薫風の章 三 耿晨の単独行動
玲凛が捕まりました。
耿晨の我慢が限界を迎えようとしたとき、窓を叩く小さな音が響いた。
「遅い。掴まったのかと思ったぞ」
「心配してくれたんだ。嬉しいね。あれ? 髪解いちゃったんだ。折角似合っていたのに」
「あんな重たい格好、二度とご免だ。ほら」
耿晨は縛り上げ、猿轡をかませた宋興の首根っこを掴むと、松侶に押し付けた。
「ゆっくり頼むよ。気を失った成人を運ぶのは、それなりに重労働なんだよ」
苦笑しながら文句を言う松侶と力を合わせて、なんとか宋興の巨体を天犬に乗せた。
天犬は少し不満そうに首を振った。
「蚩尤はどうした?」
松侶は少し言い淀んでから、事の顛末を説明した。
「他の皆は大丈夫だろうか」
「今のところ順調みたいだ。問題はここからだね。緋雲もそう長くは持たない。どれだけ速く県令印を見つけ出せるかに掛かっている」
耿晨は真顔で頷き、片手を突き出した。
「……何だい?」
「刀」
「……計画と違い、蚩尤がいないんだ。私が戻るまでは耿晨の単独行動だ。絶対に無茶をしないと誓えるかい?」
松侶が珍しく真剣な熱い瞳で見据えてきた。
この瞳の色を耿晨は知っていた。
いつも蚩尤が注いでくれていた瞳。大切な仲間を想う者の視線だった。
松侶が双刀を玲凛に投げて寄越した。
耿晨はたなびく瓢彩の色に目を見張った。
旅の間に血や埃で薄汚れ、色の判別も難しくなっていた瓢彩が、鮮やかな桃花色に変わっていた。
「玲凛だよ。女の子なんだから綺麗にしとけって、付け替えていたよ」
場にそぐわない柔らかい声色で、松侶が説明した。
玲凛の、女性特有の明るい笑顔が目に浮かんで、胸の中に暖かな風が吹いた気がした。
「頼むから無茶だけはしないでおくれよ。玲凛に泣かれると私も辛い」
遠ざかる天犬の赤を見上げながら、耿晨は、玲凛の涙は最強そうだ、と苦笑した。
(蚩尤……。玲凛を頼んだぞ)
こんなところで、やっと見つけた仲間を、―――――新王を失うわけにはいかない。
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耿晨は、宋興の懐から抜き出しておいた鍵の束を、布にくるんで首から提げた。
「さて」
両手で頬を挟むように叩いて気合を入れると、耿晨は窓から滑り出た。
屋外に出ると、遠くで響く怒号が良く聞こえた。
「やってるな」
耿晨は薄く笑う。
乃器が誘導してくれたのだろう。人影は極端に少なかった。
県尉に至っては皆無と言ってよい。
目指す部屋は、庭から北東に回り、さらに回廊を南東に抜け、続く廊下を南に下りたところにある。
耿晨は庇を蹴って、目の前の棕櫚の木に飛び移った。
頭の中に刻んだ見取り図を、眼前の風景に重ねながら、樹から樹へと進んでいく。
回廊の手前まで来て、耿晨は静かに樹から飛び降りた。
すばやく回廊の下に滑り込む。姿勢を低くして進み、東にぶつかったところで、息を整えた。
此処からは屋内。身を隠す場所のない、廊下を進むしかない。
耿晨は背筋を伸ばすとゆっくりと足を進めた。
廊下に等間隔で並ぶ戸の前で一旦立ち止まり、中の気配を窺う。
耿晨は戸から戸へと緩急をつけて少しずつ奥へと進んだ。
一つ目の角を曲がり、最初の部屋の戸に差し掛かったとき、急に目の前の戸が開いた。
瞬時に床を蹴る。
官服を着た男が不思議そうに目を開いた。
男が自体を把握する直前に、耿晨の回し蹴りが官服の首を捉えた。
男は反動で元いた部屋の中に、鈍い音を立てて転がり倒れた。
耿晨は中に入り、後ろ手に戸を閉めた。
さっと中に神経を巡らす。
(もう一人いる)
「おい、どうかしたか?」
音に驚いたのか、衝立の向こうから顔を覗かせた男の腹部にすぐさま当身を加える。
男の倒れこむのに巻き込まれる形で、衝立が均衡を崩して倒れ込む。
耿晨は慌てて肩を入れて衝立を支えた。
「……危ない」
耿晨は長い息に緊張を混ぜた。
目的地は此処からもう一度角を曲がって、三つ目だ。
耿晨単独で県令印を探しに行きます。




