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翡翠の章 三 仕事と日常。平和です。

熊を退治しました。

 硬質な月光が、平雍の邑に陰影を作り出す。

 邑人たちがようやく穏やかな睡眠を手放し、のろのろと床から這い出し始める。


 そんな、まだ朝に成りきらぬ時間帯、平雍の邑に小気味良い金属音が響くようになって、一月ほどが経っていた。


 里府りふの中庭は朝稽古にはもってこいの場所だった。


 身体を回転させながら、連続して打ち込む。

 その切っ先を蚩尤の重たい刀に弾かれ、左肩が少し後ろに開いた。

 やばい、と思った瞬間には、首元に刀が突きつけられていた。


「……もう一本」


 食い下がった耿晨に、蚩尤が苦笑して中庭の一角を顎で指した。


「諦めろ。時間切れだ」


 中庭の入り口に、邑人の姿があった。

 中には拓達の姿もある。

 首にかけた手拭の端を両手で持って、のそのそと歩いてくる。


 耿晨は諦めて、刀を鞘に納めた。


「もうそんな時間か。みんな熱心だな」

「日々上達を実感できて、楽しいんだろう」


 熊鍋が余程嬉しかったのだろう。

 翌日には自警団を作ると言い出した。


 戦う力を得たがっている邑人に、戦闘の基礎を教える。


 目下の平雍での仕事だった。


 初めて触れる武道に、邑人たちは今のところ夢中だ。


 坦坦は、自称耿晨の一番弟子、なのだそうだ。


「熱心なのは感心なんだが……。朝だけなら良いが、あいつら暇さえあれば挑んでくるんだもんな」

「仕方ない、それが仕事だ」


 他人事のような台詞に、耿晨は蚩尤をねめつけた。


「蚩尤の仕事でもあるだろう。たまには朝稽古に付き合ってみたらどうだ」

「残念だが、今日は楊祥ようしょうと森に行かねばならん」


 蚩尤はさして残念でもなさそうだった。


「今からの必要があるのか」

「誰かが邑人を打ちのめすお陰で、薬草が足りなくなったそうなんだ。

 まさか楊祥を一人で行かせるわけにはいかんだろう」


 楊祥は里の西側に住んでいる女性で、よく拓達の家に世話をしに来てくれる。

 最初は拓達の恋人かと思ったが、どうやら単なる幼馴染のようだった。


 女性らしくしなやかな人物で、母性を絵に描けば、楊祥の肖像画になるのではないか、とさえ思う。

 あまりの女性らしさに、耿晨は思わず赤面してしまうほどだった。


「前々から思ってはいたが、どうも蚩尤は、私を女扱いしていない気がするぞ。

 楊祥といる蚩尤は、やけに紳士的だ」


 耿晨の抗議に、蚩尤はしばし考え込んだあと、真顔で答えた。


「それは、俺の側じゃなくて、耿晨側の問題だと思うぞ」


 蚩尤は顎で、中庭の中央を指した。


「ほら、お前を女扱いしてくれる連中が待ってるぞ。さっさと稽古つけて来い」


 蚩尤の指し示した先には、柔軟を終え、耿晨の指示を待っている邑人たちがいた。


「……。どう考えても、蚩尤の育て方が悪かったんだ」

「そうだな、反省している」

「するな、余計に腹立たしいぞ」


 にやにや笑う蚩尤の腹に拳を入れてから、耿晨は中庭へ足を向けた。


「二人一組になり、八武から始める」


 よく通る声で指示を出すと、押忍、という返事が戻ってきた。


 どこからか竈の煙が立ち上り、朝餉の香ばしい香りが仄かに漂い始める。

 月光がぼんやりと邑を照らし、蛙の鳴声が一日の始まりを告げる。


 今まででは考えられない穏やかな時間。

 平雍の朝の風景を、耿晨は日常だと感じ始めていた。


「仕事、か」


 それは耿晨が、生まれて初めて触れるものだった。

 仕事という響きは、何故か生を連想させた。

 

――――――――――――――――――――――


 耿晨には意外だったが、拓達は筋が良い。


 武道の対極にいそうな人物に思えたが、元来ののんびり屋の性格が、功を奏している。

 蚩尤に言わせると、力のある武人は、血の気が多い者よりも、どこか抜けているような人物のほうが圧倒的に多いのだそうだ。


 名を上げ、位を得るとそれが『どっしりとした威厳』と評されるだけのことらしい。


「痛てぇ」


 拓達が赤くなった手の平を見ながら、情けない声を出した。


「そりゃ、こんだけ打ち込めば痛くもなるさ。まめが潰れたんじゃないのか」


 耿晨の心配声に、拓達がはにやっと笑って、両の手の平を開いて見せた。


「農夫を舐めるなよ。手の皮の厚さじゃ、武人さんにゃ負けない」


 耿晨は、差し出された手をそっと取った。

 指で表面をなぞると、硬いガサガサとした感触が伝わってきた。

 手の平だけでなく指にまで、厚い皮の層が覆っている。

 刀に馴染んだ蚩尤の手とも違う。鍬を握ってきた、働き者の手だった。


「……農夫の手だね」

「ああ。戦う農夫さんだ。かっこ良いだろ」


 誇らしげに笑う拓達に、耿晨は眩しさを感じて目を細めた。


「ああ。かっこ良いな」


 耿晨の素直な賛辞に、拓達が照れたようにたじろいだ。


「もう少し強くならねぇと、話にならないがな。というわけで、もう一勝負頼む」


「駄目だ。拓達ばかり稽古をつけて、贔屓だって言われる」


 耿晨は言い捨てると、中庭の一角に佇む枯れ木に向かった。


 実の一つ、葉の一つもつけない、単なる黒い木肌のみの柿の木。


 奇妙に曲がった枝は、皆思い思いの形で四方に伸び、最終的には天に向いていた。

 全体を見ると、空を掴もうとする手の平のようにも見えるこの木の下で、耿晨は稽古の合間の短い休憩をとるようにしていた。


「耿晨はうちに住んでるんだ。ちょっとは贔屓してもらっても罰は当たらない」


 確かに、元々寝室が二つしかない拓達の家に、大人二人が転がり込んでいるのだ。

 居候としては肩身は狭い。


 耿晨としても、拓達との稽古は楽しい時間だった。

 相手をしてやりたいのは山々だ。

 だが、耿晨も身体が出来上がるまでは、決して蚩尤が無理をさせてくれなかった。

 武道とは、己の身体を武器に変えること。休養も修行の一環なのだ。


 どう言ったものか、とむき出しの枯れ木の根を足先で弄んでいると、拓達が少しだけ寂しそうに言った。


「でも、まあそれも今日までだがな」

「どう言う意味だ?」


 いぶかしむと、拓達は贈り物を取り出すような顔で言った。


「いつまでも俺の家じゃ寛げないだろ。

 みんなと相談して、家を用意した。

 まあ、ただの空き家だったんだ。あんまり期待するなよ。明日引越しだ」

「家……? だって戸籍が……」


 陶の行政は戸籍を基盤に成り立っている。


 給田も納税も、全てが戸籍を基準に整えられる。

 家の所持も、戸籍が無ければ行えない行為だった。


 耿晨は自分の戸籍がどこにあるかを知らない。

 だから一つの土地に根付く生活は、求めてはならない夢だと自覚していた。


「戸籍なんて調べる者がいなきゃ、なんの意味もねぇよ。これで耿晨たちは平雍の人間だ」


 耿晨は黙って右の肩を眺めた。


「食事は今まで通り、俺が面倒みるから心配するな。

 と、言っても作るのは楊祥だけどな。

 その代わり、自警団のほうは頼んだぞ。

 正式な書類に名前は書けないが、お前たちが実質的な責任者だか――」


「拓達」


 語りかけてくる拓達の声を、耿晨は遮った。

 瞼を上げ、数歩先に佇む拓達を見上げる。


「ありがとう。本当に嬉しい。

 この気持ちを伝えるのに、言葉じゃ足りないって思うほどだ」


 拓達は、照れたように頭を二、三度掻くと、竹刀で肩を叩いた。


「話は終わりだ。ほら、もう一勝負付き合え」

「それは駄目だ」


 やっぱり駄目か、と拓達が陽気に天を仰いだとき、楊祥の食事に誘う声が聞こえた。

晴れてこの邑の住民になりました。

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