Eps.016 新居
時刻は9時58分。僕は小夜の家の前で立ち尽くしていた。
どうも、人の家に行くときは少し遅めに行くのがマナーらしい。
そんな事を言いつつ、この前小夜がだいぶ早めに来たことがあったから、そんなに気にしなくてもいいのかもしれないが。
ただ、女の子の場合は部屋の片付けだけでなく、メイク等の準備もあるだろう。
そう思ってしばらく待機していると、体感ちょうど2分くらいで目の前のドアが開いた。
「ありがと、来てくれて」
「こちらこそ、お招きありがとう」
「いやいや、遠路はるばる……」
相変わらずお茶目に冗談を呟く小夜の頭を軽く撫でつつ、僕は部屋にお邪魔する。
今日は大学が始まって2回目の土曜日だ。
1週間分の大学の疲労を感じるが、少しずつ慣れてきたのもあって、3日間だけの先週とさして変わらないほどの疲れに思える。
そして、今日は小夜がせっかくということでお家に招いてくれた。
片付けができたから、というのと、いつも僕な家ばかりお邪魔していて悪いから、らしい。
これから昼ご飯と夜ご飯を小夜のお家で頂くことになっている。
前から思っていたことではあったが、うちの母から料理を教わったことがあるということもあってか、小夜の味はすごく懐かしくて落ち着く。
だから、今日のご飯は楽しみで仕方なかった。
「じゃあ、どうぞー」
廊下を進んだところで、小夜はリビングにつながるドアを開ける。
部屋の形はほぼ僕の家と変わらなかった。
ただ、やっぱり部屋の雰囲気は女の子という感じで、加えて小夜らしさを感じる部屋になっている。
壁に目を向けると、リビングの隅にある掛け時計は可愛らしいくまの絵柄が描かれているし、全体的に木目調の家具で、優しく落ち着いた雰囲気だ。
小さな棚の上にはディヒューザーもある。
「これ、何の香りなの?」
「さあ、何でしょう」
小夜は相変わらずふわふわした雰囲気を纏いつつ、ふにゃりとした優しい笑みを浮かべている。
近寄ると石鹸のような、すごく落ち着く匂いがした。
「せっけん……?」
「そうそう!サボンだよ」
嬉しそうに近づいて来た小夜は、腕を僕の腕にピタリと寄せ、僕が手に持っていたディヒューザーの香りを嗅いだ。
「いい匂い、だよね」
「うんうん」
「ちょっと、大輝くんの匂いに、似てる。柔軟剤かな」
そういった彼女は幸せそうに鼻を僕の腕に寄せる。
そして今度は正面にくるりと回り込み、鼻を僕の胸あたりの位置に当てた。
「やっぱり、いい匂い」
鼻を当ててくる彼女の仕草はさすがに可愛らしくて、僕もだいぶ胸の鼓動が速くなるのを感じる。
それに気づいたのか、そうでないのか、ふと思いついたように小夜は耳を胸に当て、「心臓の音、するね」と呟いた。
このままではすごく良くないことをしている気がする。
「流石に、恥ずかしいから、ちょっと下がって」
どうしてもこの恥ずかしさに耐えきれなくなって、僕は小夜の頭を撫でながら伝えた。
しかし小夜は、「恥ずかしいの?」と不思議そうに首を傾げて耳を離さない。
「ほんとだ。ちょっと、速いね」
何故か小夜もちょっとだけ照れたように笑う。
しかし、その姿もまた少し心臓に悪そうだったので、僕はすぐに目を逸らした。
けれど、彼女にはそれがお気に召さなかったようだ。頭をぐりぐりと僕の胸に押し付けては上の服を引っ張って抗議してきた。
「そっち見ないの」
小夜に顎を持たれ、顔を無理やり下に向けさせられる。
「ん、ごめんよ」
「私の家、来たんだから、かまって」
ね?と言いたげな顔で小夜は僕を見つめた。
なんだか、いつも以上に甘えられてる気がする。
別に、嬉しいし、全然いいのだけど。
ただ、心臓に悪いことをするのだけはどうにかしてほしい。
そんな事を思っていると、小夜は手を開き、ぎゅーっと僕に抱きついた。
「あたま」
「頭……?」
「撫でるがよい」
今度はおでこで僕の胸を突いてくるので、彼女の言うことに素直に従って、優しく髪を撫でる。
依然としてさらさらとしており、非常に撫で心地がよい。
しかも、シャンプーのすごくいい香りがする。
よく考えると、この部屋の香りともすごく似ている気がした。
人の家に入る機会が滅多にないせいで、人の家の匂いというのはかなり新鮮だ。
小夜がいつも僕の部屋でそういう思いをしているのだとしたら、若干気恥ずかしい気はするけれど。
ある程度髪を撫でていると、彼女は満足したように腕を緩め、僕から一歩下がっては悪戯っ子のようにキラキラした目を浮かべた。
「ドキドキ、した……?」
鼓動を聞いてきたくせに、そんな事を聞くのはズルい気がする。
若干の照れを自覚しつつ、それをうまく隠せないままにコクリと頷いてみせる。
それに対して小夜は、悪戯が成功した子供のように相変わらず無邪気に笑って、何でもなかったように僕の腕を人差し指で小突いた。
「お昼ご飯、食べよっか」
「ん。食材はもうあるの?」
「あるよー。今日はね、大輝くんの好きな、チャーハン」
そう言って小夜は、まるで「当たってるでしょ?」とでも言いたげな目で僕の瞳を覗き込む。
それはまるで、ラムネのガラス玉を通して向こうの景色を見るかのような仕草で、僕の心の中が覗かれているような気分になった。
「よく知ってるね」
「でしょ。小さい頃、好きだって言ってたから」
どや顔をしてみせてはすぐに表情を緩め、いつものふわふわした笑顔を浮かべる。
その姿にほんの少し目を奪われていると、小夜は「じゃあ作ってくるね」と台所の方へと向かってしまった。
そして、ガサゴソと冷蔵庫の開ける音がしたかと思えば、リズミカルに包丁で何かを切る音が聞こえてくる。
チャーハンが好きな話、かなり昔のことだろうによく覚えているなぁ……。
そしてなんだか、小夜の気持ちがわかったような気がする。
これは確かに、同棲しているようで随分気恥ずかしい。
本当にこうやって彼女と暮らせたら、随分幸せなんだろうな……。
そんな事を思いながら、台所から聞こえる小気味いい音を背景に、僕はぼんやりと食事の完成を待つことにした。




