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紺珠の章 九 幼獣を威圧する存在

小屋に戻ると…

 民家に戻ると、土間の隅に蹲る小さな影を見つけた。


「小風?」

 呼びかけると、小さな肩がビクッと揺れた。

「どうしたの。こんな時分に出歩いちゃ危ないじゃない」

 小風は振り向かない。

「小風?」


 その瞬間、小風は弾かれたように立ち上がると、玲凛を突き飛ばした。

 不意をつかれ、壁に背を付く脇を、小風が何かを抱えるように飛び出していった。


「どうしたの、小風。待って。危ないわ」


 追い掛けようと土間に降りた玲凛に、緋雲が悲し気に呟いた。


「危なくないよ……」

「何言ってるの。黒夜なのよ。いくら屯の中とは言っても、いつ妖獣が襲って来てもおかしくないんだか……ら」


 言い終わらぬ内に、玲凛も事態を把握した。土間にいるはずの阿雪あせつの姿が消えていた。

 途方に暮れた顔で緋雲を見上げる。緋雲は拳を握りしめて言葉を絞り出した。


「屯を、護りたかったんだよ」


 水の端には隔壁がない。

 建忠の貼った退魔の呪はあれど、不安はぬぐえない。

 明日になれば玲凛と共に、退魔の力を持つ阿雪もここを去るのだ。

 阿雪を求める人の心はどこにいても変わらない。

 ――――――遠い記憶に弾かれて、玲凛は顔を上げた。


「小風が危ないっ」


 訴えるのとほぼ同時に、闇を劈く鷹の鳴き声のような甲高い音が空気を揺らした。

 玲凛と緋雲は転ぶように外に飛び出した。

 ―――――――頭上に、白い大きな影が閃いた。


龍姪りゅうてつ!」


 人の背をゆうに超える大きさの、狐に似た妖獣が闇の中から舞い降りた。

 長い九つの尾が篝火を浴びて翻る。

 地に肢をつけた龍姪は、豹のような牙を剥き咆哮すると、玲凛に向けて突進してきた。

 来る。そう思ったときには目の前に虎のような爪があった。


「玲凛!」


 叫び声と共に、緋雲の腕が玲凛を突き飛ばした。

 回転する景色の中に、緋雲の赤い血が飛んだ。

 肩口から血を流し、倒れた緋雲に、龍姪が圧し掛かるように前肢を上げていた。

 夢中で手元の桶を投げつける。龍姪は一瞬怯んだ後、一度低く唸ってから身を翻し、屯の奥へと消えていった。


 慌てて緋雲に駆け寄る。傷は浅いようだ。意識もある。ほっと胸を撫で下ろす玲凛の腕の中で、緋雲が顔を顰めた。


「玲凛、怪我はない?」

「莫迦、人の心配してる場合じゃないでしょ」

 騒ぎに誘われて、屯人が民家から顔を出し始めた。状況を把握できていない屯人に声を張る。

「妖獣よ。皆家から出ないで」

 玲凛は緋雲を膝から下ろした。

「ごめん、行かなきゃ。小風が危ない」


 緋雲が返事をするよりも早く、玲凛は医療所に向かって駆け出した。

 走りながらも、軒下に立て掛けられていた鍬を手に取る。


 医療所の前には人影は無かった。玲凛は迷わず裏手に回った。

 裏手の小道に入ると、暗闇の中で大きな影が動いた。行き止まりになっている道の端、壁に追い詰められる形で、小風が蹲っていた。

 阿雪を抱きかかえ、壁を向いて震えている。その小さな背に、今にも襲い掛かりそうな龍姪がいた。闇に向かって呼びかけた。


「小風。生きてる?」


 龍姪の興味が、玲凛に向いた。よし、と心の中で拳を握り、尚も大きな声を張った。


「阿雪を放して。その子が妖獣を呼んでるのよ」

「嘘だ!」

「嘘じゃない。幼獣とはそういう生き物なのよ。ああ、もう」


 足元に転がっていた棒を掴むと、龍姪りゅうてつの背に投げつけた。


「獣。こっちに来なさい」


 龍姪りゅうてつがのっそりと振り向く。一歩、白い肢が玲凛に向かって踏み出される。唸り声が地を張って足元に届く。玲凛の全身が戦慄した。妖獣とこんなに近く対峙したのは初めてだった。震える四肢を叱咤して、鍬を構えた。龍姪はもう一度甲高く鳴くと、涎で黒光りする口を大きく開き突進してきた。

 転がるように、間一髪で左に避けた。龍姪と入れ替わるように小風の傍に逃げる。尚も蹲ったまま震える小風の背に向かい、玲凛は大声を出す。


「私達が引きつけている間に阿雪を放して逃げて」


 視線は龍姪から逸らせない。気配だけで、背後の小風が蹲ったままだと分かる。玲凛は何とか立ち上がると、震える手で鍬を構えなおした。


(とにかく小風を逃がさなくては)


 獣の荒い息遣いが、闇の中から近づいてくる。生臭い獣の匂いまで、すぐそこで感じられる。


「早く行って」


 玲凛は懇願するように叫んだ。

 正面には龍姪。背後には小風。

 攻撃を避ければ、今度は小風に当たってしまう。


 龍姪が鋭い爪を振り下ろしてくる。玲凛は攻撃の瞬間にあわせて鍬を闇雲に振り回した。

 激しい衝撃で、鍬が回りながら弾きとんだ。圧を受けて玲凛の身体が後ろに倒れこんだ。


 妖獣は、獲物を追い詰めるように、のっそりと距離をつめてくる。

 立たなきゃ。そう思っても、足が震えて力が入らない。


「小風。行って、早く。お願い」


 叫んだつもりだったが、震える口では声として発せられたか分からなかった。

 空気が振動する。爪が迫ってくる。


(ああ、もう駄目……)


 心を絶望が制した直後、――――――真っ赤な色が目の前に舞った。


 血かと思った、その赤を見上げると、精悍とした声が振ってきた。


「遅れてごめん」


 ――――――龍姪と玲凛の間に、緋雲が立っていた。


 深い闇の中、緋雲の数倍も目方のある龍姪りゅうてつを前にして、真っ直ぐに背を伸ばし対峙する、緋雲の背中が見えた。

 いつもは小さく見えるその背中が、やけに逞しく感じた。

 僅かに横顔が見える。

 そこには恐怖も、焦りもなく、ただ龍姪を圧倒するような、紅緋の瞳が輝いていた。


(緋雲……?)


 目の前の男は、玲凛の知っている緋雲とはまるで別人だった。

 王者のような威厳を備え、妖しいまでの存在感を放っている。


 緋雲の覇気に押されたように、龍姪りゅうてつの動きが鈍くなった。


「静まれ」


 緋雲は毅然と獣に命じた。

 静かな声だったが、神々しささえ感じさせた。

 何故だか玲凛は畏れに身が震えた。


 睨みあったまま、緋雲は龍姪りゅうてつに向かって真っ直ぐに掌を突き出した。

 抗うような龍姪りゅうてつのうなり声が闇を這う。

 緋雲は腕を前方に伸ばしたまま、龍姪りゅうてつに向けていた掌をゆっくりと地面に向けた。


 呆然と見上げる眼前で、緋雲をそのままおもむろに腕を下ろしていく。

 緋雲の手の動きに合わせるように、猛り狂っていた龍姪が肢を折り、腹を付き、ついには頭を地面につけた。それは完全な服従の表明だった。


 緋雲の柔らかな声が、平伏する獣の上にそっと降りた。


「山へお帰り」


 龍姪りゅうてつは一声鳴くと、音をさせずに踵を返し、闇に解けていった。


 助かった、という安心感よりも、目の前で起こった出来事に対する不信感が胸を支配する。


 今、緋雲が龍姪を圧倒したように見えた。

 威圧し、服従させた。先程龍姪の動きを奪った力、あれは霊力だった。


 龍姪が去った闇に、鮮やか過ぎる蜜柑色の髪が翻る様は、あまりにも神々しく、玲凛は畏れを抱いた。


 唐突に、黄色の花を抱えた湖詠の不機嫌な声が耳に蘇った。


 あのとき彼は『咲きすぎだ』と言った。

 緋雲を追い出すとき湖詠はなんと言った。『こいつがいると研究の邪魔だ』と言わなかったか。


(湖詠は、気付いていたんだわ……)


 緋雲の放つ圧倒的な霊力に。

 ――――――花を狂い咲きさせてしまうほどの。


 闇を背に、緋雲が振り返った。

 瞬間、鼓動が大きく跳ね上がる。

 だが玲凛に向けられた顔は、気遣わしげで優しい、いつもの緋雲のそれだった。


「怪我はない? 玲凛、小風」

 戸惑うような、頼りなげな緋雲の声を聴いた瞬間、やっと硬直した時間が動き出したような気がした。

「今の……、何?」

 ありのままの質問をぶつけると、緋雲は困ったように首を竦めた。

「僕にも良く分からない。勝手に身体が動いちゃった」


緋雲は労わるように、腰に手を回すと玲凛を支えて立ち上がらせた。

 何とか立った、玲凛の足に、天狗の柔らかな毛並みが触れた。


「小風?」


 振り向くと、小風は先ほどと同じ場所で顔をぐしゃぐしゃにしながら座り込んでいた。

 緋雲が駆け寄り、小さな身体を抱きしめた。


「小風。怖かったね」

「ごめ……なさい」


 嗚咽を漏らしながら、縋り付いてくる小風を抱きしめ、背を撫でている紅緋の少年を、玲凛は震える想いで眺めた。


 自然や妖獣に影響を与えるほどの霊力を放つ存在なんて、

――――――一つしか知らない。

緋雲の霊力、半端ないようです

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