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【リア編・後】沈黙だけで成立する恋がある

リア編・後編。祠と騎士と、沈黙の続き。

あの日の後、ヨハネス様は何も言わなかった。


大広間に静寂が落ちた。相談者の女性が目を丸くしている。壁際の信者たちが息を詰めている。見習いが主任神官の前に立っている——その事実だけが、白檀の煙の中に浮かんでいた。リアの手は法衣の袖の中で震えていた。でも、足は動かなかった。


ヨハネス様がゆっくりと右手を下ろした。霊視のポーズが崩れた。柔らかい微笑みが、3秒間だけ固まった。3秒間は長い。白檀の炎が一度揺れるくらい長い。そしてヨハネス様は——黙った。


規範集の第3条は、神殿本庁が定めたものだ。神殿本庁の決定を、主任神官が大広間の信者の前で正面から否定することはできない。できない、とヨハネス様自身が一番よく知っていた。


「……続けなさい」


それだけだった。ヨハネス様は壇の端に退いた。相談者の女性が、初めて最後まで話した。


見習いの席は、翌日も残っていた。



翌週。神殿本庁から使者が来た。


白い法衣に銀の縁取り。本庁監査局の紋章。ヨハネス様は別室に呼ばれ、2時間戻らなかった。大広間では、見習いたちが小声で囁き合っていた。


結果。ヨハネス様は「霊視相談」の専任から外され、「研修担当」として新任神官たちに教義と礼儀を教える役に回された。


——霊視ではなく、マナー。


神殿の「耳」から、「声の出し方」を教える係へ。


大広間の霊視相談は、複数の神官が持ち回りで担当することになった。第3条を守りながら。


ヨハネス様は、それでも自分を「誤解された天才」だと思っているようだったが、少なくとも、大広間で信者の声を遮る権利は失った。



2週間後。


ガイアスの部下たちに変化があった。


祠に若い騎士が来た。まだ10代。甲冑が体に合っていない。首の後ろが赤い。日焼けではなく、甲冑の縁が擦れた跡。


「最近、ガイアス卿が最後まで話を聞いてくれるんです」


若い騎士は、祠の粘土の像を見ながら話した。像は少し溶けかけていた。先週の雨で鼻が丸くなった。


「前は正論を2秒で言われて終わりだったのに。この間は、3分くらい黙って聞いてから、一言だけ言ってくれた。嬉しかった」


3分。たった3分の沈黙が、この子にとっては革命だった。ヨハネス様なら、その3分で自分語りを3章分は語るだろう。


「しかも、その一言が……『今のお前なら、任せられる』で」


若い騎士が、思い出して顔を赤くした。リアはノートの端に小さく「ガイアス隊・新型正論:肯定一行」と書き込んだ。



祠には、別の種類の話も集まってきた。


「隣領の騎士団が、最近うちの村の近くまで来るようになって」

「寄付金が帳簿と合わない。帳簿には書いてあって、箱にはない」


リアはそれらを一つずつノートに書き留め、本庁監査局の使者が来たとき、さりげなく「祠で聞いた噂」として渡した。


1か月後。


隣領の騎士団による略奪の計画が、事前に露見した。寄付金横領の役人が1人、静かに姿を消した。


——祠で聞いた声が、神殿のどこかで線を引き直した。


祠は癒やしの場所であると同時に、神殿最大の情報集積点になっていた。


沈黙は、心を休める薬であり、情報を集める網でもある。



ガイアスは祠に来ていなかった。3週間、途絶えた。


リアは気にしていないふりをした。祠を掃除し、粘土の像の鼻を直し、看板の文字を書き直した。統計班が「来訪頻度がゼロに低下」と報告するのを、議長リアが「報告不要」と却下した。


却下したのに、夕方になると裏庭の入り口に目が向く。足音を聞き分けようとしている自分に気づいて、箒を強く握った。



3週間ぶりの夕刻。裏庭の祠。


リアは祠の前の石に座っていた。

膝の上にノートとペンを置いて、夕日が沈むのを眺めていた。


足音が聞こえた。


甲冑の足音。金属が擦れる音。石畳を踏む、重い一歩。


ガイアスだった。


甲冑のまま。任務帰り。ブーツに泥がついている。胸甲に小さな傷が入っていた。新しい傷。左の肩当てが少しずれている。整えずに来たのだろう。


立ち止まった。祠の前。リアの3メートル手前。


「……沈黙のコンディションは、悪くない」


第一声がそれだった。


ルーベンス家会議が緊急招集された。


ルーベンス家・脳内緊急対策本部

統計班:「言語学的崩壊を確認! 意味不明ですが、顔面偏差値により強行採択を推奨!」

恋愛未経験班:「ひゃああ! 独占欲の波動を感じます! もっと、浴びたい!」

倫理班:「待ちなさい! まだ『沈黙のコンディション』の法的定義が定まっていません。これは比喩ですか? 筋肉の一種ですか?」

議長リア:「……静かに。処理能力が顔面の破壊力に吸われて、何も考えられないの」


「来ないつもりだった」


ガイアスが甲冑のまま、リアの横の石に腰を下ろした。甲冑が石にぶつかって、低い金属音がした。


「1人で黙っていられるようになったから。沈黙も筋肉と同じで、毎日1時間ほど負荷をかければ鍛えられると思っていた」


一拍。ガイアスが自分の言葉を反芻するように、少しだけ眉を寄せた。困惑している。自分の比喩のおかしさに、半分気づいている顔。


「……たぶん」


リアは膝の上のペンを握り直した。ノートの端に何かを書こうとして、何も書けなかった。ルーベンス家会議が満場一致で「意味不明」と議決したが、なぜか頬が熱い。処理落ちだ。


「……新しい理論ですね」


死んだ目で微笑んだ。微笑んだつもりだった。口角が上がっているかどうか、自分では確認できない。


「理論というか」


ガイアスが甲冑の手甲を外した。右手だけ。左手は外さなかった。右手の指が、膝の上で所在なさげに曲がった。


「家で黙っていても、"ここじゃない"と体がうるさい」


「体が」


「……比喩だ。たぶん。どこがとは聞かないでほしい」


聞かない。聞いたら心拍数が壊れる。すでに上がっている。深呼吸で下げようとしたが、横から漂ってきた石鹸と金属油の混ざった匂いが、深呼吸を妨害した。網膜が冷静な判断を拒否した。2回目。


「君の隣の沈黙を知ってしまうと、1人の沈黙じゃ足りなくなる」


この発言の出所を追跡したが、ルーベンス家会議のどの部署にも前例がなかった。


統計班:「該当データなし。過去のルーベンス家の記録を遡及調査しましたが、類似の報告はありません」

倫理班:「依存の可能性。ただし本人が笑っているため、重篤ではないと判断」

恋愛未経験班:「足りなくなるって、それ、つまり——つまり——」

議長リア:「閉廷!」


閉廷の声が裏返った。


「足りなくなるのは、悪いことですか」


口が先に出た。発言の出所を追跡したが、どの部署も責任を認めなかった。


統計班:「我々ではありません」

倫理班:「管轄外です」

恋愛未経験班:「……私たちかもしれません。でも証拠はありません」


「……分からない」


「私も分かりません。沈黙の種類は選べますけど」


「種類?」


「ヨハネス様の説教付き沈黙とか」


「それは沈黙ではない」


即答。0.3秒。間がなかった。ガイアスが即答で返したのを初めて聞いた。部下への正論は2秒かかるのに、ヨハネスへの否定は0.3秒。この差に名前をつけるとしたら——いや、つけない。つけたら壊れる。


2人で祠の前の石に座っていた。井戸の水面に星が映り始めていた。秋の終わりの空気が冷たい。甲冑の金属が冷えて、ガイアスの体温を奪っている。息が白くなり始めた。2人分の白い息が、並んで上に登っていく。


外側は完璧な静寂だった。騎士と見習いが、星の下で黙っている絵。美しい。静謐な。


内側はルーベンス家始まって以来のシステムパニックだった。全部署が同時に報告書を提出しようとして回線がパンクしている。


5分。10分。


虫の声が戻ってきた。井戸の水面の星が増えた。冷たい空気が指先を刺している。リアの右手がノートを握っている。左手は膝の上。ガイアスの右手も膝の上。2つの手の距離は、30センチくらい。30センチの空間に、リアの脳内の全計算リソースが集中していた。


「……今日の沈黙は、効き目が強いな」


ガイアスの声。低い。でも、硬くない。前回の「薬」のときより、少しだけ柔らかい。


「……副作用は」


リアが返した。自分の声が少し掠れているのが分かった。


「ある」


一拍。


「帰りたくなくなる」


統計班が「致死量」と叫んだ。倫理班が沈黙した。恋愛未経験班が泣いている。議長リアが議長席から転落した。比喩的に。


「……ガイアスさん」


卿ではなく、さん。


口から出た瞬間に、空気が変わった。ほんの微かに。夕方の風が一瞬止まって、また吹いた。それだけの変化。それだけの変化が、世界を一枚めくったような感覚を残した。


ガイアスが目を開いた。閉じかけていた目が開いた。青い目が、星の光を反射して、氷ではなく水の色をしていた。


「……さん、か」


ガイアスが、まるで初めて名前を授かった子供のように、その二文字を口の中で反芻した。


「あ——すみません、ガイアス卿——」


「いい。……その呼び方は、ここだけにしろ」


統計班:「新データ! 独占欲の検出に成功!」

恋愛未経験班:「限定、限定ですよリアさん! 私たち、ついに『ここだけ』の女になりました!」


ガイアスが左手の手甲を外した。両手が甲冑から出た。


「……仕事以外の、自分だけの感情を、ここには持ち込みたい」


議長リア:「(オーバーヒートで煙を吹きながら)……閉廷! 全部署、速やかに退避!」


「……では、ガイアスさんで」


「ああ」


2つの手の距離は、まだ30センチ。縮まっていない。1ミリも縮まっていない。


だが、ガイアスの右手が、誘うように上を向いた。


騎士の大きな手と、帳簿を握る私の小さな手。


この30センチは、王宮から辺境までの街道よりも遠く、そして舞踏会のどんなフロアよりも親密だった。


指先が触れれば、きっと爆発的な魔力暴走(恋)が起きる。


それを恐れるように、けれど切望するように、私たちの沈黙は星空の下で重なり合っていた。



その翌日。神殿の訓練場。


ガイアス隊の若い騎士たちが、木剣を構えていた。


「今日の訓練の前に、1つ話を聞かせてくれ」


ガイアスがそう言って、木剣を下ろさせた。部下たちが顔を見合わせる。


「昨日の巡回で、何か気になったことはないか」


沈黙。10秒。


以前なら、この10秒で正論が飛んできた。「見ていないのは怠慢だ」と。


今日は違った。


「何でもいい。小さなことでも。言葉にならなくても」


1人が、おそるおそる手を挙げた。


「……路地裏で、子どもが変な歌を歌ってました」


「歌?」


「ええ。『夜の神様にだけ本当のことを話すんだ』って。ちょっと怖かったので」


ガイアスが一瞬だけ目を細めた。


「詳しく聞かせてくれ」


リアの祠で聞いた歌と、訓練場で聞いた歌が、1つの線で結ばれた瞬間だった。


沈黙は、隊の耳も鍛えていた。



その夜。自室。蝋燭の光。


ノートの表紙の裏に一行書き足そうとして、3回書き直した。


最初の案。「ルーベンス家の女は、淀んだ饒舌を、静かな沈黙に書き換える」。正しい。正しいが、足りない。正しいだけでは、あの30センチの空間に何があったか説明できない。


2回目。「ルーベンス家の女は、淀んだ饒舌を、1人分の沈黙と笑顔に書き換える」。近い。でもまだ計算通りだ。計算通りのことしか書いていない。あの夕方に起きたことは、計算の外にあった。


3回目。ペンを握る手が止まった。5秒。10秒。蝋燭の炎が揺れて、影が壁を登った。


「ルーベンス家の女は、淀んだ饒舌を、静かな沈黙と1人分の笑顔に書き換える。計算の外にある笑顔を、初めて、許す」


ペンを置いた。指先にインクの染みがついていた。


全部は救えない。ヨハネス様は研修を受けても「私の霊視が高度すぎたから誤解された」と言い続けるだろう。饒舌の洪水は止められない。相談者の半分はまだ、話を奪われて帰っている。


でも、祠に来る人は増えている。沈黙を怖がらない人が増えている。ガイアスの部下が「3分聞いてくれた」と言って笑った。


そして——1人の騎士が、卿を捨てて、さんを選んだ。手甲を外して、手のひらを上に向けた。それがほとんど告白だと、ルーベンス法律班は主張している。議長リアは認定を保留した。保留したが、頬が熱い。蝋燭の炎のせいだ。蝋燭のせいだと統計班に報告させた。統計班は「蝋燭と頬の温度に相関はありません」と返した。黙れ統計班。


その笑いが薬の副作用なら、喜んで被曝してもいいと、ルーベンス家の計算機は初めて誤差を許した。


裏庭の井戸の水面に、星が映っていた。蝋燭を吹き消した。暗闇の中で、30センチの距離を思い出した。


明日もあの距離だ。縮まらない。縮まらなくていい。


ルーベンス家・事後分析班

「本日の誤差バグを『初恋』という名の仕様として受け入れ、全システムの永続的な更新を完了しました」


手のひらの向きを思い出すだけで、私の計算機は何度でも幸せにショートする。

お読みいただきありがとうございました。

次は明日18:00投稿予定です。


次回:魔導通信院の技術職員レオン。ルーベンス家初の男性主人公。


善意の長文爆撃が毎日届く。閉じるボタンはない。スキップもできない。

裏では、好きな人からのメッセージが埋もれている。

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