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翡翠の章 六 地尸はほとんど死にますよ。私以外。

文官さんは崇斎様でした。

 月が東の空に綺麗な円を描き、朝餉の匂いが邑を芳しく染める頃、耿晨は邑門にいた。


「じゃあ行って来る。門が閉まる前には戻る」

「見送りなど、本当に結構ですよ。護衛なら宇延がいます」


 馬上で恐縮する崇斎に、耿晨は微笑んで首を振った。


「郷長の護衛が一人きりというのは問題だろう。

 私の自己満足だ。気にしないで欲しい」


 隣の馬上で、宇延がしたりと頷いた。

 朝稽古で耿晨に殴られた頬が、痛々しく腫れている。


「本当ですよ、崇斎様。もう少し自覚を持ってください」

「無理です宇延。私はお忍び、という言葉が大好きなのです」


 悪戯っ子のように片目を瞑る崇斎は、耿晨から見ても実に魅力的な男性で、今まで耿晨が官吏に抱いていた印象を、粉々に砕いてくれた。


 蓮薯の水田の畦道を馬で進みながら、崇斎は幸せそうに目を細めて、農夫の働く姿を眺めていた。


「武器の所持も鍛錬も、禁止しないでくれてありがとう」

「本来なら寧ろ推奨すべきことです。

 こちらこそ礼を言わねばなりません。

 私の郷の民に自警の念を植えてくれたこと、感謝しています」


 耿晨は複雑な想いで崇斎を見つめた。


 郷長だというのに、まったく偉ぶった感じがない。

 箸より重たい物を持ったこともなさそうな優男に見えるのに、先ほどから馬の扱いは見事だ。

 今も、山間の足場の悪い街道を顔色一つ変えず巧みに進んでいる。

 慣れてない者なら、馬から降りてたずなを引いているほどの悪路だというのに。


 横目で崇斎を見ていると、弓なりに笑んだ瞳とかち合った。


「私に聞きたいことがあるのでしょう。

 だから態々ついてきた。どうぞ?

 お答えできる内容なら何でも答えますよ」


 耿晨は少し頬を染めた。

 特に質問があったわけではない。

 ただ、もう少しこの人の話を聞いてみたいと思ったのだ。

 この人を知りたい、と。


「……私は今まで官吏とは、私欲を貪るか、権力に屈したかの二種類しかいないと思っていたんだ。

 あなたのような方が、まだ陶の政に残っていた事実に驚いている。

 善意は全て粛清されたと思っていたから」

「私はね、腰抜けなんですよ。

 気に食わない奴だが、生かしておいても害はない、という程度の器量なんです」


「……謙遜は、話を分かりにくくするから、あまり好きじゃないんだ」


 崇斎は小さく噴出し、謙遜じゃないんですけどね、と笑った。


「本当に腰抜けなんです。

 真実陶を想うのなら、ちょうに挑めば良い。

 ですが私はその策は採りませんでした。

 私が今一番大事なのは自分の命です。

 とんだ腰抜けでしょう」


 自らを揶揄るような言葉だが、崇斎の瞳は澄み切っていた。

 恥じるところのない、信念に基づいた行為だと、その瞳は言っていた。


「朝を討つという考えは、一度も持たなかったのか」

「持ちましたよ、勿論。

 ですが旗印として掲げようとしていた方―――――先の宣州牧ですが、あのお方は首を縦に振らなかった。

 耐えよと諭され、諦めました」

「自ら旗印になろうとは?」


「格が違います。

 私は地尸ちしですが、まだ人の寿命も尽きていない青二才です。

 誰も付いて来ませんよ。

 ならば、自己満足のために戦を起こすのではなく、少しでも多くの命を護るほうが理に適っていると思いませんか」


「ですが青二才だからこそ、可能なこともあります。

 おそらく私は、新王の御世を経験できる、数少ない地尸の一人なのですよ」

「どういう意味だ?」


 訊き返すと、崇斎はあぁ、と心得たように説明した。


乖王かいおうの治世は二百三十年。

 地尸の多くはとうに人としての寿命を越えています。

 王の霊力で命を延ばしてきた地尸は、王気が途絶えれば本来の時間が動き出すのです。

 王気が絶えた地尸に残された時間は三年、もって五年だと言われているのですよ」


「乖王が身罷ってもう四年」


「ええ。―――――――――今多くの地尸が次々と死の時を迎えています」


 不意に、崇斎はいったい何歳なのだろう、と素朴な疑問が沸いた。

 訪ねると、崇斎は始めて子供っぽい笑顔を見せた。


「順調に天寿を全うできれば、後二十年ほどは生きているでしょうね」

「すると、あなたはもう五十を過ぎているのか」

「正確にはもう少し上ですね」


 どうみても二十代にしか見えない笑顔をまじまじと見つめる。

 なるほど、これが尸仙しせんならば確かに不自然な生き物だ。


「私は残された地尸として、一人でも多くの民を救い、新王にお渡ししなければならない」


 決然と告げる崇斎の言葉を、美しいと思った。

 そこには官吏としての自負や、新王への絶対の信頼が透けて見えた。


「あなたほどの人物が、何故郷長に甘んじてい……」


 全て言い終わる前に、耿晨は懐から短刀を抜き、崇斎の背後に投げた。


 短刀は真っ直ぐに飛び、崇斎めがけて飛んできていた矢に正面からぶつかった。

 矢は二つに裂け、崇斎の脇を通り過ぎていった。


「馬から降りて身を伏せていろ。宇延。崇斎様の傍に」

崇斎様は素敵な人みたいです。

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