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勇者ではなく、測量士  作者: Chroe


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9/15

第八話 裸の真実に衣装を



昨日も一昨日も、セラは来なかった。

白い水差し亭の戸口の鈴が鳴るたびに、トオルは顔を上げた。

けれど、入ってくるのは旅人か、荷運びか、朝食を求める常連ばかりだった。

黒い外套は来ない。

トオルは皿を拭いた。

一枚目。二枚目。三枚目。四枚目で、手が止まる。

布巾の中で、白い皿がぎしりと鳴った。


「割りますよ」


棚の陰からユンが言った。


「割ってません」

「今の顔で拭くと、割ります」

「顔で皿は割れません」

「割れます」


ユンは静かに言い切った。

トオルは皿を見た。

確かに、指に力が入っている。

あと少しで縁が欠けそうだった。


「……すみません」

「僕に謝ることじゃないです」


ユンはそれだけ言って、帳簿へ目を戻した。


奥からノアが出てくる。

盆には水差しが三つ乗っている。

右手の動きはいつも通り速い。

けれど、視線だけがトオルの顔に引っかかった。


「トオルさん」

「はい」

「セラさんと喧嘩しました?」


トオルは皿を落としかけた。


「してません」

「しましたね」

「してません。たぶん」

「たぶん、はしましたね」


ノアは水差しを置きながら言った。


「謝りたいなら、謝りに行った方がいいです」

「……謝りたい、だけじゃ済まない気がします」

「それは」


ノアは一瞬だけ考えた。


「たぶん、ちゃんと謝る時の顔です」

「どんな顔ですか」

「自分が悪かったとわかっているのに、まだ自分が正しいとも思っている顔」


トオルは黙った。

皿の水滴が、布巾の中へ消えていく。

ノアは責めるでもなく、笑うでもなく、ただ水差しを持ち上げた。


「そういう時は、急いで謝ると、相手の場所まで奪ってしまいます」


それは、あの日から何度も胸の奥で引っかかっている言葉に似ていた。

相手の場所。

帰る場所。逃げ道。選べる場所。


トオルは小さく息を吐いた。


「……ありがとうございます」

「いえ。私もよくやりますから」

「ノアさんが?」

「先に整えすぎて、相手の余白をなくすことがあります」


ノアは少しだけ目を細めた。


「似ているので、わかります」


その言葉に、トオルは返事ができなかった。


戸口の鈴が鳴った。

今度こそ、と顔を上げる。

黒い外套ではなかった。


白い化粧もしていない。

鈴も持っていない。

ただ、どこか舞台裏の埃をまとったような男が、軽く片手を上げて立っていた。

ピエルだった。


「おや。振られた犬のような顔ですね」

「第一声がそれですか」

「では、二声目にしましょうか」

「もう遅いです」


ピエルは楽しそうに笑った。

王宮の道化師は、白い水差し亭の入り口にいると、不思議なくらい普通の人間に見えた。

でも、普通に見えること自体が、彼の衣装の一部なのかもしれない。


「セラさんからですか」

「いいえ」


ピエルは首を横に振った。


「セラ殿は、しばらく私の顔も見たくないでしょう」

「何かしたんですか」

「道化師はだいたい何かしています」


否定になっていなかった。


ピエルは店内を見回す。

ノアが彼に水を出すと、ピエルは大げさに頭を下げた。


「ありがとうございます。白い水差し亭の水は、王宮の酒より胃に優しい」

「酒で胃を壊すほど飲まないでください」

「それは酒に失礼です」

「身体に失礼です」

「もっともですね」


ピエルは素直に負けた。

そのやり取りを見て、トオルは少しだけ肩の力が抜けた。


「それで、俺に何か」

「ええ。先日のあなたは、たいへん見事でした」

「何が言いたいんですか」


ピエルは片手を胸に当て、少しだけ芝居がかった声を出した。


「異邦人が、誰にも見えない真実を見抜き、本人より先に本人の役を決め、周囲の空気を凍らせる」


トオルの肩が固まった。


「おや、私はまた、何かしてしまいましたか」

「そんな顔してましたか、俺」

「してましたね」

「最悪だ……」

「ええ、最悪です」


ピエルは水を一口飲んだ。


「その見事な一幕が、いま街に広がり始めています」

「街に?」

「はい。商人の口。警備隊の口。風下の街の口。王宮の口。そして、退屈な人々の口」

「退屈な人々?」

「人は、自分が傷ついていない時ほど、他人の傷を物語にしたがります」


ピエルの目が、少しだけ笑っていなかった。


「このままだと、あの子はかわいそうな子どもか、嘘つきの運び屋か、裏市の手先か、測量士に見つけられた証拠になります」


トオルの喉が詰まる。


「あの子は」

「ええ」


ピエルはうなずいた。


「もう、人の噂の舞台に上げられています」


トオルは立ち上がった。


「どこにいるんですか」

「座ってください」

「でも」

「今の顔で探すと、また皿が割れます」


ユンが小さくうなずいた。

味方がいなかった。

トオルは椅子に戻る。

ピエルはそれを待ってから、言った。


「つぎはぎ座に来てください」

「つぎはぎ座」

「小さな劇場です。王宮の劇場ほど立派ではありません。破れた幕と、欠けた椅子と、よく喋る役者がいます」

「つぎはぎ座にも、何か由来があるんですか」

「破れた布を捨てずに縫い合わせているので」


ピエルは笑った。


「詳しいですね」


トオルが言うと、ピエルは少しだけ目を細めた。


「昔、何度か迷い込みまして」

「劇場に?」

「人生に」


ピエルは水差しの杯を、指先で軽く回した。


「迷った者は、たまに劇場へ流れ着くのです。劇場では、破れた布も、欠けた椅子も、よく喋る役者も、すぐには捨てられませんから」

「ピエルさんも?」


聞いてから、踏み込みすぎたような気がした。

けれどピエルは、平然と答えた。


「私の場合は、捨てる側に回りかけるたび、何度か拾い直されました」


それだけ言って、彼は立ち上がった。


「今夜、こぼれ市の話を芝居にします」


トオルは息を止めた。


「それは」

「危険です」


ピエルは先に言った。


「だから、あなたを呼びに来ました」

「俺が行ったら、もっと危険になると思いますけど」

「その通りです」

「帰っていいですか」

「駄目です」


即答だった。


「あなたは、裸の真実で人を傷つけました。なら、衣装を着せる場所を見た方がいい」

「衣装?」

「ええ」


ピエルは立ち上がる。


「人の心は、裸で舞台に上げるものではありません」


その声だけは、舞台の上のものだった。


「衣装を着せるのです。いつでも自分で脱げるように」


トオルは何も言えなかった。


つぎはぎ座は、東門から少し離れた裏通りにあった。

看板は傾いている。

扉には何度も塗り直した跡がある。

中に入ると、古い木と埃と油の匂いがした。

客席は狭い。舞台も低い。

幕は名前の通り、いくつもの布を縫い合わせて作られている。

赤い布。青い布。

昔は白かったらしい布。

どこかの旗だったもの。

旅人の外套だったもの。

それらが縫い合わされて、一枚の幕になっていた。


「思ったより、劇場です」

「ひどい感想ですね」

「褒めています」

「もっとひどい」


ピエルは楽しそうに肩をすくめた。

舞台の上では、役者たちが言い争っていた。


「だから、井戸番はもっと嫌な奴にした方がいいんだよ!」

「嫌な奴にしたら客が笑えないだろ」

「笑えないくらいがちょうどいいんだよ!」

「それは説教だ!」

「説教を笑いにするのが芝居だろ!」

「笑いにする前に客が帰る!」


劇場の中は、王宮よりうるさかった。

でも、不思議と息苦しくない。

誰かが大声を出しても、すぐに別の誰かが拾う。

言葉が壁にぶつかって、粉々にならず、転がっていく。

ピエルが手を叩いた。


「皆さん、彼が噂の測量士ですよ」


一斉に視線が集まった。

トオルは反射的に一歩下がる。


「様はつけないんですね」

「マーヤに怒られますので」

「マーヤ?」


舞台袖から、年配の女性が出てきた。

灰色の髪を後ろで束ねている。

手には針と糸。

衣装の裾を縫いながら歩いている。


「ピエル。王宮の厄介ごとを持ち込む時は、先に酒を持ってきな」

「劇場で酒を飲むと声が潰れます」

「なら金だ」

「それで酒を買うんだから同じことでしょう」

「役に立たない道化だね」

「役に立たないのが仕事ですから」

「厄介な仕事だよ」

「その言葉は、勲章として受け取っておきます」


女性は鼻で笑った。


「あんたは昔から、厄介ごとを幕の裏へ持ち込むのがうまかったね」

「昔の話をすると、衣装の裾が縮みます」

「縮むのは裾じゃなくて、あんたの逃げ腰だろ」


ピエルは胸に手を当てて、深く傷ついた顔をしてみせた。


「座長、言葉が刃物です」

「さて、刃物の使い方を覚えたのは、どこの舞台だったかね」


彼女はピエルの足元の鈴をちらりと見た。


「その鈴だって、最初から王宮で鳴ってたわけじゃないだろう」


ピエルは一瞬だけ黙った。

ほんの一瞬だった。

すぐに、いつもの笑みが戻る。


「ええ。最初は、もっと下手に鳴っておりました」

「今もたいして変わらないよ」

「成長の余地がある、ということですね」

「都合よく聞くんじゃない」


女性はようやくトオルを見た。


「紹介が遅れたね。座長のマーヤだよ」

「トオルです」

「知ってる。こぼれ市で余計なことを言った異邦人だろ」


直球だった。

トオルは頭を下げた。


「……はい」

「謝る相手は私じゃない」

「はい」

「でも、ここで何か学ぶ気があるなら、邪魔にならない場所に座りな」


マーヤは舞台袖を顎で示した。


「舞台の上には立つな。まだ危ない」


まだ。

その一言が、少しだけ刺さった。

トオルは舞台袖の木箱に腰を下ろした。

ピエルが隣に座る。


「怒られましたね」

「怒られました」

「良い劇場です」

「そうなんですか」

「怒る人がいる場所は、まだ安全ですから」


マーヤが針を引きながら言った。


「ここは劇場だ。救貧院じゃないし、懺悔室でもない」


トオルは顔を上げる。


「ただ、こぼれ市の子どもらが日銭を稼ぎに来ることはある。幕を運ぶ。椅子を並べる。小道具を磨く。役者の忘れ物を家まで届ける」


役者の一人が小さく咳払いをした。

マーヤは無視した。


「うちは人手だけは間に合っているからね。雇ってるのは支配人の善意さ。そう言えば聞こえはいい」


針が、布を通る。


「でも、善意だからって、その子らの役までこっちが決めていいわけじゃない」


トオルは何も言えなかった。

ピエルは隣で、少しだけ静かにしていた。

舞台では、井戸番の芝居が始まった。

村に井戸がある。井戸番は、水を売っている。けれど、井戸の縄は短い。

短いから、背の低い者や怪我をした者は、自分で水を汲めない。


井戸番は言う。


「ほら、俺が汲んでやる」


そして銅貨を取る。雨が降らなくなる。縄はさらに短くなる。

井戸番はさらに銅貨を取る。村人たちは怒る。

けれど、井戸番を追い出すと、水を汲めない者が困る。

だから誰も追い出せない。

役者たちは大げさに転び、大げさに怒り、大げさに笑った。

客席にはまだ客はいない。

それでも、劇場の空気は少しずつ温まっていく。


トオルは黙って見ていた。

井戸番は、マグダスに見えた。

短い縄は、通行札に見えた。

水は、薬に見えた。

背の低い村人は、あの子に見えた。

でも、誰もマグダスとは言わない。

誰もこぼれ市とは言わない。

誰も薬袋の子どもとは言わない。

トオルは、耐えきれずに言った。


「これだと、伝わらないんじゃないですか」


舞台が止まった。

マーヤがゆっくりこちらを見る。


「何が」

「マグダスのことだって、わからない人もいると思います」

「わからない人もいるように作ってるんだよ」

「でも、わからなかったら変わらない」


自分で言いながら、また同じ場所に足を置いている気がした。

でも、止まれなかった。


「もっとはっきり言った方がいいと思います。井戸じゃなくて薬。縄じゃなくて通行札。井戸番じゃなくて、裏市の商人。子どもに荷を運ばせているって」


役者たちの顔から、少しずつ笑いが消える。

ピエルは何も言わない。

マーヤは針を布に刺したまま、静かに言った。


「じゃあ、やってみな」

「え」

「言うだけなら誰でもできる。芝居にしてみな」


トオルは立ち上がった。

ピエルが止めるかと思った。

止めなかった。

それが、少し怖かった。


舞台に上がると、客席が近かった。

まだ誰もいないのに、視線だけがある気がする。

トオルは役者たちに向き合った。


「ええと。薬を売る商人がいて、値段を吊り上げていて、その奥に子どもがいて」

「子ども役、誰がやる?」


若い役者が言った。

舞台袖から、小さな影が動いた。

トオルは息を止めた。

薬袋の子だった。

あのこぼれ市で見た子。

擦り切れた靴。細い腕。喉の奥で止まった言葉。

その子は、木箱を抱えていた。

道具係らしい。舞台の小道具を運んでいる。

目が合った。


子どもの顔から、血の気が引いた。

トオルは一歩下がる。


「君」


言いかけて、止まる。

ピエルが隣に立っていた。


「名前を聞く前に、役を決めないでください」


声は軽くなかった。

トオルは口を閉じた。

薬袋の子は、木箱を抱えたまま動かない。

マーヤが言った。


「今日は道具係だよ。その子は舞台に上がらない」


その子。

名前すら、まだ知らない。

それなのに、自分はもう、その子を“搾取されている子ども”として舞台に上げようとしていた。

トオルの背中に汗が滲む。


「……すみません」


誰に向けて言ったのか、自分でもわからなかった。

子どもは目を逸らした。


「いい」


小さな声だった。


「ここでは、違う役だから」


胸の奥に、言葉が刺さった。

違う役。

あの日、トオルが投げた言葉は、この子のすべてを一つの役にしてしまった。


搾取されている子。

助けるべき子。

証拠になる子。

かわいそうな子。


でも、ここでは違う。


木箱を運ぶ子。

幕を押さえる子。

衣装を畳む子。

舞台に上がらないと決めた子。

劇場へ日銭を稼ぎに来た子。


その場所を、トオルはまた奪おうとしていた。

青い板が、浮かびかける。

文字は、少しだけ震えていた。


-------------------------------------------------------------------------------------


補助技能:物語化


警告:

本人の許可なく、

心を舞台に上げないこと。


-------------------------------------------------------------------------------------


トオルは、舞台の上で立ち尽くした。

マーヤが言った。


「続けるかい」


続けられなかった。


「……降ります」

「賢い」


トオルは舞台を降りた。

薬袋の子は、木箱を抱えて奥へ行く。

追いかけたかった。でも、足は動かさなかった。


ピエルが隣で言う。


「今のは、少し良かったです」

「どこがですか」

「追いかけなかった」


それだけだった。

それだけなのに、喉の奥が痛くなる。

マーヤは役者たちに向き直った。


「井戸番に戻すよ」

「座長、でも」

「戻す」


その声は短い。

役者たちはすぐに動き始めた。

井戸番。短い縄。水を汲めない村人。

芝居は、また形を取り戻す。

トオルは木箱に座ったまま、今度は黙って見た。

井戸番は嫌な奴だった。

でも、ただの悪人ではなかった。

彼も昔、井戸に落ちかけたことがある。

その時、誰も縄を伸ばしてくれなかった。

だから彼は、自分だけが縄を持つようになった。

村人たちは笑った。


「縄を長くしろよ!」

「井戸番の腕が短いんじゃないか!」

「水より縄の方が高いぞ!」


笑いが起きる。

けれど、笑いの下に、別のものがあった。

井戸番が言う。


「俺がいなけりゃ、お前らは水も汲めないくせに」


その台詞で、劇場の空気が少し止まった。

トオルはマグダスの顔を思い出した。

俺がいなけりゃ、こいつらはどこへ行った。

まだ聞いていない言葉なのに、もう聞こえる気がした。


芝居の中で、村の子どもが前に出る。

役者の少女だった。

彼女は井戸の縄を見上げて言う。


「井戸番さんを追い出したいんじゃない」


井戸番が鼻で笑う。


「じゃあ、何がしたい」

「縄を、みんなで持ちたい」


客席の誰かが、小さく笑った。

たぶん役者の一人だ。

でも、その笑いは馬鹿にしたものではなかった。

井戸番は怒る。


「縄は俺のものだ!」


子どもは首を振る。


「井戸は、村のものだよ」


短い台詞だった。

けれど、トオルの中で何かが動いた。

井戸番を殺す話ではない。

井戸番を許す話でもない。

縄を、井戸番だけのものにしない話。

必要を、悪から剥がす話。


舞台の上で、村人たちは井戸番に飛びかからない。

まず、別の縄を持ってくる。

背の高い者だけではなく、背の低い者も握れる高さに結び直す。

怪我をした者のために、腰掛けを置く。

水を汲めない者が、誰に頼めばいいかを決める。


井戸番は叫ぶ。


「俺の仕事を奪う気か!」


村の老婆が言う。


「水を奪っていたのは、あんただよ」


そこで初めて、客席にいた役者たちが笑った。

笑ったのに、誰も軽くならなかった。


トオルは、息を吐いた。

物語は、隠しているのではない。

距離を作っている。

本人が、自分で近づける距離を。


稽古が終わる頃には、外が薄暗くなっていた。

つぎはぎ座には、いつの間にか数人の子どもが集まっていた。

近所の子もいれば、こぼれ市の方から来たらしい子もいる。

役者たちは、彼らを追い払わない。

マーヤが短く言う。


「一回だけ通すよ」


小さな客席に、小さな観客が座る。

トオルは舞台袖の奥に下がった。

薬袋の子も、少し離れた場所にいる。

木箱に腰掛け、膝を抱えていた。

名前は、まだ知らない。

知らないままでいいのかもしれない。

少なくとも、今は。

芝居が始まる。


井戸番が大げさに登場し、縄を抱えて威張る。

子どもたちは笑った。

背の低い村人が跳ねて水を汲もうとする場面で、もっと笑った。

けれど、井戸番が銅貨を取る場面で、笑いが少し減る。

井戸番が言う。


「俺がいなけりゃ、お前らは水も汲めないくせに」


子どもたちは黙った。

その沈黙が、舞台を支えた。

村の子どもが言う。


「縄を、みんなで持ちたい」


客席の一番後ろで、誰かが小さく息を吸った。

トオルは横を見た。

薬袋の子だった。

彼は膝を抱えたまま、舞台を見ていた。

井戸番が怒鳴る。


「縄は俺のものだ!」


村の子どもが答える。


「井戸は、村のものだよ」


薬袋の子の手が、膝の上で少しだけ動いた。

舞台が終わると、子どもたちは拍手した。

拍手はばらばらだった。でも、ちゃんと音になっていた。

マーヤが役者たちを下がらせる。

ピエルは舞台袖で鈴を持っていたが、鳴らさなかった。


「鳴らさないんですか」

「今日は、鳴らすと邪魔です」

「道化師なのに?」

「道化師だから、ですよ」


ピエルは鈴を袖にしまった。

薬袋の子が、ゆっくり立ち上がった。

トオルは動かなかった。

彼は舞台の上ではなく、幕の端に近づいた。

破れた青い布のところに触れる。


「あの台詞」


小さな声だった。

マーヤが振り返る。


「どれ」

「縄を、みんなで持ちたい、ってやつ」

「ああ」

「もう少し、短い方がいい」


劇場の空気が止まった。

トオルも、ピエルも、役者たちも、その子を見る。

子どもは慌てて下を向いた。


「すみません」

「謝らなくていい」


マーヤが言う。


「どう短くする」


子どもは、しばらく黙った。

それから、ぼそりと言った。


「縄、返して」


その場にいた誰も、すぐには笑わなかった。


マーヤは針を取り出し、手元の紙切れにその言葉を書いた。


「採用」


子どもは驚いた顔をする。


「いいの」

「いい台詞は拾う」

「誰の台詞になるの」

「それを決めるのは、あんたじゃないと駄目だね」


子どもは黙った。

その沈黙は、あの日の否定とは違っていた。

違う、僕は、届けてるだけで。

あの声は、自分を守るための声だった。

今の沈黙は、選ぶための沈黙に見えた。

トオルは、初めて少しだけ息ができた。


ピエルが小声で言う。


「見ましたか」

「何をですか」

「衣装は、心を隠すためだけのものではありません」


舞台の上で、マーヤが破れた布を縫い直している。


「誰かに近づくためのものでもある」


トオルは、幕の青い布を見た。

あの子は、搾取されている。

それは、たぶん間違いではない。

でも、その言葉を本人の前に置くには、まだ裸すぎた。


縄、返して。


その言葉なら、本人が触れる。

本人が離せる。

本人が選べる。


トオルは木箱から立ち上がった。

薬袋の子の方へ行きかける。

そして、止まった。

相手はまだこちらを見ていない。

謝りたい。

あの日のことを言いたい。

自分が間違えたと伝えたい。

でも、それはまた、自分の言葉を相手に受け取らせることかもしれない。


トオルは、少し離れた場所に立ったまま言った。


「先日、俺は、君の場所を奪いました」


子どもは顔を上げない。


「謝りたい。でも、今それを聞かせるのも、俺の都合かもしれない」


子どもの肩が、ほんの少し動く。


「ここでは、君は道具係です」


トオルは続けた。


「それを、覚えておきます」


子どもは何も答えなかった。

答えないまま、幕の端をつまむ。

そして、小さく言った。


「カイ」


トオルは瞬きをした。


「え」

「名前。カイ」


それだけ言って、カイは奥へ引っ込んだ。


トオルは追わなかった。

追わないことが、こんなに難しいとは思わなかった。

ピエルが隣に来る。


「進歩ですね」

「進歩なんですか」

「少なくとも、今のあなたは皿を割らなさそうです」

「基準が低い」

「大事な基準です」


マーヤが舞台から声をかけた。


「異邦人」

「はい」

「明日、広場でやる」

「広場?」

「ここで笑って終わりじゃ、ただの芝居だ。外でやって、人の口にのぼらせる」


ピエルがうなずく。


「劇場は、心を包む場所です。でも、包んだまましまっておく場所ではありません」

「広場に出すんですか」

「ええ」


ピエルは舞台の幕を見る。


「ただし、裸のままでは出さない」


トオルは、こぼれ市の方角を思い出した。

マグダス。薬袋。古い通行札。青札を真似た札。セラの割れた声。

そして、カイの言葉。


縄、返して。


「広場でやったら、マグダスに伝わります」

「伝わりますね」

「邪魔されるかもしれない」

「されるでしょうね」

「危ないです」

「危ないものを、危ないまま置くと爆発します」


ピエルは静かに言った。


「だから、舞台に置く。笑いに置く。問いに置く。記録に置く。広場に置く」


トオルはその順番を、頭の中でゆっくり並べた。

舞台。笑い。問い。記録。広場。

セラなら、何を見るだろう。

出口。人の流れ。誰が責任を持つか。終わった後、誰が帰れるか。

トオルは、そこまで考えて、胸が痛くなった。


「セラさんに」


言いかけて、止まる。

ピエルは何も言わない。

マーヤが幕を縫う音だけが聞こえる。

トオルは言い直した。


「セラさんがいないと、危ないです」

「はい」

「でも、呼びに行くのは、俺じゃない方がいい気がします」


ピエルは少しだけ目を細めた。


「なぜ」

「俺が行くと、謝罪を受け取れって顔になる」

「よくおわかりで」

「褒めてないですよね」

「少し褒めています」


ピエルは鈴を取り出した。

今度は、小さく鳴らす。

ちりん、と乾いた音が劇場に残った。


「では、私が笑われに行きましょう」

「またですか」

「仕事ですから」


マーヤが横から言う。


「あんたは笑われるのがうまいからね」

「才能です」

「本当に厄介な才能だよ」

「畏れ多くも、本日二度目の叙勲です」


ピエルは扉の方へ歩きかけ、ふと振り返った。


「トオルさん」

「はい」

「明日、あなたは舞台に立たなくていい」

「え」

「あなたは、見たものを全部言いたくなる。ですが、明日はあなたの言葉で場を動かす日ではありません」

「じゃあ、何をすればいいんですか」


ピエルは鈴を指先で押さえた。


「誰かの言葉が出る場所を守ってください」

「守る?」

「ええ。カイさんの台詞が、誰かに奪われそうになった時。芝居が、ただの噂に戻されそうになった時。笑いが、誰かを殴る道具になりそうな時」


ピエルは小さく笑った。


「その時だけ、そこに立ってください」

「それは、言わない役ですか」

「いいえ」


ピエルは首を振った。


「台詞を持たない役です」


その言葉に、役者たちが少しだけ笑った。

マーヤが針を引きながら言う。


「難しいよ、それは。舞台に立ちたがる奴ほど、台詞のない役ができない」

「俺のことですか」

「聞かないとわからないのかい」

「わかりました」


トオルも、ほんの少しだけ笑った。

笑えたことに、自分で驚いた。


夜が降り始めていた。

つぎはぎ座の中で、役者たちは明日のために幕を畳んでいる。

マーヤは針に糸を通し直し、カイは小道具の木箱を棚に戻した。

トオルは舞台の端に立ち、破れた幕を見る。

縫い目は不揃いだ。色も揃っていない。

ところどころ、布の厚さも違う。

けれど、幕は一枚になっている。


完璧ではない。

隠しきれてもいない。

それでも、舞台に立つ者の心を、少しだけ包む。

トオルは、自分の手を見る。

手の中には、まだ何もない。

札もない。記録もない。通す場所もない。

ただ、あの日固く握り締めていた誰にも渡せない告発は

いつの間にか、ひとつの台詞のそばに置かれていた。


縄、返して。


舞台の奥で、カイが小さな布を折っている。

青い布だった。

彼はそれを、薬袋ではなく、小道具箱の上に置いた。

幕の向こうで、誰かが針を引く音。

す、と細い糸が布を通る。


破れたところが、ほんの少しだけ近づいた。




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