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【クラリッサ編】夜会翌日の労働損失72日分を帳簿で証明したら、300年の慣習が崩れた

夜会が領地にかけている「デバフ」を数字にした話です。

朝の4時。


シャンデリアの蝋燭がまだ3分の1も残っている。あと2時間は燃える。つまり、このパーティはあと2時間は終わらない。絶望的な計算だ。


バルトハイム伯爵邸の大広間。120人の貴族がまだ踊っている。楽団の演奏は4時間前から同じワルツの変奏を繰り返しているが、誰も気づいていない。社交界は、全員が同じバグを共有して正常だと言い張る場所だ。


クラリッサ・ルーベンス。23歳。侯爵夫人。結婚して1年。


視界がわずかに暗転した。脳が熱を持っている。


処理能力の限界を超えたとき、脳は強制的にアイドリング状態へ移行する。短時間の意識遮断による熱分散。これは睡眠ではない。生存のための安全装置(セーフモード)だ。


「クラリッサ」


隣で夫のアルフレートが言った。30歳。真面目な顔。真面目な声。真面目な話題。


「今年の北部の税収だが」


「はい」


「前年比で3パーセント減だった」


「はい」


「原因は春先の長雨だと思うんだが、麦の先物取引の動向を見ると——」


「はい」


3回目の返答で、クラリッサは自分が立ったまま処理を停止していたことを認識した。


「クラリッサ。目が閉じているぞ」


「閉じていません。脳のオーバーヒートによる一時的な処理停止です」


「それを一般には睡眠と言う」


ルーベンス家の男は、こういうところだけ鋭い。


17歳の夜を思い出す。婚約の席で、1度だけ父に言った。

「この方とは合わないと思います」。父は微笑んで答えた。「慣れるよ」。

嘘だ。慣れなかった。慣れたふりが上手くなっただけだ。


あの夜、本当は走って逃げたかった。大広間を横切って、扉を蹴って、コルセットを引きちぎって。でも走れなかった。この時代の令嬢には、まだその道が記述されていなかった。


ワルツが新しい楽章に入った。アルフレートが手を差し出した。


「踊ろうか」


「はい」


踊った。アルフレートのリードは正確だ。拍子を外さない。足を踏まない。回転の角度が毎回45度刻みで正確すぎる。踊っているのか、精密機械の部品として回転させられているのか分からない。


「この間の収穫高の報告書だが、昨今の物流の変動係数を考慮すると、さらに5パーセントの圧縮が可能だ」


ワルツの旋律に乗せて収穫高の圧縮率を囁く男。

かつて王家の男たちが言った「愛している」という定型文より、こちらの「5パーセント」の方がまだ殺意が湧かない分ましな気もするが、心底、気が狂いそうだ。


(この男の脳内には『効率』と『収穫高』の辞書しか載っていないのかしら)


「クラリッサ。目が閉じているぞ」


「閉じていません。瞬きが長いだけです」


「3秒以上の瞬きは、世間では寝落ちと言う。ついでに言うと、君はいま、一歩も動かずに膝だけでワルツを処理していた」


ルーベンス家の男は、修正すべき不具合を何度でも指摘する。



翌朝。9時。


領地の執務室。机の上に帳簿が積まれている。今朝の4時まで踊っていたので、実質的な稼働時間は5時間に満たない。目の下に隈がある。コルセットの跡が肋骨に食い込んでいる。深呼吸のたびに胸部が警告音を上げている。


帳簿の数字がぼやけている。


北部の灌漑。

南部の道路。

東の麦畑。


すべて重要。だが、すべてが処理不能だ。


意識が途絶えた。

額が帳簿に激突した。

3秒後、跳ね起きる。吸い取り紙が吸い損ねたインクの染みが、私の額へと転写されていた。


夜会は月6回。

翌日の稼働率はほぼゼロ。


年間換算。


72日分の労働損失。

可処分時間の約20パーセント。


「……致命的」


これは単なる疲労ではない。


恒常的な能力低下(デバフ)だ。


領主夫妻という中央処理装置にかかる、慢性的な性能低下。


夜会ごとに新調されるドレスの原価。

装飾品の減価償却費。

馬車と従者の待機コストという名の死蔵リソース。


そして何より――翌日の領主館全体の機能不全。


徹夜明けの事務官が犯す計算ミスは、修正に通常の三倍の時間を要する。

伝達の遅延。

判断の停滞。

意思決定の鈍化。


すべてが連鎖し、領地の成長率を食いつぶしている。


退屈は、もはや感情の問題ではない。


退屈は、構造的な損失だ。


――夜会とは、この国というシステムに仕込まれた、悪質な脆弱性だ。



書斎の棚から、祖母エリザのノートを見つけた。


400ページの記録。


その末尾に、あの一行が刻まれていた。


「ルーベンス家の女は、退屈な運命の文を、自分で書き換える」


……おばあさま。あなたも、この退屈な呪いと戦っていたのね。


ページをめくる。

碑文の写し、文法記録、動詞の活用表。その合間に、領地の祭事に関するエリザの覚書が挟まっていた。1枚の古いメモに、私の目が釘付けになる。


「豊穣神の本来の祭礼は、夜明けの踊り。日の出とともに舞い、朝日を浴びることで豊穣を祈る。現在の夜通し踊る慣習は、300年前に当時の宮廷楽長が『夜の方が蝋燭代で儲かる』と進言したことに端を発する」


蝋燭代。


300年間、全貴族が朝4時まで踊り続けてきた理由が、単なる消耗品の売上維持。


「……埋没費用」


回収不能な投資。だが支払いは続き、今日に至るまで貴族の体力を削り取っている。


慣習。

利益構造。

思考の固定化。


理由は――「昔からそう決まっているから」。


論理が破綻している。慣習という名の不具合。国家の資源を蝋燭の煙に変換し続ける、巨大な構造的損失。


修正する時が来た。


祖母は「朝の踊り」の正体を見抜いていた。けれどエリザ自身はそれを実行していない。彼女の戦場はあくまで碑文の解読と制度の条文を書き換えることにあった。


「朝に踊る」という実動作の定義変更は、次の世代への課題として残されていたのだ。


――私の、仕事だ。


祖母の記録だけでは足りない。「朝の方がいい」という正論だけでは、既得権益は動かない。


数字がいる。

そして、もう1つ。――人々の認識を上書きするための「体験」が必要だ。


夕食の席。アルフレートが向かいに座っている。


「提案があるわ」


「何だ」


「夜会を廃止し、朝の茶会へと移行したい」


アルフレートのフォークが空中で静止した。


「朝?」


「ええ、朝。日の出とともに、庭園で。軽い食事と一度の舞踏。一時間で全てを完結させる」


「根拠は」


この男は「根拠は」以外の語彙を喪失したのか。本当に、たった一つの変数が正しければ世界は回ると思っている。


私は帳簿を出した。夕食の席、供された鴨料理のすぐ隣に。


「夜会翌日の領務作業効率が、平均32パーセント低下しています。月6回の開催で年間72日分の労働損失。これを金額に換算すると――」


「データの抽出期間は」


「直近3ヶ月分です」


「3ヶ月か。季節変動による誤差を考慮すれば、最低1年分の比較データ(対照実験)が必要だ」


突き返された。


アルフレートの目が帳簿の数字を検閲している。数字に対してだけは、一族の誰よりも妥協しない目だ。この男は感情では動かない。論理の強度が不足していれば、どれほど魅力的な提案でも即座に破棄する。


(この男の脳内が『効率』という列で構成されているのなら、そこに正解を書き込んでやるまでだ)


「……わかりました。1年分、揃えます」


「頼む。併せて、朝に切り替えた場合の費用対効果の見込みも。楽団の拘束費、食材原価、庭園の維持管理費――全てを網羅してくれ」


フォークを戻し、アルフレートは食事を再開した。彼にとって、対話は終了だ。十分な根拠が揃うまで、この事象は彼の世界に存在しない。


退屈な運命を書き換えたいのなら、まずはその根拠となる数値を、誰も否定できない厚みまで積み上げなければならない。



3ヶ月後。


1年分の統計を揃えた。夜会がある週とない週の生産性比較、領民の健康記録、麦の収穫高と夜会頻度の相関。それら全てを、物理的な質量を伴う帳簿へとまとめた。


この紙の束こそが、ルーベンス家の女が持つ唯一の武器だ。


アルフレートの机に、それを叩きつけるように置いた。


2日後、返信が届いた。


「データは十分だ。試験的な導入を許可する。ただし、まずは小規模に。効果測定が可能な形式で実施せよ」


勝った。3ヶ月の歳月を要したが、数字という名の刃で、旧弊の喉元を正確に切り裂いた。


退屈は、もはや感情ではない。数値へと変換されたそれは、ただ改善すべき損失となったのである。



翌月。ルーベンス領の庭園。朝9時。


招待状を15家に送った。

「午前の庭園茶会。ドレスコード:動きやすい服装」。


定刻、姿を現したのはわずか3名だった。


隣領のマルガレーテ夫人。彼女は立派だった。この時間にもかかわらず、髪は美しく結い上げられ、顔色も化粧で完璧に整えられている。ただ、一点だけ。挨拶を交わす際、彼女の右手の扇が、小刻みに、しかし一定の周期で震えていた。


あとは、マルガレーテの妹とその友人。15家中3人。出席率20パーセント。


「クラリッサ、ごきげんよう。……ええ、もちろん喜んで伺ったわ。ただ、馬車の中で三度ほど意識が遠のいた気がするけれど、それはきっと春の陽気のせいね」


「……お疲れ様です。これから、統計的な誤差の範囲内で参加者は増えると思います」


来なかった。

朝9時に、コルセットを締めず庭園に集まる。それは昨夜の夜会から帰宅して、わずか数時間後のことだ。普通の貴族夫人にとって、この招待状は「新手の拷問」か、さもなくば「不可能な挑戦」にしか見えなかったらしい。


楽師が3人、所在なさげに楽器を構えている。テーブルには焼きたてのパンとハーブティー。パンは今朝、クラリッサが自ら焼いたものだ。ルーベンス領で獲れた最良の小麦。製粉所に特注し、粒度を通常の1.3倍まで微細化した粉。


マルガレーテが、上品に首を傾げてパンを凝視した。


「……とても良い香りね。でもクラリッサ、これ、ただのパンに見えるけれど?」


「普通ではありません」


クラリッサは即答した。


「粉の粒度、含水率、発酵温度、焼成時間。全ては変数です。12回の試行を経て導き出した最適解です」


マルガレーテはパンを見た。次にクラリッサの真剣すぎる目を見た。


「……ええと。それ、お料理の話をしているのよね?」


「|高効率エネルギー供給体《燃料》の話です」


クラリッサは迷いなく言った。


「午前中の活動出力を最大化するための、ブースト用資材です」


「……パンよね?」


「はい。パンです」


マルガレーテは、戸惑いながらも一口ちぎった。薄く香ばしい表皮が指先で軽快に音を立てる。内側はしっとりと温かく、湯気と共に小麦の香りが、眠っていた嗅覚を鮮烈に叩き起こす。


口に含んだ瞬間、緻密に計算された塩気が舌の受容体を刺激した。軽い歯ざわりの後、微細な気泡が弾け、香りが脳幹を直撃する。噛むたびに顎の筋肉が温まり、無理やり化粧で隠していた疲労の霧が、急速に晴れていく。


「……なにこれ。なんだか、急に視界が明るくなった気がするわ……」


マルガレーテが、驚きに目を見開いた。

目の奥を塞いでいた重石が外れ、前頭葉に清涼な水が流れ込んだような感覚。鉛のようだった手足に、神経系が再接続されていく。


二口目。ゆっくりと咀嚼する。気泡が潰れるたびに、小麦の甘みが奥歯から染み出し、強張っていた肩の力がふっと抜けていく。


「美味しいだけじゃないわ。変な言い方だけど……身体の中の澱みが、このパンに押し流されていくみたい」


「想定通りの出力です」


クラリッサは満足げに頷いた。


「美味くなければ継続しない。継続しなければ、夜会という名のバグは修正できない。ルーベンス家の女は、持続性を設計の前提に置きます」


朝日が昇る。空気が軽い。呼吸が深い。

貴族たちが夜通しのダンスで消耗させた活力を、パン一つで「デバッグ」する。クラリッサの革命は、極めて高効率に開始された。



コルセットを緩めたからだろうか。

胸郭の圧迫が消える。

酸素摂取量が増える。

血中酸素濃度が上昇する。


思考が軽くなる。

判断速度が上がる。

判断ミスが減る。

誤差が減る。


呼吸が1分あたり2回増えている。

脈拍も、昨夜より安定している。


「……計算精度が、少なくとも3パーセントは改善している」


クラリッサは静かに結論づけた。


これは体感ではない。

差だ。


これを装飾と呼ぶ文化は、非効率だ。


「何かしら、クラリッサ?」


「いえ」


踊る。

3人で。

朝の光の中で。



2回目、7人。

3回目、12人。

4回目、18人。


理由は明確だった。


燃料。


——パンという名の、精密機械。


一度あの「燃料」を摂取した者は、当日の稼働率の高さに驚愕し、リピーターとなる。パンという名の、精密な活力供給装置。


人数の推移を帳簿の端にメモする。3→7→12→18。曲線の形が頭の中で描かれていく。



そうした変化を、快く思わない人々もいた。


ある夜会で、バルトハイム伯爵夫人が扇を鳴らしながら笑った。


「朝からパンを齧って踊る? 飢えた野良犬の集まりかしら。貴族たるもの、夜に舞踏会で優雅に過ごすのが本来の姿でしょうに」


取り巻きの夫人たちが、さざなみのような嘲笑を漏らす。


クラリッサは、手にしていたグラスを静かに置いた。


「あら、野良犬だなんて。私たちはただ、自然光という最も高純度な光源を無料で享受しているだけですの。夜会のように、大量の蝋燭で無理やり視神経を酷使するよりも、ずっと瞳に優しいでしょう?」


「まあ?」


伯爵夫人が眉をひそめる。


クラリッサは、相手のドレスを頭の先からつま先まで、深く、深く、心酔したような目で見つめた。胸元から裾まで宝石が過剰に縫い付けられた、歩くたびに重厚な衣擦れが響く衣装。


「伯爵夫人、そのお召し物、あまりに贅を尽くしていて……拝見しているだけで胸が熱くなりますわ。その袖口の真珠だけで、我が領の橋が一つ、立派に架け替えられるんですもの。……橋そのものを身にまとっていらっしゃるようなものですわね」


「……当然ですわ。我が家の格を形にした、特注の一着ですもの」


「ええ、本当に。そのドレス一着分の維持費があれば、街道が3キロは延伸可能ですわ。物資の輸送効率が上がり、周辺の税収は推計で7パーセント向上……。ああ、感動いたしましたわ、伯爵夫人」


クラリッサは、聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。


「自らの肉体を重すぎる宝石で縛り、一歩歩くたびに領地の成長をわずかに停滞させ続ける……。その身を挺した資産の凍結(デッドストック)、まさに貴族にしか許されない贅沢な自滅ですわね。あまりに美しすぎて、私には眩しすぎますわ」


伯爵夫人の扇が止まった。周囲の空気が、凍土のように冷え切る。


「……冗談がきついですこと。淑女の装いを、そんな卑俗な数字で語るなんて」


「いいえ。これは真理への讃美ですわ」


クラリッサは、どこまでも優雅に扇を広げた。


「夜通し舞踏という尊い慣習が、300年かけてどれほど国家の資産を『蝋燭の煙』に変えてきたか。その幻想的な損失を正確に計上して差し上げるのが、私の精一杯の誠意ですの。……さあ、皆様も。煙に巻かれる前に、明日の朝のパンを予約なさいませんか?」


伯爵夫人は、扇を握りしめたまま絶句した。

目の前の令嬢に、「あなたの存在そのものが、我が国の経済発展を阻害する美しい障害物である」と、この上なく丁寧に礼賛されたからだ。


(慣習という名の不具合は、感情ではなく数値で殴るに限る)



半年後。


「領地作業の効率低下が、平均32パーセントから9パーセントまで抑制された」


アルフレートが、閣議決定のような重々しさで報告書を読み上げた。


「存じております。一次ソースは私の計測データですから」


「……欠勤率も15パーセント減少」


「それも、私が各村のサンプルから抽出した予測値の範囲内です」


「…………」


アルフレートが書類から顔を上げ、妻を凝視した。


「……お前は、この領地の全変数を握っているのか。……恐ろしいな。性格も、思考回路も、私に似てきた。」


「……なんですって?」


クラリッサの眉が、推計誤差の許容範囲を超えて跳ね上がった。


「失礼ですわ。私は情緒を重んじる淑女です。あなたのような、脳内に算盤しか詰まっていない『歩く統計学』と一緒にしないでいただけます?」


「事実を指摘しただけだ。非効率を嫌い、数値を盲信するその挙動は、私のサブシステムと完全に同期している」


「同期していません! 私はパンの味にもこだわっています。あなたはそれを『高効率燃料』としか呼ばないではありませんか!」


アルフレートは、クラリッサの憤慨を「ノイズ」として無視し、一枚の決済書類を差し出した。

そこには、彼自身の筆致でこう記されている。


『案件:最重要中央処理装置クラリッサの、オーバーヒート防止および稼働率維持のための予算執行について』


クラリッサは、反論しようとした口を閉じた。

これは詩的な愛の言葉ではない。

純然たる「インフラ維持コスト」としての、最大級の肯定的評価だ。


「……感謝いたしますわ。……似ている、という撤回されない発言以外は」


「合理的判断に基づいた、妥当な投資だ」


アルフレートは不自然なほど素早く視線を逸らした。

耳の端が、計測誤差では片付けられないほど赤かった。


退屈な男だ。

けれど、この人は数字に対してだけは、神よりも誠実だ。



数日後の早朝。厨房。


「ストップ」


背後から、軍令のような鋭い声が飛んだ。


クラリッサは窯の前で振り返る。そこには、正装したアルフレートが、両手に砂時計と懐中時計を構え、まるで爆発物の解体を見守るような形相で立っていた。


「いまの投入プロセス、設定温度への到達から投入まで2.14秒の遅延があった。即座に棄却し、再試行せよ」


「……旦那様。いつからパン焼きの品質保証官クオリティ・アシュアランスに就任されたのかしら。似ていると言われた私への、嫌がらせ?」


「最適化の話だ」


アルフレートは、一切の冗談を排した顔で言いきった。


「貴殿の焼く高効率燃料(パン)は、私を含む全スタッフの演算速度に直結している。供給されるエネルギーの品質に、コンマ数秒の誤差もあってはならん。……いいか、同期を開始する。3、2、1……投入!」


(この男の口から『美味しい』という人間らしい語彙が出る日は、永久に来ないのでしょうね)


(代わりに『演算速度』と『同期』で愛情を記述しているのだとしたら――)


「了解しました。プロセスをリセットし、再試行しますわ。次は投入角度も1.5度修正して差し上げます」


「よろしい。完璧なデバッグだ」


クラリッサは、笑いそうになる頬の筋肉を必死に抑制した。


ルーベンス家の女は、数字で愛され、論理で口説かれるのである。



クラリッサは帳簿を開いた。


蝋燭費。

膨大。

300年分。


ペンを走らせる。


「浪費分を街道の石畳化へ転用」


即座に頭盤が回る。

輸送の円滑化。利潤の増加。人の流れの改善。


「……帳尻が合ったわ。回収完了」


300年分の無駄が、ただ一行の加筆によって歴史から消去された。


数日後、王都の最大手蝋燭問屋から、震える筆致の問い合わせが届いた。


「近頃、貴領からの注文数が前月の1割にまで激減しておりまして……。もしや、我が社の蝋に不純物でも混じっておりましたでしょうか」


不備はない。

ただ、お宅の製品を燃やして虚無を踊るという「悪習」が修正されただけだ。


さらにその翌週、宮廷楽長の一族が主催する伝統ある夜会が、予算不足で規模を縮小したという報告が上がった。

理由は、大口顧客であったルーベンス家が抜けたことによる、蝋燭単価の高騰。


因果は明白。私が灯を消したから、彼らの夜は維持できなくなったのだ。



朝の会は、流行病のように広がった。


最初は3人。

次に7人、12人、18人……。

最新の計上では、参加者数は34人に達している。


最初に変わったのは、参加者の顔色だった。

夜会明けの死人のような青白さが消え、朝の光の中で、人間らしい血色が「再起動」している。

午前中の執務中に居眠りする者が絶滅したと、皆が同じ記録を報告し始めた。


理由は、もはや説明するまでもない。

人間は、生存に有利な仕組みに定着する。

不便な夜に戻る道理が、論理的に消滅しただけだ。



ある日、隣領から手紙が届いた。


「貴家の朝食会について、詳細な仕様を伺いたい」


次の日、もう1通。その次の日も。

内容は、判で押したように同じだった。


開催刻限。

想定規模。

献立の構成。

奏者の配置。


そして――パン。


「……待機時間は終わり。市場が反応したわね」


クラリッサは帳簿を開いた。

需要の爆発。拡張の兆候。

これは偶然ではない。私の設計には、完璧な再現性がある。


返信は、極めて簡潔にした。


「朝9時開始。1刻で全工程を終了。食事は軽量かつ、速やかに力となる物であること。パンについては別紙を参照されたし」


別紙。

それはもはや調理法ではなく、「パンの鋳造規格書」だった。


粉の細かさ。

水の分量。

発酵の熱量。

窯に入れる秒数。


すべてが厳密な数値で記述されたその紙は、後世の歴史家たちに「食卓の産業革命」と呼ばれることになるのだが、今のクラリッサにとっては、単なる「調整済みの指示書」に過ぎなかった。



1ヶ月後。


近隣5領で朝会が導入され、街道の利用量が増加。物流の血流が加速し始めた。

報告書を読み上げるアルフレートの手が、わずかに震えている。


「……信じがたい。夜の削減が、ここまで即座に経済指数を押し上げるとは」


「当然の結果です。眠れる知性を戦力として計上したのですから」


アルフレートが、一枚の書類を差し出した。


『案件:広域的な朝間活動の活性化に伴う、街道整備の追加予算承認』


クラリッサは、静かにそれを手にとった。

これは愛ではない。評価だ。最大効率の肯定だ。


「……ありがとうございます」


「合理的な判断をしたまでだ。……それと」


アルフレートは、不自然なほど素早く視線を逸らした。

耳の端が、計測誤差では片付けられないほど赤くなっている。


「……貴殿の焼く、あの高効率燃料パン。……明日の朝分も、私の計算リソースとして確保しておいてほしい」


「……っ」


クラリッサは不意を突かれた。

「美味しい」でも「愛している」でもない。それは、夫から妻への、この上なく誠実で不器用な「独占欲の記述」だった。


(……この男、私に似てきたなんて言いながら、結局のところ、計算外の熱量をぶつけてくるのだから)


胸の奥が、熱を持った窯のようにじんわりと温かくなる。

それは論理では説明できない、未知の変数キュンだった。



翌朝。


パンを焼く。

粉を量る。

水分を調整する。

温度を測る。

秒単位で管理する。


誤差は許さない。

効率は積み上げるものだ。


まだ薄暗い時間から、城門前には馬車の列が伸びている。

到着時刻が前倒しされ、取引開始時間も繰り上がっている。

かつて夜会へ向かっていた灯りが、いまは朝の街道へと向きを変えていた。


庭園に光が差す。

人が集まる。

笑う。

踊る。

働く。

流れる。


すべてが、朝に向かう。


朝が変われば、1日が変わる。

1日が変われば、領地の流れが変わる。

領地の流れが変われば、人生の手触りが変わる。


退屈な運命の文は、一気に破り捨てる必要はない。

行を足し、数字を書き換え、バグを修正するみたいに、少しずつ上書きすればいい。



暖炉の上に、来月のバルトハイム伯爵邸の夜会の招待状が1枚、まだ残っていた。


封蝋を指でつまむ。

蝋燭屋の紋章が、ぱきりと音を立てて二つになった気がした。


返事は出さなかった。

お読みいただきありがとうございました。

次は明日12:00投稿予定です。


次回も同じクラリッサですが、アラフォーに。

15年間、愚痴を聞き続けたサロンを変える話です。

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