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第5話 昭和59年、冬

第2部

昭和59年(1984年)の冬。


埼玉の郊外にある、

『北洋機器』の開発棟。


その三階の一室だけが、

夜になっても、明るかった。


中村(なかむら)清九郎(せいくろう)は、二十六歳。

開発課で、最も手が速く、

最も几帳面だと言われる、

若手のプログラマーだった。


机の上の画面には、

びっしりと、

細かな命令の列が

並んでいる。


その一行一行が、

リールを回し、

メダルを吸い込み、

当たりの部屋へと、

機械を導いていく。


16の部屋を巡る仕掛け。

入れた枚数と、

出した枚数を数えて、

今どの部屋にいるかを決める。


『エルドラド』と

名づけられた機械の、

心臓部だった。


中村の書く命令は、

並びが整っている。


変数の名前も、

注釈も、

一行ずつ揃えて書く。


誰が見ても、

彼の手だと分かる、

と先輩たちは言った。


「中村、調子はどうだ?」


開発課長の堂本が、

書類を片手に、

背後に立った。


「検査への持ち込みまで、

 あと3日です」


「分かっている。

 聞いているのは、

 仕上がりだ」


「あと一か所です。

 営業から来た、

 最後の変更を入れるだけです」


堂本は、

顔をしかめた。


「連チャンの、あれか?」


「はい。

 出玉を、

 もう一段、

 派手にしたいと」


そこへ、

営業の田島が、

缶コーヒーの袋を提げて、

顔を出した。


「悪いな、中村くん。夜中に」


「いえ」


「ホールの展示会が、

 年明けでね。

 発売の時期は、

 もう動かせないんだ」


田島は、手を合わせた。


「納期の延長は、

 専務に

 稟議(りんぎ)を出したんだが。

 却下された」


誰も、何も言わなかった。


堂本が、

小さく咳払いをした。


その肩にも、

上からの圧が、

のしかかっている。


展示会に

間に合わなければ、

課の予算が削られる。


「やるしかない。

 中村、頼むぞ」


変更は、

小さなものに見えた。


プラムを

取りこぼしたときに、

数える仕掛けから

引く数を、書き換える。


ほんの、一行。


中村は、

その一行を書き、

保存した。


その数は、

ほんの一つだけ、

ずれていた。


中村は、

まだ、それを知らない。


「古谷さん、

 見てもらえませんか?」


隣の机で、

帰り支度をしていた

先輩の技術者に、

声をかけた。


古谷は、四十代。


妻と、子供が二人いる。


時計は、とうに

十一時を回っていた。


「今からか?」


「一行だけです。

 取りこぼしの処理を」


古谷は、

一瞬、迷い、

首を横に振った。


「悪い。

 明日の朝、一番に見る。

 娘の熱が、

 まだ下がらないんだ。

 今夜は、……」


「……分かりました」


中村は、

画面に向き直った。


検査用の試験は、

決まった手順に

沿って進んだ。


入れる。


回す。


止める。


揃える。


払い出しを、確かめる。


どの試験も、合格だった。


ただ、

取りこぼしの場面だけは、

手順書に、

載(の)っていなかった。


中村は、

そのことに気づいていた。


「課長。

 取りこぼしの処理だけ、

 もう一晩、

 確かめさせてください」


「手順書に、あるのか?」


「ありません。

 ただ、念のため」


堂本は、腕時計を見た。


「検査に出す項目では、

 ない。

 持ち込みのあとで、

 ゆっくり見ろ」


「……はい」


「今は、

 間に合わせることが、

 最優先だ」


中村は、

付箋(ふせん)に一行だけ書き、

画面の縁(ふち)に貼(は)った。


〈取りこぼし時の

 計数、要再確認〉


深夜二時。


一人きりになった開発室で、

中村は、

もう一度、

画面の一行を見つめた。


おかしくは、見えない。


自分の書いた命令が、

整然と並んでいる。


几帳面に、

書いたはずだった。


眠気が、

視界の端を霞(かす)ませた。


「……あとで、見る」


誰にともなく呟(つぶや)いて、

中村は、

付箋を画面の縁から剥がし、

ポケットに入れた。

そして、電灯を消した。


3日後。


保通協の検査室の前で、

堂本と中村と田島は、

長椅子に並んで座っていた。


扉が開き、検査員が告げた。


「適合です」


田島が、拳を握った。


堂本が、深く息を吐いた。


中村は、うなずいた。


安堵(あんど)と、疲労が、

一度にやってきた。


そして、

ポケットの中の付箋を、

指先で確かめた。


検査のあとで、

ゆっくり見る。


課長は、そう言った。


だが、

その約束は、

翌週から、

誰にも果たされなくなった。


『エルドラド』は、

発売の前から、

ホールの間で噂(うわさ)になった。


出玉の派手さと、

連チャンの手応え。


注文が、殺到した。


田島は、

毎日、電話に追われた。


開発室は、

次の機種の準備に、

とりかかった。


中村の付箋は、

机の引き出しの奥に、

しまわれた。


一行の「あとで」は、

忙しさの中で、

静かに、

忘れられていった。


中村清九郎。

のちに、

完璧と呼ばれる設計で、

名を残す男である。


その始まりに、

一枚の付箋があったことを、

知る者は、少ない。

明朝 8:10 に投稿します。

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