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【リア編・前】自分語りの神官と、拳を握りしめていた騎士

神官見習いリア、18歳。母方にルーベンス家の血。

本作なりの全力恋愛要素はこのエピソードにあります。

神殿大広間。

午後の光がステンドグラスを抜け、床に極彩色の四角を散らしている。

赤、青、金。踏めば色が靴に移りそうなほど鮮やかな光のパッチワークだ。


白檀の煙が、天井に向かって細い柱を立てている。

空気が甘い。甘すぎる。

長くいれば、舌の裏が痺れてくる。


壁際の長椅子には、20人ほどの信者が列を作っていた。

誰もが、神にすがるための「悩み」を抱えてここに来ている。


その視線の先、壇上にヨハネスが立っていた。


27歳。若い主任神官。細身。栗色の長い髪が法衣の襟にかかっている。手入れされた髪だ。毎朝30分かけている。リアは知っている。洗面所の使用時間が見習いの中で最も長いのがヨハネスだから。


柔らかい声。柔らかい微笑み。

壇上に立つと、背後のステンドグラスの光がちょうど頭の周りに当たる。


「光の輪(セルフ後光)」。計算されている。リアは、彼が数センチ単位で自分の「後光」を調整したのを初日に目撃していた。もはや霊視ではなく、照明技術の領域である。


壇の端。

リアは18歳の神官見習いとして、静かに座っていた。

膝の上にはノートとペン。

羊皮紙の右隅には、ヨハネスの無能さをデータ化するための小さな余白を確保してある。


若くして主任に上り詰めるには、いかに自分が神に近いかを演出し、迷える羊に「格の違い」を見せつけねばならない。

それが、今の神殿が教えるエリート教育の正解だった。


リアもまた、その「選民意識」を植え付けられる日々の真っ只中にいる。

隣で微笑むヨハネスと同じ、導き手の卵として。


今日も、神聖という名のマウント合戦が始まる。



最初の相談者。商人の妻。40代。

両手を膝の上で握っている。指が白い。緊張している。


「あの、夫との関係がぎくしゃくしてきて――」


「分かるよ」


2文目を待たなかった。

ヨハネスの声が、相談者の声を柔らかく上書きした。

小さいのに、部屋の空気を物理的に遮断する種類の、強制的な声。


「仕事が忙しいんだろう? うちの信者にも多いんだ、そういう夫が」


商人の妻が口を開きかけた。


「いえ、忙しいというより、浮――」


「分かるよ。“心が離れている”んだよ。苦しいね」


ヨハネスが目を閉じた。お得意の「霊視のポーズ」。

右手の指先を、劇的な啓示に震えるふりをして額に添え、大きく開いた左のてのひらを、信者たちの熱狂を片手で制するように突き出す。


天からの声を独占しているかのような、この仰々しい様式美(ポージング)、本日の1回目。リアのペンが小さく跳ねる。


「肉体の浮気より心の浮気の方がね。……修行時代の遠い記憶だが、私もまだ、君たちと同じ地を這う存在だった頃には、同じような“気づき”を得たことがあってね――」


(3年前、洗礼式の池に足を滑らせて落ちただけの自分を「地を這う苦悩」と呼ぶのは、言葉のインフレが過ぎます、ヨハネス様)


商人の妻は最後まで「浮気」と言えなかった。「浮」の一文字で強制終了。

ヨハネスが勝手にテーマを決め、勝手に自分語りのオチまで持っていき、「あなたは大丈夫。私の祈りが守りますから」で締めた。


何も話せていないのに、教義上は「救われた」ことにされていた。



その後も相談は続き、午後の終わり際、最後の一人が壇に上がった。


大広間の空気が変わった。信者たちが少しだけ身を引いた。


ガイアス。


黒髪。氷のような青い目。王宮騎士団の正装甲冑。

「氷の処刑人」の異名を持つ25歳。部下に対して正論しか言わない、間違いを許さない。

圧倒的な存在感と、もはや暴力に近い美貌。


だがリアには見えた。

完璧な姿勢の裏で、目の下に薄いクマがある。眠れていない。


「……部下との接し方を、相談したいのだが」


低い声。必要な言葉しか使わない声。


「ガイアス卿!」


ヨハネスが両手を広げた。

「あなたの背後に見えるのは……凄まじい業だ!」


「部下が私を怖がって――」


「分かるよ、分かる」


ガイアスの話を1文で奪った。「分かるよ」の二連撃。

1回も分かっていないときの癖だ。


「今の君と同じくらいの年齢だった私なら、同じ過ちを犯していただろうね」


着地成功。「昔の僕」へ。

ヨハネスが20歳のときに洞窟で魔獣を倒した話。今月4回目だ。

牛から馬へ、毎回巨大化していく魔獣のサイズを聞かされ、ガイアスは石像のように沈黙していた。


だがリアには見えた。

手袋の中で、拳が握り込まれている。革が関節で白く浮いている。

沈黙の悲鳴だった。


リアは彼の手元の震えを注視しながら、相談者の声を封殺し続ける主任神官の発言時間を、感覚だけで記録していく。


「……でね、そのときの僕の選択が正しかったからこそ、今の僕がいるわけだ。君も分かるだろう?」


結局、最後まであなたの話だ。

ガイアスは部下のことを話したかったのに、主任神官の武勇伝を長々と聞かされて帰らされる。


「私とあなたは特別に響き合うものがある。もっと説教を聞きに来てください」


ガイアスが壇を降りた。

背筋は完璧なまま、歩幅だけが広い。早く出たいのだ。


ガイアスが帰った後、ヨハネスが隣の若い女性信者に身を寄せて、小声で言った。

「今の騎士、僕のことをすごく信頼しているのが分かったね。目がそう言っていた」


(あの目は信頼ではなく殺意でした、ヨハネス様。剣を抜かなかっただけ騎士としての矜持が保たれています)


リアはノートを開いた。

今日だけで、ヨハネスの自分語りは大半の時間を占めていた。

ここ1ヶ月でも、相談時間の4割が「昔の僕」の話で埋まっている。


その砂嵐のような言葉の中で、信者が言いかけて塗り潰された「言葉の破片」を、リアは余白に拾い集めてきた。今月だけで12件。


「隣領の騎士団が妙に集まっている」

「町の寄付金が、帳簿と合わない」


どれも、ヨハネスの「分かるよ」の砂に埋もれた。

リアはその砂を数えて、「自分だけは真実を見抜いている」という優越感の保険にしている。


どちらも、目の前の人の声を聞いていない点では同じだった。



夕方、霊視相談が終わった。

信者が帰っていく大広間に、白檀の煙が沈殿している。

ステンドグラスを通った光が傾き、床の極彩色は泥のように歪んでいた。


残っているのは、リアとヨハネスだけだ。

ヨハネスが近づいてくる。

その柔らかい微笑みの裏にある、発光するような自己愛。

自分が絶対に正しいと信じ切っている人間の目は、直視できないほどに不透明だ。


「リア、君は他の見習いとは違う。僕の話を一番真剣に聞いてくれるね」


(今週3人目の「特別」です、ヨハネス様。火曜日にエミリアを同じ台詞で口説いていたのを、私は掃除用具入れの中から聞いていました。あの子の赤くなった頬を思い出すたび、胃の奥が酸っぱくなります)


「本当の霊視は、まだ皆には早い。でも、君には少しずつ教えてあげてもいい」


(教わりたくありません。相談者の声を奪って自分を飾るだけの、その薄汚い技術なんて。それを学ぶくらいなら、今すぐこの耳を削ぎ落とした方がマシです)


「君の将来のためを思って言うけど、僕のそばを離れない方がいい。ここを一度出ると、もうこれほどの教えは受けられないからね」


ヨハネスの手がリアの肩に近づく。

だが、触れない。

肩の2センチ手前で止まる。

「聖職者としての潔白」を誇示しながら、その実、相手の酸素を奪う卑怯な距離感。


褒めているようで逃げ道を塞ぐ、囲い込み。

クラリッサ叔母の相談室に来る女性たちを、そうやって何人も壊してきた構造。

「あなたのため」という呪いで、相手の魂を飼い殺す男のやり口だ。


リアの喉の奥が、拒絶反応で細く震えた。

吸い込む空気のすべてが、ヨハネスの傲慢で汚染されている気がして吐き気がする。


「……ありがとうございます、ヨハネス様」


「はい」という肯定すら、もう喉を通らなかった。

わずかに焦点をずらし、石像のように固まってやり過ごす。

ヨハネスの、2センチ手前の手が、リアの領土を音もなく侵食し続けていた。



夕刻、神殿の裏庭。

秋の空気が肺を冷やす。

白檀の甘い香りが消え、土と落ち葉、湿った石の匂いが入り込んできた。

ようやく息がつける匂いだ。


箒を動かすたびに、楓の葉がカサカサと鳴る。

人の声がしないこの時間を、リアは愛していた。


壁にもたれる人影に気づいたのは、3回目に箒を動かしたときだった。


ガイアス。

彼は甲冑を外していた。

黒い下着だけになった姿は、想像よりも線が細い。

あらわになった首筋から鎖骨にかけてのライン。

それは、計算し尽くされた彫像のような美しさだった。


大広間のときとは別人のように、その背筋は緩んでいる。

壁に頭を預け、ただ空を仰いでいた。


「先ほどは。見苦しいところを」


低い声。リアの方を見ず、独り言のように言った。


「見苦しくなんて……。むしろ、お辛かったでしょう」


箒を止めた。落ち葉が先っぽで半分に折れる。

ガイアスが壁から頭を離し、初めてリアの方を向いた。

青い目。凍りかけた湖のような、静かで冷たい色。


「なぜ、分かる」


「拳が震えていました。手袋の中で」


ガイアスが自分の右手を見つめた。

手袋を脱いだ手のひらには、4つの赤い三日月が刻まれている。

自分の爪を立て、耐え続けていた証拠だ。


「……見えていたのか」


「霊視で見たのではなく、ただ見ていました。母に言われたんです。言葉だけでなく、黙っているところも聞きなさい、と」


リアは箒を壁に立てかけ、彼と同じ壁の反対側にもたれかかった。

2メートルの距離。近すぎず、遠すぎない、逃げようと思えば逃げられる距離。


「……ヨハネス殿の説教を聞いていると、頭の中が騒がしくなる」


ガイアスが壁の石の模様を見つめたまま、ぽつりと漏らした。


「あの声を聞いた夜は、戦場で部下を失った夜の夢を、また見るんだ。部下が私を怖がる。正論しか言わないと言われる。間違ったことは言っていないはずなのに」


ガイアスの声が、風に溶けそうなほど小さくなる。


「守りたいだけなのに」


「正論は、正しいからこそ苦しいのかもしれません」


リアは空を見上げたまま言った。


「正しいと、黙るしかないから。間違っていれば反論できるのに、正しいから、ただ黙るしかない。それが、怖がられている理由かもしれません」


ガイアスの瞳が揺れた。

氷の張った湖面に、石を投げ込んだような波紋。


「……ありがとう。名前は」


「リアです」


「リア」


名前を呼んだとき、彼の声から硬さが一枚剥がれた。


「次も、ここにいるか」


「箒を持っていれば、たぶん」


ガイアスが壁から離れた。

甲冑を拾い上げ、出口へと向かう。

その足取りは大広間のときよりも狭く、急いでいない。


去りゆく彼の広い肩を眺めながら、リアは自分の指先が微かに熱を持っていることに気づいた。

ノートに記録すべき「標本」としての興味ではない。

もっと得体の知れない、守ってあげたいという、傲慢なまでの執着が胸の底で胎動していた。


神殿の廊下から、ヨハネスの声が聞こえてきた。

「私が見た夢の話をしてあげよう。修行時代の私が、いかにして――」


新しく訪ねてきた信者を相手に、また同じ話を始めているのだろう。

その声がふと途切れ、中庭に面した窓から、ヨハネスがこちらを見ていた。

掃除をしているリアの姿を認め、満足そうに頷く。

自分の教えが実を結んでいると、本気で信じ切っている顔。


(あなたの教えはゼロです、ヨハネス様)


今日ここで学んだのは、鎧の下で震えていた不器用な男の熱だ。

脳内の計測器が、たった一つの名前に占拠されようとしていた。



夜。神殿の自室。

ベッドの上でノートを開いた。


ヨハネス様の「相談」は、中身を剥けば自分に酔うための独演会だ。

ノートには、今月だけで12件の途切れた言葉が記録されている。

全員が、何かを言いかけて、言えずに帰った人たち。


私はこのノートを、神殿を出し抜くための武器だと思い込んでいた。

だが、本当は違ったのだ。


私は記録することで、安全な場所から他人を見下していただけじゃないか。

ヨハネス様が自分語りに酔いしれるなら、私は彼の無能さを分析することに酔っていただけ。

私まで、結局は神殿の「選民意識」に毒されていたんだ。


12件の言葉の破片を、いつか突きつける証拠として丁寧に記録し続けて満足していた。

でも、記録することは、向き合うことではなかった。

彼らの痛みを自分から切り離し、ただのデータとして消費して楽しんでいただけだ。


余白には、小さな文字が重なっている。


・「隣領騎士団の不穏な集合」

・「寄付金の使途不明」


ヨハネス様は神殿の耳に自分語りの砂を詰め、私はその砂を数えて優越感に浸っていた。

本当の意味で「聞いて」いないという点では、私も彼と同じだった。


説教も解決もマウントもない、ただの「受け皿」になる場所。

神殿が教える「導き」とは真逆の、ただそこに在るだけの場所。

エリート教育からは完全に外れているけれど、今の世界に最も足りないのは、そんな場所ではないのか。


看板の文面を考えた。


「ここは『聞き役の祠』です。説教もアドバイスもありません。あなたが話し終えるまで、私は口を開きません」


これなら、ヨハネス様の自分語りに疲れた人には伝わるはずだ。

真っ当に許可を取りに行けば、鼻で笑われるか、ヨハネス様の活動の一部として取り込まれてしまうだろう。

でも、もう「賢い見習い」を気取って、他人を観察対象にするのは終わりだ。


ヨハネス様の鏡に映らない声を、私が拾う。

たとえそれが「未熟な見習いの独断」だと笑われることになっても。

それが、私の中に溜まった毒を吐き出す唯一の方法だ。


ペンを持ち直した。指の震えが止まる。


迷いなく、一気に書き上げた。


 †


翌朝。裏庭の奥。


朝6時。誰もいない時間に石を運んだ。井戸の横の空き地に、腰の高さまで石を積んだ。腕が痛い。石は重い。大きなものは一人で持てない。小さな石を重ねて、隙間を砂利で埋めた。手のひらに砂利の跡がつく。見習いの手ではなく、石工の手になっていた。


囲いの中に粘土の小さな像を置いた。自分で作った。目を閉じて、両手を膝に置いている姿。聞いている姿。焼き物ではないので、雨が降ったら少し溶けるかもしれない。でもいい。溶けたらまた作る。


看板を立てた。木の板に、炭で書いた文字。


「聞き役の祠。お説教もアドバイスもありません。あなたが話し終えるまで、私は口を開きません」


ヨハネスが通りかかったのは昼過ぎだった。法衣の裾を持ち上げて、祠の周りを歩いた。看板を読んだ。


「素晴らしい、リア」


柔らかい声。いつもの微笑み。


「私の霊視が高度すぎて、信者には重いときもあるからね。君が前座として、軽い雑談を受ける場所を作ったのだね。私の教えを実践しようとする姿勢、感心したよ」


「はい」


「うんうん。いずれ君も、私のような高みへ至るための……良い修行場になるだろう」


「はい」


まだ「はい」を使う。でもこの「はい」は、以前の「はい」とは違う。自分の領域を守り、時間を買うための「はい」だ。


ヨハネスが自分に都合の良い解釈をして満足している間に、この祠は動き出す。彼の言葉に塗りつぶされた、本当の声をここに集める。


私は、もう「砂を数える」だけの傍観者ではない。



3日後。夕刻。祠の前。

リアは祠の横に座っていた。

石の上は冷たい。秋の空気が首筋を撫でる。

井戸の水面に、夕日の光がオレンジ色の円を描いていた。

虫の声がしている。遠くで鐘楼の鐘が鳴った。18時。


足音が聞こえた。

甲冑の足音ではない。柔らかい靴の音。

石畳の上を歩く、軽い足音だ。


ガイアスが来た。私服だった。


黒い上着。前ボタンの上から2つ目が外れている。

襟元が少しだけ緩んでいる。

甲冑のガイアスは壁のように大きく見えたが、私服のガイアスは線が細い。

あらわになった首筋。鎖骨の影。


困ったことが起きた。


目の前の顔面情報が強すぎて、網膜が冷静な判断を拒否した。

頭の中のルーベンス家会議が緊急招集される。


統計班:心拍数、平常値から12パーセント上昇。瞳孔径プラス8パーセント。警告レベル黄色。

倫理班:業務上の相談です。距離1メートル以内は非推奨。

恋愛未経験班:……もう少し近くに座っては? さすれば鎖骨の詳細な描写が羊皮紙に保存可能です。

議長リア:却下。


議長の声が少し上ずっていた。


「話さなくても大丈夫です。沈黙でも構いません」


リアは石の上で姿勢を正した。両手を膝の上に置いた。

聞く姿勢。粘土の像と同じポーズだ。

偶然だ。偶然であってほしい。


ガイアスが祠の横の石に座った。リアから1.5メートル。

思っていたより近い。黒い服の匂いがした。

甲冑の油の匂いではない。石鹸と、少しだけ、冷たい夜の空気の匂い。


ガイアスが話し始めた。自分でも驚いた顔をしていた。

眉が少しだけ上がって、すぐに戻った。

言葉が口から出ることに、本人が追いついていない顔だ。


「2年前。辺境の討伐で、部下を1人失った」


声が低い。裏庭のときよりも低い。

ここが安全な場所だと思ったからだろう。

安全な場所では、声は低くなる。


「剣を抜く判断が半拍遅れた」


声が途切れた。リアは沈黙を埋めなかった。

ヨハネスなら2秒で「分かるよ」と言うところを、リアは待った。

井戸の水面がオレンジ色から紫色に変わっていく。夕日が沈みかけている。


「それ以来、正論しか言えなくなった。間違いを許したら、また誰かが死ぬ気がして」


沈黙。30秒。

井戸の水面が揺れる音だけが聞こえた。

風が落ちて、虫の声が止まって、世界が2人だけの呼吸の音になった。


「……リア。君の前で黙っていると、頭の中がうるさくなくなる」


「うるさい、ですか?」


「自分の頭の中で、死んだ部下の名前を呼ぶ声がある。昼も夜も。それが、君の隣にいると、少しだけ静かになる」


一拍。ガイアスの手が膝の上で握り込まれた。

また拳。でも今度は爪を立てていない。ただ、温かく握っているだけだ。


「これは薬だ。私にとって、沈黙は薬だ。君の隣でしか、私の演算は正常に戻らない」


頭の中で統計班が、震える手でグラフを広げた。


「算出不能。ガイアス卿の依存度は定義可能な領域を突破。もはや業務上のデバッグとは認められません」


恋愛未経験班が真っ赤になって騒いだ。


「無理です! 鎖骨を見ている場合じゃない! 誰かこの心臓を止めてください!」


議長リアは机を叩こうとして、机が存在しないことを思い出した。


情報の精度はヨハネス様の自分語りと大差ないのに、どうしてこちらだけ甘く採点してしまうのか。採点基準に「顔面」という特大の加点項目があると疑われるレベルだ。ルーベンス家の公正な評価基準が物理法則ごと揺らいでいる。


ルーベンス家の女は、耐えるとき数える。

でも今、何を数えていたか忘れてしまった。

心拍数を数えていたはずだ。途中で見失った。

計算機が煙を吹いている。


脳内会議が、混乱のままに議事録を締めた。


議題一:氷の騎士の守護、およびその副作用について。

結論:……本日付で、当方の客観的分析機能は無期限の停止を宣言する。

備考:各自、ただちに心臓のオーバーヒートに備えよ。


本人リアだけが、その「停止宣言」こそが恋の始まりであることを、まだ認めたくなかった。



数週間後。


祠の噂は、さざ波のように広がった。


「説教されない神様がいるらしい」「黙っていてもいい場所」「あの子、何も言わないのに、帰ると心が軽くなるの」。


噂は市場を駆け抜け、八百屋の奥さんから仕立て屋の娘まで、口伝えで裏庭の祠の存在が共有されていった。


2週間で、祠を訪れた人数は50人を超えた。

大広間の霊視相談に来る信者は減り、代わりに祠へ向かう足音が増えた。


祠の前の石に座る人たちの沈黙は、ノートの上に静かな、しかし確かな「真実のログ」として積み上がっていく。


・「隣領の騎士団、やはり動きが妙です」

・「寄付金が帳簿と合いません。不自然な流れがあります」

・「倉庫からの物資が消えています。誰も報告していないようですが」

・「子供たちが、聞いたこともない不気味な祈りの歌を歌っています」


大広間の霊視相談では「分かるよ」と「昔の僕」の地層の下に埋もれていた言葉たちが、祠では芽吹くように最後まで語られた。


リアは気づいた。

 ここは癒やしの場所であると同時に、神殿のどこよりも鮮度の高い、加工されていない生の情報が集まる場所なのだと。


沈黙は、心を休める薬であり、情報を根こそぎ集める網でもある。


変化は信者の行動に現れた。祠に寄った後、わざわざ大広間の相談にも来るようになったのだ。

「裏庭で話を聞いてもらったら、ようやく自分が何を聞きたかったか整理がつきました」


そして、寄付金が増えた。

前月比で2割増。神殿の財務担当が首を傾げるほどの急激な伸びだった。

「リアの祠」の効果は、数字として本庁に報告された。


それを聞いたヨハネスは、満足げに目を細めた。


「ああ、リアの祠だね。あれはね、僕が日頃から『まず聞きなさい』と徹底して指導してきた教育の成果なんだよ。彼女は僕の最高傑作だ」


(信者が首を傾げた。ヨハネスに「まず聞きなさい」と言われた記憶など、神殿のネズミですら持っていなかった。なぜなら、一度も言ったことがないからだ)


ヨハネスはリアに向かって、慈愛に満ちた声をかけた。


「リア、君は本当によく僕のメソッドを実践してくれている。誇らしいよ。君の祠を、僕の霊視への『整理ポスト』として正式に認めよう」


(あなたのメソッドは『まず遮りなさい』です、ヨハネス様。あなたの発明品のように語らないでいただけますか。それは私の家の、血の滲むような忍耐の記録なのですから)


リアは微笑んで頷いた。従順な見習いの仮面を被り、心の中の「弾劾リスト」を更新する。


・ヨハネス様の自分語り累計:480分。

・その間に遮断され、埋没した「神殿の存亡に関わる警告」:12件。


沈黙で集めた数字は、牙を剥く瞬間を待っている。



神殿本庁が動いた。


「聞き役訓練」の導入が決定された。全神官に対し、研修が義務付けられた。配られた規範集は12ページ。第3条にはこう記されている。

「相談者の発言を遮ってはならない」


リアは、研修の実演講師として壇上に立つことを命じられた。

見習いでありながら、全神官の前で「模範」を示す役割。

ヨハネスは不満そうだったが、本庁の決定には逆らえなかった。


研修後。大広間。


ヨハネスが壇上に立ち、相談者の女性が椅子に座っている。いつもの舞台装置。

リアは、研修の監督役として、壇の端に座っていた。


「あなたの背後に見えるのは——おお——」


ヨハネスが目を閉じ、右手を額に上げた。お決まりの霊視ポーズ。


その時、リアが立ち上がった。

 大広間の静寂を切り裂くように、椅子が鳴った。


リアは相談者に向き直り、ヨハネスの前に割って入った。自分の体で、主任神官の視線を物理的に遮断したのだ。


見習いの小さな背中が、ヨハネスの視界を塗りつぶす。


「最後まで、お話を伺ってもよろしいでしょうか」


リアの声は柔らかかった。だが、冬の朝の空気のように鋭く響いた。


ヨハネスの声が止まった。上げかけた右手が、滑稽に空中で静止した。

 大広間が凍りついた。信者たちが息を呑む。見習いが主任神官の「聖域」に踏み込み、背中を向けた。


「……リア? 何をしているんだい?」


ヨハネスの声には、困惑と、そして隠しきれない不快感が混じっていた。


リアの手は、法衣の袖の中で震えていた。かつて見た、ガイアス卿の拳の跡を、今度は自分の手のひらに刻みつけていた。


「『相談者の言葉を遮るな』。研修で配られた規範集、第3条です。ヨハネス様も、先ほど学ばれたはずです」


一拍。白檀の煙が、二人の間を冷たく流れた。

 リアは一歩前に出た。相談者の女性と視線を合わせ、語りかける。


「聞くことを、神様に任せないでください」


相談者が目を見開いた。


「神様は、あなたの声を遮りません。遮るのは、いつも人間です」


ヨハネスの微笑みが剥がれ落ちた。仮面の下から覗いたのは、狼狽と、裏切られた怒りと、自己愛を傷つけられた子供のような困惑だった。


「君は——僕の良き理解者だと思っていたのに」


「私は、皆さんの話を聞きたいだけです」


この一言で、見習いの席は消えるだろう。だがリアは止まらなかった。ノートを広げる。


「ヨハネス様。この480分の自分語りの間に、ここには12件の『抹殺された言葉』がありました」


羊皮紙に並ぶ、鋭い弾丸のような記録。


「隣領騎士団の不自然な集結。寄付金の不透明な流れ。そして倉庫からの物資消失」


リアの声が大広間の隅々まで届く。


「これらはすべて、途中まで言われ、あなたの“昔の僕”という壁に遮られた言葉です。神殿の危機は、あなたの思い出話の下に埋葬されていました」


ヨハネスの手が、法衣の端をギリリと掴んだ。


「これは——霊視への不当な妨害だ……!」


「いいえ。記録です」


リアは真っ向から、その目を射抜いた。


「記録は、あなたの記憶より、はるかに正確です」


ヨハネスが何か言おうとして、口をパクパクと動かした。言葉が出てこない。大広間の信者たちの目は、もう彼を見ていなかった。


——神殿の耳は、今、書き換えられた。


リアは、祠で集めた言葉の「重さ」をその身で受け止めていた。


聞き役は、優しい癒やし手ではない。

 聞き役は、情報の全権を掌握する支配者だ。


沈黙の中で世界の欠片を集め、構造そのものを書き換える者。

 ルーベンス家の女は、語らずに、世界のシステムをハックする。

お読みいただきありがとうございました。

次は明日18:00投稿予定です。

後編に続きます。

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