薫風の章 六 脱出
耿晨サイド
松絽とともに逃走中です
耿晨と松侶が角を駆け曲がると、丁度中ほどの部屋の戸が開いた。
中から一人の県尉が目くばせをしている。
瞬時に二人目線をかわすと、床を蹴り、中に飛び込んだ。
県尉はすぐに戸を閉め施錠した。
「乃器に聞いています。こちらへ」
窓を開ける。
「ここを出れば回廊に抜けれます」
「ありがとう」
「こちらこそ、ご武運を」
窓から外に飛び出しながら、松侶が高く長い口笛を吹いた。
と同時に、耿晨は松侶の胸に抱きすくめられた。
事態を理解するより先に、「ぐっ」という松侶の短い呻き声が降ってきた。
傷付いた松侶の肩越しに、二人目掛けて飛んでくる無数の矢が映った。
旋回して弾き落とす。
「松侶、足場になれ」
松侶の肩に足をかけ、二階の庇に飛び乗った。
右肩に矢を生やしたまま、松侶がからかうような口笛を拭く。
「やるねぇ」
双刀を手に庇を駆ける。
回廊の上に辿りつくと、居並ぶ弓矢隊を一斉に切り落としていく。
残さず切り捨てたところで、懐から筒を取り出した。着火してその場を離れる。
短く爆ぜる音を残して、筒から火の玉が空に向かって飛び上がった。
飛翔する球状の火は、中天に差し掛かったところで、激しい爆音を響かせて閃光を放った。
黄金色の火の粉が、幾筋もの尾を引きながら空を覆う。
敵が呆気にとられている間隙を縫って、目を下に転じると、松侶が長槍を抱えた四人と切り結んでいた。
利き腕に矢を受けているからか、松侶の動きが鈍い。
「薙ぎ払えっ」
耿晨の掛け声に、松侶の刀が一閃する。欠けた一角から滑り込み、松侶と背を合わせた。
「あとどのくらいだ」
「そうはかからない」
短く頷くと、互いに背を預けて、襲い来る敵を切り捨てながら、少しずつ庭の中央へと足を進めた。
斬り結ぶ腕が疲れ、血糊を含んだ服が重く、動き難くなってきた頃、空から空気を揺るがすような獣の咆哮が響いた。
「来た」
松侶が静かに微笑んだ。
天を仰ぐ。星を背に、真紅の獣が舞い降りてきた。
「妖獣だ!」
「天犬!」
県尉たちの浮き足立った悲鳴が飛び交った。
二人は一斉に駆け出した。赤い背に、松侶が飛び乗る。
飛来した矢に天犬が一旦宙に浮く。
耿晨は追いすがる敵を切り捨て、天犬を目で追った。
松侶が手綱を引き、宙で旋回した赤い獣は、矢を振り切りながら急速度で降下してきた。
獣の上から、松侶の手が伸びる。
すれ違いざま、耿晨はその手をとった。瞬間、天犬が空に向かって飛翔した。
松侶の腕だけを命綱にしたまま、天犬は西の空を駆けた。
回転し、すとんと天犬の背に跨ると、松侶が腕を押さえて呻いた。
「すまない。大丈夫か?」
「……ああ。なんてこと無いよ」
瞳は微笑んでいたが、額には脂汗が滲んでいた。
耿晨は身体をずらして松侶の前、向かい合わせに移動すると、無駄に長い服の裾を切り裂いた。
「ちょっと堪えてくれよ」
矢に手を添える。松侶の目に一瞬怯えの色が浮かんだ。
「念の為に訊くけど、耿晨、医の心得は?」
「あるわけがない」
松侶は諦め気味の溜息を漏らし「だろうね」と言った。
「痛ければ私につかまれ。爪を立てても構わない」
「……ああ」
天犬の背で、松侶の腕が耿晨に回った。
「肩を噛んでもいいからな。いくぞ」
耿晨の力が、松侶の肩に刺さる矢に掛かった。
「くっ」
松侶の腕が振るえ、背骨が折れそうな程の力が耿晨を抱いた。
爪を立てないように気を使っているようだった。
耿晨は一気に矢を抜き放った。
「あぁっ」
抜いた瞬間湧き出してきた赤い血を、布を当てて塞き、肩口を縛り上げた。
肩口に松絽の荒い呼吸があたる。
耿晨はまた裾を切り裂き、矢傷に当てた布を固定し、さらに刀傷の場所をそっと包んだ。
どれも、右腕に受けた傷だった。
不意に、天犬が強風に煽られたのか、均衡を崩した。
慌てて松侶が手綱を持つ。耿晨は頭の直ぐ上にある松侶の顔を見上げた。
「……大丈夫か?」
幾分顔色は悪いが、松侶の顔には、いつもの余裕が戻っていた。
「ああ。豪快な手当て感謝するよ」
「本当なら玲凛を待てば良かったんだが。早く抜かないと、肉が癒着すると思ったんだ。すまない。私を庇って受けた傷だな」
「気にすることはない。女の子を護るのが、私の務めだからね」
どこまで本気か分からない笑顔に、耿晨もやっと肩の力を抜いた。
「私を女扱いしてくれるのは、松侶くらいだ」
「耿晨は女らしいよ。……折角の女装が血糊で台無しだ」
「……女装って言うのは止めてくれ」
松侶の軽い笑い声を乗せて、天犬は一路大維たちの待つ丘へ向かった。
無事脱出できました




