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紫紺の章 七 神様さようなら。私たち逃亡します。

逃げてきました。

 北に一つ、決して動かない星がある。


 ――――――北鱗ほくりんと呼ばれる恒常の輝き。


 馬の足許すら闇に溶け込むような暗闇の中、玲凛はたった一つの星の煌きを頼りに、進んだ。


 登葆山の洞穴に着いた時には、まだ姿を見せない月が、稜線を仄かに浮かび上がらせていた。


 洞穴にはもう橙色の灯が灯っており、二人の姿は無かった。


 一層乱雑に床に散らばる書物。

 榻の上に置き去りにされた蒲団。


 前回ここで過ごしてから、まだ幾日しか経っていないのに、何故かとても懐かしく感じた。


 玲凛は長椅子で膝を抱えて二人を待った。

 うとうとし始めたとき、両手に黄色い花を抱きかかえて二人が戻って来た。


 なかなか人の手で花を開かせることができないと、湖詠がずっと研究を重ねていた植物だった。


「咲いたの?」

「ああ、咲き過ぎだ」


 湖詠はやっと咲いたにしては浮かない顔をしていた。


「玲凛! おはよう。早く来れたんだね」


 蜜柑色の明るい笑顔で迎えられ、玲凛は複雑な顔になる。

 蒲団から出て、湖詠から花を受け取る。


「花瓶に活けるわね」

「……変な顔をしてるな。何があった」

「……取り合えず、お茶を淹れてくる。話はその後にさせて」


――――――――――――――――――


 玲凛の説明に対する湖詠の反応は、予想と違うものだった。


「妙だな。何故、天杖てんじゃくを使わんのだ」


「天杖? 宝重の?」


 と緋雲。


 玲凛の用意した朝餉を口に運びながら、これ美味しいね、と笑う。

 緊張感の欠片もない二人に、知らず張り詰めていた気が緩んでいく。


「ああ。天杖は妖力甚大な妖獣を、王の霊力で封じた物だ。

 故に王以外の者には使えない。

 陶の天杖は、扇だ。王以外開くことが出来ない」


「でも天禊てんけつを受けるまでは只人と同じでしょ。王じゃない」


 聖紋―――天通紋を抱く人間は、天勅を授かる儀式を受ける。

 只人だった人間が、儀式を通して神となり、天に太陽が昇る。

 その儀式は天禊てんけつと呼ばれる。


「天杖には受天紋が刻まれている。

 妖獣を封じる為の紋だな。

 これは天通紋に対応している。

 天通紋が陽印、受天紋が陰印。

 玉座に就く前でも、天通紋が出ていれば天杖は呼応する。

 尤も天杖の力を引き出すのは、天禊後しかできないがな」


「天杖の力? って何」

「妖獣を使役する。魔以導和まにどうわだな」

「王自身の霊力で妖獣を操ってるんじゃないの?」


「違うな。あれは天杖の力だ。

 ただ天杖は王の呼び掛けにしか応えない故、王の力と言っても過言ではない」


 それまで黙って聞いていた緋雲が、小首を傾げて訊いて来た。


「王を探すためには、わざわざ裸にしなくても、天杖を開かせれば良いってこと?」


 湖詠が満足げに頷く。


「普通ならそうする」


「でも宝重を軽々しく外に持ち出すのは危険じゃない?

 それに天杖は一つしかないんだから、陶の民全員には対応できないわよ」


「受天紋のみを多くの器に分散させる呪がある。

 そもそも、仮にも王かもしれない者に向かって、全裸になれと言うほうが不遜に過ぎるだろう」


「湖詠に不遜なんて概念があるとは驚きだわ」


「世の官吏ならばそう考えるという話だ。

 無理やり剥いた相手に聖紋があってみろ。その場で斬首だ」


 確かにそうだ。


 湖詠は手を顎にあて、考え込んでいたが、やがて緋雲に視線を投げた。

 緋雲が不思議そうに瞳で問い返していた。


「そんな事よりも」


 と玲凛は指を立てて、二人の注意をひきつけた。


「落ち着くまで私ここに厄介になるからね」


 湖詠が顔をしかめる。


「何故?」

「聞いてなかったの?

 私の話の主題は、王の見分け方でも天杖の由来でもなくて、私がお尋ね者になったってことよ。

 ここなら安全でしょ」


「安全なものか」


 湖詠が呆れた声を上げる。


「いいか。仰命拝紋が江州に及べば、一番最初に官吏が訪れるのはここだ」

「なんでよ」

「この辺りで一番王の器量を持っているのが私だからだ」

「あのね……」


 悪びれもせずに、しれっと口にする湖詠をねめるける。

 湖詠はそんな玲凛の視線を気にも留めない態で続けた。


「これは自惚れではなく事実だ。

 歴史を振り返っても、王は空尸から立つ場合が多い。

 実際、もう何度も王宮から使者が来ているしな」


「そうなの……」


 初めて耳にする話に、玲凛は改めて湖詠を見つめた。

 忘れてしまいがちだが、湖詠はこの国で両手で数える程しかいない空尸の一人なのだ。


「というわけだから、お前たち、出て行け」


「はぁ?」

「僕も?」


 驚声は二つ。


 大きな椅子の音を立てて、湖詠につめるようように立ち上がった。

 そんな二人を鬱陶しそうに見上げた湖詠は、当然、と言わんばかりに頷いた。


「緋雲は記憶を戻す為には、そろそろ外に出る頃合だ。

 各地を巡りながら、記憶の断片を探すのがよかろう。

 玲凛は身から出た錆だ。

 どうせ放浪の身になるのなら、緋雲を手伝ってやれ」


「何よそれ。少しはどうにかしてやろうとか無いわけ?」

「旅に出ろって言われても、僕何のあてもないよ」


 二人分の抗議に、湖詠は盛大に顔を顰めた。


「騒がしい。

 緋雲。お前がいると研究の邪魔だ。

 玲凛どこぞに連れ出してくれ。

 あてがないと言うなら、まずは青州せいしゅうに抜ければよかろう。

 州を越えれば玲凛は安全だ」


 そこでふっと、湖詠の目が優しくなった。


「―――――――――二人でじっくりと国を見て回ればよい」


「湖詠……」


 湖詠が棚から螺鈿らでんの箱を取り出し、二人の前に置いた。


 中には皮袋と手紙。

 それに掌に収まるほどの大きさの木簡が二つ入っていた。


 木簡を手にとって目を見張った。


 それは関所や城門を越えるために必要な――――――過傅かはくだった。


 裏に引かれた紫の線は、どの関所も越えられる最高の過傅かはく紫傅しはくであることを意味した。


 紫傅しはくは二人分。

 玲凛と緋雲、二人の名が入っている。


 戸籍を持たない緋雲に取れるはずのない代物だ。


 戸惑う二人を他所に、湖詠は淡々と続けた。


紫傅しはく一つ金に換えれば一年は遊んで暮らせる。

 盗られぬよう、気を付けるのだな。

 どうしても困ることがあれば、官府に行ってその手紙を出せ。

 便宜を図ってくれるだろう」


 言い募る、淡々とした口調はいつもの湖詠のものでしかない。


 だが、軽く伏せられた瞼に、ゆるく組まれた指に、少し落ちた肩に、

 ―――――――――送り出す者特有の、寂しい優しさが滲んでいる気がした。


 湖詠は座ったまま、二人に静かな目を向けた。


 冴え冴えとした薄紫の瞳。

 でもその瞳が温かいのを玲凛は知っている。


因果を含めるように一つ頷くと、湖詠は静かに席を立った。


 立ち上がる動きで、絹糸のような白く長い髪が肩から滑り落ちる。

 それは音も無く降る四月の雨に似ていた。


「ゆっくり休んでから行け。

 私は森を見てくる」


 それだけ言い置くと、湖詠はゆっくりと席から離れた。


 いつもと同じように足音もさせず、檸檬に似た香りと衣擦れの音だけ残し、立ち去っていく。


湖詠が通り過ぎる瞬間が、やけに長く感じられた。


 いつだって、別れと言うのは唐突に訪れる。

 両親が死んだときもそうだった。


玲凛は弾かれたように顔を上げ、湖詠を追った。


岩屋を飛び出すと、青白く光る洞穴のさほど遠くない場所に、湖詠の背中が白く浮かんで見えた。


「―――――――――っ湖詠」


 ぶつかるように、その背にしがみ付いた。


 湖詠の背中に顔を埋め、腰から前に回した手に力を入れる。


 湖詠の背が、少し緊張したように硬く伸びた。

 押し付けた頬に温もりが染みて来る。


「―――――――――邪魔で動けないのだか」


 湖詠の抑揚のない声が降りてきた。


 そっけない言葉。

 だが、振り払おうとはしなかった。

 どこまでも湖詠らしい態度に、鼻の奥がつんと痛んだ。


「……っ行きたくないって、離れたくないって、駄々を捏ねちゃ駄目?」


「―――――――――七年前みたいにか?」


 くすりと、忍ぶように湖詠が笑ったのが背を通して伝わってきた。


 七年前、固河に行けと言う湖詠に縋りついた遠い記憶。


 あの頃は背伸びしても、湖詠の腰にやっと届く程度だった。

 今ではその背に顔を埋めている。


「駄目だな。お前の金切り声は聞き飽きた」


 玲凛が手の力を緩めると、湖詠がゆっくりと振り向いた。


「全てが落ち着いたら、ここに戻ってきても良い?」


 全てをなくした幼い日。

 もう一度、何もかもを与えてくれた不機嫌な神様。


 空から太陽が消えても、玲凛の先を照らす光は、いつも湖詠がくれた。


「好きにすればいい」


 不機嫌な神様は、最後に少しだけ幸せそうに微笑んだ。

湖詠との別れですね。

この章はこれで終わりです。

主人公がチェンジします。

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