紫紺の章 四 退魔の妖獣、阿雪を怒らせると、怖いですよ。
玲凛の昔話を聞きました。
――――――五年前
火事を告げる鐘がけたたましく鳴り響いている。
「玲凛がいたぞ」
燃え盛る倉庫から玲凛を抱いて男が出てきた。
「ひどい火傷だっ」
「早く医師を、あと湖詠様に鳶を飛ばしなさい」
瓢家の当主、公洽が指示を出す。
「阿雪は?」
「見当たりません」
「出火前は確かに倉庫の中にいたんだな」
「間違いありません」
公洽は玲凛に目を向ける。
意識はない。呼吸も苦しそうだ。気管をやられているかもしれない。
空尸湖詠様から預かった、大切な少女。
常にともにいる天狗の姿がないとなると、ただの火事とは考えにくかった。
「玲凛の手当てが先です。急げ」
現場にいるものに、消火の指示を出し、家宰に耳打ちする。
「情報を集めてくれ。阿雪が目当てかもしれん」
妖獣を退ける無害な天狗。
墨節の今、これ以上に貴重なものはない。
「……出火の直後に、旅の一団が邑を出たとの話が」
「なに? すぐに捜索隊を出しなさい」
「ですが、もう月は沈んでいます」
「っくそ、黒夜に門外に出るなど、それこそ天狗を持っている証拠ではないかっ」
黒夜に阿雪なしで捜索隊など出せるはずはない。
公洽は唇をかみしめた。
貴重な妖獣、天狗は、なすすべなく奪われてしまったのだ。
―――――――――――――
完全に月が上ったころ、死の淵を彷徨っていた玲凛は目を覚ました。
目の前には湖詠がいた。
「湖詠……」
「まだ動くな。火傷は直しておいた。三日もあれば普通の生活に戻れるだろう」
たったの一晩で、玲凛の火傷はほぼ治っていた。
腰にだけ、強い痛みが残っている。
「そこは深かったからな。痕が残るだろうが幸い、人目にも自分の目にも触れる場所ではない」
痛みは腰の背中側。身をよじっても見える場所ではなかった。
「それより湖詠。阿雪がっ」
「諦めろ」
「そんな、嫌よ。なんとかしてよ湖詠」
泣き叫ぶ玲凛を湖詠がなだめているところに、公洽が慌てて入っていた。
―――阿雪を抱きかかえて。
「阿雪っ」
涙を流しながら、再会を喜ぶ玲凛を横目に、湖詠が抑えた声で公洽に経緯を聞いた。
「先ほど一匹で戻ってきたのです。何事もなかったかのように、邑門から入ってきました」
湖詠が眉間に皺を作る。
「何か問題がありますか?」
「……念のため、捜索隊を出された方がいい。穢れが妖獣を呼ぶといかんからな」
「穢れ…ですか?」
腑に落ちない感じの公洽ではあったが、湖詠の進言に従い捜索隊が出された。
そして捜索隊が見つけたものは……
――――無惨に食い殺された、おびただしい数の賊の死体だった。
状況的に、賊を倒したのは阿雪だと思われた。
それまでは、人懐っこい大きな猫、くらいの認識でいた人々も、阿雪は妖獣で、けして馴れ合ってはいけない存在なのだと思い出した。
畏れを抱きつつも、邑の守り神として、大切に接した。
そして、この事件以降、玲凛に二つ名がついた。
陰でだけ囁くように呼ばれる名前。
――――――― 妖獣の子、と。
――――――――――――――――――――
玲凛はふっと目を覚ました。
「夢か……」
五年前の嫌な記憶は、今でもたまに夢に見る。
あの事件以降、自分が妖獣の子、と陰で呼ばれていることも知っている。
仕方がない、と思う。
それでも、普通に接してくれている固河の人々は、きっと良い人達なんだろう。
今も、黒夜の中、玲凛は門の外にいて開門を待っている。
阿雪がいなくては、できない芸当だ。
緋雲を話し込んでいて、遅くなってしまったのだ。
(公洽様、きっとすごく心配してるわね。
帰ったらすぐに、謝りにいかなくちゃ)
開門を告げる銅鑼をきいて、玲凛は立ち上がった。
――――――――――――――
固河は十の里から成る、比較的大きな邑だ。
官府のある中心地を城壁が囲い、城門から南に伸びるように、市街地とも言える中心街が広がっている。
市街地を囲むのが内隔。
さらに邑全体を背の高い煉瓦作りの外隔が囲う、三重の隔壁で守られた造りになっている。
陶では良く見かける邑の構造だ。
玲凛が仕える瓢家は、黒夜後、流通が壊滅状態に陥った中でも荷便を出し、江州の物流を細々ながら保ってきた。
その甲斐あって固河では、生活に必要な物は一通り入手できた。
餓える者も他の邑に比べ、格段に少ない。
いくつもの里が消えていく中、固河は何とか普通の生活が送れる状態を保っていた。
人々はそれを瓢徳の恵と讃えた。
玲凛は、開門と同時に邑に滑り込んだ。
公洽の部屋の扉をたたくと、柔らかい声が入室を促した。
臙脂色の長椅子に、ふくよかな体躯の公洽と奥方が座していた。
「ご心配をお掛けして、申し訳ありませんでした」
しおらしく拱手しながら頭を下げると、公洽は安堵の息をつきながら、丸い笑顔を作って玲凛を歓迎した。
「ああ玲凛、心配したんだよ。
いくら阿雪がいるからと言って、無茶をしてはいけないよ」
「はい、不注意でした。申し訳ございません」
更に頭を下げる玲凛に、細君が柔らかい声を掛ける。
「責めているのではありませんよ。
この人ったら、玲凛が可愛くて仕方ないんですよ」
「そんな……、身に余りますわ」
恐縮したように低い姿勢をとる玲凛に、公洽は細い目を更に細めて、何度も頷いた。
「とにかく、無事で良かった。
玲凛にもしものことがあったら、湖詠様に申し訳がたたないからね」
公洽のお決まりの台詞に、玲凛はさらに頭を下げた。
「駄目ですよあなた。そんな言い方、玲凛に失礼です。
ごめんなさいね、玲凛。
湖詠様のことは抜きにして、私たちはあなたを家族のように思っているんですよ。それを覚えていてね」
分かっております、と顔を上げて微笑んでみせる。
二人は安心したように、目元を緩めた。
「お尋ねだった植物の件、湖詠に聞いて参りました」
玲凛が湖詠の元を訪れるのには、公洽のお使いという側面もあった。
「その効能を持つ植物は、確かに存在するそうです」
そうかそうか、と公洽が安堵の息を漏らす。
「ですがそれは白夜の植物。現時点で纏まった量があるのは些か気になるとの事。湖詠の手元に、幾つか実が残っていたので、お持ち致しました。
先方の提示された植物とよく見比べた上で、ご判断を下されますよう、とのことでした」
奏上し終わると、玲凛は折り目正しく立ち上がり、小さな箱を差し出した。
「これと違っていれば、偽物ということだね。
ありがとう玲凛。お前のお陰でまた、安全な取引が出来そうだよ」
労う公洽の隣で、細君が優しく微笑む。
「玲凛、いつも固河の為に尽くしてくれて、本当に感謝していますよ」
「勿体無いお言葉です」
再び頭を下げながら、玲凛は内心で小さな溜息を漏らした。
丁寧に退出を申し出た玲凛に、公洽は思い出したように付け加えた。
「そうそう、玲凛。戻って直ぐで悪いんだが、明日から一緒に銭来まで行ってくれないか。
商談は二日ほどだと思うから、おそらく六日程度の旅になるな」
商人には、商談や荷の運搬など旅が付き物だ。
だが墨節の時代、数多くの商隊が妖獣の襲撃にあって全滅した。
公洽が安全な商取引ができているのは、
―――ひとえに阿雪が商隊に同行するからに他ならない。
「承知いたしました」
短く了解すると、玲凛は拱手して居室を辞した。
(結局は皆が必要としているのは、
―――私じゃなくて阿雪と湖詠なんだよね)
阿雪はすごいんです。




