第三話 あなたとなら未来を考えられる
エミールが仕立て屋を訪れたのは、収穫祭までひと月を切った頃だった。
「突然すみません。こちらで仕立てをお願いできると聞いたのですが」
現れたのは、身なりの整った青年だった。
町とあちこちの村を行き来して商売をしているらしい。落ち着いた口調に、相手の様子をうかがうような目配り。初めて訪れた店でも、慌てる様子はなかった。
「あの、うちにはどのようなご用件でしょうか?」
ソフィアが応じると、青年は一枚の注文書を差し出した。
「来週、町で取引先との会合があるんです。そこで着る上着を仕立てていただきたい。できれば、それまでに」
ソフィアは注文書に目を落とした。
裏地にもこだわった上着だった。細かな仕立てが必要で、今から取りかかっても、納期までにすべてを完成させるのは難しい。
いつものように、できる限りの手を尽くせば間に合うかもしれない。
けれど、それでは縫い目の一つひとつを確かめる時間が足りなくなる。
ソフィアは注文書を置いた。
「……正直に申し上げますと、ご希望どおりにすべて仕上げるのは難しいと思います」
青年は意外そうに眉を上げた。
「ほかのお店では、何とかすると言われましたが」
「そうですか」
断られるかもしれない。
そう思うと、喉の奥が少しこわばった。
それでも、ソフィアは言葉を続けた。
「ただ、急いで仕上げることで、縫い目や裏地の処理が甘くなるのは避けたいんです。もしよろしければ、上着の形と着心地に関わる部分を先に仕上げ、裏地の細かな装飾は後日お渡しする方法はいかがでしょうか」
「つまり、納期までに上着そのものは着られる状態にする、と?」
「はい。装飾まで一度に完成したものが必要でしたら、今回はお引き受けしないほうがよいと思います」
青年は、注文書を見つめたまま考え込んだ。
ソフィアは返事を待った。
注文を逃したくない気持ちはある。けれど、無理な約束をして、あとから困らせるのはもっと嫌だった。
やがて青年は顔を上げた。
「その方法でお願いします」
「よろしいのですか?」
「ええ。会合で必要なのは、きちんと着られる上着です。装飾は後日でも構いません」
青年は穏やかに微笑んだ。
「できないことを隠さず、そのうえで別の方法を考えてくださった。私は、そういう商売の仕方を信用します」
ソフィアは、ようやく息をついた。
「ありがとうございます。精一杯、仕立てます」
「こちらこそありがとうございます。あなたのお名前を伺っても?」
「ソフィアです」
「ソフィアさん。よろしくお願いします」
差し出された手を、ソフィアは握った。
仕事の話をしているだけなのに、不思議と緊張した。
エミールは、こちらの話を最後まで聞いてくれた。無理な注文を断ったからといって、機嫌を損ねることもなかった。
できることとできないことを伝え、別の方法を提案する。
それは、ソフィアが仕事をするうえで大切にしていることだった。
初めて会った相手が、その考え方を理解してくれた。
そのことが、素直にうれしかった。
◇
上着は、約束した日までに仕上がった。
ソフィアはエミールに試着を頼み、仕上がりを確かめることにした。
「腕を上げてみてください」
エミールが腕を動かす。
「窮屈なところはありませんか?」
「ありません。肩も動かしやすい」
「では、前を留めたまま、もう一度お願いします」
エミールが言われたとおりに動く。
ソフィアは袖の付け根を確かめた。腕を上げても布が引きつらず、脇にも余計なしわが寄っていない。
「……よかった」
思わず、声が漏れた。
納期に間に合わせるために、何度も縫い目を確かめた。急いだからこそ、妥協したくないところがはっきりしていた。
エミールは鏡の前で上着を確かめ、満足そうにうなずいた。
「予定どおりですね。それに、思っていたよりずっと着心地がいい」
「ありがとうございます」
「装飾を後回しにしてもらったおかげで、急いで仕立てた感じがありませんね」
「着るときに大事なのは、体に合っていることですから。見た目だけ整っていても、動きにくければ意味がありません」
「なるほど。あなたは、服を作るとき、何を一番大切にしているんですか?」
突然の質問に、ソフィアは少し考えた。
「着る人が、無理をしなくて済むことです」
「無理をしない?」
「ええ。きれいな服を着るために、ずっと姿勢を気にしなければならなかったり、仕事のたびに袖を直したりするのは大変でしょう? だから、見た目だけでなく、着る人が自然に動ける服を作りたいんです」
言葉にするうちに、ソフィアの声に熱がこもった。
「いつか町に店を持って、働く人のための服をもっと作りたいと思っています。家事をする人も、畑に出る人も、店で働く人も。忙しい毎日の中で、少しでも気持ちよく過ごせるような服を」
エミールは、口を挟まずに聞いていた。
「……素敵な夢ですね」
「でも、まだまだです。技術も足りないし、資金もないし、町に仕入れ先もありません」
「それでも、何が必要なのかは、きちんと考えていらっしゃる」
「考えているだけでは、何も変わりませんけどね」
「ええ。だからこそ、次に何をするかが大切なのでしょう」
エミールは、鏡に映る上着を見た。
「今回の仕事で、あなたが何を大切にしているのか、よく分かりました。約束を守ること。できないことを隠さないこと。そして、限られた時間の中でも、譲れない部分を見極めること」
彼はソフィアに向き直った。
「私は、そういう方と仕事をしたいと思います」
ソフィアは、思わず背筋を伸ばした。
自分が大切にしてきたことを、初めて会った人が言葉にしてくれた。
うれしい。
けれど、それ以上に、もっと頑張りたいと思った。
自分のやり方は間違っていない。まだ足りないものはあるけれど、目指している方向まで間違っているわけではない。
そう思えたのは、大きな励みだった。
「ありがとうございます。もっと腕を磨きます」
「ええ。あなたの作る服を、また見せてください」
エミールは、完成した上着を受け取った。
そのときのソフィアには、彼の言葉が、単なる社交辞令には聞こえなかった。
◇
それからすぐにエミールは仕立て屋を再び訪ねてきた。
今度は、商売の話をするためだった。
「町に、働く女性向けの服を扱いたいという店主がいるんです。以前から、実用的で質のよい服を探していました」
「本当ですか?」
ソフィアは、思わず身を乗り出した。
「ええ。ただ、すぐに大きな注文を出せるわけではありません。まずは何着か試してもらい、評判がよければ継続して仕入れる、という形になるでしょう」
胸が高鳴った。
町の店に自分の服を置いてもらう。
ずっと思い描いていたことだ。
けれど、うれしさに任せて返事をする前に、ソフィアは一度考えた。
何着作ればいいのか。納期はどれくらいか。今の仕事を続けながら、どこまで対応できるのか。
無理をすれば、目の前の注文にも、町からの仕事にも迷惑をかけてしまう。
「お話を伺いたいです。でも、まずは何着必要なのか、納期はどれくらいなのかを確認させてください。今の仕事をおろそかにせず、責任を持って引き受けられるか考えたいんです」
エミールは、満足そうにうなずいた。
「もちろんです。条件を確認してから決めてください」
「ありがとうございます」
「それから、技術についても、町の仕立て屋に教えを請えるか、私から尋ねてみましょう。すぐに引き受けてもらえるとは限りませんが、話をする機会なら作れると思います」
ソフィアは、言葉を失った。
町で学ぶことも、仕入れ先を見つけることも、自分一人では難しいと思っていた。
それが、ほんの少しずつ、手の届くところに近づいている。
「どうして、そこまでしてくださるんですか?」
エミールはすぐには答えなかった。
それから、まっすぐソフィアを見た。
「あなたの作る服に、商売としての可能性を感じているからです。それに、夢を語るだけでなく、目の前の仕事に誠実に取り組む姿勢にも惹かれました」
ソフィアは、瞬きをした。
「……惹かれた、ですか?」
「はい」
エミールは、少しだけ表情を和らげた。
「仕事の話をしているあなたを見て、もっと知りたいと思うようになりました」
真剣な声だった。
ソフィアは、どう答えてよいか分からなかった。
男性から、そんなふうに言われたことはなかった。
戸惑いはある。けれど、不思議と嫌ではなかった。
「ただ、仕事の話と、私個人の気持ちは別です。商売の機会をお渡しすることを、あなたへの好意の見返りにしたいわけではありません」
エミールは、言葉を選ぶように続けた。
「仕事の話は、あなたの腕と条件で決めてください。私のことは、それとは別に考えていただければうれしいです」
ソフィアは、彼の顔を見つめた。
自分の夢を応援してくれるから、彼に好意を持たなければならない。
そんなことを求められているわけではないようだ。
エミールは、ソフィアが自分で判断することを待ってくれている。
「……ありがとうございます。少し、考えさせてください」
「もちろんです」
彼は急かさなかった。
ソフィアは、ほっと息をついた。
エミールは自分の仕事を尊重してくれる。夢を実現するための道筋を、一緒に考えてくれる。そして、彼自身の気持ちについても、ソフィアが答えを出す時間を与えてくれた。
彼となら、町に出る未来を具体的に描けるかもしれない。
そう思ったことを、ソフィアは否定できなかった。
これまで、町に店を持つ夢は、いつか叶えたい遠い目標だった。
けれど今は、何から始めればいいのか、少しずつ見えてきている。
技術を磨くこと。仕事の条件を確かめること。自分にできることを、一つずつ増やしていくこと。
誰かに選ばれるのを待つのではなく、自分で未来を選ぶ。
そのための一歩を、踏み出せるかもしれない。
ソフィアは、エミールが帰ったあとも、しばらく注文書を見つめていた。
その先にある未来を、今度は夢物語ではなく、自分の手で選び取るものとして考え始めていた。




