幕間 もう、私を見ないで
人の奥が見える、と思っていた。
本当に見えるわけではない。
ただ、言葉の置き方や、笑うまでの間や、何でもないふりをするときの指先に、妙なズレが出る。
誰かが「大丈夫」と言う。
でも、その「大丈夫」が、薄い板みたいにたわんでいることがある。
誰かが「好きでやってるだけ」と笑う。
でも、その笑いの奥に、助けることをやめたら自分が要らなくなる、という怖さが混じることがある。
昔の俺は、それに気づくと黙っていられなかった。
言えば、相手は楽になるはずだと思っていた。
正しく言葉にできれば、人はそこから出られるはずだと思っていた。
少なくとも、黙っているよりはましだと信じていた。
ユイは、大学時代からの友人だった。
恋人ではない。
けれど、ただの友人と言うには、互いの生活に踏み込みすぎている。
夜中に電話することもあった。
何も言わずに隣でコーヒーを飲むこともあった。
誕生日を忘れた年でも、俺が限界に近い時には必ず連絡が来た。
ユイは、よく気づく人だった。
飲み会で、誰かが話に入れなくなっている。
教授の冗談に、後輩が少しだけ傷ついている。
サークルの予定調整で、ひとりだけ無理をしている。
そういう小さなズレを、彼女はすぐ拾う。
拾って、笑いに変える。
席を動かす。話題をずらす。帰る口実を作る。
誰も気づかないうちに、場の角を丸くしている。
その手つきには、見覚えがあった。
俺と似ている、と思った。
本人には言わなかった。
言ったら、たぶん何かが違う形になる気がした。
ユイは、自分が誰かの物語に入れられるのを嫌がる人だった。
前に一度、サークルの先輩が彼女を「みんなのお姉さんみたいな人」と呼んだことがある。
その場では笑っていた。
でも、帰り道で小さく言った。
「そういう役、便利なんだろうね」
「嫌だった?」
「嫌っていうか」
ユイは自販機の前で財布を出しながら、少しだけ首を傾げた。
「役にされると、降り方がわからなくなる」
その時の言葉を、俺は覚えていた。
覚えていたのに、たぶん、本当にはわかっていなかった。
周囲はユイを優しい人だと言った。
俺も、そう思っていた。
ただ、だんだん別のものが見えてくる。
ユイは、助けたくて助けているだけではない。
助けないと、そこにいられないと思っている。
役に立つことで、居場所を確かめている。
誰かに頼られるたびに少し安心して、その安心の分だけまた疲れていく。
それも、俺には見覚えがあった。
見えてしまう人間は、見えたものを放っておけない。
放っておけば、後で自分の内側に残る。
なぜ助けなかったのか。
なぜあの時、気づいていたのに黙っていたのか。
その問いに追いかけられるくらいなら、先に動いた方が楽になる。
ユイも、たぶんそういう人だった。
ある雨の夜、彼女から電話があった。
「ごめん、今ちょっとだけ話せる?」
声が明るすぎた。
駅前のカフェは混んでいて、窓の外では車のライトが濡れた道路に滲んでいる。
店内の照明は少し黄色い。
ユイはコートを脱がずに座っていた。
紙ナプキンをずっと折っている。
一度折って、開いて、また別の形に折る。
指先だけが忙しい。
「また相談乗っちゃってさ。私、ほんと何やってるんだろうね」
笑っている。
でも、その笑いは顔の上に乗っているだけに見えた。
「誰の相談?」
「ミカ。彼氏と別れるかどうかって話」
「前にも聞いてなかった?」
「うん。三回目」
ユイは笑う。
「でもさ、三回目ってことは、まだ誰かに聞いてほしいんだよ」
その言い方は、やさしい。
やさしすぎる。
「ユイは、聞いてほしかった?」
俺が聞くと、彼女の指が止まった。
「何を?」
「今日」
ユイは少しだけ黙る。
カップの中で、氷が小さく鳴った。
「別に。私は大丈夫」
その「大丈夫」は、薄かった。
薄いとわかってしまった。
俺は、その時、やめればよかった。
まず、眠れているかを聞けばよかった。
今日は帰るか、と言えばよかった。
今は話さなくていい、と逃げ道を出せばよかった。
あるいは、何も言わずに温かいものを頼めばよかった。
でも、俺は見えたものを言った。
「ユイは、本当はみんなを助けたいんじゃなくて、助けないと捨てられると思ってるんじゃないの」
ユイの指が止まる。
紙ナプキンの折り目だけが、妙にはっきり見えた。
「それ、優しさというより、自分を守るための役割になってると思う」
言葉が止まらない。
一度出した言葉は、形を選ぶ前に転がっていく。
「そのままだと壊れるよ。君がやめないと、周りもずっと甘える。助け役を降りた方がいい」
正しいことを言っているつもりだった。
少なくとも、間違ってはいないと思っていた。
ユイは俺と同じように見えてしまう人で、同じように苦しくなっている。
だから、同じ場所から出られるはずだと思った。
けれど、ユイの顔から血の気が引いていく。
彼女は笑おうとした。
笑えなかった。
「……すごいね」
その声は軽い。
軽すぎて、怖い。
「そんなふうに見てたんだ」
「違う。責めたいんじゃなくて」
「じゃあ何?」
ユイは紙ナプキンをぐしゃりと握る。
「私からそれを取ったら、何が残るの」
俺は答えられない。
「みんなのこと見てるみたいな顔して、本当は私を見てたんだ」
「違う」
「違わないよ」
声は大きくない。
だから余計に、逃げ場がない。
「助けたいんじゃないでしょ。私を分析したいだけでしょ」
「そんなつもりじゃ」
「つもりじゃないなら、何をしてもいいの?」
俺の言葉が止まる。
ユイの目は赤くなっていない。
泣いていない。
ただ、こちらを見ないようにしている。
「あなたの言葉は、優しいふりをした刃物だよ」
胸の奥が、冷たくなる。
刃物。
それは、俺が一番なりたくなかったものだった。
「ユイ」
「もういい」
「待って」
「待てない」
ユイは立ち上がる。
椅子の脚が床をこする。
周囲の客がちらりとこちらを見る。
その視線で、俺はようやく気づく。
俺は彼女を助けるつもりで、彼女の最後の役割を剥がそうとしている。
しかも、彼女がまだそれを手放せない場所で。
人目のある場所で。帰り道のない言葉で。
ユイは紙ナプキンをテーブルに置いた。
さっきまで何度も折られていたそれは、もう何の形にも見えない。
「トオル」
名前を呼ばれたのに、遠く感じた。
「もう、私のことを見ないで」
その言葉で、全部が止まった。
見ないで。
俺が一番使ってきたものを、彼女は拒んだ。
けれど、すぐに続けて、ユイはもう一つ言った。
「私を、あなたの答えにしないで」
その言葉の意味を、その時の俺は受け取れなかった。
ただ、胸の奥に刺さった。
答え。
俺は、ユイを答えにしていたのだろうか。
自分と似ている人。
自分より先に壊れそうな人。
自分が見つけた構造の証拠。
そういうものとして、彼女を見ていたのだろうか。
ユイはもうこちらを見なかった。
「あなたは、きっと悪い人じゃない」
それが一番苦しかった。
「でも、悪い人じゃないことと、人を傷つけないことは別だよ」
ユイは店を出ていった。
ドアベルが鳴る。
雨の音が、一瞬だけ近くなる。
それから、また遠くなる。
その後、何度か連絡をした。
最初の返信は短かった。
少し時間をください。
次は、もっと短かった。
ごめん。
その次は、来なかった。
共通の友人から、ユイが別の街へ引っ越したと聞いた。
俺からは、もう何も届かない。
謝る場所もない。
直す場所もない。
言い直す相手も、もういない。
正しかったかどうかは、今でもわからない。
たぶん、少しは当たっていた。
だからこそ、あれほど拒まれた。
でも、当たっていることと、届いていいことは違う。
見えることと、触れていいことも違う。
その日から、ユイの言葉は俺の中に残った。
もう、私のことを見ないで。
私を、あなたの答えにしないで。
前者は、自分に向けられた刃を止める言葉だった。
後者は、もっと深いところに残った。
俺は、誰かの痛みを見た時、それを自分の答えにしてしまうことがある。
自分が正しかった証拠。
自分が必要とされる理由。
自分の問いに形を与えてくれる相手。
そうしてしまった瞬間、その人はその人ではなくなる。
俺の中の問題を解くための材料になる。
それから俺は、言葉を出す前に止まるようになった。
今言っていいのか。
どこまでなら相手が持てるのか。
逃げ道はあるのか。
それを言った後、その人はどこへ帰れるのか。
考えるほど、何も言えなくなる。
それでも、見えてしまう。
大丈夫の薄さ。
怒りの下にある怖さ。
笑いの奥に隠した疲れ。
誰か一人に集まりすぎた重さ。
全部見える。
でも、もう刃物にしたくない。
ある雨の夜、駅前の横断歩道で、俺は濡れたアスファルトを見ていた。
水たまりに信号の赤が伸びている。
車のライトが揺れる。
傘の群れが、信号待ちでひとつの生き物みたいに止まっている。
見えたものを、どう置けばよかったのだろう。
その問いだけが、ずっと頭の中にある。
信号が青になる。
一歩踏み出した瞬間、足元の水たまりが、底のない穴のように見えた。
赤信号の名残が、水の中で細く揺れている。
その向こうに、知らない空が映った気がした。
空があるはずのない場所に、空があった。
落ちた、と思った。
でも、どこかで、逆だとも思った。
落ちたのではなく、近すぎて見えなくなった場所から、一度外へ出されたのだと。
もちろん、その時の俺に、そんな言葉はなかったが。
雨音が遠くなる。
道路も、車も、駅のざわめきも消える。
次に鼻を刺したのは、草の匂いだった。
目を開けると、知らない空が広がっている。
青すぎる空。
高すぎる雲。
耳のそばで、見たことのない虫が鳴いている。
女神も、説明も、祝福もない。
ただ、胸の奥に残っている声だけがある。
もう、私のことを見ないで。
私を、あなたの答えにしないで。
その声を抱えたまま、俺は異世界に落ちた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この幕間は、本編では第0話に相当する前日譚です。
トオルの原罪であり、最も深い傷の記憶。
ここから彼がこれらの痛みにどのように向き合っていくのか、見守っていただけると幸いです。




