紫紺の章 六 君に聖紋は出ているかな?
追われているところ、助けてもらいました。
「豪胆なお嬢さんだ」
客間に入ってきた玲凛を見るなり、男は面白そうに笑った。
玲凛は、さっと男を観察した。
旅装をしてはいるが、身に着けている物はどれも、上質なものばかりだった。
品の良い顔つきには、害意があるようには見えなかった。
「あの……。ありがとう。助かったわ」
青ざめた顔で、肩で息をする玲凛に、男は椅子を勧めた。
「この邑で貴祥に逆らう行為が何を意味するか、知ってて楯突いたみたいだね」
「言葉が止まらなかったの。頭に血が昇っちゃって」
「うん、そんな感じだった」
玲凛は盛大に溜息をついた。
「なんて事しちゃったんだろう」
「別に、君……ええと」
「玲凛よ」
「玲凛か、君にぴったりの名だね。
とにかく、玲凛の言ってた内容は間違ってなかったと思うけど」
にこにこと笑う男はどこか楽しんでいるように見える。
窓の外で、乱雑に途を踏み締める複数の足音が聞こえた。
身を硬くする玲凛の横で、男が外を軽く覗き、微笑みながら首を振った。
「大丈夫、前を通っただけだ」
ほっと肩の力を抜く。
男はところで、と何事も無かったような明るい口調で、玲凛の足元に蹲る阿雪をさした。
「変わった友達を持ってるみたいだね」
「ああ……。阿雪っていうの。
小さな頃から一緒に育った、そう、友達ね」
「天狗だね」
玲凛は少し驚いて、隣の男を仰ぎ見た。
「よく知ってるわね。あまり人前に出ない妖獣なのに」
「何度か見たことがあるだけだよ」
暢気に微笑む。
天狗は普段山の中でひっそり暮らしている。
人を襲わないため、他の妖獣に比べて人目に触れる機会も少なく、認知度も低い。
玲凛は、初めて目の前の男に興味を持った。
肩下で一つに纏めた琥珀色の髪。
年齢は二十歳を少し超えた辺りか。
街で面白おかしく暮らしている豪商の莫迦息子、という印象で、山に分け入って狩をするような人物には見えない。
「お名前、聞いて良い?」
「松侶」
「松侶はどうして助けてくれたの?」
「気が向いただけ。恩に感じる必要も、警戒する必要もないよ」
そう言って、人好きの良い笑顔を見せる松侶に、玲凛は溜息をついた。
「なんか松侶って、得体が知れない人」
松侶は声を上げて笑った。
「よく言われるんだ。何でだろうね。
それより、玲凛は行く当てはあるの?」
「そうね……。どうしよう。
取り合えず一度、旦那様のところに戻らなくちゃ」
脳裏に公洽の穏やかな笑顔が浮かんだ。
途端に、胸の中に恐怖を伴う不安が広がった。
今回のことで、旦那様や固河の人たちに悪い影響があるかもしれない。
その可能性を完全に失念していた自分の身勝手さに唇を噛む。
(素直に身代わりになるべきだったのだのかしら……?)
悔しさと情けなさで手が震えた。
松侶は玲凛の心中を見透かしたように、優しく微笑んだ。
「送っていこう。
阿雪は目立つから、行李に入れて、玲凛は着替えたほうがいいな。
着替えがないか宿人に聞いてみよう。
ちょっと待っててごらん」
松侶の細かな気配りに、心からの礼を述べた。
玲凛の謝意に松侶は、うん、と頷くと、少しだけ真面目な顔をした。
その含みを持った目に、少しドキリさせられた。
「その代り、と思って貰ってもいいけど、一つ質問してもいいかな」
言い回しに身構え、どうぞ、と薦める。
「――――――――君に聖紋は出てるかな?」
意表を突く問いに、呆気に取られた。
ぽかんとして見詰めた松侶は、真意を測りかねる、表情のない笑いを浮かべている。
「出てたら、貴祥なんてその場で不敬罪にしてるわよ。
どうしてそんなこと訊くの」
「――どうせなら、君のような人が王だったら良いのに、と思っただけだよ」
――――――――――――――――――――――
玲凛の起こした騒ぎで、浮き足立つ街中を抜け、公洽の逗留している宿舎に辿り着いた。
客間に入ると、公洽の耳にはまだ騒ぎが伝わっていないようで、いつも通り、おっとりとお茶を啜っていた。
「やあ、おかえり玲凛。
なんだか外が騒がしいみたいだね」
常と変わらないふくよかな笑顔を見た瞬間、玲凛は公洽に駆け寄り、倒れこむように叩頭した。
額を床に押し付けながら、訴えるように叫んだ。
「申し訳ありません! 騒ぎを起こしてしまいました。
旦那様にも害が及ぶかもしれません」
公洽はぽかんとした顔をした後、慌てて榻から立ち上がり、玲凛を支え起こそうとした。
「どうしたんだい。
そんな真似しなくていい。立ちなさい」
玲凛はそれを固辞し、頭を下げ続けた。
「落ち着きなさい。
とにかく分かるように説明してごらん。そちらの方は?」
客室の戸に背中を預けている松侶に目を向ける。
「お嬢さんが此処に戻るのを手伝っただけです。
――――――追われていたので」
松侶が事の顛末を説明した。
松侶の話に公洽は真剣に耳を傾けていた。
説明が終わると一つ長い、長い溜息をつき、目頭を揉んだ。
「申し訳ありません」
玲凛は重ねて頭を下げる。
「玲凛」
硬い静かな公洽の呼びかけに、玲凛がやっと頭を上げた。
「はい」
「銭来を出て、湖詠様の元に行きなさい。
閉門ギリギリに街を飛び出し、黒夜に紛れて逃げるのです。
敢えて黒夜を抜ければ、追手も来ないはずです。
阿雪がいれば平気ですね?
その後は湖詠様の指示に従えばよい」
「旦那様、でも私を逃がせば旦那様や固河の皆も……」
「それは大丈夫でしょう」
公洽が柔らかく否定した。
「罪状がありませんし、向こうも痛い腹を探られたくは無いでしょう。
郷を越えてまで追求してくることはありませんよ」
そんな筈はない。
少なくとも、銭来郷での商売は出来なくなる筈だ。
「これを持って行きなさい」
公洽が玲凛の手に皮袋を握らせた。
ずっしりと重い。
中が何かは、見なくても分かった。
「安全が分かるまで、決して固河に戻ってはいけませんよ」
「いけません。こんな大金受け取れません」
首を振る玲凛に、あげるのではありません、と公洽が微笑んだ。
「それは給金です」
「下女に給金は必要ありません」
「今の固河があるのは、玲凛のお陰です。
阿雪と湖詠様という得がたいものを固河に齎してくれた。
これでも足りないくらいです」
「それは、……私の功績ではありません」
不甲斐なさに手が震える。
「いいえ、貴方の功績ですよ。
玲凛の才覚なら、本当は国官でも目指せる。
なのに固河に縛り付けてしまった。
早く旅立たせてあげたかったのに、墨節が明けるまでは、とつい勝手に甘えてしまっていたね」
「旦那様……」
公洽は丸い掌をそっと玲凛のそれにあわせた。
「もともと玲凛が自分の道を見つけたときの為に、家内とお金を用意していたんだ。
ちょっと渡すのが早くなってしまったけどね。
―――――娘が巣立つというのはこんな感じなんでしょうかね」
眩暈がした。
自分は、固河の為に何もして来なかった。
公洽や奥方の親切も、全ては下心の上にあるものだと決め付けていた。
遠くで閉門を知らせる銅鑼がなった。
公洽に背中を押され、松侶に手を引かれ、玲凛は馬の背に身体を押し付けるようにして黒夜を駆けた。
とりあえず、湖詠のとろこへ逃げます。




