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【レオン編】善意の長文スパムが王都の結界をベニヤ板にしかけた件

レオン・ルーベンス、23歳。魔導通信院の技術職員。

ルーベンス家の「数える」「記録する」癖は、この世代でログ解析OSになった。


 朝8時。魔導通信院。3階。レオンの机。


 机が見えない。


 色とりどりの魔導クリスタルが、書類の上に、ペン立ての横に、引き出しの隙間に、椅子の背にまで積もっている。青、緑、紫、琥珀。一つ一つが卵くらいの大きさで、内部に圧縮された長文メッセージが詰まっている。宝石のように美しい。宝石のように邪魔だ。


 全部、宮廷賢人ディートリヒからだ。


 レオン・ルーベンス。23歳。魔導通信院の技術職員。ルーベンス家の血を引く青年。専門は魔導演算とプロトコル設計。仕事は好きだ。この机が好きだ。この机が見えればもっと好きだ。


 机が見えない日が、もう3か月続いている。


 最初は1日に1個だった。次に3個になり、いつの間にか「朝の挨拶」「昼食の報告」「夕暮れのポエム」の3本立てが標準装備になった。今は変種が混ざる。「昨日の補足」「前回の訂正」「若き日の自分を振り返って」といった派生シリーズだ。


 レオンは1度、数えたことがある。1週間で届いたディートリヒ由来のクリスタルは45個。延べ文字数にして30万ルーン。王立図書館の中規模歴史書1冊分だ。


 中身は、ほぼ全部「根性論」と「昔話」だった。


 席に着こうとした。椅子にクリスタルが3つ乗っていた。どけた。座った。机の上のクリスタルに手が触れた。


 起動した。


 拒否権なし。


 目の前に、ホログラムが展開された。等身大。ディートリヒ老師の上半身が、レオンの書類の真上に浮かんでいる。白い髭。慈愛に満ちた目。穏やかな微笑み。


「おはよう、若者よ。今日は朝食の重要性について語りたいと思う」


 ホログラムがレオンの視線を追尾してきた。目を逸らすと、ディートリヒの顔がゆっくり回転して正面を維持する。仕様だ。「相手の目を見て話すことが大切だ」というディートリヒ自身の提案で、追尾機能が実装された。


 閉じようとした。ホログラムの端に「×」ボタンがあるはずだ。ない。ディートリヒのクリスタルには閉じるボタンがない。「最後まで聞くことが礼儀」というディートリヒの提案で、スキップ機能が削除された。3年前に。


「朝食を抜く者は、心の朝食も抜いているのだ。体に栄養を入れるように、魂にも言葉という名の栄養を——」


 その瞬間、別の回路が静かに立ち上がった。


 ルーベンス家内製・脳内ログ解析OS起動。


 始祖エリザが神託の動詞を数え、クラリッサが愚痴の「夫が」「義母が」を数え続けた結果、世代を超えて受け継がれてきた家系固有の魔導演算思考だ。紙のノートと帳簿でやっていた集計作業が、そのままレオンの頭蓋骨の内側に移植されている。


《受信ログを解析します》


 内側の声が、淡々と告げる。


《発信者:宮廷賢人ディートリヒ。推定文字数:42,000ルーン。既知パターンとの一致率:97.3パーセント》


《参照:エリザ・ルーベンス「神託誤読事件ログ」。クラリッサ・ルーベンス「サロン愚痴統計帳簿」。類似スコア:高》


《新規情報:0.01パーセント未満。要約候補:「食べろ」》


 要約欄に、2文字分のスペースしか埋まらない。


《副作用推定:個人の自由時間23分の喪失。軍務通信の遅延リスク:中。王都結界外周ベニヤ板化リスク:低〜中》


《推奨処理:即時アーカイブ。原文保存先:図書館相当の長期記録領域》


 処理推奨:即時アーカイブ。


 だがホログラムは消えない。再生完了まで他の通信がロックされる。仕様だ。


 14分が経過した。ディートリヒはまだ朝食について語っている。朝食から人生観に飛び、人生観から若者への苦言に移り、若者への苦言から自分の若い頃の話に着地した。着地すると離陸しない。永遠の滑走路。


「ここで1つ、私の若き日の失敗談を——」


 ホログラムの右上に、小さく「接続が不安定です」という表示が出た。レオンが閉じるボタンかと思って指を伸ばす。


「おや、通信環境が悪いかな? 冒頭からやり直そう」


 ディートリヒが微笑み、ホログラムが巻き戻った。


「おはよう、若者よ。今日は朝食の重要性について——」


「リプレイ機能まで付けるな……」


 レオンは机の下で拳を握った。善意の自動再生。善意のリピート。悪質な広告よりタチが悪い。


 通信ロック中。


 画面の隅に、未読メッセージの通知が1件点滅している。発信者の名前が小さく見える。アリア。好きな人の名前。


 読めない。ディートリヒの朝食論が終わるまで、読めない。


 23分後。ホログラムが消えた。


 未読メッセージを開いた。


「レオン、今夜少し話せる? 新しいカフェを見つけたの」


 タイムスタンプ。23分前。レオンが朝食の重要性について聴講していた時間に送られていた。


 返信した。「行きたい。何時がいい?」


 返事はなかった。アリアの端末は「既読」のまま、オフラインになっていた。


 23分。朝食の重要性を聞いている間に、夜の約束が消えた。


 それだけではない。23分間ディートリヒの声を聞いた後、自分の頭が少し鈍くなっている。「朝食は大事だ」。そうだろうか。考えようとすると、さっきのホログラムの声が先に答えを出している。自分で判断する前に、判断が配布されている。


 3ヶ月間、毎日これが来る。毎日、自分で考える前に答えが届く。答えは的外れだ。的外れなのに、繰り返されると頭の中に住みつく。自分の思考の隙間を、他人の言葉が先回りして埋めていく。


 これは時間の問題ではない。思考の侵食だ。


 アリアは待っていたはずだ。端末を開いて、既読がつくのを見ていたはずだ。23分間、画面が動かないのを見ていたはずだ。——また返事が来ない。またレオンは忙しいんだ。その23分間に、アリアがどんな顔をしていたか。端末を伏せるとき、ため息をついたのか、それとも黙って棚に戻したのか。レオンには分からない。分からないことが、一番怖い。


 被曝ログ:3か月前。アリアとの初デートの約束が、1度吹き飛んでいる。


 ——待ち合わせの30分前に届いた「今日は行けなくなった、ごめん」が、ディートリヒ老師の『友情とは何か』20,000ルーンの裏に回されていた。レオンがそれを開いたとき、待ち合わせ時間はとっくに過ぎていた。


 その日、アリアは「今度こそ」と笑ってくれた。3回目の「今度こそ」だ。でもその笑顔の端が、ほんの少しだけ乾いていた。4回目は、たぶんない。


 被曝ログ:19日前。魔導炉の警告ログが1本、老師の「夕暮れの散歩」に埋もれた。


 城下町の端にある補助魔導炉が、出力の揺らぎを示していた。担当者が気づいたときには警告から40分が経っていて、現場は焦げた匂いでいっぱいだった。幸い、炉は止まっただけで済んだ。運が悪ければ、外縁区の一角が一晩だけ真っ暗になっていた。


 被曝ログ:5日前。給与通知と人事通達が、人生教訓の陰で1日遅れた。


 昇給を楽しみにしていた新人が真顔で言った。「俺の給与、賢人の『言葉は金を超える』に上書きされました」。人事局は笑わなかった。通信院だけが笑った。笑うしかなかった。


 通信院には、こういう「被曝ログ」が山ほどある。


 †


 昼休み。通信院の休憩室。


 同僚のフェリクスがコーヒーを飲んでいる。フェリクスの机にもクリスタルが積もっている。全員だ。通信院の全職員が、ディートリヒの人生教訓を毎日受信している。


「今朝の被曝量は?」


 フェリクスが聞いた。「被曝」。通信院での隠語だ。ディートリヒのクリスタルを受信することを、全員がそう呼んでいる。


「4万ルーン。朝食、人生観、若者論、自分語り。内容の98パーセントが既出。実務的な情報は0.01パーセント未満」


「俺は今朝2本来た。朝食と、昨日の昼食についてのフォローアップ」


「フォローアップ?」


「昨日の昼食クリスタルで『肉を食え』と言ったのに、今朝のクリスタルで『ただし鶏肉に限る』と補足が来た」


「……それ、1本にまとめられますよね」


「まとめる機能は、ディートリヒ老師のクリスタルには——」


「ない。知ってる」


 コーヒーが苦い。この苦さだけが、4万ルーンの甘い言葉から頭を引き戻してくれる。


「ディートリヒ老師のホログラム、今朝から新機能がついてた」


「新機能?」


「閉じようとしたら、『おや、通信環境が悪いかな? 冒頭からやり直そう』って言って最初からリスタートした」


 フェリクスのコーヒーカップが止まった。


「……それ、悪質なアドウェアでは」


「善意のアドウェアだ。『宮廷の宝』だから苦情も言えない」


「広告なら金で止められるけど、賢人の善意は誰も止められないってわけか」


 フェリクスが天井を見上げた。


「軍務局の暗号班からも来てたぞ、非公式クレーム」


 フェリクスが声を潜めた。


「『賢人の“夕暮れの散歩”のせいで、敵性魔導砲の起動ログの解読が3分遅れた』って」


「3分くらいで騒ぎすぎじゃ——」


「王都結界の外周、2パーセントだけ薄くなってたらしい。結界維持班のやつが真顔で言ってた。『一瞬だけ、外壁がベニヤ板だった』って」


「ベニヤ板で王都守んなよ」


「あと5分遅れてたら、本当に穴が開いてたってさ。ディートリヒ老師の長文の裏で、王都がベニヤ板1枚で持ってた」


 休憩室の空気が、少し重くなった。


「賢人のポエムで砦が飛びかけて、賢人の散歩で王都が落ちかけるのは、さすがに洒落にならないな」


 フェリクスが肩をすくめた。


「でも『宮廷の宝』だからな。誰も“通知オフ”にできない」


「善意だから削除できない。悪意ならまだ楽なのに」


 善意。この世で最も厄介な暴力。殴られたら殴り返せるが、抱擁されたら振りほどけない。


 †


 夜。自室。


 実家から届いていた荷物を開けた。ルーベンス家の書庫から取り寄せた資料。古い記録と、歴代のルーベンス家の女たちのノート。


 紙束の間に、系譜表が挟まっていた。エリザの時代は石板と口頭神託、クラリッサの時代は紙の帳簿とサロン。そこから百数十年かけて、記録媒体は記憶水晶になり、今は王都全域を走る魔導通信網になっている。


 神殿の間違った1文を書き換えるところから始まった「ルーベンス家の反逆」は、いまや王都インフラの仕様書にまで入りこんでいる。石板の誤読を直した家系が、今はホログラムのノイズをデバッグしているだけの話だ。


 先祖のリアの記録があった。「聞き役の祠」の設立メモ。そこに1文。


「まず聞くこと。ただし、聞き続けることと、聞き殺されることは違う」


 議会を回した誰かは「記録を見よ」と言い、記憶水晶を作った誰かは「事実だけは奪えない」と書いていた。ルーベンス家の先祖たちは、全員が「言葉の暴力」と戦ってきた。退屈な話。奪われる時間。上書きされる自分。その全部に、「記録」と「仕組み」で応えてきた。


 ディートリヒの長文は、暴力ではない。善意だ。だが善意の長文が1日4万ルーン降ってきたら、それはもう通信ではない。落石だ。


 言葉は宝石ではない。1日100個降ってくれば、それはただの落石だ。


 朝からのホログラムの残像が瞼の裏でまだ動いている。「若者よ」と呼びかけ続ける声。その声の向こうで、ベニヤ板になっていた王都結界。消えていったアリアの「今夜どう?」。全部同じ回線に流れ込んでくる。


 ——このままだと、アリアの4回目はない。王都の結界がベニヤ板に戻る。新人の給与通知がまた1日消える。


 ルーベンス家の血は、こういうとき情緒より先にログを取る。


(ミュート、はダメだ)


 レオンは机に肘をついた。


(老師が直接来たら終わる。通知を切った若者、という物語が一瞬で生成される)


(ブロックもダメだ。『宮廷の宝に耳を塞いだ逆賊』になりかねない)


(全部聞く、は論外だ。先祖が何代もかけて否定してきたやつだ)


 エリザのノートの一節が浮かぶ。「神の名を盾に、他人の人生を決めるな」。クラリッサの走り書きが浮かぶ。「愚痴を聞くことと、溺れて一緒に沈むことは違う」。


(じゃあ——聞いたことにして、邪魔じゃない場所に“移す”だけなら、誰も傷つかない)


 自分の自由時間も、軍務局の暗号も、王都結界も、アリアの23文字も、同じ回線に乗っている。その回線から、ディートリヒだけを抜く。


 ルーベンス家の仕事は、昔から同じだ。世界から何かを消すことではなく、「適切な棚」を決めてそこに押し込むこと。


 神託は石板から地下資料庫へ、愚痴はサロンから相談所へ、そして今は——長文が通信回線から図書館へ。


 脳内ログ解析OSが、次の提案を出してきた。


《要約アルゴリズムの実装を推奨》


《ルーベンス家標準式:「価値=信頼÷文字数」に基づき、優先順位を再計算できます》


(……やるか)


 処理方針が決まった。


 †


 翌週。魔導通信院の実験室。


 レオンは術式を組んだ。


 名前:「自動要約転送プロトコル ver.1.0」。


 仕様:

 一、受信したクリスタルを開封前にフックする。

 二、魔導演算で内容を3行に要約する。

 三、原文は王立図書館・民俗学資料室に自動転送する。

 四、送信者には「受信完了。大変勉強になりました」の自動返信を送る。


(これで、老師の言葉は1文字も捨てていない)


(通信回線から外して、もっと似合う棚に移すだけだ)


 3行要約のテスト。ディートリヒの先週のクリスタル5本を流し込んだ。


 結果。


 「朝食の重要性について」→ 要約:食べろ。#既出 #根性論

 「努力の尊さについて」→ 要約:続けろ。#既出 #自分語り

 「若者の心構え」→ 要約:がんばれ。#既出 #具体性ゼロ

 「昼食の補足(鶏肉に限る)」→ 要約:鶏肉。#なぜ別便

 「夕暮れの散歩と人生の比喩」→ 要約:歩け。#既出 #ポエム


 5本分の人生教訓が、15文字に圧縮された。


《圧縮率:99.9パーセント。情報損失:実用上無視可能》


 OSが無表情に告げる。


(うん、知ってる)


 追加テスト。手元のクリスタル10本をまとめて流し込んだ。ディートリヒ9本と——


 ログが点滅した。


《テスト中:ディートリヒ9件……アリア1件。要約キュー入り》


 アリア?


 一瞬、術式が発信者名を見ず、受信順だけで処理しようとした。アリアの「今度の日曜、植物園に行かない?」が、「#既出」のラベルを貼られて図書館に飛ぶところだった。


《警告:ホワイトリスト未設定の重要通信を検出》


 脳内OSが、かろうじてブレーキをかける。


 慌てて条件分岐を書き足した。「発信者:アリア → 除外。要約禁止。全文表示。最優先」。


 指が震えた。キーボードの「ENTER」を押す力が、いつもより強かった。


 危ないところだった。世界で一番大事な23文字を、「#既出」のラベルで埋めるところだった。効率化は快感だ。だがその刃は、方向を間違えると大切なものまで切る。


 コメント欄に、1行だけ書き加えた。


 `// この発信者の通信は、王都結界より優先する`


「……お前、何書いてんの」


 フェリクスが後ろから覗いていた。


「結界より彼女を優先するコード書いてるのか」


「……書いてる」


「王都民40万人より?」


「40万人には結界維持班がいる。アリアの23文字を守る人間は、俺しかいない」


 フェリクスが口を開けた。3秒。閉じた。コーヒーを飲んだ。


「……ルーベンス家って、理性的に狂ってるな」


 理性的に狂っている。それがたぶん、一番正確な表現だった。


 王立図書館の検索端末に「宮廷賢人ディートリヒ・人生教訓全集」のフォルダが自動生成された。現時点で327件。全件に3行要約とハッシュタグが付いている。


「レオン、これ本当に動かすのか」


 フェリクスが画面を見つめていた。


 ENTERキーに指を乗せた。1瞬だけ止まった。戻るボタンはない。宮廷の宝を、宝のまま棚に入れる。善意を、善意のまま無害化する。


「動かす。明日から。通信院全体に配布する」


「苦情が来たら?」


「苦情は来ない。ディートリヒ老師には『あなたのお言葉は王立図書館に永久保存されます』と伝える。本人は喜ぶ」


「……喜ぶのか」


「善意の人は、善意の包装紙に包まれると中身を確認しない」


 フェリクスが笑った。「ルーベンス家って怖いな」。


 怖い、の意味は「仕様から世界を書き換える」ということだ。会議で戦わず、プロトコルで世界を変える。


 †


 翌朝。レオンの机。


 術式が稼働した。


 ディートリヒのクリスタルが受信された。ホログラムが起動——しなかった。フックが作動し、開封前に内容が吸い出され、3行に要約され、原文は図書館に飛んだ。


 レオンの端末に表示されたのは、これだけだった。


「受信:ディートリヒ老師。要約:早起きしろ。原文は図書館に保存済み。リンク▷」


 7文字。4万ルーンが7文字になった。


 机が見えた。書類が見えた。ペン立てが見えた。椅子にクリスタルが乗っていない。座れた。


 通信ロックがない。他のメッセージが読める。


 未読1件。アリアから。


「昨日は返事遅くなってごめんね。今日の夜はどう?」


 タイムスタンプ。2分前。


 2分。返事までの距離が、23分から2分に縮まった。4万ルーンの壁がなくなったら、5文字のメッセージが2分で届く。


 返信した。「行く。7時に駅前で」。


 8文字。これで十分だ。


 †


 昼。通信院のフロア。


「本日の被曝申請、0件です」


 庶務の職員が掲示板を見上げて呟いた。これまでは毎日1人はいた。「ディートリヒ由来頭痛のため午後休」。非公式には「被曝休暇」と呼ばれている。


「緊急ラインの遅延ゼロ。軍務局から『最近は早いな』って珍しく褒められたぞ」


 報告を持ってきたのは現場班の主任だ。


「王都結界班からも来てる。『ベニヤ板ゾーン消えました。ありがとう。これで安心して寝られます』だって」


 フェリクスが報告書をひらひらさせる。


「やっと、本来の仕事してる感じするな、ここ」


 誰かが言った。誰も否定しなかった。


 4万ルーンの長文1つずつは“善意”かもしれない。でも、それが回線を占有している間、誰かの給与通知も、炉の警告も、王都結界の変動も、好きな人からの「今夜どう?」も全部詰まる。


 レオンは自分の端末画面を見た。上段には緊急ライン。中段には業務連絡。下段には、アリアとのスレッド。


 全部、自分で並び替えた。奪われ続けていた時間と回線を、プロトコル1つで取り返した。


 †


 翌週。宮廷の廊下。


 ディートリヒ老師が歩いてきた。白い髭。慈愛の微笑み。杖をついている。杖の先端にも小さなクリスタルが嵌め込まれている。歩くたびに光る。


「おお、レオン君。私の教えは届いているかね? 最近は返事も短くて寂しいよ」


「先生」


 レオンは立ち止まった。


「先生のお言葉はすべて、人類の共有財産として王立図書館に寄贈しました」


 ディートリヒの目が光った。王立図書館。共有財産。


「おお……そうか。それはありがたいことだ。私の長年の教えが、ついに公式の記録として——」


「はい。おかげで私は、先生の4万ルーンの教訓を、『よく食べて寝ろ』という7文字の要約として1秒で理解できるようになりました」


 ディートリヒの微笑みが、わずかに揺れた。


「……7文字?」


「正確には、327件分の教訓の要約の平均が7文字です。最短は2文字。『寝ろ』です。なお、327件を魔導演算にかけたところ、古典格言集3冊分の既出の格言と完全一致しました。新規性は0.01パーセント以下です」


「……新規性」


「先生の情熱は、図書館の一番静かな棚に移しました。あそこは情報の宝庫であり、同時に情報の墓場です。先生のお言葉はこれから、人類全体の参考文献として静かに眠っていただきます。貴重な通信回線を過去の再放送で占有するのは非効率ですので、今後、先生のメッセージは自動的にそちらへ転送されます」


「先生。これでもう、私に直接クリスタルを送る手間は省けましたね」


 ディートリヒが黙った。3秒。5秒。


 杖の先のクリスタルが光っている。慈愛の目。穏やかな微笑み。微笑みが少しだけ固くなったが、すぐに戻った。


「……そうか。ならば私は、図書館を通じてより多くの若者に教えを届けよう。レオン君、ありがとう。私の言葉が人類の宝になったのだね」


 満足して歩いていった。杖が廊下の石を叩く音が、遠ざかっていく。


 幸せな隔離。本人は勝利したと思っている。「私の言葉が図書館に」。実態は「二度と通知が来ないフォルダに放り込まれた」だけだ。


 ルーベンス家の先祖たちが磨き上げてきた「退屈な男の正しい捨て方」の完成形だった。捨てずに棚に入れる。棚にラベルを貼る。ラベルに「人類の宝」と書く。本人は宝になったと思って満足する。中身は二度と開かれない。


 †


 夜。駅前から少し歩いた路地裏。新しくできた小さなカフェ。窓際の席。


 アリアがカップを両手で包んでいる。彼女の癖だ。最初の一口をつける前に、必ず両手で温度を確かめる。猫舌なのに、熱い飲み物が好き。矛盾を自覚しているらしく、包んだまま少し笑う。


「ここの豆、ちょっと酸味が強いね」


「嫌い?」


「ううん。好きな方。——あ、そうだ」


 アリアがカップから手を離し、小首を傾げた。


「最近、レオンの返信めちゃくちゃ早くない?」


 来た。


「前は半日くらい待つのが普通だったのに。今朝なんて2分だったでしょ。何かした?」


「……ちょっと整理した」


「整理」


「通信回線の優先順位を、少し変えた」


 アリアが目を細めた。紅茶色の瞳。夕日が彼女の髪を金色に染めている。


「ふうん。——何の優先順位を、何より上にしたの?」


 知っている目だった。レオンが何かを隠していて、それが技術的な何かで、そしてそれが自分に関係していることを、アリアは察している。追及はしない。ただ、面白がっている。


「……国家機密」


「あ、国家機密」


 アリアが笑った。カップを両手で包み直して、一口飲んだ。猫舌なので少し眉をしかめた。それでも飲む。毎回同じだ。


「じゃあ聞かない。——でも、嬉しかった」


 一拍。アリアがカップを置いた。指先で取っ手を回す。何か言おうか迷っている仕草。


「……ねえ、1つだけ聞いていい?」


「うん」


「3ヶ月間、なんで言ってくれなかったの」


 レオンの手が止まった。


「返事が遅いの、忙しいからだと思ってた。でも違うよね。あのホログラムが再生されてる間、読めなかっただけでしょ」


「……知ってたのか」


「通信院の友達に聞いた。ディートリヒ老師のクリスタルが来ると全部ロックされるって」


 アリアが紅茶色の目でまっすぐ見た。怒ってはいない。もっと悪い。悲しんでいる。


「断ればよかったじゃない。『読めません』って1行返せばよかったじゃない。なんで3ヶ月も黙って受信してたの」


 4万ルーンの善意より、この問いの方が重かった。


 なぜ断らなかったのか。「宮廷の宝だから」。「苦情を言えないから」。「波風を立てたくないから」。全部、自分が考えることをやめるための理由だった。ディートリヒの善意は「考えなくていい」と言っている。そして俺は3ヶ月間、それに従った。断る判断を、しなかった。


 アリアの23分は、ディートリヒが奪ったのではない。俺が差し出したのだ。


「……ごめん」


「謝らなくていい。プロトコルは作ったんでしょ。それはすごいと思う」


 アリアがカップを包み直した。


「でもね。プロトコルは『仕組み』の問題を解決したの。3ヶ月間黙ってたのは、仕組みの問題じゃない。レオンの問題」


 刺さった。


 要約プロトコルは技術的な勝利だ。だが、3ヶ月間「仕方ない」と従い続けた自分は、プロトコルでは修正できない。


「……うん。次は、自分で断る」


「うん」


 アリアが笑った。今度は乾いていなかった。


 その一言が、4万ルーンより重かった。


 ディートリヒの4万ルーンは「食べろ」の2文字に圧縮された。アリアの言葉は圧縮できなかった。「なんで言ってくれなかったの」の全部が、全部そのままの形で、レオンの胸に残っている。


 善意の長文から逃げる自由くらい、自分で設計していい。だがその前に、「仕方ない」と言う自分の口を、自分で閉じなければならない。


 脳内ログ解析OS。最終ログ。


《受信メッセージ:1件。発信者:アリア。内容:「嬉しかった」。文字数:5。優先度:最優先。圧縮率:0パーセント。全文保存。保存期間:無期限》


 窓際の席。コーヒーの湯気の向こうで、アリアの笑顔が夕日に金色く揺れている。その数秒の映像が、ディートリヒの327件のクリスタルより、はるかに鮮明に脳内ストレージに刻まれている。


 圧縮率ゼロ。全文保存。


 ルーベンス家の青年は、3行に要約された世界で、自分だけの長い夜を楽しみ始めた。

お読みいただきありがとうございました。

次は明日18:00投稿予定です。


次回:旅する書記官カイ。最終話の1つ前。


広場で終末予言者が叫んでいる。「明日、王都は滅ぶ」。

母親が、今夜の夕飯のパンを差し出そうとしている。

カイのOSが、予言者の的中率を算出した。

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