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【エリザ編】神託の動詞が一文字間違っていたので、婚約制度ごと直しました

ルーベンス家最初の反逆

神託による強制婚約。

その意思決定手順には、素人目にも明らかな致命的な論理エラーが存在していた。



大神殿の大広間は、蜜蝋の灯りで金色に埋め尽くされていた。

300人の貴族が居並ぶ中、神官長が小刻みに震える腕で石板を掲げる。

神の言葉を伝える厳かな儀式。だが、私の目には、老人が重力と格闘する無様な体力測定にしか見えなかった。

「頑張れ」という声援を、信仰心で抑え込むのがこれほど苦しいとは。


「神託を読み上げます」


広間が静まり返り、炎の影が石板の上で狂ったように踊る。


「『王の血と麦の娘、結びて豊穣続かん』」


直後、爆ぜるような歓声が上がった。

万雷の拍手。父と母の安堵した顔。

この時代の女性にとって、王家への嫁入りは個人の意志を越えた「国家への供出」であり、それ以外の人生など定義さえされていない。


第2王子ルートヴィヒが真っ直ぐにこちらを見つめ、非の打ち所のない優雅さで一礼した。

この場にいる全員が、神託という名の「運命」に陶酔していた。

あるいは、「疑う」という名の過酷な知的対価を支払うことを、拒絶していた。

すでにそこにある答えにすがる方が、自ら真実を記述するよりも、遥かに容易で心地よいからだ。


安易な熱狂に身を委ね、思考という名の主権を放棄した300人の観衆。

その中で、ただ1人。

世界の記述に、致命的な整合性の欠如(バグ)を見出している私がいた。



エリザ・ルーベンス、17歳。侯爵令嬢。

問題は、神託が指す「麦の娘」が私だということだ。


私は、独自の収穫量最適化と精密な地質分析により、領地の収穫高を先代比130%へと押し上げた。

後の歴史家が「農業革命の萌芽」と呼ぶことになるその成果は、私の手元にある数千枚の計算用紙から生み出されたものだ。


だが、この社会において女性の知性は「愛嬌のある特技」程度にしか見なされない。

どれほど大地を解読しようとも、私は「王家に捧げられる器」としてしか認識されていなかった。


つまり、こういうことだ。

私が人生を捧げたのは小麦であって、金の巻き毛の王子様ではない。


農業経営に特化した優秀な資源を、顔がいいだけの無能な営業の受付嬢として強制的に引き抜くこの構造。論理的構成が根底から崩壊している。


ルートヴィヒ殿下がこちらに歩いてきた。

その足取りは真っ直ぐで、迷いがない。

神の設計(プログラム)に欠陥はないと盲信し、思考を放棄した人間の歩き方だ。


「エリザ嬢。神の導きにより、私たちは今後、婚約という形で前向きな関係性を構築していくことになります」


殿下の笑顔は100%の善意に満ちていた。

その濁りのなさは、「自分の意志で何も決定してこなかった者」特有の、底の知れない空虚さだ。

彼は悪意ではなく、神託という既定の設計書に殉じているだけなのだ。

——ああ、この男は、対話の基盤さえ持ち合わせていない。


「……光栄に存じます、殿下」


私は、完璧に整えられた「侯爵令嬢の微笑み」を出力した。

女性に牙を剥く自由などないこの檻の中で、私は恭順を仮採用する。

今日の時点では、蓄えられた資源が足りない。


「細部については今後すり合わせる必要がありますが、大枠としては神託に基づく決定です。異論を差し挟む余地は限定的だと考えています」


殿下の言葉を要約するとこうだ。

決定事項は動かさない。お前の意見が介入できるのは、壁紙の色を選ぶ程度の微細な領域のみである。


責任を神に転嫁しながら、決定権だけを行使する。

これほど合理的で、卑怯な交渉術もないだろう。


この広間において、私の意思確認を行おうとした人間は1人もいなかった。

神の意志と誤読された文字列が一つ。思考を放棄して頷く観衆が300人。

その巨大なシステムの隙間に、私の同意という名のデータは、最初から存在していなかった。


——いいでしょう。


完璧な微笑みの裏側で、私は冷徹に運命の記述を書き換える。

大枠が神託だと言うなら、その神託ごと、ルーベンス家の論理で上書きしてあげる。


このバグだらけの運命(システムエラー)、私が根底からデバッグして差し上げますわ。



婚約から3年。


第2王子ルートヴィヒとの定例茶会は、今日で144回目を数える。

2年目からは、殿下が「神託」という単語を発する回数を計測する場に切り替えた。


「神託に関しては、従来通りの解釈を維持しつつ、概ね良好な運用がなされていると聞いている」


本日1回目。

「概ね良好」——問題の検証を放棄する際に多用される、思考停止の万能語(ワイルドカード)だ。


「父上も仰っていた。神託に従うことが王家の務めだと。慎重に注視していくべきだとね」


2回目。

「慎重に注視」——何もしないことを高度な判断のように見せかける、無能の隠れ蓑だ。


殿下は悪人ではない。約束も守るし、季節ごとに贈り物をくれる。

ただ、あらゆる話題を「概ね良好」「前向きに検討」「慎重に注視」という三つの箱に入れて返してくる。

会話をしているのに、壊れた自動応答の議事録を音読させられている気分だ。


「はい、殿下」


私は微笑んだ。もはや頬の筋肉が、特定の単語に反応して自動駆動するレベルに達している。



茶会の扉が閉まり、白檀と砂糖菓子の甘ったるい匂いが遠ざかる。

回廊を早足で抜け、階段を降りる。

黴と蝋と古い紙の匂い。肺がようやく「意味のある空気」を吸い込んだ。


王立図書室。

ここは言葉が装飾ではなく、真理のために存在している場所だ。


だが、ここも最初から私の「聖域」だったわけではない。

3年前、最初に出会った司書ゲオルクの目は、徹底的な「無関心」に満ちていた。


「令嬢が触れていいのは、せいぜい愛の詩集までだ。古代語の棚に近づくな。埃が舞うだけで、誰も得をしない」


彼にとって、私は景色の一部に過ぎなかった。

女は守られ、思考を委ねていればよい。それが標準仕様(デフォ)の世界において、私の知性は検討の土台にさえ乗らなかった。


私は一言も反論せず、ただ一冊の解析書を彼の机に置いた。

それは、彼が30年以上もの間、朝から晩まで石碑の前で頭を抱え、人生を削っても解けずにいた「西壁の碑文」の完全な解読図だった。


「……なんだ、これは」


一瞥して鼻で笑おうとした老学者の指が、紙に触れた瞬間に止まった。

視線が数行、また数行と吸い寄せられていく。

そこには、彼を30年間苦しめてきた「意味の繋がらない動詞」が、文法という名の鍵によって、一筋の流れ川のように美しく整列していた。


無関心だった彼の瞳に、生々しい震えが走った。

それは敗北感ではなく、長年の暗闇に一筋の光が差し込んだような、救済の衝撃だった。


「……貴様、なぜこれが解けた。私は、人生の半分をこれに捧げて、それでも……」


「語尾の活用に、一箇所だけ例外的な規則があったのです、ゲオルクさん。あなたが積み上げてきた知識は正しい。ただ、その一文字の解釈を修正するだけで、すべてが繋がります」


ゲオルクの喉が鳴った。

崩壊したのは自負ではなく、彼を縛っていた「解けない」という名の絶望だ。

彼は一週間寝込み、八日目に、憑き物が落ちたような清々しい顔で私を地下資料庫へと招き入れた。


「……お前の言う通りだ。私は、自分の知識という檻の中にいた。これを持っていけ、地下の鍵だ。お前のような目を持つ者にこそ、これは相応しい」


単なる景色の一部だった私が、彼の人生を長年苛んでいた「謎」という不具合を解消し、彼の最良の理解者となった瞬間だった。



「また来たのかい」


書架の隙間からゲオルクが顔を出す。

今はもう、その目に無関心はない。自分よりも遥かに高度な知性を見上げてしまった、老学者の震えるような敬意があるだけだ。


「お邪魔します、ゲオルクさん」


「邪魔はしてない。静かな奴は、この場所の一部になれる。……それで、例の件はどうだ」


定位置の机に着き、インクの染みがついたノートを広げる。

400ページに及ぶ古代語の構文解析(デバッグ)

これこそが、空虚な茶会を生き延びるための私の生命維持装置だ。


ある日、私は目録の中に「論理的矛盾」を見つけた。

地下資料庫の最下段に記された、一行の記述。


『古神託石板 第0号 ※閲覧注意:破損あり』


第0号。

現在運用されている神託石板は「第1号」だ。原本を地下に埋め、その写しで婚約制度を運用しているというのか。


それは忘れ去られていたのではない。「解釈の整合性が取れなくなる」という理由で、歴代の司書たちが無意識に視界から外してきた、真実の残骸だ。


情報の安全基準が、あまりに低すぎる。


「ゲオルクさん。地下資料庫に入りたいのですが」


ゲオルクがこちらを見る。3秒。5秒。


「壊すなよ」


許可は出た。「壊すな」とは、石板のことか、それともこの国が300年守り続けた嘘のことか。


壊さない範囲でなら、原文に触れてよい。

構造を修正するなら、その条件で十分だ。


私はペンを置き、光の届かない地下への鍵を受け取った。



地下資料庫は、光を拒絶していた。

手燭の炎が、増殖する闇をかろうじて押し返している。石段を一段降りるたびに気温は物理的な質量を伴って下がり、黴の匂いが肺を刺した。


ここは放置された時間の墓場だ。

並んでいるのは写本ではない。歴史の責任が直接刻み込まれた、むき出しの原本(地層)だ。


最奥の棚に、布をかぶせられた石板があった。

布を外すと、数百年分の埃が舞い、手燭の炎が激しく揺らぐ。慎重に机へ置き、手燭を寄せた。


古代文字が、闇の中に浮かび上がる。

現在運用されている「第1号石板」と似ているが——決定的に文字の活用が違った。ノートを広げ、一単語ずつ照合を開始する。


「王の血」。……同じ。

「と」。……同じ。

「麦の」。……ここだ。


第1号は「麦の娘(Virgo)」。だが、第0号に刻まれているのは「麦の民(Populus)」だ。

娘ではなく、民。たった一文字の差で、国家の存亡という巨大な責任が、私という一個人の肉体へとすり替えられていた。


さらに読み進める。指先が凍えるのは、地下の温度のせいだけではない。

第1号の語尾は「-ent」。……結ばれよ、という命令法。

だが、第0号に刻まれているのは「-ens」。……選ばれし者を、という仮定法。


古代の石工ののみが、最後の一払いを持続させたか、止めたか。そのわずかな差で、人生は強制へと書き換えられたのだ。それは石工の過ちではない。正しさよりも管理のしやすさを優先してきた人類の、数百年におよぶ怠慢の痕跡だ。


最後の一節。

第1号は「結びて豊穣続かん(結ばれよ、さすれば豊穣が続く)」。

第0号は「共に選びし者を祝福し、豊穣もたらさん(互いに選んだ者を祝福し、豊穣をもたらす)」。


「……ッ」


脳内の回路が、凄まじい速度で繋がっていく。

神は、相手を指定などしていない。「お前たちが主体的に選んだなら、祝福しよう」と言っているだけだ。


私の婚約は、神の命令ではない。翻訳を怠慢なまま固定した、人間の過失だ。


ノートにペンを走らせる。手が震えているのは、寒さのせいではない。身震いするほどの高揚感だ。


「私の婚約は、神様のせいじゃない。人間の、雑な翻訳のせいだ」


構造の誤読を神のせいにする。それは、論理に対する最も卑劣な裏切りだ。女性は従順であるべきだという偏見が、この重大な不具合を数百年も見逃させてきた。


いいでしょう。人間が勝手に書き換えた不具合なら、人間である私が修正できる。


この3年間、私を縛り付けてきた空虚な神託。

その修正用データ(パッチ)は、すでに私の手の中にある。



翌週。王弟フリードリヒの書斎。


国王の弟、三十代。宮廷では「風変わりな叔父上」で通っている男だ。

壁一面を埋め尽くすのは、権威を示す装飾ではなく数千の古書。彼は自分の座る場所より、本の居場所を優先する人種だった。


「そこの本をどけて座れ」


言われるまま本を三冊どけると、下から別の本が現れた。地層だ。この男の周囲では、インクの染みた紙の束こそが世界の根源的な記述を握っているらしい。


私はノートを広げた。

第0号石板の写し、第1号との対照表、そして文法的な解析記録。「女性の暇つぶし」と一蹴される可能性は計算に入れていない。この男は、情報の価値を性別で判断するほど低能ではないからだ。


フリードリヒが、それを読む。


沈黙。

10秒。20秒。


「……面白い」


男の目が、獲物を捉えた獣のように光った。


「条件法か。これは確かに条件法だ! 動詞の語尾が命令形とは決定的に違う。実は私も以前から疑っていたのだ。第1号の構文は、神の言葉にしてはあまりに品性がなく、直接的すぎるとね」


フリードリヒが跳ねるように立ち上がり、書架から分厚い辞書を次々と引き抜く。

机の上には、瞬く間に新しい辞書の山脈(ライブラリ)が築かれた。彼は王族としての仮面を脱ぎ捨て、真理のみを追う探求者へと変貌していた。


「議論に値する。いや、議論すべきだ! ルーベンスの嬢ちゃん、今すぐ学者を集めろ。神殿の老いぼれどもを文法の檻に追い込んでやる」


「集められますか? 女性である私の言葉を、彼らが聞くとは思えませんが」


「私が兄上に進言する。王弟の学術的進言を無視すれば、それは歴史の記録に残るからな」


神の怒りよりも、後世の歴史家に「無能」と記されることを恐れる王家。

「恥」という名の弱点は、攻略に利用できる。


フリードリヒが笑う。学問的興奮の前に、王族の品位など霧散していた。

彼は神託という名の権威より、文法という名の論理を信じている。


——協力者の確保。想定より、事態の進捗は良好だ。



2週間後。宮廷学術会議室。


長いテーブルを挟んで、神殿学者4人、宮廷学者3人、王弟フリードリヒ、そして私が座っていた。中央に広げられているのは、第0号石板の精密な解析図。神託の文法について、公式に修正協議を行う機会がようやく訪れたのだ。


最初の1時間は、まだ穏やかだった。


「ルーベンス嬢の指摘には一理あるが、そもそも第0号は破損箇所が多く——」


「破損は末尾の3文字のみです。動詞の活用は明瞭に残っています」


「しかし、数百年の慣例を一令嬢の読みで覆すのは——」


「覆すのではなく、原本の記述に立ち返っているだけです」


言葉遣いこそ丁寧だが、その実態は「古い慣例」と「最新の文法」による殴り合いだ。彼らの眼差しには、まだ「女の分際で学問に色気を出すとは」という無意識の雑音が混じっている。


2時間目。ついに限界温度を超えた。


「この動詞は条件法ではない! 第3活用の変形命令だ!」


老学者のヴェルナーが、親の仇のようにテーブルを叩いた。


「変形命令の語尾は『-ent』です。この石板の語尾は『-ens』。条件法以外にあり得ません」


若い学者のハンスが、氷のような冷徹さで返す。


「-entと-ensの差異など、古代の石工の刻み損じに決まっているだろう!」


「……刻み損じで国家の婚姻制度を決めていたのですか、先生」


ハンスの一撃で、部屋の温度が絶対零度まで凍りついた。

「雑な運用」を指摘するには、それだけで十分だった。


「いや待てハンス君、言い方が……。いや、先生、確かにこの筆致は-ensの……。ええい、私にも辞書をくれ!」


王弟フリードリヒが身を乗り出し、辞書を奪い取って乱入する。学者たちが立ち上がり、石板の写しを指差し合い、古代語の動詞活用について同時に叫び始めた。高名な知性たちが、辞書の角をぶつけ合わん勢いで罵り合う地獄絵図。古代語の講義は、いつの間にか神前裁判の法廷と化していた。


私は椅子に座ったまま、動詞の語尾一文字に、何百年分もの女たちの人生が乗っている光景を眺めていた。ここで争われているのは、単なる文法ではない。誰が誰の人生を定義(プログラミング)する権利を持つかという、主権の争いだ。


「皆さん」


凛とした声を響かせる。一瞬で静寂が訪れた。


「私は神を疑いたいのではありません。人間の翻訳ミスを確認したいだけです」


全員の視線が私に集まる。


「現行の読みは、後世に簡略化されたものです。原本の方が意味は豊かで、神の言葉としてふさわしい。神は命じているのではなく、祝福しているのです。……真実を直視する勇気を持たない者が作る制度は、醜い。そうは思いませんか?」


筋が通り、王家にとっても管理しやすい「見守る神」。私は彼らに、権威への服従ではなく、より合理的な神の姿を提示した。


ヴェルナーが口を開き、閉じ、もう一度開く。


「……格好いい、か」


「はい。命令に固執する神より、自由を祝福する神の方が」


フリードリヒが笑いを噛み殺し、ハンスがわざとらしい咳払いをする。3時間の激論の末、ようやく協議の結果が確定した。


『現行の読みは原文の簡略版であり、原本の解釈がより正確である』


つまり、「これまでのやり方が絶対ではない」と、国が公式に認めたのだ。

私の人生を縛っていた不正な記述は、今、完全に消去された。



翌日。謁見の間。


国王の前に、神官長と私が立つ。背後には、昨日の激論で完全に私の「味方」となった王弟フリードリヒが、何やら誇らしげな顔で控えていた。


神官長が、震える声で従来の解釈を述べる。

「王の血と麦の娘、結びて豊穣続かん……」

その声には、自身の権威が現実から切り離されつつあるという自覚が、隠しようもなく混じっていた。


「ルーベンスの嬢」


国王の重厚な声が響く。


「原文の読みを述べよ」


「はい、陛下」


私は背筋を伸ばした。

ここでドレスの裾を踏めば、議論の焦点が「神託の再解釈」から「令嬢の身体能力」へと格下げされてしまう。王宮令嬢の中で「ドレスの裾を踏む頻度」の最高記録を保持する私だが、今日ばかりは重力と布の抵抗を完璧に計算し、エレガントに静止してみせた。


「原文の真義は、こう読めます。『王の血と麦の民、共に選びし者を祝福し、豊穣もたらさん』」


静寂。国王の鋭い眼光が私を射抜く。


「つまり、神は婚約相手を固定しているのではなく、当事者が選んだ相手を祝福すると仰っているのです」


神託は命令ではなく、条件付きの祝福である。前提条件の書き換えを、王国の最高権力の真っ正面から宣言した。


「神官長」


「は、は、はい、陛下……」


「この読みは、文法的に正しいのか」


「……昨日の学術会議による検証の結果では、原文の方がより正確である……との結論に至っております」


国王が顎を撫でる。長い沈黙。

背後のフリードリヒが、「ほら見ろ、私の言った通りだろう!」という無言の圧を、凄まじい熱量で発し続けている。


「……面白い解釈だ」


国王が不敵に口角を上げた。フリードリヒが後ろで小さく、しかし力強くガッツポーズをするのが見えた。王の「面白い」は、政策の全面的な書き換えを許す許可証に他ならない。


「以後、婚約は神託の祝福と、本人の同意をもって成立とする。従来の強制婚約は、簡略化された旧弊として扱い、当事者が望む場合は破棄を認める」


心臓が跳ねた。

ここで変わったのは、私一人の婚約ではない。「婚約とは何か」という社会システムの定義そのものだ。私の論理は、特定の個人を叩く腹いせではなく、不条理を生み出す構造そのものの修正に届いた。


「ルーベンスの嬢。お前の婚約もまた、新たな解釈に基づき、改めて意思確認を行う。異論はあるか」


「ありません、陛下」


あるはずがない。3年間、この幕引きを待っていたのだ。


走り出したい衝動が全身を駆け巡った。だが、私は走らない。走れば今度こそドレスの裾を踏んで、すべてが台無しになる可能性が高いからだ。

私は感情で世界を壊さない。論理で世界を再構築する。


私はただ、3年分の解析データが詰まったノートを、誇らしく胸に抱きしめた。



謁見の間を出た廊下で、ルートヴィヒ殿下が待っていた。

彼はいつも通り、一点の曇りもない瞳で私を見る。


「エリザ嬢。君は、自由に選べばいい。神がそう望んだのだ、原文の通りに」


ここでも彼は「原文」を引用する。だが、その瞳には初めて空虚なむなしさが揺れていた。


「殿下。3年間の総括として一点。……殿下とのお話は常に『概ね良好』で、心底、退屈でした」


「……そうか」


「ですが、茶菓子は最高でした。毎回」


3年分の記録を集計した冷徹な事実。

彼は「神託」と「天気」という定型文で会話を埋め尽くし、私の時間を浪費した。


「私の言葉は、そんなに定型文ばかりだったかな」


初めて、自らの語彙の貧弱さに気づいたような声音。

彼の中で「伝統」と「思考停止」の境界が、ようやく数ミリだけずれた。


「君は面白い。3年間、もっと君の話を聞くべきだった」


「聞いてくだされば、もう少し不満の少ない茶会にできましたのに」


ルートヴィヒが笑った。

神託も天気も含まない、彼自身の意志による笑い。もし、この笑顔に早く出会えていたら――その仮定は、不要な記述として即座に破棄した。



1週間後。図書室の隅で、6人の令嬢がノートを広げていた。

「自分の人生を他人に書かされている」彼女たちに、私は演説ではなく文法の規範(ルール)を提示した。


「命令形は『しなさい』。条件法は『するなら』。祈願形は『なりますように』。この違いを識るだけで、運命が命令なのか、ただの願いなのかが判別できます」


令嬢たちの目が変わる。辞書を握る手に力が宿る。知性は最大の防御であり、世界を書き換える武器だ。


「これは神を疑うためではなく、他人の決めつけから自分を守るための防壁です。原文を読み、自分の言葉で再定義しなさい。それだけでいいのです」


部屋の隅で、老司書ゲオルクが壁にもたれて腕を組んでいた。「令嬢が触れていいのは詩集までだ」と吐き捨てていた隠居学者が、満足げに鼻を鳴らしている。古代文字に捧げた60年分の信頼が、その一動作に込められていた。


窓から差し込む光が、ノートの白紙を照らしている。誰にも上書きさせない。これからは、私自身の言葉で綴っていく。


「さて、次の講義を始めましょうか」


私は、かつてないほど爽やかな微笑みを出力した。願わくば、彼女たちの人生に、余計な不具合が混入しませんように。



その夜。


自室の机に向かう。手燭の炎が、400ページに及ぶ解析の記録を照らしている。

3年間の沈黙と、膨大な文法メモ。これこそが、私がこの檻を壊すために積み上げた戦跡だ。


表紙の内側に、ペンを走らせる。

宛先は、まだ見ぬ誰か。100年後にこのノートを開き、かつての私と同じ「なぜ」という問いを握りしめている、孤独な知性。


あなたが来たとき、このノートが武器になるように。

数える方法、問う方法、そして世界を書き換えるための論理を残しておく。


1行、書き添えた。


「ルーベンス家の女は、退屈な運命の文を、自分で書き換える」


これが最初の1行だ。かつて神が書いたとされる文字列を、一人の人間が上書きした事実。この先に続く物語は、もう神の持ち物ではない。


ノートを閉じる。

窓の外では、月光に照らされた麦畑が銀色に波打っていた。

収穫はまだ先だが、今日施した定義の修正(デバッグ)は、確実にこの大地の意味を変えた。


明日は、あの子爵令嬢に動詞の第4活用を教えよう。「望む」という言葉の、正しい使い方を。

命じられる未来ではなく、望む未来を自ら記述するための文法だ。


手燭を吹き消す。

暗闇の中、指先に残る革の手触りと、インクの匂い。


ルーベンス家の最初の反逆は、泣き叫ぶことでも、誰かを打ち倒すことでもない。


誤読された神託を読み直し、世界のルールを自分の手で再定義することから始まった。

お読みいただきありがとうございました。

次は明日12:00投稿予定です。

時代が進み、次は1話で登場したフィオナの母クラリッサです。


300年続いた夜通し舞踏会。翌日の労働損失は年間72日。

崩すのは——パンです。

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