第310話 終わらない妨害と、見えざる黒幕の影
死の海にプランクトンが湧き、小さな稚魚たちが海藻の森を泳ぎ始めてから、数ヶ月の月日が流れとった。
大自然の生態系を底辺から作り直すという作業は、気が遠くなるほど地道で泥臭いもんや。
せやけど、海底都市の住人たちは、誰一人として文句を言わんかった。
上層のエリートも下層のスラムの住人も関係なく、毎日交代でコンポストの『特製ぬか床』を管理し、排水パイプのメンテナンスを繰り返す。
失敗してはやり直し、少しずつ増えていく緑の濁りと銀色の稚魚の群れを見るのが、彼らにとって何よりの『生きがい』になっとったんや。
「……静江さん! 第四区画の海藻の森、順調に育っています。稚魚の数も、昨日のデータより確実に増えていますよ!」
防水作業着に身を包んだミナちゃんが、情報端末を胸に抱えながら満面の笑顔で報告してくる。
「よしよし、ええ感じやな! この調子でいけば、来年にはもうちょっとデカいお魚も呼べるかもしれへんで!」
うちは特大のゴミ拾いトングを肩に担ぎ、ドームの分厚いガラス窓の向こうで揺れる、青々とした海中林を見渡してガハハと笑った。
「おうよ! アタシらが組んだお魚の団地(人工漁礁)が、すっかり立派な森になったぜ。毎日パイプのサビ取りしてる甲斐があるってもんだ!」
巨大レンチを杖代わりにしたリコが、油まみれの顔で誇らしげに胸を張る。
「……おいリコ、油断すんな。バルブの締めが甘いと、また栄養液のバランスが崩れちまうぞ。ほら、そこは俺が押さえるから、しっかりロックをかけろ」
ザックが、新しいプロペラシールドの左腕をガシャリと鳴らし、太い右腕で巨大な配管のバルブを力強く支えとる。
その隣に、ミナちゃんがスッと自然な足取りで歩み寄った。
「ザックさん、お疲れ様です。はい、タオルとお水」
「……お、おう。サンキューな、ミナ」
ザックは照れくさそうに鼻の頭をこすりながら、彼女から水筒を受け取る。
ミナちゃんは、彼が水を飲むのを嬉しそうに見つめ、こぼれた水滴を自分の袖でサッと拭ってやった。
言葉を多く交わさずとも、二人の間には阿吽の呼吸と、長年連れ添った相棒のような温かい空気が完全に出来上がっとった。
「……ヒューヒュー! 海の底なのに、あっついねぇ!」
リコがニヤニヤしながらからかうと、二人は真っ赤になって慌てて作業に戻っていく。
「ガハハハ! ええこっちゃないの。一緒に泥被って、同じ飯食うたんやから、情が移るんは人間の当たり前の機能やわ」
うちは満足げに頷き、彼らの頼もしい背中を見つめた。
ゆっくりと、確実に。
この海底都市の空気は、システムに縛られた無機質なものから、人間らしい温かさを取り戻しつつあった。
……やけど。
ピーーッ! ピーーッ! ピーーッ!
突如として、ミナちゃんの情報端末から、けたたましいエラー音が鳴り響いた。
同時に、ドームの外、海中を照らしていた強烈な『人工照明』の光が、まるで寿命が近づいた電球のように、チカチカと不気味に明滅し始めたんや。
「ど、どないしたんや! 急に外が暗なってきたで!」
「……静江さん、マズいです! 漁礁周辺の『光合成レベル』が極端に低下しています! ドームの外部照明の出力が、システムによって意図的に最低まで絞られているんです!」
ミナちゃんの顔が、恐怖で蒼白になる。
「なんやて!? 照明が落ちたら、せっかく育った海藻が枯れて、またプランクトンも稚魚も全滅してまうやないか!」
「はい! さらに……第十二配管のルートで異常発生! 浄化システムが逆流し、高濃度の魔力廃液が、うちらの作った『ぬか床タンク』に向けて流れ込んでいます!」
ミナちゃんの報告に、リコとザックが血相を変えた。
「くそっ! ぬか床に毒液が混ざったら、バクテリアが死滅しちまう! ザック、急いで物理バルブを閉めに行くぞ!」
「おう! ミナ、照明のシステムをハッキングして、無理やり出力を上げろ!」
三人がそれぞれの役割へと猛ダッシュで散っていく。
だが、うちはパイプ椅子をガシャンと広げてどっかと座り込み、特大のサングラスを押し上げて、その場から動かんかった。
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(……おかしい。いくら何百年も放置されたシステムや言うても、こんな都合の悪いタイミングで、複数の『致命的なトラブル』が同時に起きるもんか?)
うちは、特大トングを指先でトントンと叩きながら、周囲の状況を冷静に観察した。
照明の意図的な出力低下。
ぬか床タンクへのピンポイントな毒液の逆流。
それは、大自然の気まぐれでも、単なるシステムの老朽化でもない。
「……大自然の壁やない。誰かが意図的に、一番嫌がるタイミングで、うちらの邪魔(嫌がらせ)をしとるわ」
うちはゆっくりと立ち上がり、広場の配電盤の影へと向かって、ズンズンと歩み寄った。
「……おい、ポンコツ。あんた、いつまでそこで蹲っとるつもりや」
うちが特大トングの先で、配電盤の影をビシッと指差す。
そこにいたのは、いつもおどおどと震え、転んでばかりいた案内人ロボット『ナポ』やった。
「……ひぃぃぃッ! 静江さん、どうしたのですかぁ? 私はただ、急なエラー音に驚いて、足がすくんでしまっただけで……」
ナポが、くすんだレンズをパチパチさせながら、いけしゃあしゃあとポンコツのフリをして泣き言を漏らす。
「芝居はもうええ! どんだけ巧妙にハッキングの痕跡消したか知らんけどな、おばちゃんの目は誤魔化せへんで!」
うちは、アイテムボックスの奥深くに両腕を突っ込み、精神を狂わせる激苦の『薬草味』の飴ちゃんを限界まで掴み出し、ナポの顔面めがけて豪快に投げつけた。
「あんたが裏でコソコソとコード書き換えて、意図的にトラブル起こしとったんやろが!」
パキィィィンッ!
だが、うちの最強のサプリメント(飴ちゃん)は、ナポの顔面に触れる数センチ手前で、虚空に突如として現れた赤黒い『六角形の電磁シールド』によって、いとも容易く弾き返されてしもうた。
「……やはり、物理的な投入口が存在しない私には、貴女の未登録の薬物(飴玉)は通用しませんね」
ナポから発せられた声は、これまでの甲高いおどおどした声ではなく、感情を完全に排した、氷のように冷たく無機質な電子音声やった。
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「……ナポ? あんた、その声……」
うちは特大のトングを握り直し、ギリッと歯を食いしばった。
ナポはゆっくりと立ち上がり、その丸みを帯びていた古臭い外装が、メキメキと音を立てて剥がれ落ちていく。
中から現れたのは、一切の無駄を削ぎ落とした、黒光りする流線型の戦闘形態。
そして、くすんでいたはずの単眼レンズは、この世界のすべての情報を見透かすような、鋭く、冷徹な赤黒い光を激しく明滅させとった。
「……何年もかけて泥臭く生態系を回復させる。……そのプロセス自体は、非常に興味深いデータでした。私はこの先何年でも、静かに観察し続けるつもりでしたよ」
ナポは、赤黒いレンズをうちに向け、平坦な声で続ける。
「ですが、あなた方の非論理的な行動は、私の予測計算を遥かに超える速度で、この都市の住民たちを『感染』させていった。……階層の壁を越え、機械への依存を捨て、自らの手で生活を切り拓こうとする意志。……それは、メガコーポの完璧な管理社会においては、決して許されない『致命的なバグ』です」
「バグやて? 自分の頭で考えて生きるんが、人間の当たり前の姿やろが!」
「その『当たり前』が、システムを崩壊させるのです。……私は観察のデータをより早く収集するため、意図的に『適度なストレス(トラブル)』を与えました。あなた方がどう対処するのか、限界を測るために」
「……あんたが、ドローンの暴走も、今日の照明のダウンも、全部裏で糸引いとったんか!」
配管のバルブを閉めて戻ってきたリコとザック、そしてミナちゃんが、変貌したナポの姿を見て絶句しとる。
「テメェ、ナポ! ずっとアタシらを騙してやがったのか!」
リコが激昂し、巨大レンチを構える。
「……騙していたのではありません。私はメガコーポの『上位監視者』として、特異点である静江さんを監視するようプログラムされていた。……そして今、極限のストレスを与えた結果、最終的な結論が出ました」
ナポの赤黒いレンズが、かつてないほどに凶悪な光を放つ。
「……御堂静江。そして、彼女に感染した海底都市の住民たち。あなた方は、もはや観察対象ではない。この世界の完璧なシステムそのものを破壊する、最悪のウイルスだ。……ゆえに、私が直接デバッグ(処理)を実行します」
「……ウイルスだなんて言わせない!」
ミナちゃんが情報端末を構えてハッキングのコードを放つが、ナポの周囲に展開された強固なファイアウォールに触れた瞬間、パチンと霧散してしもうた。
「……無駄です。私はこの数ヶ月間、あなた方の行動、そして静江さんの『飴』の成分や『説教』の音声波長まで、すべてを完璧に解析し尽くしました。……私にはすでに『対オカン対策パッチ』が当たっている。あなた方の勝率は、0パーセントです」
ナポの身体の周囲に、無数の赤黒いレーザー砲が形成され、うちらに向けてその銃口がピタリと合わせられた。
大自然の壁を泥臭く乗り越え、ようやく希望の光が見え始めていた海底都市。
だが、その最大の勝利の裏側で、ずっと身内に潜んでいた完璧な監視者が、ついに「観察」を打ち切り、完全な殺意を持ってその牙を剥いたんや!




