【王子視点】婚約破棄から三日。僕の中に名前のつかない空洞ができた
フィオナが走り去った後の三日間を、エドワード視点で書きました。
フィオナが走り去った。
大広間の扉は開け放たれたまま、夜の冷たい空気を吸い込んでいる。磨き上げられた大理石の床に、彼女が蹴り飛ばした靴が片方だけ転がっていた。白い花弁のような靴だった。
誰も動かなかった。
楽団も。
貴族たちも。
侍従たちも。
僕もだ。
フィオナ・ルーベンスは、婚約破棄を告げられた令嬢とは思えない声で「ありがとうございます」と叫び、信じられないほど晴れやかな笑顔で、裸足で走り去った。
泣きもせず。
縋りもせず。
恨み言すら言わず。
ただ、心の底から嬉しそうに。
その光景だけが、まるで絵画のように目に焼きついて離れなかった。
僕は、三日かけてこの婚約破棄を準備した。
侍従長に文言を整えさせた。
教会には聖女認定の手続きを進めさせた。
大広間の進行まで確認した。
完璧だった。
少なくとも、そのはずだった。
フィオナは泣くと思っていた。
当然だと信じて疑わなかった。
婚約を破棄されるのだ。しかも大勢の前で。侯爵令嬢としてこれ以上ない屈辱だ。泣くか、顔面蒼白で立ち尽くすか、せいぜい気丈に微笑むふりをするか。その程度だと思っていた。
実際の彼女は違った。
喜んだ。
それも、演技ではありえないほどの、本物の歓喜で。
なぜ、あんな顔ができる?
そこまで考えて、僕はようやく気づいた。
いや、気づきかけた。
僕は最初から、フィオナが婚約を誇りに思っていると決めつけていたのだ。
第一王子の婚約者。
未来の王妃。
その立場を、望まぬはずがないと。
王子である僕に選ばれたのだから、光栄に思って当然だと。
彼女が耐えているなどと、一度も考えなかった。
考える必要すら、感じなかった。
それは教育のせいではない。
王族だからでもない。
僕自身の、傲慢さだった。
†
「殿下」
侍従長のハインリヒが、控えめに声をかけてきた。
「……何だ」
「皆様がお待ちです」
僕はゆっくり振り返った。
百を超える視線がこちらを向いていた。
貴族たちは困惑し、令嬢たちは扇の陰で目を見開き、数人の若い貴族は笑ってはいけない場面で必死に口元を押さえていた。
笑われている、とは思わなかった。
予定されていた威厳ある断罪の場が、歴史に残る珍事へと変わったことは、誰の目にも明らかだった。
僕の隣では、セリーヌがか細い声で言った。
「エドワード様……」
震えているように聞こえる声だった。
だが、さっきのフィオナの声を聞いたあとでは、ひどく薄く、頼りないものに思えた。
あれほど細い体のどこに、あんな声を隠していたのだろう。
いや、違う。
声だけではない。
あの笑顔だ。
あの走りだ。
あの迷いのなさだ。
僕は三年間、あんなフィオナを見たことがなかった。
本当に、見たことがなかったのだ。
†
一日目。
朝から執務室には書類が山積みだった。
ルーベンス家への正式通達。
貴族院への届出。
教会への婚約変更申請。
細々とした名簿の差し替えまで、婚約破棄というのは妙に手間がかかる。
ハインリヒが一通の草案を差し出した。
「こちらは、フィオナ様宛の私信でございます」
「私信?」
「慣例でございます。破棄された側に対して、陛下あるいはご本人より、慰めの言葉を」
「慰め?」
思わず聞き返した。
「フィオナは喜んでいたぞ」
ハインリヒは一瞬だけ目を伏せた。
「……そのように、お見受けいたしました」
「なら必要ない」
「ですが慣例が」
「いらない。慰めなど、むしろ侮辱だろう」
言い切ったあとで、自分でも妙な感覚を覚えた。
どうして僕は、彼女が慰めを嫌がるとわかるのだろう。
三年間。
僕は彼女が何を嫌がるか、何を喜ぶか、何にうんざりしていたのか、まるで気づいてこなかったのに。
今さら、わかる。
彼女が喜ぶのは、自由だ。
僕から解放されることだ。
その事実だけは、昨日の一瞬で、残酷なほどはっきり見えた。
午後の評議会で、外務卿が淡々と報告した。
「ルーベンス家から抗議はございません。侯爵閣下より返書が一通」
「何と」
「『承知した。娘は元気にしている』」
「……それだけか」
「はい。一行のみでございます」
一行。
三年間の婚約が終わって、一行。
怒りも恨みもにじませず、ただそれだけ。
ぞくり、とした。
冷たいものが背中を走ったのは、その簡潔さのせいだった。
長々とした抗議文より、ずっと怖い。
余計なことを何ひとつ書かない。
だが、書かなくても足りるという確信がそこにはある。
ルーベンス家は、怒鳴らない。
記録し、見極め、必要な一手だけを打つ家だと聞いたことがある。
その娘が、三年間ずっと僕の隣にいた。
何を考えていたのか。
本当はどれほど冷えていたのか。
今さら想像しようとして、うまくできなかった。
評議会の終わりに、教会提出書類へ目を通したときだ。
セリーヌの聖女認定の記録。
魔力測定の結果。
認定審問の証明。
形式上、どれも整っている。
なのに、ひとつだけ目が止まった。
「ハインリヒ。この魔力測定の日付だが」
「はい」
「三か月前に追加で受けているな。定期測定は通常、半年に一度だろう」
「その通りでございます」
「なぜ追加がある」
「……確認いたします」
ただの確認事項だ。
それだけのはずだった。
だが、書類の数字を見ているうちに、昨日のフィオナの声が耳の奥でよみがえった。
ありがとうございます。
あれは悲鳴ではない。
解放だった。
三年間、あれほどの歓喜を胸の奥に溜め込ませるほど、僕は彼女に何をしていたのだろう。
何を話していた?
何を見せていた?
何を——聞いてこなかった?
†
二日目。
朝、僕は一人で庭園を歩いていた。
昨日の雨で濡れた土の匂いが残っている。
薔薇の生垣の一角だけが、不自然に折れていた。
フィオナが飛び越えた場所だ。
「まだ直していないのか」
後ろのハインリヒに問うと、彼は少しだけ咳払いをした。
「庭師に確認しましたところ、使用人の間で止められたそうでございます」
「止められた?」
「はい。『あれはもう、触れてはならぬものだ』と」
「……何だそれは」
「裸足の令嬢が笑いながら越えた生垣、と。すでに城内では語り草でございます」
語り草。
つまり、皆が知っているのだ。
僕が婚約破棄を告げた瞬間、フィオナがどれほど嬉しそうに逃げたか。
しかも、笑い話として。
僕は返す言葉を失った。
そのとき、石畳の向こうからセリーヌが歩いてきた。
白いドレスに日傘。
柔らかな金髪。
教会が好みそうな、清楚で穏やかな微笑み。
「エドワード様。こんなところにいらしたのですね」
「ああ。少し、考え事を」
「昨日のことですか?」
「……まあな」
セリーヌは気遣わしげに目を伏せた。
「どうか、お気になさらないでくださいませ。フィオナ様は、少し変わった方でしたもの」
「変わった?」
「ええ。普通のご令嬢なら、あのような振る舞いはなさいません」
優しい口調だった。
だが、よく聞けば棘がある。
変わった方。
普通ではない。
令嬢らしくない。
慈悲深く庇っているようでいて、きちんとフィオナを下へ置いている。
「私でしたら、とてもあのようには……」
セリーヌはかすかに目を潤ませた。
「殿下に見放されたら、立っていられませんもの」
僕は彼女を見た。
美しいと思う。
それは事実だ。
涙も似合う。
弱々しさも絵になる。
けれど、その姿を前にしてもなお、僕の脳裏に浮かぶのはフィオナの笑顔だった。
涙ではなく。
歓喜。
まるで重い鎖が外れた人間の顔。
「セリーヌ」
「はい」
「フィオナは、僕との婚約が嫌だったのだろうか」
「……そうでしょうね」
少しの間を置いて、セリーヌは答えた。
「殿下は何も悪くありませんわ。フィオナ様が、少々……殿下のお心を汲むのが苦手だっただけです」
さらりと言う。
責めていないようでいて、責める方向を定めていく。
フィオナが悪い。
フィオナが変わっている。
フィオナには思いやりが足りない。
そういう形にしたいのだと、今の僕でもわかる。
——今の僕でも。
わかってしまったからこそ、胸の奥が冷えた。
もし本当にフィオナが思いやりのない女なら、三年間も黙って耐えただろうか。
あの女は何も言わなかった。
一度も。
黙って、微笑み、礼を尽くしていた。
それなのに最後の最後で、堰を切ったように喜んだ。
つまり、あれほどまでに耐えていたのだ。
僕の隣で。
「ひとつ、聞いていいか」
「もちろんですわ」
「三か月前の追加魔力測定だが、あれはなぜ受けた?」
セリーヌの顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
本当に一瞬だった。
だが、見逃せなかった。
微笑みの形は崩れていないのに、目の奥だけが凍ったのだ。
人形のように。
「教会のご指示かと」
「定期測定は半年ごとだ。三か月前は定期ではない」
「まあ……そうでしたの?」
柔らかく首をかしげる。
けれど遅い。
ほんのわずかに遅れた。
考えてから反応した。
「わたくし、そういう日取りには疎くて……」
「自分の測定日なのに?」
僕がそう返した瞬間、セリーヌの表情がかすかに崩れた。
笑みはそのままだ。
声もやわらかい。
目だけが笑っていない。
冷たい。
底の見えない井戸のように。
「聖女候補は忙しいのです。すべてを細かく覚えてはいられませんわ」
その言い方に、わずかな苛立ちが混じった。
責められるとは思っていなかったのだろう。
僕がこんなことを気にするとも。
次の瞬間には、彼女はまた微笑んでいた。
「でも、ご安心くださいませ。わたくしは殿下のおそばを離れません。フィオナ様のように、殿下がお話し中に数え事をしたり、窓の外ばかり見たりはいたしませんわ」
胸の内側を、何かがざらりと撫でた。
「……数え事?」
「あら」
セリーヌは扇の陰で口元を隠した。
「失礼いたしました。侍女たちの間で、そういうお話を少し」
言いながら、彼女は僕を見ていた。
反応を確かめる目だった。
「フィオナ様は、殿下がお話しになるあいだ、よく正の字を書いていらしたそうですの。退屈しのぎに、ですって。わたくし、信じられませんでしたわ」
僕はその場で動けなくなった。
正の字。
数えていた?
僕の話を?
どれほど続くかを?
あるいは、何度同じ話をしたかを?
セリーヌは、僕が受けた衝撃を見て、いたわるようにため息をついた。
「でも、殿下はお気になさらないで。フィオナ様が少し風変わりなだけですもの。殿下のお話は、とても興味深いですわ。天気のお話も、狩りのお話も、馬のお話も」
その言葉は慰めのようでいて、妙に耳に残った。
天気。
狩り。
馬。
僕の話題は、確かにその三つばかりだった。
なぜ今まで、それで足りると思っていたのだろう。
†
三年の記憶が、少しずつ形を変え始めた。
僕は、フィオナとの散歩を楽しいと思っていた。
晴れた日の庭園を歩きながら、「今日はいい天気だ」と言うと、彼女はたいてい微笑んだ。
だから、彼女も楽しんでいると思っていた。
狩りの成果を話せば、彼女は相槌を打った。
馬の血統や脚の形について語れば、静かに聞いていた。
だから、興味があるのだと思っていた。
今思えば、違う。
あれは礼儀だった。
侯爵令嬢としての訓練された微笑みだった。
僕は気づかなかった。
気づこうともしなかった。
彼女がどれだけ退屈しているか。
どれだけ疲れているか。
どれだけ心をすり減らしているか。
たとえば厩舎で、僕が馬の脚について延々と語ったあの日。
彼女はたしかに頷いていた。
頷いていたから、感心していると思った。
——耐久だったのではないか。
たとえば舞踏会で、僕が猪の進路について話し続けた夜。
彼女は笑っていた。
笑っていたから、楽しいのだと思った。
——顔に貼りつけた仮面だったのではないか。
僕はずっと、自分だけを見ていた。
彼女を隣に立たせながら、彼女そのものは見ていなかった。
話し相手ではなく、聞き手。
婚約者ではなく、背景。
——そんなものにしていたのか、僕は。
†
三日目の夜。
執務室に戻ったハインリヒが、調査結果を持ってきた。
「追加測定の申請者は、セリーヌ嬢ご本人です」
「本人が?」
「はい。理由欄には『数値向上の確認のため』と」
「結果は」
「前回と同値でございます。変化なし」
変化がないのに、確認したかった。
つまり、上がっているはずだと考えていたか。
あるいは、上がったことにしたかったか。
どちらにせよ、胸の奥に小さな棘が刺さった。
「もうひとつ聞く」
「何なりと」
「フィオナは……僕について、何か言っていなかったか」
ハインリヒは少し迷ってから答えた。
「侍女に一度だけ。昨年でございます」
「何と」
「『殿下のお話は、天気と狩りと馬の三つしかない。私が何を申し上げても、最後はその三つに戻る。会話ではなく、円を描いているみたい』と」
会話ではなく、円。
僕は目を閉じた。
言い返せない。
反論のしようがない。
実際、その通りだったからだ。
僕は彼女の話を受け取っていなかった。
何を差し出されても、自分の好きな三つに戻していた。
自分では、会話をしているつもりだった。
楽しい時間を共有しているつもりだった。
違った。
あれは僕が一人で輪を回していただけだ。
フィオナはその中に閉じ込められていた。
紙を引き寄せた。
ペンを取る。
フィオナに何か書こうと思った。
だが、書けない。
何を書く?
「すまなかった」では足りない。
「戻ってきてほしい」など、論外だ。
では、何を書く。
——僕は、空っぽだった。
そこまで考えて、手が止まる。
続きが書けない。
空っぽの人間が、何を書けばいいのかわからない。
机の端に置かれた手紙が目に入る。
クラリッサ・ルーベンス侯爵夫人からのものだ。
「ルーベンスの女は退屈では死にません。ですが、退屈に殺されることは許しません」
読み返した瞬間、背筋が凍った。
怒りでも、非難でもない。
ただの一文。
逃げ場がない。
——僕は、フィオナを退屈で殺しかけていたのか。
窓の外を見る。
月明かりの中、バラ園の生垣が影を落としている。
あの夜、彼女が飛び越えた場所だ。
フィオナがいなくなったことで、ようやくわかった。
僕は何も持っていなかった。
語るべき言葉も。
差し出せるものも。
何も。
明日の朝も、きっと誰かに「今日はいい天気だね」と言うのだろう。
その一言が、三年前と同じだと知りながら。
フィオナが走り去ってから三日。
変わったのは、バラの生垣が折れたことと——
僕の中に、名前のつかない空洞ができたことだけだった。
次回は明日18時投稿予定です。時代が遡り主人公が変わります。
ルーベンス家には、フィオナより前に「退屈を書き換えた」女がいました。




