紅蓮の章 一 湖詠と蚩尤と伝言と。
新章です。
玲凛サイド。
語り部は緋雲です。
目が覚めたら玲凛がいた。
僕のすべてはそこから始まっているんだ。
玲凛さえいれば、僕は何にもいらないよ。僕のすべては玲凛で出来てる。
本当だよ?
湖詠が言っていた『蚩尤』って人のことも、全然ピンとこないんだ。
湖詠は蚩尤のことを大量殺人者だって言ってた。陶で最も罪深い男だって。
その人に会えば、僕の記憶は戻るのかな?
記憶が戻ったら、玲凛とお別れしなくちゃいけないのかな。
それなら僕、記憶なんてなくってかまわないや。
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賑やかな喧騒を背に負って、緋雲は団子汁を口に頬張った。
玲凛には味付けが薄いのだろう。
修行僧のような顔で口に運ぶ紫紺の姿に、緋雲は目元を綻ばせた。
緋雲と玲凛のいる場所は寧北。
青州は長蘆県にある賑やかな邑だ。
銭来には遠く及ばないが、ここ寧北も商いの盛んな邑だった。
寧北の邑正は、能吏という話は聞こえてこないが、悪い評判もない。
一言で言えば影の薄い人物で、その影響で寧北は、無法地帯の数歩手前といったところに腰を下ろしている邑だった。
希薄な圧力は、面倒や窮屈を嫌う旅人に好まれ、墨節においても自然と人が集まっていた。
邑人の表情も、どこか明るくガラが悪い。
ここは情報収集にはうってつけだ、と玲凛は嬉々として、先ほどから周囲を観察している。
玲凛が言うには、寧北のような宿場邑の食堂は、旅人の情報交換の場なのだそうだ。
言われて周囲の雑踏に耳を傾けていると、確かにと頷いてしまう。
崇山の武僧たちが、周囲の邑の妖獣対策に乗り出した、とか。
宣州牧が亡くなられた、とか。
青州の街道に夷が現れた、とか。
雑多な情報が噂話の形で飛び交っていた。
だが残念ながら、今のところは緋雲の素性につながるような情報は聞こえてこない。
蚩尤の情報もないようだった。
緋雲は聞き耳を立てるの放棄して、団子汁に集中することにした。
玲凛のお気には召さなかったようだが、この団子汁はなかなか美味しい。
いきなり放り出された旅。
初は不安に感じもしたが、世の中は美味しいものや面白いもので溢れていた。
とにかく見るもの全てが新鮮に映るのだ。
登葆山を出てからこっち、興味深いものばかりで、左右に首を動かすだけで忙しい。
玲凛を質問攻めにしてしまっているのは心苦しくもあるが、とにかく珍しくて仕方なかった。
行きかう人々。
通り過ぎる景色。
矢継ぎ早の質問に、呆れながらも丁寧に答えてくれる玲凛。
―――――――――緋雲は純粋に旅を楽しんでいた。
団子汁の器に口をつけたまま、ふと顔を上げると、まじまじと見つめてくる玲凛の目があった。
何か探るような視線に思えて、緋雲は手を止めた。
「僕の顔に何か付いてる?」
「付いてるわよ」
玲凛の人差し指が伸びてきて、緋雲の頬に付いていた汁をすくった。
緋雲は慌ててぱたぱたと両手で口周りをぬぐった。
「まるでご馳走を前にした子供みたいなんだから」
姉のような口調で片肘を付く。
その玲凛の表情が、きゅっと引き締まったかと思うと、いつもより少しだけ低い声がかけられた。
「出発前に湖詠に呼び止められていたでしょ。あの時何を言われたの」
「あの時?」
緋雲は一瞬視線を泳がせた後、思い至ってぽんと手を打った。
蚩尤のことを聞かされたときだ。
「ええとね」
口を開きかけると、玲凛が軽く身を乗り出した。
「ある人に伝言を頼まれたんだ」
「ある人? だって緋雲は知り合いなんていないでしょ。
湖詠の知り合い?」
「いや、どうだろう。
湖詠も知り合いって感じじゃなかったな」
歯切れの悪い緋雲の説明に、玲凛はあからさまに不審そうな顔を作った。
「なによそれ。まったく意味が分からないんだけど。
……まあ、湖詠なら意味のないことはさせないでしょうけど。
で、どこの邑の人なの。
他に行くあてもないんだし、まずはその人を訪ねましょう」
「……分からない」
「はあ?」
緋雲は決まり悪げに蟀谷を掻いて視線をそらせた。
「どこにいるか湖詠も知らない感じだった。
もし会えたら伝えてくれって言われただけだから、あんまり気にしなくて良いと思う」
どこか言い訳めいた口調で、ごにょごにょと説明する。
玲凛がぱちりと小気味良い音を立てて、箸を置いた。
直後、玲凛の両手が緋雲の顔に伸びてきた。
両の手の平で頬を挟まれ、無理やり顔を上げさせられる。
観念して顔を上げると、不敵に微笑む紫紺の瞳があった。
「緋雲」
「……はい」
「伝言って何?」
「……忘れちゃった」
返事をしながらも、冷や汗が出てきた。
この世には怖い種類の笑顔もあるのだと、緋雲は初めて知った。
「緋雲」
「……はい」
「正直におっしゃい。何を隠しているの」
玲凛、それは恫喝だよ。と心の中で涙を流す。
(でも、負けるもんか)
緋雲は持てる勇気を振り絞って、犬のように頭を振ると、玲凛の手から逃れた。
「内緒。男同士の話だもん」
「何よそれ。いやらしい」
鼻息を荒くした玲凛に緋雲は慌てて両の手を振って見せた。
「本当に大した話じゃないんだよ。それより玲凛、団子汁美味しいね」
無理やりに、話題を変えようと試みる。
緋雲の必死さが伝わったのか、玲凛の肩から力が抜けたように見えた。
「……あのね。そんな手に引っかかるほど単純じゃないし、引っかかってあげるほど、優しくもないのよ、私」
「玲凛は優しいよ」
気負いなく、口をついて出た本音に、玲凛の肩があからさまに下がった。
痛みをとるように眉間を抑える。
「あのね……。そんな台詞言われたら、これ以上追求できないじゃない」
これを計算じゃなく、素でやってるから余計、性質が悪いのよ、と口の中で呟く音が聞こえた。
悪態をつきながらも、頬を染めている姿がなんとも可愛らしい。
そう口にしたら、また怒られてしまいそうだったので、緋雲は沈黙を守った。
「まあいいわ。さっさと食べ終わりなさい。
今日の宿を探さなくちゃいけないんだから」
玲凛が疲れた表情で、湯呑みに茶を注いでくれた。
どうやら湖詠は蚩尤を知っているみたいです。




