薫風の章 十 告白
耿晨に聖紋が…
雷光があたりを白く染めた。
耿晨は、音がしそうなほどぎこちない動きで、体ごと動かした。
平伏す人々の中、ただ一人佇む、黒き偉丈夫を正面に捕らえる。
「知って……いたのか」
強まる雨脚に叩かれ、重く濡れた髪が、蚩尤の表情を隠していた。
耿晨の目に映るのは、何かを堪えるようにして立つ、蚩尤の端正な横顔だけだった。
「知っていたのかと聞いているっ。答えろ蚩尤」
殴りつけるような恫喝が飛んだ。
稲妻にも似た有無を言わせぬ声に打たれ、蚩尤の肩がびくりと震えた。
蚩尤は全てを振り払うように顔を上げた。
腰の刀を抜くと、おもむろに膝をついた。
恭しく両手で刀を掲げる。
「私は四年前、この刀をあなたに捧げました。私の刀と命をもって、あなたを護り抜くと誓っております」
全身の血が沸騰した。
「勝手を抜かすなっ」
大股で蚩尤の前に立つと、掲げられた刀を叩き飛ばした。
王の恵みを失って荒れ果てた、かつては田だった枯れ地に、刀が突き刺さる。
勢いで泥水が撥ねかかり、蚩尤の横顔を汚した。
蚩尤はそれでも微動だにせず、両手を掲げたまま、足元に視線を落としていた。
「誰にだ。誓いをたてた客体は誰だ。私はそんな誓約を受けた覚えはないぞっ」
怒りで拳が震える。
握り締めないと、そのまま蚩尤を殴りつけてしまいそうになる。
爪が手の平に食い込み、血が滲んだ。
その血すら、容赦ない雨が叩き落していく。
「説明しろ蚩尤っ」
蚩尤は始めて真直ぐに耿晨の目を見た。
その深い海の色は、耿晨の知っている、守護し、慈しんでくれた暖かなものではなく、臣下が主を見る瞳だった。
蚩尤の唇が動いた。
「先王に」
「乖王……?」
「先王、甘叙様にお誓い申し上げた。誰よりも早く次王を探し出し――お護り申し上げると」
近くで雷鳴が轟いた。
青白い光が頬を照らす。
耿晨の脳裏に、刑場に引きずられて行く父の最期の姿が浮かぶ。
父の死を、ともに嘆いてくれた蚩尤。
「甘叙様は凶王と評されていますが、それは誤りです。黄王朝末期を支配していたのは官吏。王は民の嘆きに心を痛めておいででした」
昇華し終えたはずの乖王への憎しみが、胸の中に競りあがってくる。
「信じろというのか、そんな話を」
「王は長い間、幽閉状態にありました。黄王朝末期の悪行は全て、官吏の暴走」
「そんな莫迦な! 私は確かに見た、官吏の持つ書類に押された御名御璽を」
そうだ、覚えている。
父に追いすがる耿晨を投げ飛ばした官吏は、罪状を耿晨の眼前に突き出した。
そこには確かに禍々しい朱色の御璽が押されていた。
「御璽も天杖も官吏に奪われておしまいに」
耿晨は頭を抑えた。
今まで信じてきたもの、耿晨を構成してきた全ての要素が、次々と壊れていく。
「王をお助けしようと動く者もありました。ですがそれらの計画は悉く水泡に帰しました。
何しろ王の姿すら確認できないのです。
だが太陽は昇る。つまりどこかで必ず生きておいでのはず。
勿論弑逆される筈がないのです。奸臣にとって、生きていて口が利けない王というのが理想なのだから。
王から全ての力を奪い、王の霊力を貪り生き永らえて暴利を尽くす」
蚩尤が拳をぬかるんだ大地に叩きつけた。
「王はお一人で戦っておられた。そして全てを失った王が、奸臣から国を奪い返す、たった一つの策をお採りになられたのです」
奸臣の命をつなぐ為だけに生かされている王。
乖王が生きている限り、奸臣は民から全てを搾取し続ける。乖王の名の下に。
「彼らの命の源、王自身の命を絶った、というのか」
蚩尤は深く首肯した。
「死に臨む王とお約束申し上げたのです。奸臣どもから次王を護ると。奴らがこの世を去る、その時まで」
「この世を去る?」
「――――――五年で地尸は死に絶えます」
世界が震えた。
視界が霞む。
陶を死の台地と変えたこの四年。
乖王を恨み続けた墨節の日々。
「……だからか?」
声が掠れた。
だから聖紋を隠したのか?
そんなことのために。
何万の民を犠牲にしたのか?
そんなことのために。
旅してきた陶の情景が脳裏に浮かぶ。
太陽を待ち望んで死んでいった人々の無念で世界は満ちていた。
玉春の朗らかな笑顔が闇に甦る。
それでは、玉春は何のために死んだんだ。あの遺跡の教師は? 子供たちは?
全身が震えだした。
両腕で己を抱きしめる。だがその手も震慄して力が入らない。
小刻みに揺れる歯が、カチカチと耳障りな音を鳴らす。
耳鳴りの向こうで、耿晨の名を呼ぶ仲間の声が木霊する。
―――――何としても黒夜を生き抜いて踊り子になるの。
胸が重い、と思ったときには、もう嘔吐していた。
喉が焼ける。
頬を伝うものが涙なのか汗なのか分からない。
だが、今吐き出しているものが、自分自身であれば良いと思う。
愛していた人、信じていた物、真実だと思っていた全て、吐き出してしまえば、自分は消滅できるのか。
背を摩ってくれている手。
誰の手なんだ。
暖かくて、優しい。
どうかその手で、――――――私を罰してくれ。
この章終わりです。




