第四話 君の知らない道を知る人
その日の夕方、ソフィアはいつものように針職人の工房を訪れた。
「ピーター、聞いて!」
「何だよ、急に」
「いいから聞いて。町から来た商人のエミールさん、覚えてる? 上着を仕立ててほしいって、私のお店に来た人」
「ああ、そんな人がいたな」
ピーターは作業台に向けていた手を止めた。
「その人がね、私の仕事を認めてくれたの!」
「仕事を?」
「そう! 私が服を作るときに、何を大切にしているのか、ちゃんと分かってくれたのよ」
ソフィアは、エミールが自分の仕事を認めてくれたことや、町に店を持つ夢について話したときのことを、弾む声で語った。
「それでね、町に私の服を扱いたいっていう店主がいるらしいの! まずは何着か作って、評判がよければ継続して仕入れてくれるかもしれないんですって!」
「……へえ」
ピーターは相槌を打ちながら、彼女の顔を見た。
ソフィアは、こんなにも楽しそうに話す。
「それに、町の仕立て屋さんに技術を教えてもらえるか、聞いてくれるって!」
「そこまでしてくれるのか」
「うん。もちろん、すぐにうまくいくとは限らないけれど。でも、今まで遠い夢だと思っていたものが、少しずつ近づいてきた気がするの」
ソフィアは、うれしそうに両手を握った。
「私、もっと頑張りたい。いつか本当に、自分のお店を持てるかもしれないんだもの」
ピーターは、彼女の笑顔を見つめた。
よかった。
心から、そう思った。
納得するまで何度も縫い直し、時間がかかっても手を抜こうとしない。そんなソフィアの仕事が、村の外でも認められたのだ。
自分のことのようにうれしい。
それなのに、口をついて出たのは、別の言葉だった。
「……いい人に出会えたんだな」
「でしょう?」
ソフィアは何の疑いもなく頷いた。
「エミールさんって、話をちゃんと聞いてくれるの。できないことを無理に押しつけたりしないし、私の考えを聞いたうえで、一緒に方法を考えてくれるのよ」
「そうか」
「私、町に店を持つなんて、ずっと先のことだと思っていたの。でも、必要なことを一つずつ片づけていけば、いつか手が届くかもしれないって思えたのよ」
ピーターは、作業台に並んだ針へ目を落とした。
自分には、何ができるだろう。
針を作ることならできる。使う人や布のことを考え、できる限りよいものに仕上げることもできる。
けれど、ソフィアの夢を町へつなぐ道を知っているわけではない。
エミールは、その道を知っている。
自分の知らない道を。
「ピーター?」
「ん?」
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
ピーターは顔を上げた。
「よかったじゃないか。お前が頑張ってきたことが、ちゃんと伝わったんだろう?」
「……うん!」
ソフィアは満面の笑みを浮かべた。
その顔を曇らせたくはない。
だから、胸の奥に生まれたものには気づかないふりをした。
「これから忙しくなりそうだな」
「そうなの! まずは条件を確認して、今の仕事と両立できるか考えないと。納期もあるし、必要な材料も調べなくちゃ」
「君らしいな。仕事を引き受ける前から、もう先のことを考えてる」
「当たり前でしょう。せっかくの機会なんだもの。無責任なことはできないわ」
胸を張るソフィアに、ピーターは小さく笑った。
「そういうところは、昔から変わらないな」
「どういう意味よ、それ」
「褒めてるんだよ」
「本当かしら」
ソフィアは疑わしそうに目を細めたが、すぐに笑った。
その笑顔を、ずっとそばで見ていたい。
けれど、いつか彼女は町へ出て、自分の店を持つのかもしれない。今より忙しくなり、たくさんの人と出会うのかもしれない。
そのとき、彼女の隣にいるのは誰なのだろう。
考えかけたところで、ピーターは口を開いた。
「そういえば、エミールさんって何歳くらいなんだ?」
「二十六歳ですって。私たちと四歳しか違わないのにしっかりしてるわ」
「……そうか」
「商売のこともよく知っているし、町の人たちとも付き合いがあるみたい。私が知らないことをたくさん知っているのよ」
「頼りになりそうだな」
「うん。本当に」
答えながら、ソフィアはふいに口を閉じた。
エミールの言葉が、頭の中によみがえる。
――仕事の話をしているあなたを見て、もっと知りたいと思うようになりました。
思い出すと、胸の奥が落ち着かなくなる。
ピーターに話すつもりはなかった。けれど、彼の前でエミールの話をしていると、あの言葉だけが喉につかえているような気がした。
「……どうした?」
「えっ?」
「急に黙ったから」
「な、何でもないわよ!」
ソフィアは慌てて首を振った。
もし話したら、ピーターはどんな顔をするだろう。
驚くだろうか。それとも、いつものようにからかうだろうか。
――少しくらい、気にしてくれるかしら。
そんな考えが浮かび、ソフィアは頬が熱くなるのを感じた。
エミールには好感を持っている。仕事を認めてくれたこともうれしかったし、彼の誠実な人柄にも惹かれるものがあった。
それでも、あの言葉を聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのはピーターの顔だった。
「……ソフィア?」
「もう、何でもないってば!」
ソフィアは逃げるように作業台を覗き込んだ。
「それより、何を作っているの?」
「注文品。もうすぐ仕上がるところだ」
「見せて」
「針を見てどうするんだよ」
「いいじゃない。私だって、あなたの仕事に興味があるんだから」
ピーターは少し意外そうな顔をしてから、手元の針を一本差し出した。
「これは?」
「細い針。布を傷めにくいように、先端の形を調整してある」
「へえ……」
ソフィアは針を光にかざし、細かな先端を確かめるように眺めた。
「ねえ、ピーター。今度、町で新しい生地を見せてもらえるかもしれないの。もし手に入ったら、この生地に合う針も相談していい?」
「もちろん。どんな布か分からないと、何とも言えないけどな」
「うん。だから、見てもらいたいの」
ピーターは、彼女の手元にある針を見た。
町で新しい生地を手に入れたら、ソフィアはきっと、どんな服を作ろうかと目を輝かせるのだろう。
そのとき、自分にもできることがある。
「楽しみにしてるよ」
「本当? じゃあ、絶対に見せるからね」
ソフィアは満足そうに笑った。
やがて帰り支度を始めた彼女を見ながら、ピーターは思った。
町で新しい生地を手に入れたら、ソフィアはきっと、どんな服を作ろうかと目を輝かせるのだろう。
そのとき、自分にもできることがある。
彼女が新しい服を作るなら、その布に合う針を考えればいい。自分の仕事で、彼女の挑戦を支えることはできる。
「楽しみにしてるよ」
「本当? じゃあ、絶対に見せるからね」
ソフィアは満足そうに笑った。
やがて帰り支度を始めた彼女を見ながら、ピーターは思った。
自分にも、彼女の夢を支えられることはある。
それでも、エミールが彼女の知らない道を知っていることは変わらない。
自分にはできないことを、彼はできる。
その事実を認めるのは、思っていたより難しかった。
「じゃあ、また来るわね」
「ああ。気をつけて」
工房を出る直前、ソフィアは振り返った。
「ピーター」
「何?」
「……話を聞いてくれて、ありがとう」
ピーターは一瞬目を丸くし、それからいつものように笑った。
「どういたしまして」
扉が閉まった。
工房に静けさが戻る。
ピーターは作業台に向き直り、手元の針を取り上げた。
先端を確かめ、わずかな歪みを直す。
さっきソフィアと交わした約束を思い出した。新しい生地を手に入れたら、自分に見せてくれるという。
彼女の夢を支える方法は、エミールのように道を開くことだけではない。
自分にできることも、きっとある。
そう思いながら、ピーターは針を磨き続けた。
けれど、胸の奥に残る寂しさまでは、簡単に拭い去れなかった。




