紫紺の章 五 だって裸になりたくないですから!
阿雪は幼獣を退けます。
江州、清陽県の中ほど。
周囲のどの邑よりも大きな邑がある。
銭来郷の郷都、銭来。
交通の要所として栄えた銭来は、その名の示す通り商業の街として栄えた。
墨節とは思えないほどの喧騒の中、玲凛は銭来の街を歩いていた。
足元には阿雪が寄り添っている。
阿雪は幼獣と分からないように、一応風除けのような布を被せておいた。
公洽に託された書類を郷府に届ければ、今日の仕事は終わりだった。
ところが、郷府の前に長い人の列ができていた。
人の群れの周りを武官――尉士が囲んでいる。
皆俯き、暗い顔をしている。
郷府から出てくる人はさらに酷い。
憔悴しきった顔、怒りに赤くなっている人、嗚咽を漏らす人もいる。
「あの」
道を歩く人の良さそうな親子連れを呼び止める。
「あの人の列は何?
郷府で何があってるんですか?」
「旅の人か。
官府に用があるのかい」
「ええ。旦那様のお使いで書類を提出に行くの」
「止めといたほうが良い」
と思い切り顔を顰め、汚らしいものを見る目つきで郷府を指した。
「県尉が取り囲んでる」
「県尉? 郷尉じゃなくて」
「ああ。県軍の主導で仰命拝紋が行われてる。
旅の人なら関係ないはずだが、とばっちりを受けかねないぞ」
「仰命拝紋?」
耳慣れない言葉に、玲凛は首を傾げた。
「王を探してるんだよ」
「王を? いったいどうやって?」
「めちゃくちゃな話さ。
丸裸にして聖紋が出ていないか調べているんだよ」
「は?」
冗談のような話に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「……まさかとは思うけど、それって女性も対象なの?」
「老若男女、銭来の人間全てが対象だ」
「そんな莫迦な……」
―――――――――――――――
玲凛はしばらくの間、郷府に入るかどうか決めかね、列の見える辺りでうろうろしていた。
不意に後ろから声がかけられた。
「見かけない顔ね。旅の方かしら」
声の主は、女の玲凛でも言葉を失ってしまう程の美しい女性だった。
絹で拵えられた上着に、大きな玉の簪。
何人もの下女を侍らせた女性。
女王、と言っても過言ではない高貴な雰囲気が、気の強そうな瞳に良く似合っていた。
「あ、はい。似たようなものです」
及び腰で答えると、なぜか女は嬉しそうにした。
「そう、何処からいらしたの?」
「えっと……」
玲凛は女の真意を測りかね、上目遣いに見た。
「あら、ごめんなさい。私は貴祥。
ここの郷丞、英卓の娘です」
貴祥の噂は耳にしたことがあった。
銭来の英玉と謳われる美姫だと聞いた。
まさに明眸白歯。
噂は誇張ではなかったんだ、と目の前の美女を見上げて思う。
「今、郷府で何が行われているか知っていますか」
「仰命拝紋ですね。まさか、貴祥様も?」
「そのまさか、なのです。
戸籍と付け合せるので、逃げ出すことも適いません」
「そんな……」
こんな美しい人が、大勢の官吏の前で裸にさせられるなんて。
そのわりに、至って冷静に見える貴祥を不思議に思う。
「戸籍と言っても、顔は判りませんね。
だから、銭来以外の人間が一人混じれば、私が行かなくても勘定は合うんですよ」
そういうことか、と玲凛は胸を押さえる。
玲凛が、この邑の人間でないと知って話しかけてきたのだ。
貴祥は淡々と続ける。
「私は、郷丞の娘です」
郷丞。郷長の補佐官。
この邑で二番目の権力者だ。
「いずれは銭来の為、どこかのお家に嫁ぐのが役目です。
その私が、こんなところで辱めを受けて、価値を下げるわけにはいきません。
判りますね」
玲凛は、黙って貴祥の冷たく見えるほどの美しい瞳を見返した。
「貴方が代わりに郷府へ行ってくれたと知れば、父も貴方に感謝するでしょう」
玲凛は生唾を飲んだ。
「貴祥様は美姫として有名なお方。
私などが参りましても、通用するはずがございません」
「郷丞の娘を追求できる者などいませんよ。
要は数さえ合えば良いのです」
笑い含みの貴祥の声に、玲凛の頬に朱が上った。
握った拳が震える。
「お断り申し上げます」
気が付けば、周囲に響き渡るほどの大声が出ていた。
事の成り行きを見守っていた邑人が、驚愕している姿が目の端に映った。
貴祥は微笑んだまま、片眉を上げた。
「断る?」
「はい」
「私が郷丞の娘と知って、なお断るか」
騒ぎを聞きつけ、郷尉が動き出す姿が、人垣の向こうに見えても、零れだした言葉は止まらなかった。
「先程貴祥様は、銭来のためと仰った。
けれど、郷丞は郷長が任命するもの。その郷長は県令が、県令は州牧が、州牧は王が、才と徳を見極め任命するものです。
世襲でも家柄でもありません。
貴祥様の嫁ぎ先など銭来にとって、関係ない筈です」
貴祥の顔から血の気が引いていく。
「……貴方も、少し世を知れば分かります。
政の世界は、決して明文通りには進まないのです」
「ならばそれこそが違法。
間違った理を盾に取られても、納得しようもございません。
本当に銭来の為とお思いなら、身代わりを立て、ご自分一人助かろうとせず、異議ありと声を上げられるべきでしょう。
貴祥様が仰っていることは、私事にしか聞こえません」
「青臭い理屈を申すな」
貴祥が手を振り上げた。
頬を打つ乾いた音が、辺りに広がった。
「何事ですか、貴祥様」
人の壁を越えて、郷尉が貴祥に駆け寄った。
「捕らえよ。不敬罪です」
「不敬罪! それは卿以上に対してしか適用されない罪よ。
あなたなんて、父親が居なければただの小娘じゃない」
郷尉と、貴祥を取り巻いていた護衛が一斉に刀を構えた。
玲凛は二三歩後ずさると、踵を返して一気に駆けた。
追いかけてきた郷尉の顔に、阿雪が飛び掛った。
「妖獣!」
人垣が叫び声を上げながら、崩れた。
その波に、郷尉の追う手が遮られる。
とにかく大通りは目立つ。
玲凛は細い小道を曲がり、民家を囲む土壁を縫うように走った。
何度目かの角を曲がったところで阿雪が追い付いた。
くず折れるのを支えるように土壁に手を突く。
上がった息を整えようとするが、心臓が煩くて、肺が破けそうだ。
「どっちだ」
近くで聞こえた郷尉の声に、弾かれるように立ち上がると、また走り出す。
そのとき、不意に頭上から声が聞こえた。
「お嬢さん」
声のしたほうを振り仰ぐと、二階の窓に知らない男が腰掛けていた。
「上がっておいで。匿ってあげるよ」
お茶にでも誘うような口調とともに、明るい笑顔で手招きした。
見ると、そこは小さな宿舎のようだった。
裏通りに入った場所にある宿にしては、高級そうな作りだった。
鎧の揺れる音が近づいてきた。
迷っている暇は無かった。
玲凛は意を決して宿の入り口を潜った。
売られた喧嘩を買ってみました。




