二
二
新鋭軍は、出動がないときは案外に暇を持て余すことが多い。
限られた勤務時間は、ほとんどが訓練に費やされる。なので文字通り退屈という訳ではないが、休憩も一定間隔で挿まれるし、よほど風紀を乱すような真似さえしなければ、かなり融通は利くのだ。
構成員は年頃の少年少女のみ、指導の為に若干の教官はいるが、兵の数に比べれば圧倒的に少ない。新鋭軍の実体は小中の学校とほとんど変わらないのだ。
学校と明らかに違うといったら、要請に応じてグールを殲滅しに出動する面だろう。運が悪い者は出動したまま帰らない。そんな文字通り命懸けの戦いに身を投じなければならない。
が、それが当たり前の風景となった昨今、特に脅えるでもなく兵たちは気侭な生活を楽しんでいる。中でもやはり食堂は人気スポットだ。
例に漏れず、暇さえ見つければ、悠人たちは食堂を溜まり場にするようになっていた。流石にこの時期ともなれば、初めは烏合の衆だった初期生にも自然と特定の集団での纏まりが出来てくるもので、彼らも時に増減はあれど、既にこの顔触れで居ることが常になっていた。
例の手合わせが原因で、一時は子供のように拗ねていた真浩だったが、リコのひょうきんでマイペースな性格に引き摺られたと見えて、今ではすっかり意気投合してしまった。
付き合っていくうちに、中期生トリオは案外に物知らずであることも判明した。例えば、
「そういえば中学生の頃の話なんですけど、学校帰りの通学路にいつも立ってるサンドイッチマンが居たんですが――」
などと悠人が話題に上げてみれば、怜がきょとんと首を傾げ、
「サンドイッチマンって、漫画や特撮のヒーローか何かか?」
などと訊ねてくる。最初は冗談を言っているのかと思ったが、どうやら本当に知らないらしい。
「え、えーと、とりあえずヒーローでないことは確かですけど……本当にサンドイッチマン知らないんですか?」
「だから訊いてる」怜は頭を振る。その様子を見てリコが笑い飛ばす。
「馬鹿じゃん馬鹿じゃん、きむきむくんてばサンドイッチマンも知らないのかよ、駄目だなーそんなことじゃ、人生やっていけないぜ」
「きむきむ言うな。じゃあお前、句読点含む四十五字以上五十字以内で簡潔に説明してみろよ、俺の為に」
すると頬を引きつらせて、救いを求めるように哲也を振り返る。
「ほら、アレだよな哲っちゃん、な」
「ああもう、知らないなら知ったかぶりしないの。いいかい、サンドイッチマンっていうのはね、ほら野球場のスタンドとかで籠に食べ物入れて売り歩く人いるだろう、ああやってサンドイッチを売る人のことだよ」
「哲也先輩も全然ちがーう、もっともらしく嘘を吐かないで下さいよ!」
「へ、違うの?」
「違います!」
とことん寝言を吐く先輩達に悠人は思わず叫び、どうしようもなくなって他の面々を振り返る。
「うぇぇぇぇぇん、助けて真浩、俺の話が続かないよぅ」
「おーよしよし、どうせ誰もお前の話に興味ないから安心しとけ」
「そんな、お前まで俺を苛めるの?」
心温まる会話を繰り広げる兄弟の傍では、望が三人を嘲笑し、篤と瞬は肩を竦めて溜息をつく。
「あはははは、馬鹿だ馬鹿ですねホント馬鹿馬鹿ははははは」
「いやなんといいますか、勝手にしてくれって感じで」
「うわぁ、酷い奴等だよお前ら、なんだよなんだよ、ちょっとしたミスで揚げ足取りすぎじゃん、少しは容赦してくれよー」
などと彼らが馬鹿騒ぎしていると、不意に頭上から影が差した。人影に気付いて目線を上げると、襟に終期生の赤い線が入った制服を着用する巨躯の男が、口に指を当てて八人を見下ろしていた。生真面目そうな顔の中で眉を歪ませ、静かにするよう手振りする。
「邪魔して悪いが、周りの迷惑になるからもう少し声を小さくしてくれるか」
そう指摘されて初めて、自分達が相当な大声で話していたことを自覚した。あの間抜けな会話も周囲に筒抜けで、食堂内のところどころで失笑さえ漏れている。怜と哲也が特に赤面した。
迷惑を詫びながら、悠人は終期生の顔を見た。この男は知っている、確か、記憶に間違いがなければ白石竜司といったか。白兵隊隊長その人である。また、兵長との親密な仲が噂されていることでも有名だ。
――高木とか白石とかが知ってるだろ――
ふと、先日の終期生との会話を思い出した。ものはついでと、竜司に尋ねてみる。
「そういえば、俺ちょっと訊きたい事があるんです。時間借りてもいいですか」
竜司は頷いて、勧められた椅子に腰をかけた。俗に言う「誕生日席」に座ると、一同の視線が竜司に集まる形になる。
「この前、人に聞いたんですけど、二年前までいた木村先輩って人はどんな人だったんですか?」
木村という姓に、篤たちの視線が怜へ集中する。怜は首を横に振った。
「どんな人だったのか訊いてみたいと思ってたんです。総長に匹敵するくらい強かったって聞いて、少し気になって。白石隊長なら知ってるって言われたんですが」
懐かしい名を聞くと、しばし考え込むようにして、竜司は口を開いた。
「俺も特に親しかった訳じゃないから、大したことは言えないが、それでもよければ。……そうだな、今の総長とどちらが強いかは実際のところわからない。意外にも、あの二人が手合わせしたことは一度もなかったからな。互角とか匹敵とか、それはあくまで印象から受けるもので確証はない。ただ、その評価が間違っているとは誰も思わないだろう」
そして性格面でも、特に非と呼べる部分はなかったのではないかと竜司は言う。竜司の目から見て、というのが大前提ではあるのだが。
「むしろ小憎らしいくらい人当たりがよかったかな。潔癖な優等生タイプじゃなかったから、余計に人気があったように思う。そういう奴はえてして嫉妬されやすいものだけど、彼の場合は臨機応変に人と渡り合う強かさも持っていたようから、皆無ではないだろうが、敵はそんなに多くなかった筈だ」
何だか、聞けば聞くほど完璧超人のような印象を受ける。きっと、悠人など及びもつかないくらい立派で、大人で、強く賢い人なのだろう。実際は違うかも知れないが、勝手な想像は自由だ。
「行方不明、生死不明ではあるけども、そう容易く死ぬような奴じゃないと思う。どこかでしぶとく生きていそうな気もするな」
と、竜司は締めくくった。話を聞けば更に好奇心は膨らみ、一層実物を見てみたいという思いが大きくなったが、そこで口をついて出た言葉は別のものだった。
「木村って同じ苗字ですね。もしかしたら怜先輩と兄弟だったりして?」
「その理屈じゃ、世の中にいる木村姓の全てが血縁ということになるな。凄い人数になりそうだ」
などと怜は取り合わない。確かに「木村」は在り来たりな姓で、悠人の子供時代から今まででも既に数人は木村姓の知り合いがいる。ただ僅かに、ほんの微かに、見過ごしそうなくらいにだが怜の態度に違和感を覚えた気がする。
「遠くの人間に思いを馳せるのも良いが、とりあえずは身近の問題から目を向けるべきだろう。初期生は、まず現場の空気に慣れること。中期生は慣れから来る油断に気をつけること。まずはそこからだな。あと、会話する時は周りの迷惑にならないように」
竜司がさり気なく釘を刺す。
説教にうんざりして不貞腐れたような表情を浮かべるが、直後、悪戯を思いついた幼子のような天使の微笑みで、望が問い重ねた。
「白石せーんぱい、俺もう一つ質問したいことがあるんですよー」
「何だ、言ってみろ」
「高木兵長とラブラブって話はマジですか?」
「なっ……な、な、な……か、からかうのは止せ!」
耳まで赤くなりながら叫び、自身の大声に驚き慌てて口を抑えた。そして周囲を見渡して、声を抑えて言う。
「ラブラブどころか、俺なんて相手にもされてないさ……」
「はあ、でも、先輩は本気なんですねぇ健気な片恋なんだ、成る程ね」
「そりゃ当然……って、何を言わせるか!」
まあまあ、と宥めて、望は一人で納得したように指を鳴らした。
「よし、第五四七二回、恋のお悩み相談室を始めようか。恋のイロハなら俺にお任せ!」
「また寝言抜かしてやがる」
篤の嫌味も気にしない。
「いいですか、二人きりになったらこうして向き合って、間近で囁くんです。君をずっと守る、とかなんとか、決め台詞を吐けばいちころだ」
「そ、そんな気障な方法で上手くいくのか?」
「何言ってるんです、特に気の強い女性ほど、二人きりで真剣に告白すれば顔を赤らめるもんですぜ。恋愛に関して百戦錬磨の俺が言うんだから間違いない。まあ、俺ほどの人間になると、何をせずとも向こうから言い寄ってくるけどな」
「その代わり、破局のパターンも大体は君が振られて終わりなんですよね」
「うっさいわ。まあとにかく、相手の目を見つめるのがポイントです」
恋愛沙汰に疎い竜司は鵜呑みにして、しみじみと首を上下に揺する。気を良くした望は更に調子に乗った。
「そんでもって、あとは肩を抱き寄せてキスをして、二人でどこかにしけ込んでうっふんあっはん……」
「……もしかして、俺をからかって愉しんでいないか?」
聴いているうちに、妙な方向へ話がずれていく。ようやくからかわれたのだと気付いた。
「いやあ、思った以上に気付くの遅かったですね。正直どこまで行っちゃっていいものか迷いましたよ」
「真剣に聞いた俺が馬鹿だった!」
荒く鼻息を噴いて、肩を怒らせながら逃げるように竜司は走り去った。その様子を見ながら大爆笑。そうしているうちにいつしか違和感も消え去ってしまった。
事件はその日の夜に起きた。
大柴政道は周りに目もくれず、一直線に目的地へ歩を進める。
その夜、彼は決意を胸に秘めていた。大勢の前で罵倒され、恥を掻かされたあの日からずっと胸の奥にしまいこみ、じっくり煮詰めていた感情がとうとう吹き零れたのだ。
――あの女に、自分を謗りせせら笑ったあの女に復讐を。
他人から見れば馬鹿げた、だが本人にとってはこれ以上ないほど正当な理由を胸に、大股早足で突き進む。
今日という日を選んだことに理由はない。即断即行、それだけだ。
あの日だけでなく、以来事あるごとにあの女は大柴にきつく当たってきた。やれカスだの無能だの、人の顔を見る度に卑下するのだ。それが大柴には憤懣やるかたない。ただ一度の失敗が何だというのだ、たかが遊びに、何をムキになることがある。現に俺は生きて帰ってきたではないか。それは俺の実力を示す、その証拠ではないか!
死んだ奴はその程度の奴だった、ただそれだけだ。そう考える大柴は、自分が助けられたからこそ無事でいられたという事実など見ようともしていない。自らを正義と信じる彼は、悪の化身――すなわちあの女――に制裁を加える為、ただ前を見据えて歩いていく。
……既に大半の兵が宿舎へと引き上げている宵の刻、高木蛍は気紛れに屋上で風に当たっていた。人が滅多に出入りする場所ではない為、自分以外に人気がないその場所で、蛍は煙草に火をつけた。普段人前では吸えないから、こんな時が唯一の喫煙休憩である。
誰にも邪魔されず、のんびりと空を眺めるのが、趣味というほどではないが楽しみの一つだった。生憎の曇天が残念だが、一人でいられるのは気分が落ち着く。
が、どうやら今日は来訪者らしい。内心舌打ちをしながら、それでも煙草を手放さず目だけをそちらへ向けた。隠そうともしない敵意と害意。これで気付かなかったら鈍感だ。
「何の用だ?」
わかりきってはいたが、敢えて訊いてみた。そして予想通りの答え。
「報復ですよ。数々の侮辱や讒言の数々を、今日まで見逃していたことを感謝してほしいものです。ですが寛大な僕だってそういつまでも仏の顔をしていられるわけではありませんからね。専横を許しておく訳にはいきません。分を越えた貴女の傲慢な態度に制裁を加えに来たんです」
無駄に華美な言葉を使いたがる癖は変わらないが、妙に慇懃な喋り方だ。ともあれあまりに想像通り過ぎて、逆に蛍は可笑しくなった。幼稚過ぎるにも程がある。腹を抱えて高らかに笑うと、大柴は上唇を捲り上げるようにして、憤然とした顔を作った。
「罪深き悪魔に神の裁きを!」
頭の悪さを露呈した掛け声と共に、懐に忍ばせていたナイフを閃かせ、蛍に肉薄する。だが彼女の反応は早かった。脇に携えた鞭を一振りし、大柴の右手を強かに叩く。痛烈な一撃に思わずナイフを取り落としたときには、蛍が懐に飛び込んでいた。身を守るように両手を交差させるが、その隙間を縫って蛍の左腕が大柴の顔面に迫る。
突き刺すような激痛が、右目の下から脳天まで突き抜けた。
その痛みが焼け付くような熱さに変わるまで、数拍の間がかかった。火傷を負ったのだと自覚するには、更に数瞬。蛍の手にした煙草で顔を焼かれたのだとようやく理解したのは、追い討ちをかけるように繰り出された肘撃ちが人中に炸裂した後のことだった。容赦ない一撃で、前歯が数本折れ飛び、血を撒き散らす。
「フン、私も腕が鈍ったか。目を焼いてやろうと思ったんだがな」
倒れこんだ大柴を見下すように脇に立ち、顔を覗き込んだ。大柴は激痛と屈辱と恐怖に慄き、顔を引きつらせた。
「どうした、さっきまでの威勢は。私を誅するんじゃなかったのか」
「ひッ……た、たす、助けッ」
「貴様が助けを請う相手は誰だ、神か仏か、どっちだ。ハッ、どちらも信じてはいないくせに、仏の顔とか神の裁きとか、言うだけは立派だな!」
これ見よがしに煙草をちらつかせると、鶏の首を絞めたような悲鳴を上げて四肢を懸命に動かし後退りする。しかし蛍は逃亡を許すような寛容さは持ち合わせておらず、もう一撃を加えようと鞭を振り上げた。
顔を焼かれ、口から血を止めどなく流しながらも、気絶できなかったのは不幸であったかもしれない。ただ、どうやら運は大柴に味方したらしい。
ばたばたと這う彼の手に、固いものが触れた。それはつい先程取り落としたナイフの柄だった。咄嗟にそれを掴み、蛍に向かって投げつける。蛍は大柴に向けて鞭を振り下ろしかけたが、即座に軌道を変えてナイフを叩き落とした。
隙をついて、大柴は目を瞠るほどの素早さで駆け出していく。あれほどまでに傷を負いながら、驚くほど俊敏な動きであるのは、危機に直面した際に発揮される恐るべき生存本能の賜物であろうか。奇声を発しながら大柴は屋上を横切り、申し訳程度の柵を乗り越え勢いもそのままに隣の屋上へと飛び移った。
当然ながら蛍は追いかける。屋上から隣の屋上へは意外に距離があり、普通なら諦めても臆病者と謗られない程度には危険な行為である。そんな距離を飛び移ったことに驚きはしたが、それで怯む性格はしていない。同じように乗り越えようと、柵の手摺りに空いた左手をかけた。
途端、射抜くような鋭い視線を感じた。
身の竦む思いがして、反射的に立ち止まってしまう。一瞬のことだったが、その一瞬が飛び越えることを躊躇させた。そして一度躊躇してしまうと、再び助走からやり直し、という気にはなれない。音高く舌打ちして、何よりもまず足を折るべきだったと後悔しながら、やむなく階段を駆け下りていく。
大分遅れをとって、蛍は苛立った。それだけではない。先程の正体不明の視線が、彼女に言いようのない重圧と不安感を覚えさせていた。
――馬鹿な、馬鹿な、有り得ない! 認めてなるものか、この俺が、あんな女に! こんな屈辱を受けるなんて!
空の下を駆け抜けながら大柴は、痛みと惨めな敗北感と憤りとで周りに目を向ける余裕が一切なかった。だから目の前に人影を認めたときも、実際は貯水槽の陰に隠れていただけだったのだが、突如涌いて出たように思えて心臓が高く飛び跳ねた。彼の目に脅えの色が浮かぶが、すぐに怒りが支配する。
「ひゃまだ、ろけ!」
進路を妨げる影を一喝しようとしたが、前歯の折れ飛んだ口ではまともな発音にならない。それが余計に屈辱感を煽る。ぐらつく視界の中で、大柴はその影に殴りかかった。ほとんど八つ当たりである。
渾身の一撃を、しかし影はいとも簡単に受け止めた。受け止めた拳を己の掌で包み、憤慨する大柴に囁く。
「力を望むか?」
相手が何を言いたいのかわからず、呆気にとられて影を見上げた。右目は開けていられないし、眩暈がして影の顔がよく見られない。
そんな彼に構わず、影は言葉を続ける。
「手っ取り早く強くなりたいのなら、手段がないわけでもない。ただし、お前が望むような強さではないかも知れんぞ」
まさにそれは、大柴にとって悪魔の囁きだった。胸中に激しい憎悪渦巻く今の彼は、蛍に一矢報いる為だったらどんな手段でも厭わなかった。悪魔に魂を売ることさえ懼れもせず、むしろ自ら進んでしてみせる。それほどまでに正常な判断力を喪失していた。だから、胡散臭いとは思いながらも影の誘いに乗ってしまう。
「いい、どんなものでもいい! 俺を強くしてくれ!」
「後悔するかもしれないぞ、それでもいいと言えるか」
「いい!」
歯が欠けているせいで空気が抜けて正常な発音が出来なかったが、それでも辛うじて通じたらしい。嘆願を受けて、影は頷いた。
「なら、このまま南へ行け。大通りを跨いで更にずっと奥まで行けば、広い公園がある。そこに迎えが待っているから、あとはそいつらに従えばいい。急げ、早くしないと追っ手が来るぞ」
と言って、前方を指差した。がむしゃらに走るうち、いつの間にか最南端の棟まで来ていたようで、飛び移れる屋上はその先にはない。これから階段を降りるのでは時間を食いすぎるが、影が指し示す方向に大樹があった。それを伝い降りれば大幅な時間短縮になる。
改めて、大柴は影の顔を見た。相変わらず眩暈は止まないが、ある程度は焦点を絞り込めるまでになっていた。月明かりと街灯に照らされる顔を見て、思わず声を上げる。
「な……んだよ、あんた……」
「何も言うな。別に俺は、お前の味方をするわけじゃない」
見覚えのある顔。その顔が、目を伏せて首を振る。
「誰からの依頼であろうと、要請を受ければ、誰に対しても等しく提供をするだけだ。そしてお前は力を望んだ。お前と向こうとの利害が一致しただけだ」
「向こう?」
「もう言うことはない。早く行け」
大柴の疑問に答えることなく、一方的に話を切り上げると急かすように背中を押した。押しながら、何故か僅かに苦笑する。
「後悔するかも、とは言ったが、必ず後悔する事になるだろう。……俺としては、断ってくれた方が楽だったんだがな。まあ、もう遅いか」
意味深な言葉を言い残す。大柴も流石に不安になって引き返しかけたが、思い直して前に向き直った。悪魔に魂を売り渡すことだって厭わないと決めたばかりだ。もとより覚悟の上、後悔するのも上等だ。自分で決めたことの責任は自分で持つ。
思考力が大分鈍っているのか、それとも初めから理解力が不足していたのか。実は答えを影によって決めさせられたのだということに、大柴は最後まで気がつかなかった。
階段を駆け抜け、蛍は地上に降り立った。
空を仰ぎ見て、はるか前方、南側に蠢く人影を見つける。素直にエレベータを使った方が早かっただろうか、彼女が階段で手間取っている間に、随分と距離を離されてしまったようだ。辛うじて輪郭を捉える事が出来たが、黒塗りのシルエットとしてしか認識出来ない。だが今現在、道なき道を――空の下、屋上を駆け抜ける愚か者は一人しかいない筈だ。
その愚か者が、一番端の宿舎と寄り添うように立つ大樹へ乗り移る姿を認めた。地上へ降りてくるならば、今より追いつきやすくなる。伝い降りてくる今の内になるべく距離を近づけようと、大地を蹴りつけ一歩踏み出そうとしたその刹那、再びあの貫く視線。縫い止められるように蛍は踏みとどまり、咄嗟に目を視線が来る方向へ向けた。
やはり一番端の屋上で、大樹と逆側に位置する貯水槽の脇に誰かがいた。視線の主はこいつに違いあるまい。惜しむは、暗闇の中、この距離から人物を特定できるほどの視力を彼女が備えていないことであった。遠隔射撃が得意な狙撃部隊の人間だったら、もしかしたかもしれないが。
そんなことを考えているうちに、視線の主は隠れるように貯水槽の陰に入ってしまった。
はっと気がついて、目を大樹に戻す。そこに人の気配はない。恐らく既に大地へ降り立ち、走り去ってしまったのだろう。蛍は三度目の舌打ちをする。逃げられたことに対する悔しさもそうだが、それ以上にしてやられたという想いが強かった。あの視線の主、奴の目的が蛍の足止めだということに思い至ったからである。視線だけでそれを成功させるとは大したもので、舌を巻かずにはいられない。
さて、どうしたものか。ひとまず周囲を一瞥してみる。
宿舎は基地に隣接した敷地にある。とちそのものは広範囲だが僅かな隙間さえ埋めるが如く建物が林立しているので、各棟の間隔は非常に狭く、だからこそぎりぎりとはいえ飛び移ることも可能なのだ。
ここは門限もないし、外出にも制限はない。基本的に兵達の行動は、勤務時間外であれば自由を認められている。辺りは既に夜闇に閉ざされていても、一〇代の若者にとってこの時間帯などまだまだ宵の口だ。よって夜を更かして出歩いている者を探すのは容易だった。棟の裏に回って少し歩くだけで、空を見上げる集団が目に入った。手前にいた一人が、蛍の気配を感じて振り返る。
「そこのお前達、手が空いているなら手伝え」
声をかけられて、集団の全員が振り向いた。一人、二人……数えれば五人。とりあえずの捜索隊としては充分だろう。きょとんと首を傾げる彼らに、簡潔に説明する。
「刃物を振り回した馬鹿が逃走した。幸い私は無傷だが、放置する訳にはいかない。捕えるのに協力しろ。拒否はさせん、わかったな?」
有無を言わせぬ強い語気に、彼らは気圧され、うろたえた。彼ら――悠人たちは、突然のことに思考力が追いつかず困惑する。
彼らは目的もなくただ集まって雑談に花を咲かせていた。そのうち次第に、酒が欲しくなってくる。そこでじゃんけんに負けた望、瞬、哲也の三人を買い出し部隊として見送った後、部屋に戻ろうとしてリコが上空の人影に気がついた。屋上を一目散に駆け抜ける人影など、平時には有り得ない光景である。
のっぴきならぬ事情がありそうだが、さて、追ってみようとしたところで貯水槽が邪魔をして見えなくなった。彼らの立つ位置からでは、大樹は死角に入り込んでいるので、そこから人が伝い降りたということさえ知りようがなかった。間抜け面して上空を見上げていたら、そこへ蛍の闖入である。
物見遊山のつもりが、奇妙なことに巻き込まれる羽目になったのだ、面食らって当然だ。しかし真っ先に拒否権を没収されてしまったので、不承不承ながらも彼女の命令を聞くしか道はない。
「あの、この人数で大丈夫なんでしょうか、六人じゃ少なくはないですか?」
これでは、木を森の中で探すのと等しい。悠人は些か不安を覚えて、蛍に尋ねてみた。すると彼女は心配などなさそうな表情で頷いた。
「相手は負傷している。ああいう奴の性格を考えると、事情が事情だから病院には行けよう筈もない。確か、大通りを越えて南へしばらく歩いたところに公園があるな。あそこには休憩施設もあるし、夜の公園はひとまず身を潜めるのに絶好の場所だろう。恐らくその周辺には居る筈だ」
そう言うと蛍は早速、南に足を向けて歩き出す。
「……ちょ、ちょっと待ってよヘーチョー! そんなアバウトな推理でいいのかよ?」
小走りに後を追いながらリコが問い掛けると、さらりと彼女は言ってのけた。
「勘が外れたら、その時こそ虱潰しに探せばいい。だがまずは騒ぎを大きくしたくはないのでね」
今は勤務時間外で、尚且つ個人的な問題であるから、それ故に、なるべく大人数での行動は避けたかったし、他者に割り込まれるのを厭ったのである。
もっと言ってしまえば、逃亡する大柴は是非とも自分自身の手で捕えて、気の済むまで叩きのめしたいという希望があったからだ。自分に刃向かった者は、相手にどんな事情があろうとも敵と見なす。蛍は一度敵と認識した相手に情け容赦をかける気は一切なかった。徹底的に潰すだけである。
「行くぞ、無駄口叩かずついて来い」
大股で先を行く蛍を見ながら、悠人たちは互いに目配せをした。哲也たちは買い出しに行っただけだから、そろそろ戻ってくる頃合いだろう。帰ってきて誰もいなかったら驚くだろうが、かといって蛍の命令を無視することも出来ず、逡巡した末、やむなく蛍に追従した。
早足から、いつの間にか駆け足へと変わっていく。途中で竜司とすれ違ったが、驚く彼を尻目に説明すら惜しんで駆け抜けていった。
「なんか、妙な事になっちゃったね」
悠人は思わず苦笑して、隣を走る真浩に声をかける。声を潜めたつもりだったが、予想外に音は周囲に響き渡った。
――何かがおかしい。
大通りを越えてから、どうにもそんな気がしてならない。そう思ったのは悠人だけではないようで、見回すと怜たちも、蛍さえも怪訝な顔をしている。
夜の道が静かなのは、人通りが減るから当然だ。大通りが近いとはいえ、道を一つ脇に逸れるだけで、思った以上に音は届かなくなるものである。だがそれにしてもこの静けさは異常過ぎはしないだろうか。
空気が何か違うのだ。生命を宿すあらゆるもの全てがそこから逃げ出したかのような、異質なものが空気の代わりに充満しているような、そんな錯覚に囚われる。
不意にリコが足を止めたのは、その感覚が窒息しそうなほど色濃く満ちた、丁度絶頂の頃である。咄嗟に左右を見、動揺したように、調子者の彼らしからぬ上擦った声で叫んだ。
「なっ……そんな、馬鹿な、よりによってなんでこんなときに!」
「リコ、どうした?」
「グールだ、来る!」
その声に、一同は身構える。今夜はこれで何度目になるだろうか、蛍はまたも舌を打つ。
「お前達、武器になりそうなものは持っているか?」
彼女の問いには誰も答えられなかった。彼らは揃って戦闘部隊に名を連ねているが、実は兵の誰一人として任務以外での武器の携行を認められていないのだ。出動命令があったときのみ、初めて武器携行の許可が下りる。訓練時も使用申請が必要であり、常に帯剣している訳ではないのだ。
また、一般人は一切の武器所持・使用が違法である。とはいえ刀剣類などは刃渡り十四センチメートル以下ならば辛うじて法には触れない為、ナイフ程度の携行ならば抜身で持ち歩きでもしない限り一応は問題ない。
が、問題さえなければ誰もが持ち歩くというものでもない。身に付ける習慣がなければ、所持していないのが普通である。
現在、武器らしい武器と言えば、蛍が手にする鞭一本きりだった。
相手はたった一体、されど丸腰の彼らに何が出来よう。グールは確実に息の根を止めない限り、多少の傷など関係なく意識があるうちは何度でも立ち上がってくるのである。
瞬間、視界が闇に閉ざされた。街灯が一斉に落ちたのだ。
空の僅かな明るみのおかげで完全な闇にはならなかったが、視界を一瞬奪うには充分だった。その隙を狙ったかのように、リコの言葉どおり、頭上から一体のグールが降りてきた。警告がなかったら、避ける事さえままならなかったかも知れない。緊張した面持ちで、彼らはグールと対峙する。
グールは血走った目をじろりと一同に向け、苦しそうな唸り声を上げながら突進してくる。通常の人間ならば己の身体を傷つけないよう無意識下で力を制御するが、既に理性を亡くした怪物は、一切を顧みず全力でぶつかってくる。無防備な彼らは回避以外の対抗手段を持たなかったから、固まっていては危険だ。せめて狙われる確立を減らそうと分散して、グールを攪乱する。
真後ろに気配を感じて、反射的に怜は横へ飛んだ。横目で見ると、今いた位置にグールが歯を剥き出しにして飛びついてきた。間一髪の回避に冷や汗をかきながら、間近になったグールの顔を観察する。
「……――――!」
愕然として、思わず立ち尽くした。冷や汗がすっと引き、代わりに耳の奥で激しく波打つ鼓動を聞いた。目の前が真っ赤に染まって何も考えられない。
「怜先輩!」
異変に気がついて、悠人が怜を押し倒した。瞬間、頭上をグールの腕が凪ぐ。そのまま勢い余って塀にぶつかり、骨の折れる音がしたが、意に介さず腕を振り抜く。向きを変えてくれたおかげでグールの視界から外れ、その隙に怜を助け起こした。
何があったのかは知らないが、目を見開いて、心ここに在らずといった様子である。こうなっては足手纏いだ。仕方なく怜の手を引いて、悠人は真浩や蛍たちに大声で叫んだ。
「逃げるぞ、兵長、逃げましょう!」
だが蛍は頑として承知しない。
「どこにだ、下手な場所に逃げ込めば無関係の人間も巻き添えにするぞ。それに無事逃げおおせたとして、こいつはこのまま放置するのか?」
「何の対抗手段もなしに粘るよりはましな筈です!」
と、押し問答をしたところで時間と体力を浪費するばかりである。普段から訓練を重ねているとはいえ、体力は無尽ではない。先程からずっと走りっぱなしで呼吸が苦しくなっていた。
疲労で膝が笑い出す。もう限界かと諦めかけた時、リコの歓声を耳にした。遅れて二つの影が、やはり屋根の上から舞い降りる。
悠人たちを庇うように、二人の男がグールの前に立ちはだかった。年齢は二人とも三〇代半ば頃だろうか。各々の手には、真剣が握られている。蛍が訝しげな目を向けると、それに気がついて一人が振り返る。
「大丈夫かい、ガキども。後は俺たちに任せておきな!」
ワイシャツ姿の男がにやりと笑うと、眼鏡の相棒に目配せをして走り出した。左右からグールを挟み打つ。グールは紙一重で避け、同時に大地を蹴って跳躍した。上空から鋭い拳を食らわそうと降りてくるが、それよりもワイシャツの後ろ回し蹴りのほうが早く、踵が耳の後ろを捉えた。体側面から塀に叩きつけられ、さしものグールも不死身ではないから、頭に強い衝撃を食らえば動きが鈍くなる。そこへ更なる一撃をくらって、しばしもがいてからぱたりと気絶した。
動かなくなったことを確認して、ワイシャツが歩み寄ってきた。
「ふー。様子を見に来てみりゃいきなりグールだもんなあ。間に合ってよかったぜ、お前ら無事かい?」
「え、あ、はい、大丈夫です、助けていただいて有り難うございました。怜先輩も大丈夫ですよね?」
悠人が問えば、怜は目がグールに釘付けのままだが、頷いてみせた。
「とりあえず全員無傷なようだな」
眼鏡の男が悠人たちを一瞥する。無事を確認して、剣を持ち直して倒れたグールに向き直る。
「まあ、恨みはないが、死んどけ。とりあえず」
と、眼鏡がグールの髪を掴んで引き寄せ、剣を構えた。首を刎ねるつもりだろう。グールの効果的な殺し方は、脳か心臓の破壊、或いは双方の繋がりを断つことである。ある程度傷を負わせて失血死を待つ手もなくはないが、息の根を止めるまでに時間がかかるので効率が悪い。
無事に済んでよかったと安堵の息をついたが、逆に息を飲んだ者もいる。
「やめろ! 待て、待って、殺すな!」
「怜?」
顔面蒼白になって怜が眼鏡の腕を引き、懇願する。
「殺すな、こいつは慎太郎だ、殺さないでくれ、頼む!」
「……なんだと?」
蛍は眉を顰め、そこに倒れるグールの顔を凝視した。暗闇の中で、その上痩せこけてすっかり人相が変わってしまっているが、それでも言われてみれば見知った顔に思えなくもなかった。
「怜、本当かよ?」
リコの問い掛けに、怜は微妙な顔になる。
「気付かないのか……そうか、お前にもわからないんだな、俺だって信じたくない……でも嘘をついて何になる。これは慎太郎本人だ、間違いない。だから頼む、生かしておいてくれ、なあ!」
「なあ、って言われても、俺らさっぱり事情が読めないんだけどなあ」
「ふむ。さて、どうするか……」
ワイシャツと眼鏡が困ったように顔を見合わせる。




