薫風の章 八 決着
宋興を脅します
高苑の程近く、荒野にぽつんと、打ち捨てられた屯跡がある。
かつては田であったその場所が、作物を育む土地であり続けるには、高苑では死者が増えすぎた。
弔う場所を求めて、多くの田が潰され、一つの屯が潰された。
その無人のはずの屯跡に、いくつかの人影があった。
数にして二十ほどだろうか。大きな夜杉を、弧を描くようにして囲んでいる。
夜杉の根元には貞州は高苑県は県令、宋興。
目の前に粗末な小卓を置かれ、脇を数人の邑人が取り囲んでいた。
急に分厚くなったきた雲が、遠くで雷鳴を鳴らす。龍の鳴き声に似た雷鳴に、耳障りな喚き声が重なった。
「お前たち、こんな真似をして只で済むと思うなよ。一族諸共、簡単には死なせないぞ。殺してくれと懇願するまで、いたぶり、辱めを与え続けてやる」
耿晨は目をぎらつかせる宋興の前に立った。
「衝撃的な莫迦だな」
冷めた目で見下す。
「お前はもう二度と、人に命令を下す立場には戻れない。お前が生き残る道は一つ。今から出す条件に従う道だけだ」
宋興は瞬間情けないほどたじろいだ。
しかし目の前に現れた人物が、年若い少年だったためか、直ぐに横柄な態度を取り戻した。
「こんな狼藉を働く外道とは取引せん」
「一般とは外道の認識が、随分違うようだな」
耿晨は、些かの躊躇いもなく、宋興の顔面に拳を叩き込んだ。
潰れた蛙のような奇声を上げながら、肉の塊のような身体が後ろに倒れこんだ。
夜杉に頭を打ち付ける。
耿晨が顎で合図をすると、邑人が左右から乱暴に宋興を引きずり起こし、小卓の前に座らせた。
「私は気が短い。あまり時間をかけてくれるな。こちらの条件を言う。一つ、文城を罷免せよ。一つ、次の県丞に顕光を任命せよ」
「顕光だと?」
宋興は血走った目を周囲に彷徨わせた。顕光の姿を探しているのだろう。
「顕光、貴様の仕業か。温情を忘れおって」
民家の軒下に佇む顕光に向かって吼える。
計画の範囲外だが、顕光はこの場に臨席していた。
混乱に乗じて、邑の有志達が救い出したのだという。
耿晨は構わず先を続けた。
「一つ、県令の任を辞せ。三つとも呑めば、一先ず命だけは奪わないでおいてやる」
首謀者が顕光と知れたからか、宋興は余裕を取り戻したように、居丈高に叫んだ。
「話にならん。誰でも良いからこの小童を捕らえろ。そうすれば見逃してやる」
「時間をかけてくれるなと頼んだ筈だが、理解できなかったか」
耿晨は一歩宋興に近づいた。
(玲凛……)
まだ姿を現さない、紫紺の笑顔。
一刻も早く助けに走りたい気持ちを、なんとか押し留める。
こんな汚れ仕事を、これから高苑を治めていく顕光にさせるわけにはいかない。
耿晨は酷薄な視線を、血まみれの宋興に向けた。
「失うなら右手と左手どちらが良い」
「何を……」
宋興が言葉を発する間も与えず、刀が血飛沫と共に弧を描いた。
「うがぁっ」
宋興が左肩を抑えて倒れこむ。赤黒い血が大地に広がる。
足元に広がり寄せてくる血の流れに、周囲の者たちがたじろいだ様に数歩後ずさった。
「右手が利き腕のようだから残しておいてやったぞ。お前には署名して貰わねばならんからな」
耿晨は殊更大きく刀を振ると、鞘に収めた。
刀柄から手を離しても、不快感は消えなかった。
無抵抗な人間を斬る罪の痛みを、歯を食いしばって堪える。
「文面は用意しておいた」
片手を振って合図を送ると、大維が進み出て小卓に書簡を広げた。皆も我に返ったように、宋興を引きずり起こす。
「その三枚の書簡に、署名押印するだけで良い。簡単な話だろう。急げよ。幾ら血の気が多くとも、その勢いで出血し続けるのはまずくないか」
肩で息をしていた宋興は、いきなり血まみれの右手を卓に伸ばすと、書簡を握りつぶした。
最早罵声を発する力も残っていないらしい。
獣じみた目だけで、耿晨を威嚇してきた。
耿晨は殊更莫迦にしたように鼻で笑ってみせると、再び手を上げた。
大維や邑人が進み出て、事務的な素早さで卓上の血を拭き清めると、新たな書簡を広げた。
「何枚でも用意している。勝ち目のない根競べでもするつもりか」
焦りと怯えを悟られないよう、努めて尊大に振舞う。
(頼む。私に無抵抗な人間を殺させないでくれ)
祈るような気持ちで、宋興を見下したとき、西の空から鷹に似た鳴き声が聞こえた。
湿った空気を割って、純白の龍姪が軽やかに降り立った。
その背から、緋雲が一人、笑顔で飛び降りてきた。
耿晨は視線だけ緋雲に投げる。
「緋雲。無事で良かった。もう大詰めだ。緋雲には向かない話をしているから、少し離れてろ」
宋興に向き直る。宋興は蒼白な顔で抵抗を続けてきた。
「……県令印がなければ書簡はできん」
「此れのことか?」
懐から取り出し掲げ見せた県令印に、宋興は顎を落し、絶望を象ったように項垂れた。
魂をなくしたように、力なく座り込む宋興の手に、大維が無理やり筆を握らせた。
「署名しろ」
「誰がするかっ」
筆が耿晨に向かって投げつけた。邑人たちが驚いて声を上げる中、耿晨は無表情に飛んできた筆を左手で受け止めた。
「……失うなら右足と左足、どちらが良い」
怒気を含んだ耿晨の言葉に、宋興は哀れなほど狼狽し、後ろに尻餅をついた。
その眼前に筆を差し出す。
「無い頭を絞って良く考えろ。たとえこの場から逃れたとして、高苑の民がお前を生かしておくと思うか。なぶり殺しになるに決まっている。逃げ延びるためにも、両足は揃っておいたほうが良いのではないか」
宋興は闇雲に手をばたつかせて、筆を叩き落した。
耿晨は心の底からの失望の溜息をつくと、唇をかみ締めて脂ぎった左足を切りつけた。
「うがぁ」
耳を塞ぎたい衝動を、必死で押し留める。
「もう殺しちまえよ、そんな奴」
邑人の中から、搾り出すような声がかかった。呼応するように、そうだそうだ、という断罪を求める声が湧き上がる。
あまりの嗜虐的な光景に、復讐の血に酔い始めたのだろう。
邑人たちの怨嗟の声は、徐々に大きさを増し、うねる様に響きだした。
大維が、再び宋興の前に筆を差し出した。
宋興は全身を震わせていた。だが、躊躇いつつも、筆を握ろうとしない。
耿晨は刀柄に手をかけた。
「失うなら右足と左耳、どちらが良い」
「分かった、分かった。署名しよう」
宋興の最後の心が折れた。
署名押印の済んだ書簡を大維が高々と掲げた。
瞬間、地鳴りのような歓喜のどよめきが起こった。
緊張した空気が緩んだ、丁度そのとき、玲凛と蚩尤が到着した。
全員集合です




