薫風の章 五 囚われの玲凛
玲凛サイド
捕まっています
海鳴りが聞こえる。
まだ空に太陽が輝いていた幼い日、湖詠に連れられて海沿いの邑を訪れた。群青色の海原に臨み、海も鳴くのだと初めて知った。
何故か圧倒的な畏れに震え、湖詠の裾にしがみつき、それでもその大量の青から目を離すことができなかった。怖がる玲凛に湖詠は
――怖くて当然だ。海は天の怒りだからな。
と、神話を語ってくれた。かつて一つだった世界を引き裂いた海の話を。
――海が怒りなら、砂漠はなあに?
――砂漠は罰だ。他の種族まで巻き込んで、奪い合い殺し合った、人間の報いだ。
――じゃあ、陶も危ないね。また温州で内乱が起こったんだって、さっき邑の人が言ってたもん。
――そうかもしれないな。……だが
海風に、白銀の髪をなびかせながら放たれた湖詠の言葉が、海に吸い込まれていく気がした。
柔らかな蒲団の感触で目が覚めた。滑らかな肌触りが心地よく、玲凛はふかふかの枕に顔を埋めた。夢から覚めても、まだ海鳴りは続いていた。
(天が怒ってる……)
寄せては返すように緩急をつける低音のゆらめきを遠くに聞き、まるで夢の続きのようだと思った。
(随分と懐かしい夢だったわ)
朝靄の中にいるような、奇妙な浮遊感の中、玲凛は首だけを回して周囲を見るともなしに眺めた。
見たこともない瀟洒な細工の調度品。
(此処はどこかしら)
部屋の様子を見渡そうと、持ち上げた頭に、鈍い痛みが走った。
(……そうだ。私捕まったんだ)
東に向いた窓の外に、遠く小さな、いくつもの光の玉が見える。その光の差す意味を悟り、玲凛は蒲団を握る手に力を込めた。
(緋雲が戦ってる。計画は、もう始まってるんだわ)
一体どのくらいの時間、気を失っていたのだろう。自分の迂闊さを呪いながら、玲凛は寝台から足を下ろした。
襲ってくる軽い眩暈と嫌悪感。
捕まるときに何か薬品を使われたのだろう、と推測する。
寝台の脇の小卓に水差しが置いてある。
口にして良いものだろうかと、その玻璃の水差しを目を細めて見た。
「心配しなくても良い。ただの水だ」
突然投げかけられた声に、玲凛は文字通り飛び上がった。
部屋の片隅の壁の闇が蠢いた。そう思った瞬間、すぐに小さな音をさせて灯りが灯された。
闇の薄まった部屋の入口付近に、長身の男が立っていた。
一瞬、薄闇の中の陰影だけが目に入り、蚩尤かと思った。
引き締まった体躯。無造作に一つに括られた長い黒髪。武人特有の隙の無い立ち姿。
けれど決定的に違うものがあった。
それは雰囲気。どこか影のある、ぶっきらぼうだが温かい蚩尤のものとは対照的な、冷たい切れ長の瞳。冷酷な視線は、飢えた猛禽類を連想させた。
「あなた誰?」
男は玲凛の尖った視線を真っ直ぐに見据え返してきた。値踏みするような、鋭い視線には何の温度もない。
呼吸を呑み砕く音すら、響いてしまいそうなほどの静寂。
濃厚な空気の中、男は臥榻の正面の壁に置かれた長椅子に移動し、悠然とした態度で腰を下ろした。
玲凛が微動だにせずに睨みつける中、たっぷりと時間をとって、やっと一言口にした。
「お前は何者だ」
ぞっとするような重低音。
「身を隠している王が天狗を連れ歩くほど、まぬけな筈はない。お前を捕まえたと報告を受けても、会う価値もないと思っていたのだが……」
目を窓に転じる。緋雲の作り出した戦火が空に紅い領域を生み出している。
「邑の東を妖獣が襲っている。お前が捕らえられた途端に、だ。偶然で済ますには、あまりにも時期が良すぎる。これはどう説明する」
「……何のことだか分からないわね」
「こんな芸当が可能なのは王だけだ。まさかこんな小娘だったとはな」
玲凛は生唾を飲み込んだ。玲凛を次王と断定しながらも、高圧的な態度を変えない男。
「貴方、文城ね」
文城は肯定するように、鼻を一つならした。
「今までどこに隠れていた。何のために今更姿を現す」
「私が王なら貴方なんか、あっという間に罷免よ。まあ、妖獣が高苑を襲っている理由なら、想像つかなくもないけど」
「ほう?」
文城の目が怪しく光った。玲凛は腕を上げ、窗の外を指差した。
「妖獣は妖獣を呼ぶのよ。捕えられた私を助けようと、天狗が仲間を呼んでるんだわ。
邑を護りたければ私を解放しなさい。そうすれば妖獣はじきに大人しく山に帰るわ」
文城は組んでいた指を揉み合わせた。玲凛の言葉を吟味しているようにも見える。
「お前が襲わせているのか」
「私は先刻まで気を失っていたのよ。できる訳ないじゃない。
あれは天狗が勝手にしていること。言っておくけど妖獣は私の命令なんて聞かないわ。
襲撃を止めさせろと言われても、無理だから」
「……何故、妖獣と親しむ」
「説明するだけ無駄だわ」
文城は組んでいた指を解くと、ゆったりと長椅子に背を沈めた。
「なかなか筋の通った説明だ。だが、今官邸ではもう一つ騒ぎが起こっている。妖獣の暴走では説明のつかない騒ぎだ。お前の目的はなんだ。何の為に私のもとに来た」
「莫迦言わないでよ。私が来たんじゃない、貴方が無理やり連れてきたんでしょ」
「それを偶然と信じる程、私は甘くない」
「世の中には偶然なんて山ほど転がってるわよ」
玲凛が捕まってしまったのは、本当に突発的な事態だった。
玲凛は自分の迂闊さを呪った。もし自分のせいで計画に支障が出たら……。
「……狙いは宋興か」
身体に緊張が走った。
まだ、勘付かれるわけにはいかない。きっとまだ、耿晨たちは県令印を探して官邸に潜入している筈だ。
玲凛は、身に着けていた服の前を開いた。文城が少しだけ眉を寄せる。
「何をしている」
「口で言っても信じないんでしょ。私に聖紋があるかどうか、その目で確かめなさいよ」
唖然とする文城の前で、玲凛は上着を脱ぎ捨てた。そのまま下着に手をかける。
「お前は、仰命拝紋から逃げ回っていたのではないのか」
「その通りよ。でも優先順位ってのがあるの。私今、くだらない誤解に時間をかけてる場合じゃないの。だから誤解が解けたら、とっとと私を解放して」
剥ぎ取った下着を文城に投げつけた。
露になった肌が寒い。それでも玲凛は両手を広げて見せた。
「……ひどい傷痕だな。火傷か」
視線は腰の火傷痕に当たっていた。
「天狗を連れてると、何かとちょっかい出されるのよ。ちゃんと返り討ちにしてやったわ」
「……上だけでは完全に疑惑を払拭するには不十分だな」
玲凛はスカートに手をかけた。その手を、文城の笑い声が遮った。
「もうよい。命はとらんと約束しよう。どうせ、お前が王ならば、長生きはできまい」
王じゃない、と口にしようとした瞬間、廊下の向こう、程近い場所で、怒号に続き、壁を打つ激しい音が響いた。
驚き見る玲凛の前で、文城も顔を戸に向けた。
さして動揺もしていない、実に小さな仕草だった。
騒ぎは急速に近づいてきた。
あっと言う間もなく、戸のすぐ外まで迫っている。
「……お仲間が助けに来たようだな」
固唾を呑んで見守る中、激しく揺らいだ戸が。
鈍音を立てて吹き飛んだ。
衝撃と伴に、男が一人、血飛沫を上げながら中に転がり込んできた。
巻き上がった埃の幕の向こう。先程まで戸が占めていた空間に、朱に染まった大刀を手にした漆黒の男が立っていた。
「蚩尤……」
玲凛の声が震えた。
蚩尤が助けに来ました。




