薫風の章 四 県令印の捜索
耿晨単身で県令印を捜索中
執務室とはとても思えない豪華な作りの部屋は、宋興の好みなのか紫を貴重とした家具で埋まっていた。
お世辞にも趣味が良いとは言えないその部屋は、想像よりも広く、置かれている調度品も多い。
捜索には時間が掛かりそうだった。
耿晨は首にかけていた鍵の束を外すと、ためしに最奥にある書卓の引き出しを捜した。
一番下の引き出しに鍵が掛かっていたので期待して開いてみたが、出た来たのは青い液体の入った瓶だった。
「執務室で何をやってるんだあの男は」
唾を吐くように言い捨て、次を探す。
書卓の引き出しを、一つ一つ慎重に覗いていくが見つからない。
紙や筆、硯など、政務に使用するだろう物が収められているだけだった。
書卓に続き、背後の棚を漁ってみたが、それらしい物体は出てこなかった。
書卓から離れ、壁際へ歩を進めたとき、戸を開く音が聞こえ、慌てて衝立の陰に身を潜めた。
男が衝立から出てきた瞬間、首筋に剣先を当てた。
「その様子だとまだ見つけてないみたいだね」
両手を挙げた松侶が、苦笑しながら立っていた。
安堵の息をついて刀を納める。
「早かったな」
「途中で大維に渡してきたんだ」
「ところで、外が幾分騒がしいようだが」と訊いた。
「宋興の不在に気付いたのだろうね。護衛たちが騒ぎ出していたよ」
「もうか? 宋興は寝堂に篭る際、誰も中に入るなと言い置いていたようだったが」
「女と寝室に入ったにしては静か過ぎたんだろう」
意味ありげな松侶の微笑みを、耿晨は素直な驚きで見上げた。
「そういうものなのか?」
「そういうものだよ」
それ以上追求も想像もしようがなかったので、耿晨は「そうか」とだけ返した。それなら音など気にせずに、二三発殴っておけば良かった。
「時間がないんだな。急ごう」
手分けをして捜索するも、なかなか見つからない。時間だけが過ぎていった。
人声とともに、戸を開こうとする音が聞こえ、緊張が走った。
施錠されていることを確認する音が聞こえる。
「こちらにはいらっしゃらないようだ」というような内容の声ののち、足音は遠ざかっていった。
安堵の息を吐いたとき、部屋の外から忍ぶような声がかけられた。
「――――――乃器から話は聞いています。我々が時間が稼いでいますが、もうあまり持ちそうにありません。お急ぎを」
「……分かった」
「いえ。それと、一言お礼を……ありがとう」
静かになった戸口から目を離し、改めて捜索を開始する。
一番下の引き出しは施錠されていた。奪ってきた鍵で開錠すると、中には両手の掌を並べたくらいの大きさの、螺鈿の箱が入っていた。見事な螺鈿で描かれた鳳凰模様の中央に、鍵穴がある。
鍵束にあるどの鍵とも合わなかった。
「松侶、これ」
小声で呼びかけると、松侶は薄い蒲団を手に近寄ってきた。
箱を蒲団で包む。どうやら破壊の音を弱めるつもりらしい。目を合わせて頷き合うと、耿晨は蒲団越しに力いっぱい刀の柄を叩き付けた。
鈍い破裂音と一緒に、箱の砕けた感覚が手に伝わった。そっと開いてみる。螺鈿の欠片のチャリチャリという音に包まれて、数通の手紙が現れた。失望を覚えたその時、部屋の外から声が掛けられた。
「誰かいるのか?」
息を呑み、隣の松侶と目を合わせる。
「そこはさっき確認した。問題はない」
「いや、確かに音がした。おい」
始終穏やかな琥珀の目に、緊張が漂っていた。息を詰めていると、今度は戸を激しく叩く音がした。
「おい。そこにいるのは誰だ」
「どうした」
「中に誰かいる。鍵が掛かって入れないんだ」
「此処は宋興様の居室ではないか」
「声をお掛けしたが返事がないんだ」
騒ぐ男の声は、あっという間に増えていった。声色だけでも四人。片付けている間に、別の応援がくるだろう。
耿晨と松侶は目だけで確認しあった。急ごう。
再び捜索を開始する。戸の外の喧騒を無視して、慌しく探していると、激しい破裂音が響いた。
どうやら痺れを切らした護衛たちが、戸に体当たりをしているようだった。
蝶番が緩む。護衛が雪崩れ込んでくるのは時間の問題だった。
「私が食い止める。耿晨は県令印を」
短く言い置くと、返事を待たずに、松侶は衝立を戸の横にずらし、刀を構えた。その背に、小さく頷く。
耿晨が整然と並ぶ書籍に振り返ったとき、戸の壊れる激しい音と一緒に、男の悲鳴が響いた。
怒号と悲鳴が錯綜する中、耿晨は手早く黙々と残りの書籍一つ一つを検分した。最後の一冊まで見終わっても、目的の物は発見できなかった。
ちらりと入り口に目を向けると、松侶の刀が血飛沫を跳ね上げているところだった。
(巧い)
戸口で戦闘を行うことで、敵が室内に流れ込むのを防ぎ、一度に大勢を相手にする事無く、戸を潜ってきた数人を、確実に仕留めている。
だが、松侶の腕を持ってしても、そう長くは持たないだろう。
趣味の悪い部屋を、耿晨は忌々しげに眺める。もう怪しい場所は全て探した。
(ここじゃなかったのか?)
「くそっ」
腹立たしげに書籍の並んでいた作りつけの棚を蹴り飛ばした。
「自棄を起こすんじゃないよ、耿晨」
努めて平静を装ったような、松侶の声が背に掛かった。その声を、耿晨は頭の片隅で聞いた。脳の大部分を、別の考えが支配していたからだ。
(今の感触……)
耿晨は先程の場所を何度か蹴ってみた。足先に伝わった反動が、あまりにも弱かった気がしたのだ。疑念は、数度蹴るうちに確信に変わった。
(どこかが空洞だ)
床に膝を付き、入念に壁を叩いていく。やがて目的の場所を見つけた。丁度書卓の真後ろに当たる壁と床の接合部分。そこの横板が外れる仕組みになっていた。
「耿晨っ」
松侶の叫声に顔を上げると、目の前に刀身の煌きが見えた。飛び退きざまに抜刀し、返す刀の背を首に叩き込んだ。
耿晨の視界に、紅く裂けた松侶の袍の袖が映った。
手早く板を外す。中に手を突っ込むと、固い感触があった。掴んで引き出す。朱に金糸で刺繍の施された、手に収まるほどの箱が現れた。紫の紐で封じられている。
乱暴に開き、手の上にひっくり返すと、金鋳の印章が転がり出てきた。
懐に突っ込むのと同時に双刀を引き抜き、振り向く事無く、背後の男に突き立てた。じわり、と肉を貫く不愉快な感覚が滲んだ。身震いするような思いを無視し、耿晨は書卓を飛び越えた。
松侶の背後に回った尉士を袈裟懸けに切り捨てる。
「あったかい?」
「待たせて悪かった」
刀を正眼に構えなおしながら、松侶の問いに短く頷く。
松侶の笑んだ気配を右肩に感じた瞬間、二人同時に戸を塞ぐ男たちを斬り捨てた。
血飛沫を上げる男を盾に廊下に躍り出る。廊下には戸を軸として弧を描くように、十を軽く越える刀が向けられていた。
二人、背を合わせて呼吸を合わせる。
外に通じる道は右手。松侶の向いている方角だった。
相手が一斉に攻撃を仕掛けてくる一瞬前、二人同時に左右に向けて床を蹴った。
下段に刀で円を描く。
足の腱を切断する鈍い感覚。前列の男たちが呻きながら崩れ落ちるのを確認することも無く、耿晨は身を返して松侶を追った。
狭い廊下、前後を敵に挟まれた状況では、前方の敵を一撃で倒しながら、追い付いてきた背後の敵を切り捨てて行くしかなかった。
「お見事」
額に汗を飛ばしながら、横目で松侶が微笑んだ。
「……無駄口を叩いていると置いていくぞ」
血飛沫を上げながらの言葉に、松侶が声を上げて笑った。
耿晨の頭目掛けて突き出された長槍を叩ききりながら「それは困る」と明朗な声が上がった。
松絽と合流して県令印を見つけました。




