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【リーナ編】上司の「全体感で捉えて」を数えたら、功績泥棒の証拠が揃った

魔導師リーナ・ルーベンス、23歳。功績泥棒の上司と、記録で決着をつける話。

 王宮魔導塔。研究棟3階。小会議室。


 午前10時。窓のない部屋。魔導灯の青白い光が、8人の魔導師の顔を均等に照らしている。光が強すぎて、徹夜明けの目には少し痛い。


 壁には術式図が3枚貼ってある。魔力収束陣の模式図。半年前の安全指針。その隣に、まだ何も描かれていない真っ白な板が一枚だけ残っている。


 机の上には、リーナが作った新しい魔力収束術式のグラフと計算式が広げてある。2ヶ月間の実験データ。6種類の比較検証。暴発リスクを従来の40パーセントから12パーセントに下げる設計。徹夜4本分の数字。


 椅子の背もたれは固い。リーナ・ルーベンスは背中をぴたりとつけ、両足のかかとを床に揃えて座っていた。膝の上には、細いルーンペン。指先で軽く転がす。転がして、止める。


 リーナ・ルーベンス。23歳。クラリッサの姪。魔導工学専攻。術式設計と魔力装置が専門。


「この収束パターンでは、非線形の魔力場を3段階に分けて——」


「うーん」


 2文目で遮られた。


 ハルベルト上級魔導師。50代。席の真ん中。王宮魔導塔・第三研究班の班長。年度評価と研究予算の決裁権を持っている。


 白髪混じりの髪。大きなローブ。腕を組んでいる。穏やかな声。穏やかな声で、穏やかに人の話を潰す。


 この人の若い頃の論文は知っている。非線形理論の基礎論文。引用回数は塔内2位。30年前に書かれた。あの論文は本物だ。術式の美しさ、着想の鋭さ、証明の手際——23歳の私が読んでも、嫉妬するレベルの仕事。


 ただ、あの論文から30年、この人は何も新しいものを書いていない。2位の数字だけが、この椅子を支えている。


「もっとこう、全体感で捉えてくれないかな? 枝葉末節にこだわると真理が見えなくなるよ」


 正の字。本日の「全体感で捉えて」:1回目。


 枝葉末節。2ヶ月の実験データが枝葉。暴発リスクの28ポイント低減が末節。徹夜4本分が細部。


「はい。全体としましては、従来術式の暴発リスクを——」


「リーナくん」


 ハルベルトが微笑んだ。微笑みの形をした遮断。


「数字は大事だけどね。私たち魔導師は、数字の奥にあるものを見なくちゃいけない。分かるよね?」


 正の字。「分かるよね?」:1回目。


正の字。「分かるよね?」:1回目。

分からない。あなたが数字の奥に何を見ているのか、2年間一度も分かったことはない。私に見えるのは、あなたの口から出力される論理欠陥(システムエラー)の羅列だけだ。


 隣の席で、若手魔導師のカスパーが手を挙げた。目の下にクマがある。前夜、リーナと一緒に実験を回していた。


「あの、リーナさんの収束パターンの第2段階で、出力値が——」


「カスパーくん」


 ハルベルトの声が柔らかくなった。柔らかい声は危険信号だ。カスパーの視線が一瞬だけ緊張で泳ぐ。


「私の言いたいこと、分かるよね? 魔導師なら、言葉にしなくても響き合うものがあるはずだ」


 会議室の隅で、別の若手がそっとノートを閉じた。

 逆らうと、来期の研究テーマが消える。先輩がそれで別班に飛ばされた。


「……はい」


 カスパーが手を下ろした。響き合わなかった。


 リーナは、膝の上のルーンペンを一度だけ強く握りしめた。インクが指に少しだけ滲んだ。


 †


 30分後。会議の締め。


 実験データの話を「枝葉」と言われながら、リーナは何とか口を挟んで、術式の核心、非線形収束の3段階制御と安全係数の設定を説明し終えた。


 ハルベルトが立ち上がった。ローブの裾がわずかに揺れる。


「素晴らしい。ようやく私の意図が君に伝わったようだね」


 正の字。「私の意図」:1回目。


「皆、今のがプランBの核心だよ。私が以前から温めていた構想を、リーナくんが実装してくれた形だ」


 プランB。聞いたことがない。温めていた構想。聞いたことがない。


「いやあ、先週のティータイムに私がチラッと言ったヒントを、ここまで形にしてくれるとは。君の努力を私は誇りに思うよ、リーナくん」


 先週のティータイムで話したのは、先生の砂糖の摂取量についてだけだ。ヒントは出ていない。砂糖は出た。


 リーナは微笑んだ。侯爵令嬢の——いや、ルーベンス家の女の微笑み。完璧に。唇の角度も、目元の柔らかさも。曾祖母エリザも、叔母クラリッサも、こうやって微笑みながら数えていたのだろう。


「ありがとうございます。ハルベルト先生のご指導のおかげです」


 指導は受けていない。ご指導は0回。


 ハルベルトが近づいてきた。リーナの肩をぽん、と軽く叩く。


 肩ポン。本日1回目。


 この接触により、集中力は2パーセント低下し、ローブのクリーニング代として5デナリの損失が発生している。


 触れるなら、せめて手を洗ってからにしてほしい。


 リーナは微笑みを保ったまま、ペン先で机の角を一度だけ小さく叩いた。


 †


 廊下。会議室を出て30秒後。


「あ、リーナくん」


 ハルベルトが追いかけてきた。声が低くなっている。会議室の中とは別の声。周囲を確認している。廊下に他の研究者はいない。


「さっき君が言ってた“非線形魔力収束”の3段階制御って、具体的にどういう仕組みだったかな? 私の理解と合っているか確認したくてね」


 3回目だ。会議で理解したふりをし、裏で聞きに来るのは3回目。


「簡単に言いますと、第1段階で魔力場の位相を——」


「うんうん。それは分かっている」


 分かっていない。


「そうじゃなくて、もっと感覚的にだね? 君の説明はどうも理屈に偏りすぎている。魔導の『心』が伝わってこないんだよ」


 魔力収束術式に心はない。位相と周波数と減衰率がある。


 説明しながら、ハルベルトの視線が壁の時計にちらちら動くのが見えた。1回。2回。3回。爪を撫でている。説明の6割が終わったところで、深い溜息がきた。


「はぁ……君はまだ、魔導の『心』が分かっていないようだね」


 自分で聞いておいて、聞いていない。理解できないと、部下の心が足りないことになる。


「……もう少し分かりやすい比喩を使って、もう一度ご説明しましょうか」


「頼むよ。あ、でも今忙しいから、明日の朝にね」


 ハルベルトが去った。肩をぽんと叩いて。


 肩ポン。本日2回目。


 二度目の接触で、集中力はさらに1パーセント低下し、機嫌の悪化によりカスパーの残業時間が30分増える計算になる。


 翌日の報告書。末尾に「監修:ハルベルト」と書き入れるよう言われた。監修した事実はない。書き入れた後、また肩をぽんと叩かれた。


「君の名前もちゃんと載せておくからね。私の監修のもとでという形で」


 肩ポン。3回目。「私の監修のもと」:1回目。


 その一行のせいで、査定の功績ポイントは3割持っていかれる。


 リーナは、報告書の端に小さく「監修実績:0回」と自分用メモを書き込んだ。


 †


 翌週。実験室。


 新術式を組み込んだ魔力装置のテスト。


 装置は銀色の球体で、内部に術式陣が刻まれている。魔力を注入すると収束が始まり、設計通りの出力値で安定するはずだ。はずだが、出力の限界値を超えると暴発する。


 魔力流量計が、球体の周囲に淡い光をまとわせている。匂いはまだない。暴発前の空気は、張り詰めた水面みたいだ。


「この出力値を超えると暴発します。ここで一度止めて、安全弁を調整してから——」


「いいから進めなさい」


 ハルベルトが腕を組んでいる。装置の3メートル後ろに立っている。安全な距離。背後には分厚い机。


「責任はすべて、この私が取る」


 正の字。「責任は私が取る」:今月3回目。


 取ったことがない。1度も。


 装置に魔力を注入した。


 出力値が上がる。60パーセント。70。80。魔力計の針が右に滑るたび、リーナの背中に汗が一筋流れた。


 リーナの設計した安全係数では、85パーセントで一度止めるべきだ。


「もう少し上げてみよう。限界を知ることも研究だ」


 90パーセント。装置が低く唸り始めた。術式陣の一部が赤く発光し、金属の表面に細かいひびのような影が走る。


「先生、ここで止めないと——」


 95パーセント。


 破裂音。肺の奥まで響く鈍い衝撃。装置の外殻にひびが入った。金属が裂ける高い音。


 魔力が漏出した。青白い閃光が実験室を走った。髪が逆立つ。鼻の奥を刺す焦げた空気の匂い。頬を撫でる風が熱い。


 リーナは咄嗟に手を伸ばした。術式陣の制御回路に直接魔力を流し、安全弁を手動で書き換えた。指先が焼けるような熱。皮膚の表面が焼けたパンのような匂いを立てる。


 2秒。3秒。出力が下がり始めた。70。60。50。針が安定域に戻る。


 振り返った。


 ハルベルトが机の陰に半分隠れていた。ローブの裾だけが机からはみ出ている。


「……よし。私の冷静な判断で、大事には至らなかったな」


 冷静な判断。机の陰に隠れることを冷静な判断と呼ぶなら、そうだろう。


 実験室の端の棚の一部が黒く焦げていた。壁に貼っていた古い術式図の端が、炭のように丸まっている。


 カスパーが震える手でメモを取っていた。右の手のひらに赤い線がある。暴発の瞬間、飛んできた外殻の破片を素手で払ったらしい。ペン先が紙に何度も引っかかる。


 この人の「責任」は、いつも安全な距離からだけ発動する。


 †


 その夜。塔の自室。


 指先に薬を塗ろうとした。軽い火傷。術式の書き換えを手動でやった代償。


 ドアが開いた。カスパーが救急箱を持って入ってきた。何も言わずに隣に座り、リーナの手を取った。


 薬を塗る指が、かすかに震えていた。怒りだ。リーナではなく、ハルベルトに向けた怒り。でも声は出さない。指先だけが震えている。


「……ありがとう」


「先生の手が治らなかったら、術式を書ける人間がこの塔からいなくなります。業務上の損失です」


 業務上、と言いながら、薬を塗る手は丁寧すぎた。


 大したことはない火傷だ。でも、ハルベルトの指は1本も汚れていない。


 破損した装置の修理費。遅れた日数分の研究費。自分の治療費。ざっくり桁だけを揃えて、頭の中で一つの数字にまとめた。


 頭の中でざっと足しただけでも、300デナリは軽く超える。カスパーの治療費まで入れたら、400の手前までは行く。


「責任を取る」と言うなら、この金額は誰が払うのだろう。


 薬の匂いが鼻に残っている。カスパーの指が震えていた感触が、まだ皮膚に残っている。


 火傷の痛みより、別のものが痛い。


 2年間。私は「先生のご指導のおかげです」と言い続けた。報告書に「監修:ハルベルト」と書き入れた。肩を叩かれて微笑んだ。全部、自分の手でやった。


 ハルベルトが奪ったのではない。私が差し出したのだ。


 叔母クラリッサが「大変ね」を15年間言い続けたと書いていた。私の「ご指導のおかげです」は、あれと同じだ。場を維持するための嘘。相手を正すのではなく、自分の席を守るための笑顔。


 ルーベンス家の微笑みは武器のはずだった。私はそれを、檻の鍵を内側から閉めるために使っていた。


 あの論文。30年前の、本物の論文。あれを書いた人間が、いつからこうなったのだろう。いつから「全体感」という言葉で自分の空洞を隠すようになったのだろう。構造が人を空洞にする。叔母クラリッサの手紙にそう書いてあった。ハルベルトもまた、構造の産物なのかもしれない。


 だからといって許さない。構造の産物だからこそ、構造ごと変える。


 ルーベンス家からの荷物が届いていた。クラリッサ叔母からの手紙。封蝋にはルーベンスの紋章。


 封を切った。


「リーナへ。


 手紙ありがとう。あなたの上司の話、読みました。一つだけ。


 『責任は私が取る』と言うだけの無能な男には、証拠を突きつけなさい。彼らが言葉で塗り替える『功績』を、あなたは書き換えられない記録で奪い返すのです。


 追伸。

 あなたの隣で共に火傷を負い、手当てをしてくれる若者がいるそうですね。もし彼が、あなたの数字に『補助可』という一行を添えられる男なら、その変数だけは大切になさい。有能な女が、背中を預けられる共犯者に出会う確率は、新術式の発見より希少なのですから。


 叔母より。」


 証拠をつけて返す。


 ハルベルトの言葉を思い返した。


「責任は私が持つ」。だから黙ってろ。


「預かる」。だから忘れろ。


「私の意図が伝わった」。だからお前の功績ではない。


 「責任を取る」という言葉を、この人は「何も説明しない権利」だと思っている。


 なら、言葉ではなく、何をしていたかの全部を記録すればいい。


 エレオノーラが大評議会で使った記憶水晶の話は知っている。議会用の術式だ。発言と映像を同時に記録し、塔内の要所に据え付けた水晶に、過去数週間分の光景を蓄えている。


 魔導塔にも、同型の水晶がとっくに導入されている。会議室の隅。実験室の棚。廊下の柱の窪み。そこにあるのが当たり前になりすぎて、誰も真面目に見たことがないだけだ。


 なら、それを使えばいい。


 議事録用の水晶を、研究記録用の武器に変える。


 水晶の内部構造を頭の中で展開する。映像と音声の記録層。その下に、魔力の残滓から逆算した位相情報の薄い膜。そこに、もう一層、魔力波形のログを重ねる。


 誰が装置に触れていたか、魔力の流れまで記録できる。「理解している」と言っている瞬間の魔力波形が空白だったら、それも証拠になる。


 ルーンペンを握る指先の痛みが、かえって集中を助けてくれる。


 以前のように、心の中で「正の字」を書いて耐えるのは、もうおしまい。


 指先の火傷は、数えるだけでは治らない。


 これからは、水晶に数えさせればいい。


 †


 解析術式の骨格を組み終えた翌朝、リーナは仕様書だけを塔長室に提出していた。


「研究記録の精度向上を目的とする」とだけ書かれた届出書。


 塔長は眉をひとつ上げ、「実装と運用は君に任せる」とだけ言って、署名した。


 塔長室を出た廊下で、ハルベルトとすれ違う。


「リーナくん、塔長に何を出したのかね」


「記憶水晶の運用精度に関する仕様書です。一応、先生の机にも同じものを置いておきましたが」


「ああ、あの分厚い束か。後で『全体感』だけ確認しておくよ」


 彼はそう言って、私の肩を叩いて去っていった。


 その「後で」が永遠に来ないことを、私は知っている。


 彼は、自分を破滅させる術式の仕様書に、自分で「承認」の印を押したことすら気づかないまま、今日もティータイムへ向かうのだろう。


 †


 それから3日後の夜。実験室にて。


 記憶水晶用の解析術式が完成した。一人で組み上げるつもりだった。


「手伝います」


 カスパーが扉の前に立っていた。


「これ、バレたら私の責任になる。あなたまで巻き込めない」


「バレたら、僕がクビを肩代わりします」


 カスパーがまっすぐリーナを見た。


「先生が一人で背負う必要はないです」


 リーナは少し言葉を探した。ルーベンス家の女は、一人で数えて、一人で殴るものだと思っていた。


「……ありがとう。でも、二人でクビになったら誰が術式を回すの」


「三人目を育てておきます」


 笑った。計算としてはまったく正しい。


 研究棟3階の廊下の突き当たり、小会議室の扉の上に据え付けられた小さな水晶。その管理用の符号にアクセスし、ログ抽出用のルーンを上書きする。


 青白い光が一度だけ脈打った。


 昼間の会議の映像が、水晶の上空に淡く浮かび上がった。薄い霧の幕に、色の薄い影が投影されるように。


 ハルベルトが壇上で語っている。「皆、今のがプランBの核心だよ。私が以前から温めていた構想を、リーナくんが実装してくれた形だ」。堂々と。自信に満ちて。


 解析術式が、映像の下に新しい層を描き足していく。魔力波形のログだ。発言の瞬間に、誰の魔力がどこでどれだけ動いていたか、一目で分かる形に。


 同じ日の廊下。30分後。別の水晶に切り替える。研究棟の廊下の柱に埋め込まれた、水晶番号B-12。


 ハルベルトがリーナに小声で聞いている。「で、さっきの非線形収束って、具体的にどういう仕組みだったかな?」


 表の顔と、裏の顔。同じ日に、同じ人間が、同じ術式について、正反対のことを言っている。


 会議室で「理解している」と頷いていたとき、ハルベルトの魔力波形はほぼ直線だ。装置に一切触れていない。廊下で説明を聞いているときだけ、わずかに魔力が揺れている。


 映像を切り替える。今度は実験室の天井に据え付けられた水晶。暴発の日のログ。


 ハルベルト「責任はすべて、この私が取る」。装置の前で腕を組んでいる。


 3秒後。破裂音。青白い閃光。机の陰に飛び込むローブの裾。装置の前に飛び出す、自分の背中。術式陣に手を伸ばし、魔力を流し込む瞬間のまぶしい光。


 翌日の小会議。別の部屋の水晶に切り替える。「私の冷静な判断が事故を防いだ」と語るハルベルト。その後ろで、包帯を巻いた自分の指先が小さく映っている。


 映像が終わった。


 カスパーは先に帰した。ここから先は一人で見る。


 実験室に一人。天井の水晶の微かな光だけが、リーナの顔を照らしている。


 証拠は、最初から塔じゅうにばら撒かれていた。ただ、誰も拾っていなかっただけだ。


 †


 それから3週間。記憶水晶は黙々と仕事を続けた。


 「全体感で捉えて」——トリガー。会議室の水晶が一瞬だけ明滅する。

 「私の意図が伝わった」——トリガー。発言の前と後の、魔力波形の差分が記録される。

 「責任は私が取る」——トリガー。その瞬間の位置と距離がログに残る。


 リーナの解析術式は、塔内の水晶から該当する時間帯だけを自動で抜き出し、一覧に並べていく。誰がどれだけ手を動かしているか、一目で分かる表になっていった。


 2週間目。休憩室で端末を操作していたとき、扉が開いた。


 ハルベルトだった。


 反射的に端末を裏返した。画面に映っていたのは、先週の会議の波形ログ。ハルベルトの魔力出力がゼロの区間が、赤い線でハイライトされていた。


「何をしているのかね」


「報告書の下書きです」


「……そうか」


 ハルベルトの目が端末を一瞬見た。裏返された画面の、微かな青い光漏れ。見えたか。見えていないか。


 ハルベルトが出ていった。


 手のひらが汗で滑っていた。端末の裏面に、指の跡が残っている。心臓の音が、しばらく収まらなかった。


「……先生、装置に触れてた時間、僕の10分の1ですね」


 端末に映し出された波形ログを見て、カスパーが苦笑混じりに言った。


「そうね」


「これ、出していいんですか」


「まだ。溜めてから」


 ルーベンス家の女は、数えるときはいつもまとめてだ。紙の正の字から、水晶のログに変わっただけ。


 †


 魔導塔。研究棟3階。休憩室。


 昼休み。石壁に囲まれた小さな部屋。窓はなく、魔導灯の白い光がテーブルの上だけを平たく照らしている。壁際の古いソファには、長年の疲労が沈み込んでいて、座ると腰が抜けそうになる。


 テーブルに4人の若手魔導師が集まっていた。


 湯気の立たなくなった薬草茶。カップの縁に茶渋が薄く残っている。魔導塔の休憩室にはコーヒーがない。予算申請を3年連続でハルベルトに却下されている。「魔導師は精神の澄明を保つべきで、刺激物は——」と言われた。本人は夜になるとワインを飲んでいる。


 火傷した指先が、ぬるいカップの熱でじんと痛んだ。この痛みが、暴発事故の記憶をきちんと保存してくれている。


「ねえ、聞いた? ハルベルト先生がまた論文に自分の名前を一番上に載せたらしい」


 カスパーが言った。若手魔導師。あの会議で質問を潰された男。


「知ってる。あの論文、データ取ったの全部マルティンだよ」


「僕ね、3ヶ月かけてデータ取ったのに、先生が“ティータイムの助言”で名前載せたの。ティータイム。助言。5分」


 マルティンが笑った。笑うしかないのだ。その笑いは薬草茶より苦い。


「私はもっとひどい。先月の発表で、術式の核心を説明したら、ハルベルト先生が最後に『つまり今のが私の考えていたプランBの核心だよ』って。プランBなんか聞いたことない」


 リーナが言った。


「聞いたことないのに聞いたことないって言えないのが問題だよな」


「言ったら干されるもん」


 4人がため息をついた。薬草茶がさらに冷えた。カップの底の茶葉だけが、まだ仕事を続けている。


「……一つ、見せたいものがあるの」


 リーナが鞄から記憶水晶を取り出した。親指の爪ほどの大きさ。青白い光が、休憩室の薄暗さで少しだけ強く見える。


 卓上にそっと置き、術式を起動した。


 映像。先月の会議室。ハルベルトが壇上で「これが私の構想していた新しい術式の全体感だ」と語っている。堂々と。自信に満ちて。


 同じ日の廊下。30分後。ハルベルトがリーナに小声で「で、さっきの非線形収束って、具体的にどういう仕組みだったかな?」と聞いている。周囲をきょろきょろ見回しながら。


 表の顔と裏の顔。同じ日。同じ術式。


 4人が固まった。カップを持つ手が止まる。薬草茶の表面に、小さな波紋だけが広がった。


「……撮ってたのか」


「エレオノーラが大評議会で使った記憶水晶術式を、研究用に改良したの」


 リーナは淡々と言った。


「魔力波形も録ってる。理解している人と、してない人の差が、一目で分かるように」


「これ評議会に出そう」


 カスパーが言った。


「出す。でも、個人の仕返しにはしたくない」


 リーナは水晶をテーブルに置いた。底のほうで光が一度だけ脈打つ。


「構造を変える一撃にしたい。ハルベルト先生一人を落とすんじゃなくて、『功績の横取りが許される空気』を変える」


 マルティンが薬草茶を飲み干した。空のカップの底に、小さな茶葉がひとつ貼りついた。


「次の魔導塔評議会、いつだ」


「来週の金曜」


「録れてるデータ、他にもあるのか」


「3週間分。17件の発言。うち9件が、裏で私か誰かに意味を聞きに来ているシーン付き」


 マルティンが目を丸くした。


「17件のうち9件って、半分以上じゃないか」


「53パーセント」


 リーナは数字を言った。


「ハルベルト先生の公式発言の53パーセントが、自分で理解していない内容です」


 ルーベンス家の女は、数字で殴る。


 カスパーが苦笑した。


「……その数字、評議会で言うつもり?」


「ええ。できるだけ短く、はっきりと」


 リーナはカップの残りを一口飲んだ。ぬるくてまずい。でも、喉は少しだけ軽くなった。


 休憩室の空気が、薬草茶より少しだけ甘くなった。


 †


 金曜日。魔導塔評議会室。


 大きな円卓。天井に魔導灯の連なり。壁に歴代塔長の肖像画。どの顔も真面目で、どれも少し疲れている。額縁の金箔が、ところどころ剥げていた。


 列席者。塔長。上級魔導師6人。中堅3人。書記官2人。そしてリーナを含む若手が4人。末席に、王弟フリードリヒが学術顧問として座っている。退屈そうに椅子を揺らしているが、目だけは笑っていない。


 塔長は、塔内で一番「記録」という言葉を信じている男だ。


 部下に甘くも厳しくもない。ただ、書かれていないことだけは絶対に信じない。


 ハルベルトが立ち上がった。壇上。


「本日は、我がチームの研究成果をご報告いたします」


 魔法陣による浮遊文字が空中に展開した。術式の概要図が宙に浮かんでいる。リーナが作った図だ。リーナの名前は入っていない。


「非線形魔力収束の3段階制御。これは私が以前から温めていた構想を、チーム一丸となって実装した成果です」


 壇上で胸を張るハルベルト。


 以前の私なら、ここで心に「正の字」を書いていただろう。


 だが今は、ただ手元の端末で抽出命令(クエリ)を実行するだけだ。三週間分の全ログから、この「構想」という発言と、その直後に裏で私に仕様を尋ねてきた矛盾を、一対一で紐付ける。


「部下もよく働いてくれました。私のディレクションの賜物です」


 抽出命令(クエリ)を実行。


 三週間前、先生が廊下で「具体的にどういう仕組みかな?」と私に縋ったあの音声ログが、今、手元の端末でこの発言と紐付けられた。


「この術式が完成すれば、暴発事故は劇的に減るでしょう。魔導塔の未来を、私たちの手で切り拓く——」


「先生」


 リーナが手を上げた。指先の火傷跡が、灯りに白く浮かぶ。


 ハルベルトが振り返った。穏やかな微笑み。だがその目の奥に、わずかな警戒が走る。


「何かね、リーナくん」


「補足説明と、一つご確認をさせてください」


「もちろん。遠慮なく」


 遠慮なく。その言葉を、そのままお返しする。


「塔長のお許しをいただければ、記憶水晶による記録映像をお見せしたいのですが」


 塔長が短く頷いた。王弟が身を乗り出した。


「面白そうだ」


 フリードリヒが小声で呟くのが、末席から聞こえた。


 リーナが水晶を起動した。


 術式が展開し、空中に二つの投影面が浮かんだ。左と右。二分割。魔導塔ならではの演出だ。


 †


 左の投影面。先月の研究報告会。


 ハルベルトが語っている。「皆、今のがプランBの核心だよ。私が以前から温めていた構想を、リーナくんが実装してくれた形だ」。堂々と。自信に満ちて。


 右の投影面。同じ日。30分後。廊下。


 ハルベルトが低い声でリーナに聞いている。「で、さっき君が言ってた非線形魔力収束って、具体的にどういう仕組みだったかな?」。周囲を確認しながら。


 左と右が同時に流れている。同じ日。同じ人間。同じ術式について。表では「私の構想」、裏では「意味を教えてくれ」。


 投影面の下に、魔力波形のオーバーレイが薄く浮かんだ。


 左側でハルベルトが「プランBの核心」と語っている瞬間の波形は、ほぼ空白。


 右側、リーナが説明している瞬間の波形は、整然とした収束パターンを描いている。


 並べて見れば、誰の目にも明らかだった。


 評議会室が静まった。魔導灯の微かな唸りだけが聞こえる。


 †


 映像が切り替わる。


 実験室。ハルベルトが腕を組んでいる。「責任はすべて、この私が取る」。


 数秒後。破裂音。青白い閃光。ハルベルトが机の陰に身を隠し、リーナが前に飛び出して術式陣を書き換える。指先が光り、魔力が収束してゆく。


 画面の隅に、魔力ログが表示される。


 リーナの魔力出力:最大値の92パーセント。

 ハルベルトの魔力出力:ゼロ。


 短く映像が切り替わる。翌日の小会議。「私の冷静な判断が事故を防いだ」と語るハルベルト。背景で、包帯を巻いたリーナの指先が一瞬だけ映る。


 それだけで足りた。


 †


 最後に、短いカットがいくつか続いた。


 会議中に時計をチラチラ見るハルベルト。リーナの説明の途中で3回。


 若手の質問を「分かるよね?」で流す場面。


 報告書の「監修:ハルベルト」の文字と、開かれたことのない羊皮紙。


 リーナの肩に置かれる手。肩ポン。


 映像の横に、解析結果がタグ付けされて表示される。


『不必要な身体接触による業務阻害、および実務を伴わない監修実績の詐称』。


 以前は「損失」として数えていた不快感のすべてが、今は彼を追い詰めるための証拠物件(エビデンス)に変わっていた。


 映像が消えた。


 評議会室が無音になった。


 映像の横で、上級魔導師の一人が自分の手元の報告書を見つめ、ハルベルトの「監修」という署名を指先でなぞって眉をひそめた。別の中堅魔導師は、時計をチラチラ見る映像の中のハルベルトと、今まさに狼狽して時計を見ている本人の動きが一致したのを見て、深い溜息を吐いた。


 円卓を囲む者たちの沈黙が、「驚き」から「軽蔑」へと、明確に色を変えた。


 ハルベルトの顔から血の気が引いていた。


「これは……無許可の監視だ!」


 ハルベルトが声を上げた。怒りではない。生存本能だ。


「塔長! これは研究記録の私的流用です。リーナくんの個人的な恨みを——」


 塔長は軽く咳払いをした。


「その解析術式は、一ヶ月前に私が承認している。研究棟の公式水晶の記録を精緻に読み出すためのものとしてな」


「記録は研究棟の公式水晶から取得しています。保存された映像と魔力ログをいじれば、術式の仕様上、必ず改竄の痕が残ります」


 リーナは冷静に付け加えた。だが、ハルベルトの目が変わった。追い詰められた者の目。


「だとしても、映像の編集は可能だ! 都合の良い部分だけを切り取って、私を陥れようとしている!」


 評議会室がざわめいた。上級魔導師の一人が、書記官に目配せした。記録に残る言い争いだ。


 リーナは口を開きかけた。データの無編集性を証明する術式の仕様を説明すれば——


「先生」


 カスパーが立ち上がった。末席から。声が震えている。でも、立っている。


「先生が寝ていた時間のログも、全て保管されています」


 評議会室が静まった。


「暴発事故の日、装置の前にいたのは僕とリーナさんです。僕の手にも火傷の跡があります」


 カスパーが右手を掲げた。掌に、薄い傷跡。リーナの火傷より小さいが、同じ日の、同じ装置の痕だ。


「映像の編集だと仰るなら、僕の手の傷も編集ですか」


 ハルベルトの口が開いた。閉じた。


 データだけなら「改竄」と言い逃れられる。だが、目の前の人間の手に残った傷跡は、消せない。


「もう一点だけ」


 リーナが羊皮紙を一枚、円卓に置いた。


「銀球体外殻の再鋳造費、一式185デナリ。

 私の指先の治癒魔法代48デナリ。カスパーの火傷の治療費32デナリ。

 実験停止に伴う若手3名の延べ40労働時間分――時給3デナリ換算で120デナリ。

 合計385デナリです。端数は、私とカスパーの自腹で切っています」


 一拍。


「先生は『責任はすべて私が取る』と、記録に残っているだけで十数回仰いました。補填の書類はこちらで用意してあります」


 責任という言葉が、初めて確定債務(請求書)の形で目の前に置かれた。


 塔長がハルベルトを見た。


「ハルベルト。これでも”君の功績”と言い張るのかね」


「私は……研究全体の方向性を……」


「方向性」


 末席から、王弟フリードリヒの声が飛んだ。品位ゼロの笑顔で。


「方向性を示した人と、術式を書いた人と、暴発を止めた人が、全員同じ報酬を受けるべきだと? それは”全体感”ですか? それとも”盗み”ですか?」


「私は全体を見ていた——」


「その”全体”に、手は触れていません」


 リーナは、はっきりと言った。カスパーがまだ立っている。隣で。


 数字と、傷と、二人の声。調査官ではなく、この場にいる全員が「これはもう誤魔化せない」と理解した。


 †


 評議会決定。


 ハルベルトは現場研究から外す。地方のアルトハイム魔術学院の講義専任として異動。


 塔長が言った。


「ハルベルト。君の若い頃の論文は確かに優れていた。非線形理論の基礎を築いた功績は、学術史に残っている」


 塔長が一拍置いた。


「君の素晴らしい『全体感』や『魔導の心』は、まだ基礎を学んでいる学生たちには良い刺激になるだろう。数字や手順が必要な現場の仕事は、これからもリーナたちが担当する。学院で、次の世代に君の理論を教えなさい」


 「全体感」「魔導の心」。ハルベルト自身の言葉が、そのまま「現場には不要なもの」として定義し直された。


 ハルベルトは何も言わなかった。椅子から立ち上がり、評議会室を出ていった。


 扉が閉まった。これで、魔導塔における最大の脆弱性(セキュリティホール)の修正は完了した。


 4人の若手は何も言わなかった。拍手もしなかった。ただ、この班に来てから初めて、肺の奥まで空気が入った。


 廊下に出た。カスパーが壁に背をつけて座り込んでいた。膝が震えている。


「……立てる?」


「立てます。膝が笑ってるだけです」


「あなた、あの場で立つ必要なかった」


「必要でした」


 カスパーがリーナを見上げた。


「これであなたの指を汚す無能は、もうこの塔にいません」


 実務と、実務ではない何かが混ざった声だった。リーナは、その混ざり方を数値化できなかった。


 †


 翌週。魔導塔内に新しいルールが通達された。


一、研究成果の発表時は、貢献した魔導師全員の名を記録に刻む。

二、記憶水晶の作業ログを、貢献判断の参考資料として認める。

三、論文著者欄は、実験・設計・指導・資金の各貢献に分類して記載する。


 壁の掲示板に新しい規程が貼られた。古い「全体感で捉えよ」という標語の横に。


 その標語の下に、小さな字で誰かが書き足していた。


「※まずは手を動かしてから言いましょう」


 字の癖からして、たぶんカスパーだ。


 同じ頃、塔長は記録局の書記官にこっそり指示を出していた。


「今回の記憶水晶ログの運用例を、王都の他塔にも回しておきなさい。功績配分の透明化の参考になるだろう」


 若手の連絡網とは別に、公式のルートでも、同じ種の術式がじわじわと広がっていった。


 リーナは、自分が組んだ術式の設計図を、塔内と王都近郊の魔導塔にいる、顔の分かる若手数人にだけ送った。


 若手同士で回している、小さな連絡網だ。まだ“全国ネットワーク”なんて呼べる規模ではない。


「功績泥棒がいなくなるわけじゃない。でも、盗まれた側が泣き寝入りしなくて済む仕組みくらいは、僕たちで作れる」

 カスパーが言った。


 翌朝。実験室。


 カスパーが、初めて通った予算で買った豆を挽いていた。石臼が回る低い音。部屋に広がる、今まで嗅いだことのない香り。

 

 カップを差し出された。黒い液体。湯気が細く立ち上る。


 一口飲んだ。苦い。そして、その奥に、舌の根が震えるような深さがある。薬草茶とは次元が違う。


「先生の言う通りでした。刺激物は毒ですね」


 カスパーがカップを傾けた。


「これを知ってしまったら、もう前の薬草茶には戻れません」


 コーヒーの話をしている。コーヒーの話だけをしている。はずだ。


 リーナは心拍が少しだけ速くなっているのに気づいた。計測癖で脈を数えかけて、やめた。この数値は、ノイズとして処理すべきだ。すべきなのに、処理が走らない。


「著者欄、見ましたか」


 カスパーが新しい規程の書類を広げた。論文の著者欄に、「リーナ・ルーベンス」と「カスパー」の名前が並んでいる。


「僕の名前が、あなたの隣にあります」


 それだけ言って、カスパーはコーヒーを飲んだ。


 リーナは、その一文の解析に必要な変数が、まだ定義できていないことに気づいた。


 薬草茶が、今日からコーヒーに変わった。


 †


 夜。自室。


 クラリッサへの返信を書いた。


「叔母様へ。


 証拠をつけて返す、実践しました。


 魔導塔で、研究に貢献した全員の名前が記録されるようになりました。上司は地方学院に異動しました。若手が少し息をしやすくなりました。


 あと、コーヒーの予算が通りました。


 これが一番嬉しかったかもしれません。


 リーナ・ルーベンス」


 手紙を封筒に入れた。封蝋が固まるのを待つあいだ、机の上の記憶水晶を見つめた。


 青白い光が微かに残っている。3週間分の記録。17件の発言。9件の裏の顔。


 全部が、水晶の中に残っている。言葉は何度でも塗り替えられる。でも、水晶の中の「その場にいた事実」だけは、もう誰にも奪えない。


 記録は、感情より正確です。


 言葉は塗り替えられる。


 だが、記録は消せない。


 ルーベンス家の女は、口だけの偉業を、黙って見ていた記録に書き換える。


 ——ただし今回は、一人ではなかった。隣に立ってくれた人間がいた。その変数だけは、まだ帳簿に入れていない。

お読みいただきありがとうございました。

次は明日18:00投稿予定です。


次回は前編・後編に分かれます。

神殿見習いリアのお話です。

自分語りしかしない神官と、拳を握りしめて黙っていた騎士。

——沈黙だけで成立する恋が、ここにあります。

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