一
序
梅雨も近いこの時期は湿度が高く、緊張も相まって腋の下にべたついた汗が流れていた。全身をぴったりと被う戦闘服の上からでは拭き取る事も出来ないので、二の腕と体側を掏り合わせるようにして誤魔化してみる。
腋を拭ったら次は額の汗が気になりだす。悠人は先程から身体が火照っているのを自覚していた。頬に触れてみるといつもより熱い。
五月半ば、悠人を含む初期生たちは初陣を迎えようとしていた。訓練は小中学生の間、そして兵として徴集されてからの一月半、嫌というほど積んでいる。それでも実戦となると勝手は違い、慣れた筈の装備が重く感じられた。腰に下げた剣が纏わりついて邪魔臭い。いっそ投げ捨ててしまいたいほどだ。
悠人は辺りを見回して、緊張しているのが自分だけではないことを確認して少しだけ安堵した。ついでに弟の顔を捜したが、一見しただけでは見つけられなかった。
自分達はこれから怪物を――俗に『グール』と呼ばれるものを殲滅する為に出動するのだ。
グールは人間が何らかの要因によって異形化してしまった存在と言われている。これらが時折出没しては本能のままに暴れ、その度に多くの死傷者が出るので、野放しにするには危険すぎる。
その存在に正式名称はない。書類上では便宜上「怪物」と表記されるが、その捻りも面白みもない呼称を人は嫌い、誰が言い出したか「グール」という俗称が定着するようになった。
グールへと変貌する原因は未だ解明されていない。ただ人に仇を成すものである事実は疑いようもなく、だからこそこうして兵が召集される。
下手をすれば命を落としかねない戦いなのだから、緊張せぬはずがない。運良く生きていられれば、回数を重ねていけば、いつかはこの空気にも慣れるときが来るだろうか――今はまだ、その時を予想することさえ出来ない。
「緊張してる?」
きょろきょろと見回しているうちに、すぐ後ろの人と肩がぶつかってしまった。微かな笑いが混じった問いかけに振り向けば、温和そうな顔が、やはり口元に笑みを湛えて悠人を見ていた。襟に入った紫のラインは、悠人より一年先輩の中期生のものだ。
「大丈夫、今回は大した数はいないらしいし、初期生は現場の空気を覚える程度で済むと思う。面倒なことは慣れた人たちに押し付けておけばいいよ」
「あ、はい、よろしくお願いします」
どう対応していいかわからずに、曖昧に頷いて返事をした。それより先の言葉が続けられず、戸惑ったように口をもごもごさせていると、はははと動揺する様を先輩に笑われた。
仰け反るように笑う先輩の肩を、別の人間が軽く揺さぶる。黒いゴーグルを掛けたこれまた紫のラインの中期生が、右耳の受信機を指し示していた。
「電源、電源入れなよ。兵長が指示出してる」
言われて先輩は慌てたように電源を入れた。悠人もすっかり入れ忘れていて、急いで電源を探す。どうやら通信が入ったばかりようで、遅れて受信機を耳に当てた悠人も、最初の一、二語を聞き落としただけで、後は一通り聞くことが出来た。
――市民の誘導と避難は完了、これより予定のポイントに移動後、待機。初めに狙撃隊が牽制、合図と同時に白兵隊が出動し、目標を殲滅する。現在確認されている目標は二十体、通常より大幅に少ないから、大して時間はかかるまい――
最後に初陣となる初期生に対し、油断のないよう注意して、通信を終えた。
幾つかの部隊に分けられた兵たちが、ぞろぞろと指定配置場所に移動していく。悠人は周りの表情を盗み見た。無表情に。面倒臭そうに。そわそわ浮ついた顔で。人それぞれに全く違う感情を見せている。他者から見れば、自分は今どんな様子なのだろう。
余所見をしていたら、目の前にいた男の背中に頭から突っ込んでしまった。
「うひゃあ、すみません余所見してました!」
見上げれば紫色が目に飛び込んできて、やはり彼も中期生だった。じっと悠人を無言で見据え、つと腕を伸ばしてくる。疑問に思う間もなく、両頬を抓り上げられた。手加減はしているようだが、ぐにぐにと頬を伸ばされ掻き回されれば当然痛い。
「い、いひゃいしゅいまひぇいややちゃひゃ、うひゃぁん」
「こらこら、ストップストップ!」
「なーにしてんだよ、大人気ないっての」
温和な先輩とゴーグルの先輩の二人がかりで押さえられて、三人目は口を尖らせながらその手を離した。
「そんなムキになって止めなくても……冗談のつもりだったのに」
「冗談でもやめれくらはぁい」
思わず涙目になりながら、悠人は自分の頬を擦った。口の端が突っ張ってひりひりする。何故突然頬を抓られたのかわからず、恐る恐る三人目の顔をちらりと上目遣いで窺ってみると、相手も悠人を凝視している。
「目が覚めたか」と、男は言った。
「呆けているから寝てるのかと思った。夢うつつは危険だ、集中してないと怪我をする。足手纏いになるからさっさと 目を覚ませ。がちがちに緊張しろとは言わんけど、油断は禁物だぞ」
さり気なく言っていることはきついが、悠人は頷いた。突然のことだったので胸がまだ暴れているが、緊張が吹き飛んだのは事実だ。気が抜けたとも言えなくはないが。
背を向けた怜にちらちらと目を向けていると、脇にあの温和そうな一人目がやってきて耳打ちする。
「ごめんね、彼にも悪気はないんだよ。ちょっと口下手というか、なんというか」
「いえ、大丈夫です。おかげで気分も落ち着きましたし、有り難うございました」
「いやいやこっちこそ、そう言ってもらえるなら嬉しいかな」
そう答えると、彼は人好きのするような笑顔で、照れたように頭を掻いた。こんなふうに会話していると、今まさにこれから戦場へ赴こうとしているなどとは思えなくなってくる。しかし、あくまでもそれは錯覚であって、やがて銃声がパラパラと聞こえ初めて来た。嫌でも現実に引き戻される。
いよいよ始まるのだ。グール退治が。
落ち着いたはずの心臓が、また動悸を起こす。深呼吸を繰り返してから、息を短く強く吐いて気を引き締めた。黒ゴーグルが声をかけてくる。
「慣れない内は特攻なんて馬鹿なこと考えんなよ。後ろで傍観してていいから、冷静になっとけ。でないとマジ死ぬぜ」
受信機から指示が聞こえる。狙撃隊の牽制終了、そして――白兵隊、出撃。
「行くぞ!」
部隊長の号令を受けて、訓練時と同じように、隊を乱さぬよう慎重に、且つ素早く移動する。
そして見た。グールを。己達が仇敵とするモノを。
グールは神出鬼没だ。いくらグールの存在が普遍化していようと、どれ程多くの人間がその犠牲になろうとも、人生の中で運良くグールに遭遇したことのない者だって少なくはない。悠人もその運が良かった一人であり、グールを目にしたのは今日が初めてだ。だから思った。
風聞して思い描いてきた姿とは全く違う。本能のままにと言うから、獲物を狩る野獣のような存在だと思っていた。もっと残忍で、人を殺す時だって虫けらを潰すようでしかないのだろうと思っていた。異形というから、もっと醜悪に歪んだ文字通りの『怪物』を想像していたのに。
実際は何かから逃れるように、救いを求めるように苦しみながら這いずり回る、まるで病人のようだ。
そう、病『人』。
やせこけた頬や今にも窪みそうに思わせる眼下の隈や、血走って焦点の合っていない目、だらしなく垂れ下がった唇などは見ていておぞましいが、彼らを異形と呼ぶには、あまりにも。
緊張とは全く違う動悸が、悪寒と眩暈と共に悠人を襲った。
初めに異形と言ったのは誰だろう。その形容は相応しくない。これは異相と呼ぶべきだ。
それほどまでに、グールの姿はあまりにも人間そのままだったのだ。
一
高い音と共に、鞭のしなる音が響いた。
「油断をするなと言った筈だ!」
整列した兵士達は、鋭い音に首を竦めた。列から外れて人影が二つ。鞭を手にした長身の女が、頬を打ち付けられてのたうつ男を睥睨している。男の服には、初期生であることを示す青いライン。
「初陣で浮かれていたのはわかるが、勝手な行動を正当化する口実にはならない」
冷やかな目で男を見下す女には、終期生の赤いラインが入っていた。
「どちらが先にグールの首を取るか、賭けをしていたらしいな。くだらない、その為に指示を無視して突っ込んで、返り討ちにあっていれば世話ないな」
作戦中、待機命令を無視して勝手に飛び出した二人の初期生がいた。よほど己の腕に自信があったのか、それともグールを甘く見ていたのか。恐らく後者だろう。他人に指示されて動くのが煩わしいと厭って、少しでも気分を盛り上げる為に賭けをした。彼らにとっては、兎を狩る程度の遊びのつもりだった。
だが、片割れがグールの目の前に飛び出した瞬間、グールの素早い一撃を顔面へもろに食らってしまい、手も足も出さぬまま男は即死した。もう一人の男――たった今床で蹲っている者――もあわやというところだったが、幸い急いで駆けつけた彼女に救われ事なきを得た。
当事者は無事だったものの、急な混乱で予定が狂わされ、簡単な任務であったにもかかわらず犠牲者を出してしまった。
「いいか、私たちはあくまで街の防衛の為に存在している。多く退治すれば功績を讃えられて地位が上がるとか、英雄になれるとか、そんな出世道などありはしない。貴様は目的を履き違えた。それとも単に遊びたかっただけか、だったら遊園地にでも行け」
男は肩で息をしている。返答はない。
「人の話を聞けない奴は無能だ。低能ならそれなりに使い道はあるが、無能ではどうしようもないな。役立たずに用はない、猿は猿山に帰ったらどうだ」
憚らず罵詈雑言を浴びせる女に、男はようやく反応を見せて、噛みつかんばかりに恨みがましい視線をぶつけた。
「おのれ、貴様のような女狐が、よくも俺を愚弄したな。どうせグールを斬るしかやることがないんだ、せめて最大限に楽しませてもらって何が悪い。知っているぞ、貴様も内心は自分の腕が立つからそれを誇示したがっていることを。何が華麗だ、何が勇猛だ、仰々しい言われ方だが所詮は虚名だろう。真に醜い己を覆い隠して魔法の鏡に映る虚飾された自分に酔いしれ、驕慢するのはさぞ楽しかろうな!」
ろくに息継ぎをせず長々と面罵するが、女は平然とそれを受け止めた。
「ほう、自分のことをよくわかっているな。よくもそれほど自身を貶すことが出来るものだ、恐れ入る」
「誰が俺のことだと言った、人を侮辱するのもいい加減にしろ」
本人は凄味を効かせているつもりらしいが、彼女は失笑を禁じ得ない。少年らしからぬ言葉遣いが、逆に精神的に未熟であると窺わせる。どこかで覚えた言葉を使いたがる傾向に見られる。
「いやいや、侮辱しているつもりはない。よくぞ恥ずかしげもなくそんな科白を口に出来るものだと感心したほどだ。 舞台役者に向いているかも知れんな」
「黙れ売女が。そうか、わかったぞ。自分が常に優位に立つ為に奸計をめぐらしては他者を陥れているんだな、だから俺に恥をかかそうと妄言を吐くのか、なんて不逞な――」
付き合いきれなくなって、もう一度鞭で男の頬を打つ。すると痛みに喚いてのた打ち回りながら更なる怨嗟の声を上げるので、いっそ黙らせようと口を叩きつけた。
「自分のことを棚にあげるな、下種。妙な文句を並べる前にまず自分を省みて卑しさを知れ。不愉快だ、消え失せろ」
痛む口を押さえながら憎々しげな目を向けてきたが、彼女が睨み返すと男は怯んだ。射竦められて身動き取れなくなり、ついに目を逸らした。
初期生を下がらせると、彼女は列に向き直って声を張り上げる。
「お前達も覚えておけ、軽挙妄動は慎むことだ。でなければ、信用どころか命まで落とすことになるぞ」
若干の騒動はあったが、ひとまず今回の任務は終了した。出動後は半日間の休暇を許される為、兵達は順次その場から立ち去り思い思いの場所へと足を向ける。しかし女にはまだやるべき事があった。踵を返した彼女の後を追うように、一人の男が無言でついて行く。
上に報告を終えると休憩室へ直行し、大量の息を吐き出してようやく腰を下ろした。背凭れに寄りかかり伸びをする。ついでに腰を捻って骨を鳴らす。
「今年のガキはあんなのばかりなのかね。もしそうだったら頭が痛くなりそうだ」
茶を飲みつつ鞭をぷらぷら振り回して、飽きると床に投げ捨てた。
「蛍」
「何だ?」
「いくらなんでも殴りつけることは……」
今まで女の脇に控えて終始見守っていた巨躯の男が、初めて発言した。渋面で鞭を見下ろす男を、蛍が鼻で笑い飛ばす。
「竜司、貴様まだ暴力反対とか抜かす気か。相変わらずとことん甘いんだな」
「全てとは限らずとも、言葉で伝えられる限りは言葉で」
「馬鹿なことを。アレが口で言うだけで理解するような奴だと思ったのか」
話し途中で割り込まれ、竜司は吐き捨てるような蛍の言葉に口を噤んだ。
「誠心誠意を持って説得すれば相手は必ず応えてくれる。本気でそう信じているのならお前の頭を疑うよ。私たちはグールを相手にするために力を与えられている。その力を全ての人間が正しく使える筈などない。欲に負ける奴が必ず出てくるに決まっている。そういう奴に言葉だけで説得したって通用するものか。わかるか、力を制するには力が必要なこともあるんだよ」
言い放たれて、しかし竜司は納得いかない様子だった。溜息をついて、蛍が問い掛ける。
「私たちが戦う理由は?」
「グールの手から人々を守る為」
「そうだな。少なくともその手段の一つとして、私たちは剣を持たされる。武力を振るう為にグールを倒す訳じゃないだろう?」
竜司は一度頷いたが、それでもまだ何か言いたげに蛍を正面から見詰めた。少し考え込んで、躊躇いながらも口にする。
「お前が間違っているとは言わない。何が正しいかもわからないが。ただ、お前のやり方は自分から敵を作っているように見えてな……」
「誰が敵対しようと勝手だ。私は私、他人なんぞ知らん」
「……俺もか?」
すると、蛍はようやく表情を崩して、苦笑いしながら机に置かれた竜司の手を抓り上げた。
「馬鹿。少なくともお前は私の敵じゃないでしょう」
「まあ、そうだが」
「ところで、各務はどうしている?」
すぐに表情を事務的なものに変え、何事もなかったかのように淡々とした口調で問う蛍に、やや期待外れな感情を押し殺して竜司は答えた。
「今回の戦果を報告しに行っている筈だが、恐らくもうすぐ」
「呼んだか?」
見計らったかのように、一人の男が入室してきた。竜司に比べれば細身だが、充分に均整の取れた体格で、常に無表情である為に見る者によっては酷薄な印象を受けかねない、そんな男だった。彼こそが、この中央都市中央地区における全兵代表の『総長』各務忍である。流石に総長ともなれば、顔を知らぬ者はいない。
「丁度良かった。件の初期生の処遇はどうなる?」
「ああ。上からの通達があった。初期生大柴政道は一週間の謹慎と三ヶ月間の減俸、だそうだ。……俺に不満をぶつけられても困るぞ」
あからさまに憮然とした顔で、蛍は忍を睨んでいた。言いたいことはわかっている、軽すぎると言いたいのだろう。
「いっそのこと適当に罪状をでっちあげて逮捕でもしてしまえ」
「ほ、蛍、ちょっと、もうちょっと言葉選んだほうが」
「無能者はいらん。邪魔されるくらいなら消えてくれた方がこちらとしては楽だ」
慌てふためく竜司と苛立つ蛍を、忍は黙々と眺めていた。
太陽が南から西に傾き始めた頃。食堂の片隅、窓際のテーブル一つを占領して、悠人はだらしなく伸びていた。目の上にお絞りを載せ、大口を開けて背凭れに伸し掛かっている。目の前の食事には一切手がつけられていない。向かいでは、弟の真浩が黙々と箸を動かしていた。
「俺ショック……グールがあんな人間まんまだなんて思わなかった……ああ、やだな、夢に見そう」
口に出すとあまり深刻そうに聞こえないが、胸中には口では到底言い表せない澱んだ感情が沈殿していた。息の詰まるような、胸が痛いような、冷や汗が噴き出すような不安感。
「俺、凄く怖かった……なんかさ、えーとこう、どきどきして心臓がぎゅーって、ああちくしょう何て言えばいいのかわかんない」
口から吐き出してしまえればどれ程楽だろう。どうにかこの気持ちを伝えたくて言葉にするが、どうしてこう、悪夢や嫌な出来事というのは、それを体験している当時は辛く苦しいのに、説明しようとすると笑い話にしかならないのだろうか。
一瞬、懐かしいような錯覚を起こす。その懐かしさは、必ずしも良い思い出に繋がる訳ではないのだが。
「いつまで垂れてやがんだ。そんなこと言ったら一匹斬ってきた俺の立場はどうなんの」
「斬ったの?」
真浩の言葉に悠人は飛び起きた。拍子にお絞りが隣の席に座っていた人の脚にかかってしまい、それに気付いて平謝りしながら拾い上げる。
「へえ、凄いね。俺たちのところなんてほとんど兵長が斬り捨てていって、他の人なんて出る幕もありませんでしたよ」
真浩の隣には鈴置瞬が座っている。襟には青いライン、悠人や真浩と同じ初期生。微笑を浮かべて真浩のことを見詰めている。
「で、どういう状況だったの?」
悠人が話を振ると、面白くなさそうに真浩は食事を続けながら言う。
「別にどうもこうもねえや。目の前に来たから斬った、それだけ」
「斬って……どう思った?」
「どうって何が?」
実はそれが一番訊きたいことだった。もしかしたら、この不安感を弟も共有しているかも知れない。そう期待したのだが、真浩の反応は案外淡々としたものだった。どうしたものかと困ったように目をぐるぐる動かして、どうにか言葉を続ける。
「誰かを庇って前に、とか、長い決戦の末に! とか、そんな劇的な話はないの?」
「ねえよ。お前ドラマの見過ぎ」
冷やかに悠人を見やって、音を立てて吸い物を啜った。傍若無人な態度に困り果てた悠人を見かねて、瞬が無理矢理話題を挿げ替える。
「へ、兵長って美人の割に剣の腕の方は大変な男前でしたねえ」
「ああ。でもなんか唯我独尊って感じで、あんまり好きじゃねえな、俺」
兵長は高木蛍という名で、女性ということで多少の注目を集めていた。歴代にも女性で総長や兵長を務めた者はいるが、元々白兵隊における女性の比率は少ない為、必然的に有名人となりやすい。
この国では、一定の年齢に達した者は各都市主要地区に配備されている『新鋭軍』に兵として徴集される。実際には三月に中学校を卒業して、翌四月二日から任期は丸三年間。例外も免除も一切ない。
また「軍」と名は付くものの、その本質は『グール討伐隊』とでも呼ぶべきかもしれない。彼らの任務は、グールが現れたら現場に急行し、退治する。それ以上でも以下でもない。その他の活動については警察や自衛隊に任せておけばいいのだ。
その為か、所属する者達は兵ではあるが階級という概念がなく、強いてあげるならば各地区軍ごとに、全兵の代表として『総長』、その下に戦闘部隊の頭である『兵長』と、非戦闘部隊の『副長』が。更に戦闘部隊には白兵隊と狙撃隊にそれぞれ隊長が、非戦闘部隊には需品・衛生・通信班などもろもろ、目的別に細かく分けられた班毎に班長がいる程度である。
もともと人数は戦闘部隊の方が非戦闘部隊よりも圧倒的に少ないので、蛍は一層目立ちやすかった。
「俺、兵長に会ったことないよ。篤と望は見たことあるのかな」
まだ来ぬ友人達を思い浮かべて、悠人は首を傾げた。あの二人は後から食堂に来るということだったが、少し遅い気がする。ふとそんなことを考えた時。
慌ただしく食堂に駆け込んでくる一組の男女。頬を紅潮させて、興奮した様子で揃って叫びだした。
「凄い、凄いよー! 凄いのよー! 本当に凄かったのよーぅ!」
何事かと視線が集中する。好奇の目が浴びせられる中、男女が大々的に事件を公表する。
「すぐそこのロビーで、熱烈キスシーンかましてる子たちがいるよぉぉぉぉ!」
男女は手と手を組み合わせ、それはそれは楽しそうに飛び跳ねている。
「真っ昼間から凄いもん見ちゃった! 見なきゃ損だよ!」
辺りは一瞬静まり返り、そして俄かに騒がしくなった。大急ぎで駆け出していく者、笑い話として盛り上がる者達もいれば、気にしない風を装いつつ視線をちらちら入り口へ向ける者もいる。
「真っ昼間から平気でキスシーンて、凄いねぇ……瞬?」
何気なく瞬に目を向けてみれば、優等生然としたいつもの表情が引きつっていた。辛うじて微笑を浮かべてはいるが、心なしか怒っているように見受けられる。
流石に真浩も不審に思ったのか、
「どうした? キスシーンに何か不都合でもあるのか?」
訊ねてみれば、薄く開いた口から不気味な笑い声が漏れ出してきた。
「ふふ、ふふふふふ……人前で堂々とキスシーンを展開できる恥知らずな初期生といったら、俺の知る限りではですよ、フフフ……あの馬鹿!」
乱暴に椅子を蹴立てて駆け出していく瞬の背中をぽかんと眺め、悠人と真浩は顔を見合わせる。そして二人も瞬の後を追って駆け出した。
「お前はもっと恥とか外聞とかいうものを気にしやがれ!」
「気にした。恥にはならないと思ったからこうやって堂々としているだけだが、何か?」
「何か、じゃねえ! お願い、頼むから、お前が恥じなくても、周りが恥を掻くって事を理解してくださいマジで」
赤毛の初期生が、小柄な女の肩を抱いた、同じく初期生と言い争っている。女を連れた男は飄々と、喚き散らす赤毛を軽くあしらっていた。
「だから、お前が恥を掻いたところで俺は毛ほども痛くないんだってば」
赤毛は髪の色に劣らぬほど顔を赤く染めて口を繰り返し開閉させている。二の句が告げないというよりも、興奮のあまり声が出ない状態のようだ。そんな彼を女連れがからかうようににたにた笑う。
それらをぐるりと取り囲むようにして、多くの兵による人垣が出来上がっていた。皆、思い思いに野次を飛ばしながら舌戦を見守っている。
後からやってきた悠人と真浩は、人垣を掻き分けて進む瞬の姿を遠目に確認した。押し分けられて迷惑そうな顔をする観衆など意に介さず、つかつかと言い争う二人のもとへ歩み寄る。突然の闖入者に周囲は不審と期待の色を込めた視線を向け、争っていた当事者は舌を休め、途端に引きつった表情へと一変した。
瞬は女連れの目の前に出ると、衆人環視の中、立ち止まるより早く強烈な平手打ちを食らわせる。
ざわついていた観衆達がその瞬間、一斉に静寂に支配された。
「うん、君の言い分はよーくわかりましたよ、ねえ望くん。確かに、君自身が恥だと思わなければそれでいいとも。他人が恥ずかしい思いをしようとも、関係無いよね、うん、それは間違いない。ただし、僕はそれを黙って見過ごすつもりはありませんよ。恥をかかない代わりに殴られる程度の覚悟は持っていてもらわないとね。言わなくてもそのくらい覚悟できてるよね?」
口調も表情も穏やかながら、その眼光は非常に厳しく、怒りを表すかのように女連れの襟首を掴み挙げて容赦のかけらもなく掌を往復させる。
「わ、ちょ、ぶ、ちょっと、やめっ、痛い!」
「痛くしてるんだから当然でしょう。拳で殴られるよりマシだと思ってよ」
哀れ女連れは頬にくっきり真っ赤な跡をつけられた。男の大きな掌で叩かれて、紅葉のような可愛らしいものでなく、まるで柏の葉である。
存分に女連れを殴りつけてから、今度は赤毛の方へと向き直る。脅えたように後退りをする赤毛の鼻先に、指を鼻先に突きつけながら言い放った。
「君は口喧嘩がどうしようもなく弱いんだから、無暗に喚き散らさないの。逆に人目を惹く結果になるでしょう」
「いやそれお前に言われたくないんだけど」
その光景を見守る全ての者が赤毛と同意見だったが、それを口にする者は誰一人としていない。
「何か言いましたか?」
「いえ何も」
瞬にひと睨みされると、赤毛と女連れが口を噤み、辺りは一層の静寂に包まれた。
長い長い沈黙を打ち破ったのは、
「……ふ、……ふひゅ、ふひゃはは、あははは、あーはははははは!」
堪え切れなくなり、堰を切ったように笑い出した一人の男。
「ひーははは、おもしれー! 今年の初期生は元気だなぁ」
「元気って言うか、何ていうか……微妙だなー」
悠人がつと笑い声のする方に目を向けると、亜麻色の髪の男が、呆れたような男の隣で爆笑している。屋内であるにも関わらず黒いゴーグルをつけた、制服の襟に紫のラインが入った中期生である。そのゴーグルが、悠人の記憶を呼び覚ました。先の出動時に出会った、あのゴーグルだ。
真っ黒なゴーグルはただでさえ目立つのに、馬鹿笑いをすれば否応なしに注目の的となる。しかし当人に気にした様子はないようだ。延々と笑い続けている。
「……ごめん、私もう行くね」
襟に終期生を示す赤いラインを着けた、女連れに肩を抱かれていた小柄な娘が、そそくさとその場から逃げ去っていく。
「あ、せ、先輩、センパーイ? あ、あ、あ、あぁ……瞬、お前のせいで俺がふられたじゃないか!」
「別にあの人だけじゃなくても、君のその面で引っ掛けられる女性はいっぱいいるでしょう。一人に逃げられたくらいどうってことないじゃないか」
「お前の論点も違うって! そういう問題じゃなくて、真っ昼間から堂々と恥ずかしい真似すんなっつってんだ、俺は! 不純異性交遊禁止!」
嘆く元女連れに疲れたような瞬、そして喚く赤毛。取り巻いていた観衆達も、白けたように顔を見合わせて、一人、二人とその場を離れ始めた。こういう輩は盛り上がる時はとことん盛り上がるが、冷めるのもとことん早い。
人垣が次第に散り散りになっていき、やがて輪が完全に崩れ去ると、瞬達はぽつねんと取り残された。遠巻きに眺める者もちらほら見られるが、寄って来ようとはしない。
――えーと、どうしよう。
瞬たちの下へ行きたいが、言い争う彼らの間には今、どうにも割り込みづらい。かといって立ち去るのも気が引けるし、ここで黙ってつっ立っているのもどうかと思う。ちらちらと目線を忙しく動かしていると、どうするんだと言わんばかりに真浩が突付いて来る。やや躊躇った後、結局悠人は声をかけてみた。
「えーと、お取り込み中悪いけど、一旦ここから離れようよ。望も篤も、まだ飯食ってないだろ」
悠人の進言に、赤毛も元女連れも堂々巡りの舌戦を止め、揃って胃の辺りを擦る。すると呼応するかのように腹が鳴り出した。人間は癇の虫より腹の虫の方が正直であるようだ。
「じゃ、食堂に戻ろうよ」
「あー、ちょいまちちょいまち、そこの君!」
踵を返しかけた悠人たちに、誰かが声をかけてきた。見ればあの黒ゴーグルが、にこやかに手を振っている。
ゴーグルの連れらしい男が「誰?」と口を動かすのが見て取れた。
「ほら、さっき出動した時に哲っちゃんがナンパしてた子」
「ああ、怜に頬っぺた抓られてた子!」
思い出したように連れの男が手を叩く。それにしても、嫌な覚え方をされているものだと、悠人は思わず苦笑する。居合わせるもう一人が、拗ねるようにそっぽを向いた。なるほど、あれが「怜」か。
「やっほー、また会ったなぁ。……そっちの面白い子たちは友達?」
「ええ、はい。見苦しいところをお見せしまして……でも、よく俺を覚えてましたね」
「声聞きゃ一発でわかるよ。さっき食堂でも俺、君の真後ろに座ってたんだけど、気付かなかった?」
そう言われても、全く気付いていなかった。困ったように眉を寄せる悠人に、気にした風もなくゴーグルは笑いながら肩を叩く。
「いいよー、あんまり気にすんなよ。背中合わせだったし振り向きでもしないとわかんねえだろうし、ああ俺ね井藤利己っていうんだけど、出来ればリコって呼んでほしいなぁ、ところで君の名前なんつーの?」
あまりにも早口で捲くし立てる為、途中で話題が摩り替わっていることに気がつくまで数秒ほどかかってしまった。ぐるぐると混乱する頭で、何とか言葉を口に出来たが、
「えっと、えーと、村瀬です……村瀬悠人……えー……ども」
と、僅かな名を名乗るだけにかなりの時間がかかってしまった。
その後、互いの組ごとに簡単に挨拶を交わしながら、悠人たちは食堂に向かっていた。食事途中で席を立ってしまった為、皿を片付けられてしまったのではという懸念もあったが、どうやら無事だったようだ。幸い八人が並んで座る程度には席も空いていて、リコとその連れの美杉哲也、木村怜も揃って席に着く。
赤毛の山野辺篤と、元女連れの宮澤望がトレイを手に戻ってきて、もう先程の争いなど忘れたように、和やかに箸を動かしていた。彼らは真剣に対立していた訳ではなく、あのような光景は日常茶飯事である。
彼らと悠人が出会ってから一月半、初めは切り替えの早さに驚いたが、今ではもうすっかり慣れた。悠人や真浩が出会うより早く、篤と望と瞬は中学生時代から長く時間を共有しているのだ。
料理を全て平らげ、麦茶を啜りながら、リコが唐突に話題を切り出した。
「真浩っち、初陣でグールを一匹倒したって?」
「……ああ、さっきの話聞いてたんスか。ええまあ、けど別に凄い事した訳じゃないし」
「やあ、凄いと思うな。初陣ってやっぱり色々と手間取るから、訓練したよりも動けないのが普通だから。でもリコ、何を企んでる」
哲也はあくまでも穏やかに、好奇心というより事実確認といった感じでリコに問いかけた。それを承知で、リコは大袈裟に手を広げて初期生たちにわかりやすいよう説明する。
「企むなんて失礼な。俺っちは、ちょーっと手合わせを申し込みたいだけよ」
「出たな、戦闘狂が」
怜の突っ込みにも動じず、ちっちと人差し指を左右に振る。
「悠人っち、君の弟は強い?」
「全体的なレベルは知らないですけど、俺より優秀なのは確かですね」
「買いかぶられたもんだな、俺も。まあそこそこいけるんじゃないスか?」
謙遜しているのかそうでないのか微妙な答え。だがその回答で満足したのか、リコが嬉しそうに笑い、
「じゃあ、腹ごなしに手合わせしよう。格技室の片隅借りてやろうぜ!」
そう言うと即座に立ち上がり、有無を言わさず真浩の腕を引いて出口へ向かう。真浩も異存はないようで、文句の一つもなく素直に付き従っていく。
取り残された悠人たち六人は、互いに視線を交わして苦笑する。午前には出動したばかりで、そのうえ食事を終えてまだ間もないというのに、よくも運動する気になれるものだ。
「ああもう、全く忙しない。ホント悪いね、あいつは決めるとすぐ突っ走るから、迷惑かけるね」
ぶつぶつ言いながらも皿を律儀に片付けて、彼らも後を追って格技室へ急ぐ。
食堂から格技室へはさほどの距離を歩かない。その為、訓練後に食堂で休憩するのも、またその逆も容易だ。悠人たちが格技室に足を踏み入れたときには、リコと真浩は既に剣を借り受けて、防具を装着している最中だった。
先の出動からまだそれほどの時間が経っていない為か、利用している人数は平時より圧倒的に少ない。通常ならば広大な場内は耳障りなほどの金属音で溢れかえっているものだが、今は足音さえも響き渡りそうなほど、閑散としている。
「いいじゃん、隅っこでやるより目いっぱい身体動かせるしな。……準備できた?」
とんとんと爪先を打って、リコが半身に構えた。真浩も無言で正面に立つ。二人を横から眺める形で、哲也が笛を咥える。悠人たちは少し距離を置いて、成り行きを見守った。
「やっぱ、こういうときは賭けとかやるのが定番ですかね?」
篤がおどけたように言うと、怜が鼻で軽く笑い飛ばす。
「はは、賭けなんて」
「準備はいいかい。構えて」
哲也の合図に、二人が剣を持ち直す。強く短く、笛の音が鳴り響く。即座にリコも真浩も一歩踏み出し、刃と刃を噛み合せた。
一合、二合。二人が剣を振るう度、ぶつかり合う刀身が悲鳴を上げる。それを見ながら、悠人はちらりと怜の方を見た。
「賭けなんて?」
「初めから成立しないさ」
問う為に少しだけ目を離した直後、怜の言葉が終わるか終わらないかの内に、鈍く重い音が、振動を伴って足の裏に伝わってきた。
負ける気はしなかった。
剣を構えても、相手の纏う空気は緩みきっているように思えた。
笛と同時に一歩踏み出し、剣を振るうまでその印象は変わらなかった。
上段から力一杯振り下ろす真浩の剣と、左下方から振り払うリコの剣が噛み合った。その状態で硬直し、しばらく睨み合いが続いていたが、不意にリコが身体を内側に捻りこむ。足払いが目的だと悟って、真浩は慌てて飛び退いた。
リコは足払いが失敗しても悔しがる様子はなく、柔軟な身体でそのまま回転するように、斬撃を放ちながら体勢を立て直す。二人の距離が離れたが、直後、低い姿勢で飛び込むように間合いを詰めて来る。
そこから更に一合、二合と高い音を打ち鳴らしながら、ようやく真浩の想像が間違っていることを知る。
多分、単純に力勝負ならばほとんど差はないだろう。だが技量が雲泥の差だ。緩んでいるように思えたのは、余裕の現れ。剣を振るいながらリコが笑うのを見て、真浩は思わず焦った。リコの動きは滅茶苦茶なほど型にはまらないが故に、先の手が読めない。気がつけば防戦一方となっており、次の手を考える暇などなく、ただ反射のみで剣を縦横に動かしていく。
もう一度振り下ろしかけたその時、手首に重い痺れが走った。
ほとんど柄に近い部分に一撃を叩き込まれたのだと知ったのは、剣が半分以上手を離れてから。同じ姿勢のままリコは軌道だけを変えて薙ぎ払う。
こめかみに強い衝撃を受け、身体が宙に浮くような感覚だった。視界が回転し、一瞬の後、真浩は自分が仰向けに倒れていることを知る。
「……――っ!」
激変する世界に感覚が追いつかず、まるで高層ビルの頂上からまっ逆さまに転落するかのような錯覚に囚われた。思わず身体がびくりと跳ね、呼吸が詰まる。視界がぐらりと傾ぎ、鼓動がどくどく加速する。首筋から背中にかけて冷や汗がどっと吹き出た。
荒く息を吐いて、どうにか冷静さを取り戻すと、天井がやけに低いと気付いた。白く平坦な、蛍光灯が備え付けられた極々普通の天井。格技室の天井は、建物二階分よりも更に高い筈ではなかったろうか。それに、冷たい床に倒れているはずなのに、手足はやけにふわふわした肌触り。
天井から目線を下げると、悠人が泣きそうになりながらも安堵した様子で、真浩の顔を覗き込んでいた。
「よかった、気がついた? どこか痛いところはないか? 吐き気したりしないか? これ何本に見える?」
「蟹」
話の噛み合わぬ素っ気ない返答だったが、悠人はほっと息をついて笑む。
「ああ良かった、頭は無事みたい。そりゃ目潰しっ」
「うぁうっ、何しーやーがーるー!」
反撃とばかりに真浩は悠人の鼻を摘み上げた。
「あぁんイツァーイ、おハナ抓まないれぇー……はー、安心した、いつもの真浩だぁ。うえぇぇぇ、心配したんだぞー」
「……どういうことだ?」
覆い被さる姿勢の悠人を押し退けて、真浩は起き上がった。拍子に頭から濡れた手拭が転げ落ちた。それには頓着せず、くるりと周囲を見渡すと――室内の様子は、どこからどうみても明らかに医務室である。頓狂な声を上げた。
「あれ? 俺、今一撃喰らってぶっ倒れたんだよな?」
「今じゃないよ、もう一〇分以上は前の話だよ。お前気絶しちゃってさ、ここまで運ぶの大変だったんだぜ」
「ちなみに運んだのは俺様だ、感謝しろ」
カーテンの陰に隠れていた篤が、ひょいと顔を覗かせた。真浩の無事を確認して、入り口の方に指を向ける。
「瞬、真浩が起きたって先輩たちに伝えてくれ」
了解、と壁際に寄り掛かっていた瞬が、ぱたぱたと廊下へと走っていく。
「何だ、皆揃って見舞いに来てんのかよ。なんか大袈裟すぎねえか」
と軽く笑って首を竦める。冗談めかしたつもりだったのに、
「大袈裟じゃない!」
声を荒げる悠人に驚いて真浩は目を瞠った。
「頭打って脳震盪起こして気絶して、心配せずにいられるわけないだろ!」
指摘されて、はじめて右のこめかみに鈍痛があることを自覚した。少し触れてみるだけで、瘤になっているのがわかる。数日は頭痛に悩まされそうだ。
だが、興奮する悠人の様子は、度を越しているように思えてならなかった。
「どうしようかと思った……無事でよかった、本当に心配したんだ……」
じっと篤が様子を見守っていたが、やがて無言でカーテンの陰に引っ込んだ。恐らくそこに望もいて、兄弟のやりとりが全て筒抜けになっている筈だが、何を言ってくる気配もない。ただ悠人だけが、縋りつくように真浩の身体にかかった毛布を掴んでいる。
ああ、まただ。真浩は思う。
さっき、食堂で会話していた時にもそうだった。気付かぬ振りはしていたが、その目に色濃く不安が浮かんでいるのはわかっていた。長く共に過ごしているのだから、気付かない筈はない。
初めての実戦に、初めて見たグール。色々と不安を覚えるのはわかるが、真浩には一つ腑に落ちないことがある。
何故、悠人はそこまで過剰反応するのか。
それには何らかのきっかけがあっただろう。しかしそのきっかけが、真浩には見当がつかなかった。
数分の間を置いて、リコたち中期生トリオが医務室に雪崩れ込んできた。
「……医務室前で待ってるんじゃなかったんでしたっけ。やけに時間かかりましたけど」
「悪い、ちょっと買い出し行ってた」
怜が頬を掻きながらそう言い、何故か後ろでもじもじしているリコの脇腹を小突く。早く行けと、顎で合図した。怒っているのは誰の目から見ても明らかだ。
「いやー、そのー、えーっと、ちょーっと悪ふざけが過ぎたかなーって、だからぁ、そのぉ……本当にすいませんでした!」
うろたえるようにしていたリコは、やがて意を決したように突如頭を下げた。
「調子に乗ってやりすぎました! 悠人サンにも弟サンをこんな目に遭わせてしまって、本当に申し訳ありませんッ!」
恐らくリコ本人は真剣なのだろうが、早口で嵐のように詫びられると、むしろ何を謝られているのかさっぱりわからなくなってくる。ぽかんと口を開け、兄弟仲良く同じ顔をしていると、怜と哲也が同時にリコの頭を拳骨で殴りつけた。
「馬鹿、誠意が篭もってない誠意が!」
「何を、どういう風にして、どうしてこういう結果になったのか、きちんと筋道立てて説明するの!」
だが頭を左右を同時に殴られて、リコはしゃがみ込んでうめいていた。見るからに痛そうで、真浩ですら一瞬の憐れみを覚えてしまう。
その後、冷静さを取り戻したリコから、怜と哲也のフォローも合わせて、真浩は謝罪された理由を知った。剣を取り落とした時点で勝負が決まっていたのに、勢いづいたリコがわざわざ追撃したことで、真浩に怪我させたことを謝っているのだ。呆気に取られていた悠人も、ようやく納得した。成る程、言われてみれば確かにそのとおり、その気ならばこちらが責める権利だってあるのだ。
いや、初めは苦情の一つ二つは言うつもりだった。ただ今の勢いに呑まれて、その気はとっくのとうに霧散したが。とはいえ言うべきことは言っておかなければならない。
「今回の件については、もういいです。けど今後はこんなことがないように気をつけて下さいね」
やはり家族が倒れるのを見るのは気持ちのいいものではない。だから軽く窘めた。流石に深く反省しているようで、ひたすら平謝りをする。
「御免、マジ御免。手合わせっつってたのに、どうにも熱くなっちゃうんだよなあ、俺」
しみじみ語るリコの口調は、いつしか通常のものに戻っていた。どうやら慣れない口調に疲れたらしい。
「ま、これ食ってこれ飲んで、これでも貼ってゆっくり寝て治してくれな」
買い出ししてきたという袋の中から、健康補助食品やドリンク剤、湿布やはたまた包帯までが大量に転がり出てくる。気を利かせたつもりだろうが、湿布を顔にべたりと貼られては、流石に文句が言いたくなってきた。薬剤が目に染みる。
「うわぁあ、そんなところに貼っちゃ駄目ですよ!」
「何しくさりやがるんスか、ああもうわかった、もういいから、何にもすんな先輩は」
「へ? ……ああ、はい、すいませーん」
取り乱す兄と怒れる弟に叱られ、リコはがっくりと肩を落とし、大袈裟な身振りで沈んでみせる。一同は呆れて乾いた笑い。
しばしの休憩を挟み、真浩の調子にも異常は見られないことを確認して、リコたちが立ち上がる。そろそろ宿舎に帰ると言って、踵を返しかけた。それを悠人が慌てて呼び止める。
「あ、待って! 待ってください、一つ聞きたいんです」
怪訝な顔をして振り向く先輩達に、一呼吸してから問う。
「あの……先輩達は、グールと戦う時どんな気分なんですか? 初めて戦った時、どう思ったんですか? 俺、慣れないせいか何となく戸惑っちゃって……。俺もいつか、戦いに慣れる日が来るんでしょうか」
じっと悠人を見詰め、ふっと怜が苦笑する。
「一つという割に、三つ質問してきたな」
「え、ああ、本当だ、すいません」
「まあいい。……そうだな、当然いい気分じゃないな。やっぱり初めは俺も不安だったなぁ。やっていく自信がなくて、同じように悩んだりもしたよ。でも、慣れるしかない。慣れざるを得なくなってくる。……あまり気にしすぎると、こっちの身がもたないからな」
そして、突然両頬を抓りあげて、またもぐにぐに弄ぶ。
「悩むのは勝手だが、足を引っ張るようなことにはなるなよ」
手を離してからぽんぽんと、悠人の頭をあやすように数回叩いた。言う通りだと悠人も思うが、それでもどこか思い詰めるような色は消えない。だが、吹っ切るように頭を振って頷いた。
「そうですね、慣れなきゃですよね。余計な心配はしないようにしておきます。ありがとうございます……それじゃ」
悠人に見送られて三人は医務室を出て行った。
廊下を歩きながら彼らは言葉を交し合う。
「あの兄弟、仲がいいな。ちょっと羨ましいよ」
「怜……」
哲也とリコが、微妙な顔で怜を見る。怜は二人の表情を気にした様子もなく、毅然として前を向いていた。特に問題はなさそうだと見て、哲也は表情を崩す。
「うん、そうだね、いい子達だと思うよ。見てて微笑ましくなる」
「俺もそう思うよ。まあ少し、複雑な気分かな」
一方医務室では、しばらくの間を置いてから、
「俺達も帰るか」
と、真浩が布団をはぐって立ち上がった。とんとんと軽く跳ね、体調を確認する。
「もういいのか?」
「いつまでも倒れてるほど柔じゃないんでな。それに寝るだけだったら宿舎で十分」
眉を寄せる悠人を急かすように、手を振って入り口へと追いやる。
「気をつけろよ。俺らはちょっと寄り道してから帰るから、ここでな」
篤たち三人はそういうので、その場で挨拶を交わして別れた。
真浩は言うとおり、もう何ともない様子で、足取りにも問題はない。窺うようにしていた悠人も一安心したようで、大股の真浩に小走りでついて行く。
帰る途中で、偶然に総長とすれ違った。軽く会釈をすると、忍は僅かに目を細めて二人を見る。
「怪我でもしたのか」
悠人たちが医務室の方角から来たので、そう見当をつけたようだ。
「あ、いえ、怪我というほどのものでは。もう大丈夫です、ね、真浩」
総長の勇名は風の噂に聞いていたから、実物を目の前にして緊張してしまう。自分が負傷した訳でもないのに、自分の事のように説明する。そんな間抜けな兄が可笑しくて、真浩は微かに表情を崩した。
ふむ、と考え込むように忍が口に手を当て、確認するように訊いてきた。
「村瀬、といったな」
「は、はい!」
名を覚えられていたことが驚きで、思わず声が裏返った。悠人たちがこうして忍と面を向かい合わせるのは初めてだ。入隊したばかりの、特に面識がない新入りの名をよく覚えているものだと感銘を受ける。
「今回は大したことがなくて良かったな。しかし以後同じようなことが起こらないとも限らん。災いはいつやってくるかわからない。大事なものをもう失いたくはないだろう。ゆめゆめ注意を怠るな」
幼い頃から繰り返し言われて聞き飽きた忠告に、形だけ頷いて聞き流した。だが反芻しているうちに、
――あれ?
言葉の裏に更なる忠告が隠されていると気がついた。悠人は殴られるような衝撃を受け、無意識に手を胸に当てる。心臓が締め付けられるように疼いた。
意味深な言葉を言い残して立ち去る忍の背を見送りながら、呆然と立ち尽くす。やがて姿が見えなくなると、逃げるように歩調を速めた。顔色が心持ち青ざめている。挙動不審な悠人に真浩が首を捻った。
「どうしたんだよ、おい悠人」
「御免、ちょっと疲れちゃった。早く帰ろう」
そうとだけ言って、以降は口を開かず黙々と歩き続けた。
……その頃、中期生たちや悠人たちと別れてから、篤が小さく呟いた。
「危ういな」
「誰がよ」
三人は休憩室に足を踏み入れて、自動販売機で飲み物を調達する。
煙草に火を点けながら望が問い返したが、疑問ではなく確認である。
「嫌味な奴だな、わかってるくせに」
「訊いてみただけだろ。ところで俺は、篤、お前が心配だよ。また余計な事に首を突っ込むんじゃねえだろうな、お人好し」
「あー、いやぁ、うん、大丈夫だ、多分。何かすごく気にはなるが」
「まあ、僕たちが口を出すことではないだろうから、本人達が解決するのを見守る事にしておきましょうよ」
三人は頷き合って、何気なく窓の外に目をやる。梅雨近い時期独特で、今にも振り出しそうな鈍色の雲が天を覆い尽くしていた。
リコとの手合わせが、実はあまりにも無謀な挑戦だったと知ったのは、後日のことである。ある日、にたにたとからかうような笑みを浮かべながら、一人の終期生が悠人たちに声をかけてきた。
「噂ぁ聞いたぜ。馬鹿なことするもんだよな、入隊したばかりの初期生が、あの井藤に挑もうってんだから笑える話だぜ」
嫌味たっぷりに、その終期生は饒舌に語る。聞けばリコの剣の腕前はこの中央都市全軍の中でもトップクラスの部類に入るそうで、女性ながら鋭い剣を振るい勇猛と謳われる兵長の高木蛍ですら、彼には今一歩及ばないらしい。それを聞いて、真浩はまず唖然とし、そして叫んだ。
「なんだよなんなんだよなんなんだよそれ、端っから勝負見えてる闘いに乗せられたってのか、なんだよ『手合わせしてみたい』とか言っちゃって、俺からかわれただけじゃねえかよ!」
「うっわ、だせー、だっせー、超ダセー。もしかして何も知らずにやってたのかよ、尚のことダセエな」
火に油を注ぐかのような言葉に、真浩はますます憤慨する。
「人のことを散々笑い種にしてくれてますがね、そういうアンタはあの人に勝てるほど強いのかよ」
「俺? 俺は狙撃兵だから関係ねえな」
「ぬぁぁぁぁあ、ムカツク!」
「おおおおちつ落ち着いて真浩落ち着け」
周囲の目がぐさぐさ真浩たちに集まってくる。周りが見えていない真浩と周りなどどうでも良さそうな終期生は気にした様子もないが、第三者である筈の悠人にはその視線が酷く痛い。だから必死で弟を宥めにかかる。他人のふりという手段はすっかり失念している。
「ははははは、まあ負けたからってそんなに気にすんなよ、よっぽどお前の腕が悪かったって訳じゃねえんだからよ。そうだな……剣だけのガチ勝負で井藤に勝てるっつったら、各務か木村くらいのもんだろ」
途端思案するような表情になって、後半は独り言のように呟いていたが、耳聡く聞きつけた悠人の視線を受けて、何かに気付いたように手をぽんと叩いた。
「ああ、木村って言っても、井藤と仲のいい中期生のことじゃねえよ。俺達の同期で居たんだよ、昔な」
彼がまだ初期生だった二年前、入隊したての頃から既に頭角を現し将来有望とされていた者が二人いた。現在総長を務める各務忍と、そしてもう一人が、木村慎太郎という男でる。両者とも剣の腕前は群を抜いており、真偽の程はわからないが、噂では当時の兵長が勝負を挑んで僅か一合で惨敗したなどというエピソードがあったりする。
剣だけでなく性格面でも深慮かつ明晰、そのまま行けばどちらかが総長は確実、もう一方も兵長の座につくであろうと目されていた。兵長はともかく総長には戦闘・非戦闘員の枠はないので、強いから総長に任命されると限った訳ではないが、この二人ならば充分に役割を果たすだろうとの期待は大きかった。
だが、残念ながらそのまま行くことはなかった。
入隊してから僅か数ヶ月で、慎太郎は失踪してしまったのである。
例えば戦場の混乱に巻き込まれるなど、世が世であるから、行方不明者はさして珍しくない。ただ慎太郎の場合、とある晩に宿舎を抜け出すところを目撃されたのを最後に行方がわからなくなったのだ。何の為に宿舎を抜け出し、そしてどこへ行ったのか、当然ながら知る者はない。
初めこそ何らかの事件に巻き込まれたのだと騒がれたものの、もう戻ってこないのだと皆が自然に納得するようになると、その話題は飽きられていき、そしていつしか、何事もなかったかのような生活に戻っていった。
とはいえ、それほど有名であったのだから、当時の記憶だけはそう簡単には消え去らない。時折思い出したように、「前に強い奴がいたなあ」と、語り草にはなるのである。
「ま、俺はそいつと付き合いなかったし、正直顔も知らねえんだが。そうだな、各務は無論、高木とか白石とかが知ってるだろ。興味があるんだったら聞いてみればどうよ」
語り終えると、再び意地の悪い笑みが戻り、ひらひらと手を振りながら、
「まあ、せいぜい恥かかない程度に剣の腕ぇ磨いとけよ」
「いーい加減にしやがれ!」
「ははは、からかいやすい奴だぜ。そんじゃあな」
と言い残して去って行った。
相変わらず憤怒の形相をした真浩を宥め透かしつつ、悠人はたった今聞いた話を反芻していた。半ば伝説と化した、それでもほんの二年前までは確かにこの場にいた人。どんな人なのだろう。その人はどんな想いで戦っていたのだろう。
会えないと聞かされれば、逆に会ってみたくなるのが人の常である。会おうと思えば会える人より、遠い存在にこそ、悠人は好奇心を掻き立てられた。




