第五話 選ばれたくて、選べない
エミールと会う機会は、少しずつ増えていった。
ソフィアは彼に町の生地商を紹介してもらい、仕立ての技術について相談できる相手も見つけた。
もちろん、何もかも簡単に解決したわけではない。
生地の仕入れには最低注文数がある。修業を受けるなら、費用も時間もかかる。店を持つなら、家賃だけでなく、道具や材料を仕入れる資金も必要だった。
それでも、今まで見えなかった道筋が、一つずつ見えてきた。
「この生地なら、丈夫なのに肌触りがいいんです。仕事着に向いていると思いませんか?」
町の生地商を訪ねた帰り、ソフィアは見本帳を抱えて歩いていた。
「ええ。ですが、仕入れ値を考えると、最初から多く買うのは危険でしょうね」
「そうなんです。まずは少量で試して、注文が増えたら仕入れを増やしたいんですけど……」
「それなら、店主に小口の仕入れができないか、もう一度相談してみましょう。今後も取引を続けるつもりなら、先方にも利点はありますから」
商売の話になると、エミールは迷いがなかった。
けれど、彼女の意見を無視して話を進めることはない。
ソフィアが考えを話せば、きちんと耳を傾ける。問題があれば、一緒に解決策を探してくれる。
その姿勢に、何度も助けられた。
そして、助けられるたびに気づかされる。
自分はまだまだ、知らないことが多い。
夢を実現するには、技術だけでは足りない。お金の管理も、人との交渉も、商売の仕組みも学ばなければならない。
簡単な道ではない。それでも、以前よりはっきりと、自分が進みたい先を思い描けるようになっていた。
その頃、ピーターは工房で仕事をしていた。
注文を片づけ、道具を整えながら、ときどき扉の方へ目を向ける。
ソフィアが来るかもしれない。
そう思っても、自分から会いに行くことはできなかった。
明日には来るだろうか。
そんな期待を胸の奥にしまい、ピーターは針を動かした。
◇
「ソフィアさん。少し、お話ししたいことがあります」
ある日の帰り道、エミールが足を止めた。
いつもと違う真剣な表情に、ソフィアも立ち止まる。
「何でしょう?」
「私は、あなたと結婚したいと考えています」
ソフィアは、言葉を失った。
秋風が、二人の間を吹き抜ける。
「……結婚、ですか?」
「はい。突然で申し訳ありません。ただ、曖昧なまま親しくするのは、あなたに対して誠実ではないと思いました」
エミールは、落ち着いた声で続けた。
「あなたは、自分の仕事に責任を持っている。できないことを隠さず、限られた条件の中で最善を考える。自分の考えを持ち、それを実現するために努力している。私は、そういうあなたを尊敬しています」
ソフィアは、胸の前で指を組んだ。
「あなたの夢を、私が代わりに叶えてあげると言うつもりはありません。あなた自身の仕事ですからね。ただ、私にできることがあるなら、協力したいと思っています」
エミールは真摯に言葉を続ける。
「結婚したからといって、あなたの生き方まで変えてほしいとは思いません。これからも、自分の望む道を歩んでほしいのです」
「……本当に、そう思ってくださるんですか?」
ソフィアは、思わず聞き返した。
「もちろんです。あなたが仕事に打ち込む姿を、私は素敵だと思っていますから」
「でも、結婚したら、今までどおりにはいかないこともあると思います。お互いに譲らなければならないことだって……」
「ええ。だからこそ、何かあれば二人で話し合いたいと思っています。一方だけが我慢するのではなく、お互いに納得できる方法を探していきたいのです」
ソフィアは、胸の前で組んでいた指をほどいた。
エミールは、彼女を飾りのように扱おうとしているのではない。
仕事も、考えも、夢も尊重したうえで、人生を共にしたいと言ってくれている。
彼と結婚すれば、町に店を持つ夢は、確かに近づくだろう。人脈も知識も、今の自分にはないものを彼は持っている。
エミールと一緒にいると、安心して未来を考えられた。
自分の夢を否定されない。できないことを責められない。分からないことを、一緒に考えてもらえる。
そんな相手と人生を歩めたら、きっと心強い。
けれど、それだけで結婚を決めていいのだろうか。
ソフィアは、自分の胸の内に問いかけた。
答えは、まだ出なかった。
「すぐに返事をする必要はありません」
エミールは、彼女の戸惑いを察したように言った。
「あなたにとって大切なことです。十分に考えてください」
「……ありがとうございます」
「それと、もう一つ」
彼は少し照れたように笑った。
「収穫祭の日、私と一緒に回っていただけませんか。返事とは別に、あなたと楽しい時間を過ごしたいのです」
ソフィアは、すぐには答えられなかった。
結婚の返事とは別に、という言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
彼と過ごす時間を、嫌だとは思わない。
むしろ、楽しみだと思う自分がいた。
「……はい。喜んで」
◇
次の日、ソフィアはピーターの工房を訪ねた。
いつものように扉を開け、いつものように声をかける。
「ピーター、いる?」
「いるよ」
返事は、いつもと変わらなかった。
けれど、ソフィアは扉の前で足を止めた。
話したいことがある。
それなのに、何から話せばいいのか分からない。
「……ねえ、ピーター」
「どうした?」
「私、結婚を申し込まれたの」
針を持つ彼の指が止まった。
ほんの一瞬だった。
ソフィアでなければ、気づかなかったかもしれない。
「……誰に?」
「エミールさんよ。町で商売をしている人。前に、仕立ての注文をしてくれたでしょう?」
「ああ。覚えている」
ピーターは針を置いた。
「そうか」
それだけだった。
ソフィアは、彼の顔を見つめた。
何か言ってほしかった。
驚いてほしい。困ってほしい。少しくらい、寂しそうな顔をしてほしい。
そんなことを願う自分に気づき、ソフィアは唇を噛んだ。
「……収穫祭の日、エミールと一緒に回ることになったの」
ピーターは、少しだけ目を伏せた。
「……君の夢を応援してくれるんだろう? よかったじゃないか、ソフィア」
胸の奥が、すっと冷えた。
彼は笑っていた。
いつもの、穏やかな顔で。
ソフィアがずっと見てきた顔で。
「……そうね」
「うん」
「仕事のことも、私の夢のことも、真剣に考えてくれるの。町の仕立て屋や生地商も紹介してくれて……私、今まで知らなかったことを、たくさん教えてもらったわ」
「そうか」
ピーターは、それ以上何も言わなかった。
ソフィアは、彼の顔をうかがった。
「……あなたは、何とも思わないの?」
口にした途端、しまったと思った。
ピーターが顔を上げる。
「何が?」
「……何でもないわ」
言えるはずがなかった。
どうして何も言ってくれないの。
私が誰かと結婚するかもしれないのに、どうしてそんなに平気なの。
そんなことを尋ねて、もし彼が本当に何とも思っていなかったら。
その答えを聞くのが、怖かった。
「私、収穫祭前までの仕事があるし、これから学ばなきゃいけないこともたくさんあって、忙しくなるから……しばらく、ここには来られないと思うわ」
「そうか。無理するなよ」
「……ええ」
ソフィアは、笑った。
いつもどおりに。
「じゃあね、ピーター」
扉を閉める直前、振り返りそうになった。
けれど、振り返らなかった。
彼が引き止めてくれることを、期待してしまうから。
◇
扉が閉まったあと、ピーターはしばらく動けなかった。
針は、作業台の上に置かれたままだった。
ソフィアが結婚を申し込まれた。
エミールと収穫祭を回る。
彼女の夢を応援してくれる人。
自分にはできないことを、自然にできる人。
「……よかったじゃないか」
自分で口にした言葉が、耳の奥に残っていた。
あれでよかったのだ。
ソフィアの夢が叶うなら、それでいい。彼女が幸せになるなら、自分が隣にいなくても構わない。
そう思っていた。
けれど、毎日、工房の扉が気になっていた。
仕事をしていても、外から足音が聞こえれば、つい顔を上げる。
ソフィアが来たのかもしれない。
そう期待して、違うと分かるたびに、何事もなかったように手元へ視線を戻した。
会いたいなら、自分から会いに行けばいい。
それだけのことなのに、できなかった。
そして今日、彼女の口から聞かされた。
ソフィアには、自分以外にも夢を応援してくれる人がいる。
彼女の隣に立ち、未来を一緒に考えたいと言ってくれる人がいる。
何度も同じ針を確かめていたことに気づき、ピーターはようやくそれを置いた。
仕事に集中すれば、余計なことを考えずに済むはずだった。
けれど、今日は駄目だった。
ソフィアの顔が浮かぶ。
彼女が見たこともないエミールという男と町を歩く姿が浮かぶ。
紹介された生地を見て、目を輝かせる姿が浮かぶ。
そして、その隣に自分がいないことを想像する。
胸が痛んだ。
「……何を今さら」
ソフィアが好きだった。
ずっと前から。
けれど、好きだと伝えたことはない。
彼女の夢を邪魔したくなかった。
自分を選んだせいで、彼女が何かを諦めることになったら嫌だった。
それは、嘘ではない。
けれど、それだけでもなかった。
もし告白して、断られたら。
今まで当たり前のように続いてきた関係まで、失ってしまうかもしれない。
だから、会いに行くことも、気持ちを伝えることもせず、彼女が工房を訪ねてくるのを待っていた。
彼女のためだと言いながら、自分が傷つかずに済む道を選んでいたのだ。
「……馬鹿だな、俺は」
呟いても、何も変わらない。
ソフィア。
会いたかった。
会えて嬉しい。
今すぐ工房を飛び出して、伝えたい。
それでもピーターは、扉を開けて彼女を追いかけることができなかった。




