第一話 あなたの針は、相変わらずね
「ピーター、いる?」
「いるよ」
「何よ、顔くらい上げなさいよ」
「手が離せないんだ」
「私が来たんだから、少しくらい歓迎してくれてもいいでしょう?」
「はいはい。いらっしゃいませ、ソフィアさん」
「心がこもってないわ!」
ソフィアが頬を膨らませると、ピーターはようやく顔を上げた。
その顔を見て、ソフィアは満足そうに笑う。
まったく、いつもこうなのだ。作業に夢中になると、声をかけてもなかなかこちらを見てくれない。
作業台には、磨きかけの針が何本も並んでいた。ピーターは一本ずつ先端を確かめ、細かな傷が残っていないか、光にかざして確認している。
「あなた、相変わらずね」
「何が?」
「針ばっかり見てるところ」
「針職人だからな」
「そういう意味じゃないわよ」
「じゃあ、どういう意味だ?」
「……もういいわ」
ソフィアはぷいと顔を背けた。
ピーターは小さく笑い、再び針に目を落とした。
「で、今日は何の用だ?」
「用がなきゃ来ちゃいけないの?」
「いや。用がないなら、そこの椅子に座っていてくれ。あと十分で終わる」
「十分って言ったわね。ちゃんと覚えておきなさいよ」
「はいはい」
ソフィアは工房の隅にある椅子を引いた。
窓の外では秋風が木々を揺らしている。収穫を終えた畑では冬支度が始まり、村の広場には収穫祭に使う荷物が運び込まれていた。
祭りまで、あとひと月。
仕立て屋の仕事も忙しくなってきたが、それでもソフィアがこうしてピーターの工房を訪ねるのは、もう何年も続いている習慣だった。
幼い頃から、ピーターはここにいた。
針を作る父親の背中を見て育ち、今では一人前の針職人として工房を切り盛りしている。母親と妹を養いながら働く彼の毎日は、決して楽ではない。
それでも、ソフィアが訪ねれば、文句を言いながらも話を聞いてくれる。
今日だって、十分で終わると言いながら、ときおり鞄のほうへ視線を向けていた。
中に何が入っているのか、気になっているのだろう。
ソフィアは気づかないふりをして、鞄から一枚の服を取り出した。
「ねえ、これを見て」
柔らかな生成りの布に、細かな縫い目が並んでいる。袖口には、飾り気のない小さな刺繍が施されていた。
「新しい型を試してみたの。家事をするときに袖が邪魔にならないよう、手首のところを少し絞ってあるのよ」
ピーターは服を受け取り、指先で縫い目をなぞった。
「この留め方なら、動いてもずれにくいな」
「でしょう? でも、袖を絞ると着心地が悪くなるって言う人もいるの。だから、締めつけすぎないように何度も調整して……」
「何度も?」
「三回ほど」
「三回で済んだのか?」
「何よ、その言い方!」
ソフィアが服を取り返そうとすると、ピーターはひょいと持ち上げた。
「いや、偉いと思って。お前、気に入らないところがあると、納得するまで作り直すだろ」
「当たり前でしょう。自分が納得していない商品でお金をいただくわけにいかないわ」
勢いよく言い返したものの、ソフィアはふと口をつぐんだ。
「……でも、こんなことばかりしていたら、いつまでたっても一着を仕上げられないのよね」
ピーターは服を丁寧に畳み、作業台に置いた。
「納期に間に合わないことがあるのか?」
「今のところは、何とか。でも、町で修業した人たちは、もっと早く、もっときれいに仕上げるんでしょうね」
ソフィアは窓の外に目を向けた。
「私、いつか町に自分の店を持ちたいの」
ピーターも知っている夢だった。
幼い頃から何度も聞かされてきた。それでも、彼女がその夢を語るたび、少しずつ具体的な話になっていることに気づいていた。
「村の人だけじゃなく、もっといろんな人に、私の服を着てもらいたいの。仕事をするときにも動きやすくて、きれいに見えて、長く着られる服を作りたい」
ソフィアは服の端を整えた。縫い目を確かめるように、指先でそっとなぞる。
「そのためには、もっと技術を学ばなきゃいけないし、生地の仕入れ先も必要だし、お金も貯めなきゃいけない。今の私には、足りないものばかりよ」
「そうか」
「……それだけ?」
「何て言えばいい?」
「頑張れとか、きっとできるとか」
「できるかどうかは、これからだろ」
ソフィアは目を丸くした。
「今のお前に足りないものがあるのは本当だ。でも、足りないものがあるからって、向いてないことにはならない」
「……」
「それに、お前は途中で投げ出さないだろ。だったら、今よりうまくなる余地はある」
飾り気のない言葉だった。
けれど、ソフィアにはそれで十分だった。
ピーターは、できもしないことをできるとは言わない。失敗を成功だと褒めたりもしない。ただ、失敗したからといって、彼女自身まで否定することはなかった。
幼い頃から、そういう人だった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「あと、さっきの服。試作品だから、あなたが着てみてよ」
「どうしてそうなる」
「着心地を確かめたいの!」
「俺はマネキンじゃないぞ」
「知ってるわよ。だから、着る側の意見が欲しいの」
ソフィアが服を差し出すと、ピーターは呆れた顔をした。
「……わかった。着ればいいんだろ」
「最初からそう言えばいいのよ」
ソフィアは満足そうに笑った。
ピーターはその笑顔を見てから、服を受け取った。
こうしていると、何も変わらない。
言いたいことを言い、遠慮なく頼み事をして、ピーターは文句を言いながらも応じてくれる。
いつまでも、この関係が続くような気がしてしまう。
だから彼女は、まだ知らなかった。
その当たり前が、いつか当たり前ではなくなるかもしれないことを。
◇
ソフィアが帰ったあと、ピーターは作業台に向き直った。
注文を受けた針の仕上げは、あと少しで終わる。
一本ずつ先端を確かめ、磨き残しがないか指先で確認する。集中している間は、余計なことを考えずに済んだ。
けれど、最後の一本を箱に収めても、ソフィアの笑顔が頭から離れなかった。
町に店を持ちたい。
そう語る彼女は、いつもまっすぐ前を見ている。
自分の腕で服を作り、いつか自分の名前を掲げた店を持つ。そのために何が必要なのかも、彼女はもう考え始めていた。
ピーターには、その夢を実現するための道筋を教えてやることができない。
工房の売り上げは、母と妹の暮らしを支えるには十分だ。だが、余裕があるわけではない。新しい設備を買うにも、仕入れを増やすにも、先の売り上げを考えなければならなかった。
ソフィアを応援したい。
それは本心だった。
彼女が夢を叶え、町で自分の店を持つ姿を想像すると、誇らしい気持ちにさえなる。
けれど、もし彼女が自分を選んだら。
もし結婚してほしいと言われたら。
彼女の夢を支えられるだろうか。
町で学ぶための費用を出してやれるか。店を持つための資金を用意できるか。彼女が修業に出ている間、家のことまで引き受けられるか。
考えるほど、自分にできることの少なさが目についた。
「……何を考えているんだ、俺は」
ピーターは箱の蓋を閉めた。
ソフィアに好きだとも言われていない。
それなのに、自分だけが勝手に彼女との未来を想像し、諦めようとしている。
彼女が自分を選ぶかどうかさえ、まだ分からないのに。
それでも、もし彼女がいつか自分以外の誰かを選ぶなら。
その相手が、彼女の夢を現実に近づけてくれる人だったら。
自分は笑って送り出せるだろうか。
答えは出なかった。
ピーターは、作業台の隅に置かれた試作品の服を見た。
ソフィアは、もっと先へ進もうとしている。
その夢を応援したい。彼女が望む未来を、手に入れてほしい。
なのに、その未来を思い描くたび、隣にいる自分の姿を消してしまう。
ピーターは服から目をそらし、再び針を手に取った。
仕事をしている間は、余計なことを考えずに済む。
そうやって彼は、今日も自分の気持ちから目をそらした。




