は控えめに押し戻した。
「今まで同じ台詞を私に言ってくれた方々は、皆もうこの世にはいません。私はここで、悲しみの輪を断ち切らなければなりません」
決然と顔を上げる。
その顔には、苦悶や恐怖はなく、ただ君主たる精錬とした輝きに満ちていた。
「黒夜が来ます。民には更なる苦しみを与えることになりましょう。
けれど蚩尤。可能ならば次王を探し出し、見つからなければ王宮からさらってでも、応新派が確実に世を去るまで、三年、いや五年の間登極せずに逃げ延びて欲しい」
「民に五年も黒夜を耐えよと申されますか」
「そうです。私の願いを聞けば、蚩尤は大逆者のうえ天にも背く大罪人ですね」
悪戯をした子供のように首を傾げる。
乖王甘叙。治世二百年を超える男ではあるが、見た目は登極当時のまま、稚さの残る少年王であった。
「笑い事ではありません」
「私は次王に同じ過ちを犯して欲しくはないのです。
登極間もない次王が、天杖なしにあの獣たちに太刀打ちできるとは思えません。
もし新王朝が応新派の手に落ちれば、地獄は続きます。今の恐怖政治が今後数百年続くと、蚩尤は民に言えますか?
確かに五年の黒夜で、多くの民が命を落すでしょう。
ですが黒夜であれば、人々は新王に希望を託し、耐え抜くこともできる。
終わりのない地獄と、限りある悪夢なら、私は悪夢を採る」
揺ぎ無い決意を秘めた王者の声に、蚩尤の身体が戦慄に震えた。
「私ならば、地獄を打ち破る戦いを選びます。私の力でも、主上を外へお連れするくらいできます。宣州に逃れ、兵を募りましょう。主上の御旗があれば、各州こちらに集いましょう。力を蓄え応新派を打つのです」
蚩尤の悲鳴のような提案にも、甘叙は静かに首を振った。
「私一人が死ねば済む話です。何も民同士い殺し合いをさせる必要はありません。
本来自分でできれば良いのですが、天尸は自分を殺せない。蚩尤が来てくれた、この機会を逃すわけにはいきません。
すみませんが地尸は全て連れて行きます。
地尸以外の残せるものは全て、次王のために残しましょう。
それに正直なところ、私は少し疲れてしまったんですよ」
「主上」
肩を落とす僕に、甘叙は懐かしむような遠い目で微笑んだ。
「真如はいくつになっただろうか」
「分かりかねますが、人としての生はとうに過ぎておるでしょう」
「真如にも恨まれてしまうな。もし会うことがあれば、謝っておいてくれますか」
「お断り申し上げる。ご自分の口でお伝えください」
「意地悪だな、蚩尤は」
真如はこぼれるように笑んだ。
語るべき全ては語りつくした、という笑顔だった。
「聖上。監視が戻ってきます。お早く」
見張りに立っていた蘭晶が、硬い声で控えめに告げた。
「蚩尤、私の首をはねなさい」
「できません」
「これは勅命です」
「……っできません」
「蚩尤、これ以上私に生き恥を晒させないで下さい」
抗いがたい甘叙の声。
唯一無二と心に定めた、至高の存在。
「いいえ。晒して頂きます。畏れながら主上、我等は陶の民です。
主上はご自身の民をお信じになれないのか。
陶の民が全て応新に膝を折ると本気でお思いか。
必ずや応新を討つと誓約申し上げる。
どうか。どうかお心を強く持たれ、今一度我等陶の民をお信じ下さい」
「蚩尤、もう時間がない」
蘭晶の声に緊張の色が滲む。
蚩尤は小さく頷くと甘叙の顔を見上げた。
「明日、もう一度参ります。外にお連れ致します。もう逃げ切れないと分かった暁には、勅命に従いましょう。けれどどうか、その瞬間までは生きることだけをお考え下さい」
甘叙は悲しげに微笑むと、跪く蚩尤の額に祝福の接吻を落とした。
「蚩尤。ありがとう。あなたに太陽の恵みを」
頭上から降ってきた柔らかい声を呆然と見上げた。
その瞬間――――――甘叙が叫んだ。
「誰かある! 賊だ」
「主上、何を」
甲冑の響きをもった足音が聞こえてきた。
音からして後百歩もない。
階段を駆け上る音。
階段を上がればもうこの房までは一本道だ。
「蚩尤、後が無くなりましたよ。私の首をとりなさい」
蚩尤は唇をかみ締めた。あと五十歩。
甘叙は穏やかな表情で蚩尤を見詰め、蚩尤を受け入れるように両腕を軽く広げている。
扉に目を戻す、足音はすぐ傍まで迫って来ている。あと四十歩。
刀に手をかける。あと三十歩。
柄を握る手が痺れたように重い。
目をきつく結び、歯を食いしばる。
瞼の裏に浮かぶのは、在りし日の甘叙との日々。
王の傍らで諸州を旅した。何もかもが輝き、誇らしさと希望で満ち足りていた日々。
あと二十歩。
蚩尤は柄を握る手に力を込めた、あと十歩。その瞬間―――――
――――――掌の中から刀が消え去った。
扉が乱暴に開かれた。
一斉に尉士が雪崩れ込んで来る。
刀を構え矢を番える全員の殺気と視線が部屋の中央に注がれた。
――――――視線の中心に、蘭晶がいた。
背後から甘叙の首に刀を突きつけて。
良く見ると、それは先程まで蚩尤の手に握られていた刀だった。
「何をしている蘭晶、止めるんだっ」
蚩尤の叫びは、駆けつけた尉士の動きを止めた。
「莫迦なっ。止めてくれ蘭晶っ」
「人には其々、成すべきことがある。私のは此れだったというだけのこと」
蘭晶の唇が声にならない言葉を形作った。
(生きて)
「聖上、お許し下さい」
最期に甘叙と目があった。
時を忘れてしまうほど、清廉で真摯な色をしていた。
その金色の瞳が、―――――鮮血で掻き消えた。
甘叙の喉に突き立てられた蘭晶の刀。
瞬間、一斉に蘭晶に向かって無数の矢が飛んだ。
「主上、蘭晶!」
乖王、実はとても良い人だったんですね…




