薫風の章 二 作戦変更
耿晨が潜入しました。
二人が天犬の背に乗り込もうとした時、急速に近づいてくる馬の足音が聞こえた。
音は一つ。
蚩尤は天犬の背に松侶を残したまま、柄に手をかけて来訪者を待ち構えた。
「……大維?」
「良かった、間に合った」
大維が馬から飛び降りながら興奮気味に言った。
「一体どうしたんだい」
緊張感のない口調で、松侶が天犬上から問いかけた。
大維の只ならぬ様子から、悪い知らせであるのは明白だった。
肩で息をする大維は、何度か唾を呑み込むと、抑えた声を出した。
「玲凛が、捕まっちまった」
蚩尤は息を呑んだ。
玲凛には一番安全な役回りを用意していた。
安全だが難しい、宋興の説得。
あの娘なら必ずやり遂げてくれると信じて送り出した。
宋興はまだ官邸の中。
この段階で玲凛に危害が及ぶとは、到底考えられない事態だった。
「文城の手の者だった。計画がばれたんじゃねぇ。おそらく、捕まったのは玲凛だからだ」
「どういう意味だ」
「……手配書のせいだろう」
蚩尤の問いに答えたのは、松侶だった。
いつの間にか、隣に立っていた。大維を労い、座るように促している。
大維が松侶の言に同意した。
「嬢ちゃんを捕まえた県尉が、阿雪の噂をしてたから、まず間違いねぇだろう。乃器が言うにゃ、文城の子飼いのやつらしい。情けねぇ話だが、俺らじゃどうすりゃいいか分からねぇ。指示をくれねぇか」
文城を評していた言葉を思い出す。
―――――宋興と変わらない獣だ。
蚩尤は下手すれば走り出しそうになる身体を、大地を踏み締めることで堪えた。
作戦はもう始まっている。
今更変更などできるはずは無かった。
「耿晨も緋雲も、もう戦っている。俺たちも計画通り動くしかない。玲凛のことは……王と間違われているんだ、命の危険があるわけではないだろう。調べればすぐに誤解は解ける筈だ」
「それはそうだが、でもよ……。誤解じゃなかったらどうなるよ」
新王の出現を、快く思わない人種もいる。
地尸ではない官吏だ。
誤解が解けた場合も問題だ。
何せ仰命拝印の後だ、女の身に危険がない保証などない。
納得いかない大維の抗議を、蚩尤は手で制した。
「寧ろ文城の目を玲凛に向けることができて好都合。そう考えるんだ」
感情を押し殺し、淡々と口にする蚩尤の正論に、大維が途方にくれた様子で、助けを求める視線を松侶に投げた。
「旦那からも言ってくれよ。玲凛は道具じゃねぇぞ」
大維の訴えに、蚩尤は口元を引き締め、松侶は小さく息をついた。
「……蚩尤。君は玲凛を気に入っていたんじゃなかったのかい」
「優先順位の問題だ。今でなければ、助けに行く道もあるだろうが、今は無理だ」
蚩尤は、貼り付けたような無表情を貫いた。
戦いの場において迷いは死に直結する。
耿晨と緋雲はすでに戦場に出ているのだから。
蚩尤の気持ちが伝わったのだろう。
松侶が一度憐れむような視線を投げた後、腕を腰に当て、はっきりとした口調で告げた。
「蚩尤。君は玲凛の元に行くんだ」
蚩尤は驚愕して松侶を見上げる。
そこには、明朗といえるほど、晴れ晴れとした笑顔があった。
「耿晨のことは心配しなくて良い。私が命にかえても護ると約束しよう。玲凛は一刻を争うかもしれない。早く行ってあげなよ」
一切の迷いを拒否するような、琥珀の笑顔に、蚩尤の気持ちも一瞬にして方向を転換した。
こんなことが昔もあった。古い友と築いた、信頼という名の腐れ縁。
同じ感覚を今、友の忘れ形見と共有している。
「……誓えるか」
挑み見た蚩尤の視線に、松侶の不敵な微笑が帰ってきた。
「誰に言ってるんだい?」
君こそしくじるなよ、と言う憎まれ口を叩きながら、天犬は一陣の風を巻き起こして飛翔した。
急速に小さくなる赤い影に祈りを投げて、蚩尤は大維に向き直った。
「馬を借りても良いか」
玲凛がつかまりました。蚩尤が助けに向かいます。




