第二話 彼女の仕事、彼の誇り
翌日の午後、ソフィアは仕立て屋の作業台にかじりついていた。
「……違う。ここが、ほんの少しだけ」
縫い合わせた袖を裏返し、縫い目を確かめる。
肩から袖にかけての線が、わずかに歪んでいた。
着る人が動けば、気にならない程度かもしれない。
それでも、ソフィアには見過ごせなかった。
糸切りばさみを手に取り、慎重に糸をほどく。
そして、また縫い直す。
「ソフィア、昼食は?」
奥から声がかかった。
「あと少し!」
答えてから時計を見る。昼食の時間は、とっくに過ぎていた。
収穫祭までに、依頼された服を仕上げなければならない。
この時期、祭りに着ていく服を直しに出す客は多い。新しく注文する客もいる。約束の日に間に合わなければ、次から依頼してもらえなくなるかもしれない。
きれいに仕上げたい。けれど、納期を守ることも、仕事をするうえで欠かせない。
分かっているのに、どうしても手が止まってしまう。
そのとき、入口から聞き慣れた声がした。
「ずいぶん難しい顔をしているな」
「ピーター?」
彼は小さな箱を抱えていた。
「頼まれていた針を届けに来た。……何をやっているんだ?」
「袖の縫い直しよ。どうしても、ここが気になって」
ピーターは作業台をのぞき込んだ。
「どこだ?」
「ここ。ほら、線が少しだけずれているでしょう?」
「言われてみれば、そうだな」
「言われなくても気づいてほしかったわ」
「俺は針職人だぞ。縫製については素人だ」
「でも、針の先がほんの少し曲がっていたら、あなたは気づくでしょう?」
「そりゃ、仕事だからな」
「私だって、仕事よ」
思わず強い口調になった。
ピーターは黙った。
ソフィアは、はっとして目を伏せる。
「……ごめんなさい。あなたに怒っているわけじゃないの」
「分かってるよ」
ピーターは作業台の脇に箱を置いた。
「ただ、納期は大丈夫なのか?」
「……ぎりぎり」
「なら、全部を同じ精度で仕上げようとするのは、考え直したほうがいいかもしれない」
ソフィアの指が止まった。
「どういう意味?」
「着る人にとって大事な部分と、そうじゃない部分があるだろ。動きやすさや丈夫さに関わるところは、丁寧に仕上げる。見えない部分まで、必要以上に時間をかけていないか考えるんだ」
「……」
「手を抜けと言っているわけじゃない。仕事を続けるなら、時間も材料も限られている。何を守るか、何を調整するか。それも技術のうちじゃないか」
言い返しかけて、ソフィアは口を閉じた。
悔しいけれど、正しい。
彼女は、見えない裏側の縫い目まで、表と同じように整えようとしていた。
もちろん、裏側なら雑でいいというわけではない。
けれど、客が求める品質と、自分が納得するための品質は、必ずしも同じではないのだ。
ソフィアは、もう一度袖を広げた。
縫い目を指先でなぞり、歪みの原因を探る。
ほどくべきところは、ほかにもある。
けれど、すべてをやり直す必要はない。
必要な部分だけをほどき、縫い直す。
今度は、迷わず針を進めた。
「……できた」
袖を広げると、肩から続く線がきれいに整っていた。
最初からすべてをやり直すより、ずっと早い。
「どう?」
「いいんじゃないか」
「もっと褒めなさいよ!」
「きれいにできたな」
今度は、ピーターがきちんと目を合わせて言った。
ソフィアの頬が、わずかに熱くなる。
「……そうでしょう?」
照れ隠しに笑いながら、彼女は仕上がった服を掲げた。
◇
「ピーター、ここの針、前より布に通りにくい気がするわ」
針を確かめていたピーターが顔を上げた。
「どの布に使った?」
「厚手の麻布。いつも使っているものよ」
「貸してみろ」
ソフィアから針を受け取り、ピーターは布に通した。
一度、二度。
彼は手を止め、針先を光にかざした。
「先端の磨きが少し甘かったかもしれない。すまない」
「あなたでも、こんなことがあるのね」
「あるさ。だから確認するんだ」
ピーターは別の針を取り出し、布に通した。今度は引っかかりもなく、滑らかに抜けていく。
「針は、ただ尖っていればいいわけじゃない。細すぎれば折れやすいし、太すぎれば布を傷める。布に合っていなければ、使う人の手間も増えるからな」
「分かっているわ。服だって同じよ。丈夫ならいいというものじゃないもの」
「そうだな」
ソフィアは、彼の手元を見つめた。
ピーターが針を作るとき、何度も先端を確かめているのを知っていた。
それを無駄な作業だと思ったことはない。
けれど、こうして目の前で仕事をする姿を見ていると、改めて分かることがあった。
彼は自分の作った針に不具合があれば、それを認め、原因を確かめ、きちんと取り替える。
針が悪ければ、仕立て屋は余計な時間を使う。布を傷めれば、服そのものが台無しになる。
一本の針が、誰かの仕事を左右する。
小さな仕事に見えても、ピーターは決して妥協しなかった。
「ねえ、ピーター」
「ん?」
「私、あなたの仕事を、少し甘く見ていたかもしれない」
彼の手が止まった。
「どうした、急に」
「針なんて、どれも同じだと思っていたわけじゃないけれど……あなたが、どうしてそこまで細かいことを気にするのか、ちゃんと分かっていなかったの」
「……」
「さっき、私に言ったでしょう。何を守るか、何を調整するかって。あなたも同じことをしているのね」
ピーターは、もう一度針を布に通した。
滑らかに、引っかかりなく抜けていく。
「俺の場合、手を抜いたら、そのまま客の手間になるからな」
「私だって同じよ」
「分かってる」
彼は穏やかに答えた。
ソフィアは、嬉しくなった。
自分の仕事を、ピーターはきちんと見てくれている。
だからこそ、耳の痛いことも言ってくれるのだろう。
彼の言葉に反発したくなることはあっても、その言葉を信じられるのは、彼自身が仕事に誠実だからだ。
そんな彼の隣にいると、自分も少しずつ前に進める気がした。
けれど、ピーターは彼女の笑顔を見ながら、胸の奥がくすぐったくなるのを感じていた。
自分の仕事を、ソフィアはきちんと見てくれていた。
針の先を確かめ、わずかな不具合も見逃さず、使う人のことを考えて仕上げる。その仕事を、彼女は理解してくれたのだ。
嬉しかった。
彼女に認められたことが、思っていた以上に嬉しい。
「……何よ?」
見つめていたことに気づいたのか、ソフィアが不思議そうに首をかしげた。
「いや。何でもない」
ピーターは、照れ隠しに針を手に取った。
彼女の仕事を尊敬している。彼女もまた、自分の仕事を認めてくれている。
それだけで、今は十分だと思いたかった。
けれど、胸に浮かんだ嬉しさを、恋心までつなげる勇気はまだなかった。
ピーターは針先を光にかざした。




