紺珠の章 八 未来を探す旅にしよう
また旅をすることになりました。
凪いだ湖面に浮かぶ星は、空のそれよりもやや暗く、柔らかく霞む輪郭が、優しさを醸し出していた。隔壁により遮られることのない夜景は、雄大に広がり、空をやけに広く見せる。
人々が寝静まるには早いまどろみの時間。
夕餉を終えた屯人の、座間で談笑する声が、時たま遠くで聞こえた。
玲凛一行の旅立ちの報は、水の端に衝撃を与えた。
それでも笑顔で送り出そうとしてくれる屯人の気持ちは伝わってきた。
玲凛は瞳を閉じて、湿った夜気を大きく吸い込んだ。
思えば水の端に来て、こんなにゆっくりと流れる時間は初めてだ。
慌しく過ぎたこの数ヶ月が、今日で終わる。
大人ならきっと月見酒と洒落込むところなのだろう。
阿雪はもう家で寝ている。明日からの強行軍を考えると、玲凛もそろそろ家に戻らなくてはいけない。
「ここにいたんだ」
背後からかけられた声に振り向くと、緋雲が微笑んでいた。
笑顔を返して視線を湖面に戻す。
緋雲は笑顔のまま隣に腰を下ろした。湖畔に二人座り込んで、湖面を撫でてきた風を受ける。
「龍の壷を思い出していたの。同じ湖でも随分と違うものね」
厳かな気分にさせられる龍の壷と比べ、ここはもっと身近な、言ってみれば顔見知りと語り合うような気になる。
緋雲が、小石を拾って投げた。小石は波紋を作りながら進み、湖の中ほどで消えた。
「今日の夕餉は豪華だったね。僕、あんなに賑やかな食卓、初めてだ」
薄く微笑むと、二人の間に静かな時間が落ちた。
遠くで魚が跳ねる音がした。
「ねえ玲凛」
穏やかな沈黙を、緋雲が破った。
「もし、旅を続ける理由が僕の記憶探しなら、もう良いよ。漢張に頼めば、また此処で暮らせるんでしょ」
驚いて顔を上げ、端正な緋雲の横顔を覗き込む。
「僕ってさ、初めての経験が多いでしょ。それって記憶を失っているせいじゃないと思うんだ。誰かと買い物に出かけたり、食卓を囲んだり……。僕はきっと、そんな、誰もが知っている当たり前の経験をして来なかったんだ。そんな人生だったんだよ……」
声は黒夜の湿った空気に溶けていった。
寂しげに微笑む緋雲から、そっと目を逸らす。
「思い出すのが、怖い?」
「……少しね」
玲凛は更けていく黒夜を見つめた。
確かに記憶がなくても、生活に支障はない。
今の緋雲を見ている限り、このままで良いのではないか、とも思う。
だけどもし、玲凛が同じ立場ならどうだろう。
両親を失った悲しみも、湖詠から貰った愛情も、固河での日々も、全て忘れてしまったとしたら。
――――――そんなのは最早、自分ではないと思った。
玲凛は身体を倒すと大地に背を付けた。
「じゃあ、これからは私に付き合って」
緋雲が不思議そうな顔をして覗き込んだきた。
そのきょとんとした丸い瞳に笑いかける。
「陶を一周しようよ。私ね、この国をもっともっと見てみたい。そして墨節が明けたら、私は官吏を目指してみようと思うの。緋雲はなりたいものはあるの」
緋雲が蜜柑色の髪をふるふると揺らした。
「それなら探しましょうよ。過去を探すんじゃなくて、未来を探す旅にしよう」
緋雲の顔が陽が差したように明るく輝いた。
それを見上げて玲凛もつられて笑う。
「ねぇ緋雲。誰かの役に立つって嬉しいね。私、湖詠の元で学びながらも、吸収した知識の使い道って良く分からなかったの。勉強は好きよ。でも使い方が分からなかったの。何もできないくせに、ただ漠然と、私はこんな所で収まる器じゃない、なんて偉そうなこと考えてた。それがね、今回少し分かったような気がしてるんだ。建忠さんや漢張に鍛えられてるうちに、段々とね。
昔湖詠に言われたの。世俗の暮らしで学ぶべきものが沢山ある、それは決して登葆山にはないものなんだって。その言葉の意味が、やっと理解できた気がする。あぁ、こういうことだったのかなぁって」
細められた紅い瞳には、親愛の情が込められている。
水の端では、緋雲の意外な一面も見ることができた。
いつもは尻尾を振る犬のようなのに、たまに男の顔になる。
玲凛は手を伸ばし、真上にある緋雲の鼻を指で弾いた。
「何するの」
緋雲が痛そうに鼻を押さえて抗議してきた。
うん、やっぱり緋雲はこうでなくちゃ。
「私ね、水の端の一件が無かったら、官吏になりたいなんて思わなかったと思うの。つまり、記憶や経験って、未来への道の石畳なのよね。だから緋雲も恐れないで。無理に思い出さなくても良い。でも過去から逃げないで欲しいの」
玲凛は起き上がると、緋雲に両手を回した。
落ち込んだとき、いつも緋雲がしてくれるみたいに。
前向きな旅にしましょう




