【レオン編】善意の長文スパムが王都の結界をベニヤ板にしかけた件
レオン・ルーベンス、23歳。魔導通信院の技術職員。
ルーベンス家の「数える」「記録する」癖は、この世代でログ解析OSになった。
朝8時。魔導通信院。3階。レオンの机。
机が見えない。
色とりどりの魔導クリスタルが、書類の上に、ペン立ての横に、引き出しの隙間に、椅子の背にまで積もっている。青、緑、紫、琥珀。一つ一つが卵くらいの大きさで、内部に圧縮された長文メッセージが詰まっている。宝石のように美しい。宝石のように邪魔だ。
全部、宮廷賢人ディートリヒからだ。
レオン・ルーベンス。23歳。魔導通信院の技術職員。ルーベンス家の血を引く青年。専門は魔導演算とプロトコル設計。仕事は好きだ。この机が好きだ。この机が見えればもっと好きだ。
机が見えない日が、もう3か月続いている。
最初は1日に1個だった。次に3個になり、いつの間にか「朝の挨拶」「昼食の報告」「夕暮れのポエム」の3本立てが標準装備になった。今は変種が混ざる。「昨日の補足」「前回の訂正」「若き日の自分を振り返って」といった派生シリーズだ。
レオンは1度、数えたことがある。1週間で届いたディートリヒ由来のクリスタルは45個。延べ文字数にして30万ルーン。王立図書館の中規模歴史書1冊分だ。
中身は、ほぼ全部「根性論」と「昔話」だった。
席に着こうとした。椅子にクリスタルが3つ乗っていた。どけた。座った。机の上のクリスタルに手が触れた。
起動した。
拒否権なし。
目の前に、ホログラムが展開された。等身大。ディートリヒ老師の上半身が、レオンの書類の真上に浮かんでいる。白い髭。慈愛に満ちた目。穏やかな微笑み。
「おはよう、若者よ。今日は朝食の重要性について語りたいと思う」
ホログラムがレオンの視線を追尾してきた。目を逸らすと、ディートリヒの顔がゆっくり回転して正面を維持する。仕様だ。「相手の目を見て話すことが大切だ」というディートリヒ自身の提案で、追尾機能が実装された。
閉じようとした。ホログラムの端に「×」ボタンがあるはずだ。ない。ディートリヒのクリスタルには閉じるボタンがない。「最後まで聞くことが礼儀」というディートリヒの提案で、スキップ機能が削除された。3年前に。
「朝食を抜く者は、心の朝食も抜いているのだ。体に栄養を入れるように、魂にも言葉という名の栄養を——」
その瞬間、別の回路が静かに立ち上がった。
ルーベンス家内製・脳内ログ解析OS起動。
始祖エリザが神託の動詞を数え、クラリッサが愚痴の「夫が」「義母が」を数え続けた結果、世代を超えて受け継がれてきた家系固有の魔導演算思考だ。紙のノートと帳簿でやっていた集計作業が、そのままレオンの頭蓋骨の内側に移植されている。
《受信ログを解析します》
内側の声が、淡々と告げる。
《発信者:宮廷賢人ディートリヒ。推定文字数:42,000ルーン。既知パターンとの一致率:97.3パーセント》
《参照:エリザ・ルーベンス「神託誤読事件ログ」。クラリッサ・ルーベンス「サロン愚痴統計帳簿」。類似スコア:高》
《新規情報:0.01パーセント未満。要約候補:「食べろ」》
要約欄に、2文字分のスペースしか埋まらない。
《副作用推定:個人の自由時間23分の喪失。軍務通信の遅延リスク:中。王都結界外周ベニヤ板化リスク:低〜中》
《推奨処理:即時アーカイブ。原文保存先:図書館相当の長期記録領域》
処理推奨:即時アーカイブ。
だがホログラムは消えない。再生完了まで他の通信がロックされる。仕様だ。
14分が経過した。ディートリヒはまだ朝食について語っている。朝食から人生観に飛び、人生観から若者への苦言に移り、若者への苦言から自分の若い頃の話に着地した。着地すると離陸しない。永遠の滑走路。
「ここで1つ、私の若き日の失敗談を——」
ホログラムの右上に、小さく「接続が不安定です」という表示が出た。レオンが閉じるボタンかと思って指を伸ばす。
「おや、通信環境が悪いかな? 冒頭からやり直そう」
ディートリヒが微笑み、ホログラムが巻き戻った。
「おはよう、若者よ。今日は朝食の重要性について——」
「リプレイ機能まで付けるな……」
レオンは机の下で拳を握った。善意の自動再生。善意のリピート。悪質な広告よりタチが悪い。
通信ロック中。
画面の隅に、未読メッセージの通知が1件点滅している。発信者の名前が小さく見える。アリア。好きな人の名前。
読めない。ディートリヒの朝食論が終わるまで、読めない。
23分後。ホログラムが消えた。
未読メッセージを開いた。
「レオン、今夜少し話せる? 新しいカフェを見つけたの」
タイムスタンプ。23分前。レオンが朝食の重要性について聴講していた時間に送られていた。
返信した。「行きたい。何時がいい?」
返事はなかった。アリアの端末は「既読」のまま、オフラインになっていた。
23分。朝食の重要性を聞いている間に、夜の約束が消えた。
それだけではない。23分間ディートリヒの声を聞いた後、自分の頭が少し鈍くなっている。「朝食は大事だ」。そうだろうか。考えようとすると、さっきのホログラムの声が先に答えを出している。自分で判断する前に、判断が配布されている。
3ヶ月間、毎日これが来る。毎日、自分で考える前に答えが届く。答えは的外れだ。的外れなのに、繰り返されると頭の中に住みつく。自分の思考の隙間を、他人の言葉が先回りして埋めていく。
これは時間の問題ではない。思考の侵食だ。
アリアは待っていたはずだ。端末を開いて、既読がつくのを見ていたはずだ。23分間、画面が動かないのを見ていたはずだ。——また返事が来ない。またレオンは忙しいんだ。その23分間に、アリアがどんな顔をしていたか。端末を伏せるとき、ため息をついたのか、それとも黙って棚に戻したのか。レオンには分からない。分からないことが、一番怖い。
被曝ログ:3か月前。アリアとの初デートの約束が、1度吹き飛んでいる。
——待ち合わせの30分前に届いた「今日は行けなくなった、ごめん」が、ディートリヒ老師の『友情とは何か』20,000ルーンの裏に回されていた。レオンがそれを開いたとき、待ち合わせ時間はとっくに過ぎていた。
その日、アリアは「今度こそ」と笑ってくれた。3回目の「今度こそ」だ。でもその笑顔の端が、ほんの少しだけ乾いていた。4回目は、たぶんない。
被曝ログ:19日前。魔導炉の警告ログが1本、老師の「夕暮れの散歩」に埋もれた。
城下町の端にある補助魔導炉が、出力の揺らぎを示していた。担当者が気づいたときには警告から40分が経っていて、現場は焦げた匂いでいっぱいだった。幸い、炉は止まっただけで済んだ。運が悪ければ、外縁区の一角が一晩だけ真っ暗になっていた。
被曝ログ:5日前。給与通知と人事通達が、人生教訓の陰で1日遅れた。
昇給を楽しみにしていた新人が真顔で言った。「俺の給与、賢人の『言葉は金を超える』に上書きされました」。人事局は笑わなかった。通信院だけが笑った。笑うしかなかった。
通信院には、こういう「被曝ログ」が山ほどある。
†
昼休み。通信院の休憩室。
同僚のフェリクスがコーヒーを飲んでいる。フェリクスの机にもクリスタルが積もっている。全員だ。通信院の全職員が、ディートリヒの人生教訓を毎日受信している。
「今朝の被曝量は?」
フェリクスが聞いた。「被曝」。通信院での隠語だ。ディートリヒのクリスタルを受信することを、全員がそう呼んでいる。
「4万ルーン。朝食、人生観、若者論、自分語り。内容の98パーセントが既出。実務的な情報は0.01パーセント未満」
「俺は今朝2本来た。朝食と、昨日の昼食についてのフォローアップ」
「フォローアップ?」
「昨日の昼食クリスタルで『肉を食え』と言ったのに、今朝のクリスタルで『ただし鶏肉に限る』と補足が来た」
「……それ、1本にまとめられますよね」
「まとめる機能は、ディートリヒ老師のクリスタルには——」
「ない。知ってる」
コーヒーが苦い。この苦さだけが、4万ルーンの甘い言葉から頭を引き戻してくれる。
「ディートリヒ老師のホログラム、今朝から新機能がついてた」
「新機能?」
「閉じようとしたら、『おや、通信環境が悪いかな? 冒頭からやり直そう』って言って最初からリスタートした」
フェリクスのコーヒーカップが止まった。
「……それ、悪質なアドウェアでは」
「善意のアドウェアだ。『宮廷の宝』だから苦情も言えない」
「広告なら金で止められるけど、賢人の善意は誰も止められないってわけか」
フェリクスが天井を見上げた。
「軍務局の暗号班からも来てたぞ、非公式クレーム」
フェリクスが声を潜めた。
「『賢人の“夕暮れの散歩”のせいで、敵性魔導砲の起動ログの解読が3分遅れた』って」
「3分くらいで騒ぎすぎじゃ——」
「王都結界の外周、2パーセントだけ薄くなってたらしい。結界維持班のやつが真顔で言ってた。『一瞬だけ、外壁がベニヤ板だった』って」
「ベニヤ板で王都守んなよ」
「あと5分遅れてたら、本当に穴が開いてたってさ。ディートリヒ老師の長文の裏で、王都がベニヤ板1枚で持ってた」
休憩室の空気が、少し重くなった。
「賢人のポエムで砦が飛びかけて、賢人の散歩で王都が落ちかけるのは、さすがに洒落にならないな」
フェリクスが肩をすくめた。
「でも『宮廷の宝』だからな。誰も“通知オフ”にできない」
「善意だから削除できない。悪意ならまだ楽なのに」
善意。この世で最も厄介な暴力。殴られたら殴り返せるが、抱擁されたら振りほどけない。
†
夜。自室。
実家から届いていた荷物を開けた。ルーベンス家の書庫から取り寄せた資料。古い記録と、歴代のルーベンス家の女たちのノート。
紙束の間に、系譜表が挟まっていた。エリザの時代は石板と口頭神託、クラリッサの時代は紙の帳簿とサロン。そこから百数十年かけて、記録媒体は記憶水晶になり、今は王都全域を走る魔導通信網になっている。
神殿の間違った1文を書き換えるところから始まった「ルーベンス家の反逆」は、いまや王都インフラの仕様書にまで入りこんでいる。石板の誤読を直した家系が、今はホログラムのノイズをデバッグしているだけの話だ。
先祖のリアの記録があった。「聞き役の祠」の設立メモ。そこに1文。
「まず聞くこと。ただし、聞き続けることと、聞き殺されることは違う」
議会を回した誰かは「記録を見よ」と言い、記憶水晶を作った誰かは「事実だけは奪えない」と書いていた。ルーベンス家の先祖たちは、全員が「言葉の暴力」と戦ってきた。退屈な話。奪われる時間。上書きされる自分。その全部に、「記録」と「仕組み」で応えてきた。
ディートリヒの長文は、暴力ではない。善意だ。だが善意の長文が1日4万ルーン降ってきたら、それはもう通信ではない。落石だ。
言葉は宝石ではない。1日100個降ってくれば、それはただの落石だ。
朝からのホログラムの残像が瞼の裏でまだ動いている。「若者よ」と呼びかけ続ける声。その声の向こうで、ベニヤ板になっていた王都結界。消えていったアリアの「今夜どう?」。全部同じ回線に流れ込んでくる。
——このままだと、アリアの4回目はない。王都の結界がベニヤ板に戻る。新人の給与通知がまた1日消える。
ルーベンス家の血は、こういうとき情緒より先にログを取る。
(ミュート、はダメだ)
レオンは机に肘をついた。
(老師が直接来たら終わる。通知を切った若者、という物語が一瞬で生成される)
(ブロックもダメだ。『宮廷の宝に耳を塞いだ逆賊』になりかねない)
(全部聞く、は論外だ。先祖が何代もかけて否定してきたやつだ)
エリザのノートの一節が浮かぶ。「神の名を盾に、他人の人生を決めるな」。クラリッサの走り書きが浮かぶ。「愚痴を聞くことと、溺れて一緒に沈むことは違う」。
(じゃあ——聞いたことにして、邪魔じゃない場所に“移す”だけなら、誰も傷つかない)
自分の自由時間も、軍務局の暗号も、王都結界も、アリアの23文字も、同じ回線に乗っている。その回線から、ディートリヒだけを抜く。
ルーベンス家の仕事は、昔から同じだ。世界から何かを消すことではなく、「適切な棚」を決めてそこに押し込むこと。
神託は石板から地下資料庫へ、愚痴はサロンから相談所へ、そして今は——長文が通信回線から図書館へ。
脳内ログ解析OSが、次の提案を出してきた。
《要約アルゴリズムの実装を推奨》
《ルーベンス家標準式:「価値=信頼÷文字数」に基づき、優先順位を再計算できます》
(……やるか)
処理方針が決まった。
†
翌週。魔導通信院の実験室。
レオンは術式を組んだ。
名前:「自動要約転送プロトコル ver.1.0」。
仕様:
一、受信したクリスタルを開封前にフックする。
二、魔導演算で内容を3行に要約する。
三、原文は王立図書館・民俗学資料室に自動転送する。
四、送信者には「受信完了。大変勉強になりました」の自動返信を送る。
(これで、老師の言葉は1文字も捨てていない)
(通信回線から外して、もっと似合う棚に移すだけだ)
3行要約のテスト。ディートリヒの先週のクリスタル5本を流し込んだ。
結果。
「朝食の重要性について」→ 要約:食べろ。#既出 #根性論
「努力の尊さについて」→ 要約:続けろ。#既出 #自分語り
「若者の心構え」→ 要約:がんばれ。#既出 #具体性ゼロ
「昼食の補足(鶏肉に限る)」→ 要約:鶏肉。#なぜ別便
「夕暮れの散歩と人生の比喩」→ 要約:歩け。#既出 #ポエム
5本分の人生教訓が、15文字に圧縮された。
《圧縮率:99.9パーセント。情報損失:実用上無視可能》
OSが無表情に告げる。
(うん、知ってる)
追加テスト。手元のクリスタル10本をまとめて流し込んだ。ディートリヒ9本と——
ログが点滅した。
《テスト中:ディートリヒ9件……アリア1件。要約キュー入り》
アリア?
一瞬、術式が発信者名を見ず、受信順だけで処理しようとした。アリアの「今度の日曜、植物園に行かない?」が、「#既出」のラベルを貼られて図書館に飛ぶところだった。
《警告:ホワイトリスト未設定の重要通信を検出》
脳内OSが、かろうじてブレーキをかける。
慌てて条件分岐を書き足した。「発信者:アリア → 除外。要約禁止。全文表示。最優先」。
指が震えた。キーボードの「ENTER」を押す力が、いつもより強かった。
危ないところだった。世界で一番大事な23文字を、「#既出」のラベルで埋めるところだった。効率化は快感だ。だがその刃は、方向を間違えると大切なものまで切る。
コメント欄に、1行だけ書き加えた。
`// この発信者の通信は、王都結界より優先する`
「……お前、何書いてんの」
フェリクスが後ろから覗いていた。
「結界より彼女を優先するコード書いてるのか」
「……書いてる」
「王都民40万人より?」
「40万人には結界維持班がいる。アリアの23文字を守る人間は、俺しかいない」
フェリクスが口を開けた。3秒。閉じた。コーヒーを飲んだ。
「……ルーベンス家って、理性的に狂ってるな」
理性的に狂っている。それがたぶん、一番正確な表現だった。
王立図書館の検索端末に「宮廷賢人ディートリヒ・人生教訓全集」のフォルダが自動生成された。現時点で327件。全件に3行要約とハッシュタグが付いている。
「レオン、これ本当に動かすのか」
フェリクスが画面を見つめていた。
ENTERキーに指を乗せた。1瞬だけ止まった。戻るボタンはない。宮廷の宝を、宝のまま棚に入れる。善意を、善意のまま無害化する。
「動かす。明日から。通信院全体に配布する」
「苦情が来たら?」
「苦情は来ない。ディートリヒ老師には『あなたのお言葉は王立図書館に永久保存されます』と伝える。本人は喜ぶ」
「……喜ぶのか」
「善意の人は、善意の包装紙に包まれると中身を確認しない」
フェリクスが笑った。「ルーベンス家って怖いな」。
怖い、の意味は「仕様から世界を書き換える」ということだ。会議で戦わず、プロトコルで世界を変える。
†
翌朝。レオンの机。
術式が稼働した。
ディートリヒのクリスタルが受信された。ホログラムが起動——しなかった。フックが作動し、開封前に内容が吸い出され、3行に要約され、原文は図書館に飛んだ。
レオンの端末に表示されたのは、これだけだった。
「受信:ディートリヒ老師。要約:早起きしろ。原文は図書館に保存済み。リンク▷」
7文字。4万ルーンが7文字になった。
机が見えた。書類が見えた。ペン立てが見えた。椅子にクリスタルが乗っていない。座れた。
通信ロックがない。他のメッセージが読める。
未読1件。アリアから。
「昨日は返事遅くなってごめんね。今日の夜はどう?」
タイムスタンプ。2分前。
2分。返事までの距離が、23分から2分に縮まった。4万ルーンの壁がなくなったら、5文字のメッセージが2分で届く。
返信した。「行く。7時に駅前で」。
8文字。これで十分だ。
†
昼。通信院のフロア。
「本日の被曝申請、0件です」
庶務の職員が掲示板を見上げて呟いた。これまでは毎日1人はいた。「ディートリヒ由来頭痛のため午後休」。非公式には「被曝休暇」と呼ばれている。
「緊急ラインの遅延ゼロ。軍務局から『最近は早いな』って珍しく褒められたぞ」
報告を持ってきたのは現場班の主任だ。
「王都結界班からも来てる。『ベニヤ板ゾーン消えました。ありがとう。これで安心して寝られます』だって」
フェリクスが報告書をひらひらさせる。
「やっと、本来の仕事してる感じするな、ここ」
誰かが言った。誰も否定しなかった。
4万ルーンの長文1つずつは“善意”かもしれない。でも、それが回線を占有している間、誰かの給与通知も、炉の警告も、王都結界の変動も、好きな人からの「今夜どう?」も全部詰まる。
レオンは自分の端末画面を見た。上段には緊急ライン。中段には業務連絡。下段には、アリアとのスレッド。
全部、自分で並び替えた。奪われ続けていた時間と回線を、プロトコル1つで取り返した。
†
翌週。宮廷の廊下。
ディートリヒ老師が歩いてきた。白い髭。慈愛の微笑み。杖をついている。杖の先端にも小さなクリスタルが嵌め込まれている。歩くたびに光る。
「おお、レオン君。私の教えは届いているかね? 最近は返事も短くて寂しいよ」
「先生」
レオンは立ち止まった。
「先生のお言葉はすべて、人類の共有財産として王立図書館に寄贈しました」
ディートリヒの目が光った。王立図書館。共有財産。
「おお……そうか。それはありがたいことだ。私の長年の教えが、ついに公式の記録として——」
「はい。おかげで私は、先生の4万ルーンの教訓を、『よく食べて寝ろ』という7文字の要約として1秒で理解できるようになりました」
ディートリヒの微笑みが、わずかに揺れた。
「……7文字?」
「正確には、327件分の教訓の要約の平均が7文字です。最短は2文字。『寝ろ』です。なお、327件を魔導演算にかけたところ、古典格言集3冊分の既出の格言と完全一致しました。新規性は0.01パーセント以下です」
「……新規性」
「先生の情熱は、図書館の一番静かな棚に移しました。あそこは情報の宝庫であり、同時に情報の墓場です。先生のお言葉はこれから、人類全体の参考文献として静かに眠っていただきます。貴重な通信回線を過去の再放送で占有するのは非効率ですので、今後、先生のメッセージは自動的にそちらへ転送されます」
「先生。これでもう、私に直接クリスタルを送る手間は省けましたね」
ディートリヒが黙った。3秒。5秒。
杖の先のクリスタルが光っている。慈愛の目。穏やかな微笑み。微笑みが少しだけ固くなったが、すぐに戻った。
「……そうか。ならば私は、図書館を通じてより多くの若者に教えを届けよう。レオン君、ありがとう。私の言葉が人類の宝になったのだね」
満足して歩いていった。杖が廊下の石を叩く音が、遠ざかっていく。
幸せな隔離。本人は勝利したと思っている。「私の言葉が図書館に」。実態は「二度と通知が来ないフォルダに放り込まれた」だけだ。
ルーベンス家の先祖たちが磨き上げてきた「退屈な男の正しい捨て方」の完成形だった。捨てずに棚に入れる。棚にラベルを貼る。ラベルに「人類の宝」と書く。本人は宝になったと思って満足する。中身は二度と開かれない。
†
夜。駅前から少し歩いた路地裏。新しくできた小さなカフェ。窓際の席。
アリアがカップを両手で包んでいる。彼女の癖だ。最初の一口をつける前に、必ず両手で温度を確かめる。猫舌なのに、熱い飲み物が好き。矛盾を自覚しているらしく、包んだまま少し笑う。
「ここの豆、ちょっと酸味が強いね」
「嫌い?」
「ううん。好きな方。——あ、そうだ」
アリアがカップから手を離し、小首を傾げた。
「最近、レオンの返信めちゃくちゃ早くない?」
来た。
「前は半日くらい待つのが普通だったのに。今朝なんて2分だったでしょ。何かした?」
「……ちょっと整理した」
「整理」
「通信回線の優先順位を、少し変えた」
アリアが目を細めた。紅茶色の瞳。夕日が彼女の髪を金色に染めている。
「ふうん。——何の優先順位を、何より上にしたの?」
知っている目だった。レオンが何かを隠していて、それが技術的な何かで、そしてそれが自分に関係していることを、アリアは察している。追及はしない。ただ、面白がっている。
「……国家機密」
「あ、国家機密」
アリアが笑った。カップを両手で包み直して、一口飲んだ。猫舌なので少し眉をしかめた。それでも飲む。毎回同じだ。
「じゃあ聞かない。——でも、嬉しかった」
一拍。アリアがカップを置いた。指先で取っ手を回す。何か言おうか迷っている仕草。
「……ねえ、1つだけ聞いていい?」
「うん」
「3ヶ月間、なんで言ってくれなかったの」
レオンの手が止まった。
「返事が遅いの、忙しいからだと思ってた。でも違うよね。あのホログラムが再生されてる間、読めなかっただけでしょ」
「……知ってたのか」
「通信院の友達に聞いた。ディートリヒ老師のクリスタルが来ると全部ロックされるって」
アリアが紅茶色の目でまっすぐ見た。怒ってはいない。もっと悪い。悲しんでいる。
「断ればよかったじゃない。『読めません』って1行返せばよかったじゃない。なんで3ヶ月も黙って受信してたの」
4万ルーンの善意より、この問いの方が重かった。
なぜ断らなかったのか。「宮廷の宝だから」。「苦情を言えないから」。「波風を立てたくないから」。全部、自分が考えることをやめるための理由だった。ディートリヒの善意は「考えなくていい」と言っている。そして俺は3ヶ月間、それに従った。断る判断を、しなかった。
アリアの23分は、ディートリヒが奪ったのではない。俺が差し出したのだ。
「……ごめん」
「謝らなくていい。プロトコルは作ったんでしょ。それはすごいと思う」
アリアがカップを包み直した。
「でもね。プロトコルは『仕組み』の問題を解決したの。3ヶ月間黙ってたのは、仕組みの問題じゃない。レオンの問題」
刺さった。
要約プロトコルは技術的な勝利だ。だが、3ヶ月間「仕方ない」と従い続けた自分は、プロトコルでは修正できない。
「……うん。次は、自分で断る」
「うん」
アリアが笑った。今度は乾いていなかった。
その一言が、4万ルーンより重かった。
ディートリヒの4万ルーンは「食べろ」の2文字に圧縮された。アリアの言葉は圧縮できなかった。「なんで言ってくれなかったの」の全部が、全部そのままの形で、レオンの胸に残っている。
善意の長文から逃げる自由くらい、自分で設計していい。だがその前に、「仕方ない」と言う自分の口を、自分で閉じなければならない。
脳内ログ解析OS。最終ログ。
《受信メッセージ:1件。発信者:アリア。内容:「嬉しかった」。文字数:5。優先度:最優先。圧縮率:0パーセント。全文保存。保存期間:無期限》
窓際の席。コーヒーの湯気の向こうで、アリアの笑顔が夕日に金色く揺れている。その数秒の映像が、ディートリヒの327件のクリスタルより、はるかに鮮明に脳内ストレージに刻まれている。
圧縮率ゼロ。全文保存。
ルーベンス家の青年は、3行に要約された世界で、自分だけの長い夜を楽しみ始めた。
お読みいただきありがとうございました。
次は明日18:00投稿予定です。
次回:旅する書記官カイ。最終話の1つ前。
広場で終末予言者が叫んでいる。「明日、王都は滅ぶ」。
母親が、今夜の夕飯のパンを差し出そうとしている。
カイのOSが、予言者の的中率を算出した。




