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紺珠の章 三 僕だって男だよ

治療法が分かったみたいです。

 赤死狐は空気感染しない。


 感染経路は感染者の体液、排泄物。

 赤死狐菌は極端に熱に弱く、熱めのお風呂ほどの温度で活動停止し、六十度でほぼ死滅する。


 食べ物に火を通すこと。

 水や保存食は、この際危険と見做すこと。

 家に帰ったら全身を、強いお酒で拭き清める習慣を付けること。

 入浴は毎日熱めの湯につかり、かつ五十度近いかけ湯を行うこと。


 それだけで、新たな感染者が出る確率は激減する筈だった。


「私はしばらく医療所に篭るから」


 纏めた荷物を肩にかけながら宣言すると、緋雲が飛び上がって近づいていた。


「僕も手伝うよ。力仕事になるんでしょ」


「医療所は当面立ち入り禁止よ。

 薬草や流核を集めたり、医療所の外でも沢山仕事はあるの。緋雲はそっちを頼むわ」


 尚も反論しようと口を開きかける緋雲の隣で、建忠が躊躇いがちに聞いた。


「本当に玲凛は安全なのか。万が一にも感染する危険はないのか」

「空尸湖詠の秘術よ。安心して」


 建忠の問いかけに堂々と嘘をつく。


「でも、君の負担があまりにも大きすぎ……」


 建忠の言葉を、玲凛は人差し指を立てて、遮った。


「医療所に出入りする余所者の存在は、屯人には面白くないでしょう。

 建忠さんには、みんなの不満を抑える役をお願いできると助かるんだけど」

「それは……もちろん俺から説明するが……」


 玲凛は間髪いれず、もう一度微笑でみせた。


「ありがとう。できれば食事も甘えていいかしら」


 お安いご用さ、と建忠が諦め気味に頭を掻いた。



 作業着に袖を通すと、背筋が伸びる思いがした。

 頭に布を巻き、口当てをすれば、肌が露出しているのは目の周りだけとなった。


「十分、不審人物だわ」


 自分の姿を想像して、げんなりする。

 屯人が見れば、恐れすぎだと笑うだろうか。

 けれど、注意してしすぎるということはない。


 玲凛は大きく空気を吸い込んだ。新鮮な空気を吸うのは、しばらくの間お預けだ。


「湖詠。見てて」

 敵地に赴くように、玲凛は医療所に足を踏み入れた。


――――――――――――――――


 大変申し訳ないが、医療所に来た目的は治療ではない。

 排泄物の収集だ。


 赤死狐の治療薬の製造法は変わっていて、患者の排泄物を使う。

 感染源に触れるのだから、他の人には任せられない。


 赤死狐ほどの大昔の抗体。玲凛が宿しているかどうかはかなり疑問だ。


 それでも、他の人にさせるよりは、可能性がある分ましだった。


 患者の寝台の脇に置いてある、排泄物のたまった桶を集める。

 大きな桶に移し替え、密封する。

 ついでに掃除。


 ただそれだけだが、重労働だった。


 一日が終わると、食堂の隅で丸まって眠った。

 疲れた身体に、眠りはすぐに訪れた。


 食事は小風が運んで来てくれた。

 だが、医療所で物を口に入れる勇気は、玲凛には持てなかった。


 医療所に篭ってから、何度目かの黒夜を迎えたころ、食堂の扉をたたく小さな物音が聞こえた。

 

――――――――――――――――――――


 規則的になる音は、どうやら風のいたずらではなく、意図的なもののようだった。


 遠慮がちに戸を叩く音。

 玲凛は蒲団に身を包みながら、恐る恐る戸に近づいた。


「……誰?」


 戸外に向かって誰何すいかすると、音はすぐに止んで、明るい声が返って来た。


「玲凛、そこにいるの?」

「緋雲? どうしたのよ、こんな時間に」

「玲凛に会いに来たんだ」


「……何言ってるの。ここに来ちゃ駄目って言ったでしょ」

「だって、もう三日も玲凛に会ってない。寂しいよ」


 拗ねる緋雲が、酷く懐かしく思えた。


「……駄目よ。戻りなさい」

「嫌だよ。僕は玲凛に会いたい。ねぇ、中に入れて。ここを開けてよ」

「言うことをきいて」

「玲凛、ご飯あんまり食べてないんでしょ。

 そんなんじゃ、病気になっちゃうよ。

 小風も建忠さんも心配してるよ。

 僕、二人の目を盗んでこっそり出てきたんだ。おにぎり持ってきたんだよ」


 玲凛は両手を戸に付いた。

 そのまま、額を手の甲に押し当てる。


「お腹が空いてないだけよ。

 私なら大丈夫。言ったでしょ、特異体質なんだから」


 短く落ちた沈黙。

 きっと今緋雲は、口をむーっとまげて、納得いかない顔をしているのだろう。


「嘘つきだな、玲凛は」

「……何のことよ」


「大昔に根絶したって言ってたよね。

 そんな病気の抗体、いくら湖詠でも持っている筈ないよ」


 短い沈黙の後、緋雲がひっそりと促した。


「玲凛、お願い。開けて」

「……駄目よ」


 静かな黒夜のしじまが降りた。


 静寂に耳を澄ますと、戸板を挟んだすぐ外で、砂利を踏む音が小さく聞こえた。


 やがて、紡がれた緋雲の言葉は、どこか炎のような響きがあった。


「玲凛、僕だって男だよ。

 こんな戸板くらい、壊すことだってできるんだ」


 はっとして戸に縋る。

 躊躇う耳に、緋雲の芯の通った力強い声が聞こえた。


「十数える前に、ここを開けて。でなきゃ強引に入るよ」


 緋雲の言葉は、頑なな意志が篭っていた。

 脅しでもなんでもない。本当に戸を壊すつもりなのだと分かった。


 ここを開ければ、緋雲も感染の危険に晒してしまう。

 けれど、玲凛が開けなくても、緋雲は入ってきてしまうだろう。


 玲凛は深呼吸すると、静かに閂を外した。


 軋む音をさせながら戸を開いた次の瞬間

 ―――――――――緋雲の腕の中にいた。


 すくうように抱きしめられ、伝わってくる暖かな体温に眩暈がする。

 玲凛の肩口に顔を埋める緋雲の髪が頬にあたってくすぐったい。

 夜目でも目立つ、鮮やかな緋色。


緋雲は顔を埋めたまま、心底幸せそうに囁いた。


「わぁい。玲凛だ」


 どこまでも緋雲らしい言葉に、頬が緩む。久しぶりに笑った気がした。

緋雲が男気を見せました。

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