第七話 こぼれた穴に手を伸ばすのは
白冠宮の夜会から三日後、王都の朝市で、薬草の値が上がった。
最初に気づいたのは、白い水差し亭のマリエだった。
「高いわねえ」
彼女は帳場の隅で、小さな紙片を見ながら言った。
仕入れの控えだ。
小麦。干し肉。油。薬草。
薬草の横にだけ、いつもより強い筆圧で丸がついている。
トオルは皿を拭く手を止めた。
「どれくらいですか」
「倍まではいかないけど、近いわね。喉の薬と傷洗い用が特に」
「風邪でも流行ってるんですか」
「さあ。街道の橋の件で、東から来る荷が遅れているって話は聞いたけど」
橋。
その言葉に、トオルは少しだけ反応した。
王宮でピエルが語った、働き者の橋。
レティシアが問いとして拾った橋。
街の灯で十日間の記録を取ることになった橋。
橋の話は、橋だけでは終わらない。
そう思った瞬間、戸口の鈴が鳴った。
「セラさんですかね」
トオルが振り向くと、入ってきたのはセラではなかった。
明るい栗色の髪をひとつに結んだ、若い警備官だった。
まだ鎧が新しい。
背筋はまっすぐだが、緊張が肩に出ている。
彼女は店内を見回し、トオルを見つけると、ぱっと顔を明るくした。
「トールさん、ですよね」
「そうですけど」
「王都警備隊のイリス・ノルテです。セラ副官の補佐をしています」
「セラさんの」
「はい!」
声が大きい。
客の何人かがこちらを見た。
イリスは慌てて口を押さえる。
「すみません。声、出ました」
「出てましたね、元気なやつが」
「それが取り柄なので」
「俺も最近は、個性だと思うようにしています」
「何をですか」
「人から変、と言われることです」
イリスは一瞬考え、真面目な顔で言った。
「変なのは、悪いことではないと思います」
トオルは少し返事に困った。
真っ直ぐすぎる言葉は、時々、どこに置けばいいかわからない。
「それで、セラさんは?」
「東門です。街の灯の報告を受けて、荷の流れを見ています。私は、トールさんを呼んでくるようにと言われました」
「また現場ですか」
「現場というか」
イリスは少し声を落とした。
「こぼれ市です」
その言葉に、店の奥でノアが一瞬だけ顔を上げた。
ブラムは厨房から出てこない。
けれど、包丁の音が止まった。
「こぼれ市?」
トオルが聞くと、イリスは少し困った顔をした。
「正式な市場ではありません。東門の下、古い排水路の近くに、品物が流れてくる場所があって」
「流れてくる」
「正規の市に出せないものとか、税の印がないものとか、身分証を持たない旅人の荷とか」
ノアが低く言った。
「行くなら、気をつけてください」
トオルは振り返る。
「知ってるんですか」
「宿には、いろんな人が来ますから」
ノアは手元の布を畳み直した。
「こぼれ市で助かる人もいます。でも、あそこにしか行けない人ほど、足元を見られる」
それは、市場というより穴の話に聞こえた。
落ちたものが集まる穴の底。
そして、そこに手を伸ばす者がいる。
イリスは少しだけ眉を寄せる。
「でも、困っている人を助けている人もいるんです。こぼれ市の商人も、悪い人ばかりじゃないと聞きました」
ノアは責めなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑った。
「そうだと思います」
その言い方が、かえって重かった。
トオルは皿を置いた。
「行きます」
「助かります!」
イリスはまた声を大きくしかけ、今度は自分で口を押さえた。
「すみません」
「今のは少し小さかったです」
「成長しました」
「早いですね」
店を出る直前、ユンが棚の陰から顔を出した。
「トオルさん」
「はい」
「全部、見ようとしないでくださいね」
トオルは足を止めた。
ユンはすぐに目を逸らす。
「なんとなく、です」
「……わかりました」
返事をしたものの、どこまでわかったのかは、自分でもわからなかった。
東門へ向かう道は、いつもより混んでいた。
荷車が詰まり、商人たちが苛立っている。
街の灯の組合員が、橋板の記録を照合しているらしい。
門の横には、赤、黄、青の札が吊られていた。
トオルはその三枚の札を見た。
自分が置いたと思っていたものは、何もない場所から作ったものではなかった。
もともと街の灯にあった入口を、別の流れへ借りただけだ。
色は、ただの色ではない。
どこに吊るされ、誰が読み、どこへ流すかで意味が変わる。
東門の脇道で、セラが待っていた。
いつもの黒い外套。
いつもの静かな顔。
ただ、視線はいつもより忙しい。
門。荷車。警備兵。物乞いの子ども。薬草袋を抱えた老女。東側の古い排水路へ降りる階段。
セラは、場を見る前からもう出口を見ている。
「来たか」
「はい。こぼれ市って」
「見るだけだ」
セラは先に釘を刺した。
「何か見えても、すぐ言うな。すぐ止めるな。すぐ正そうとするな」
「それ、もう俺が何かやる前提じゃないですか」
「前科がある」
「否定しにくいです」
イリスが横から言う。
「あの、でも困っている人がいたら」
「助ける」
セラはすぐに答えた。
「ただし、助け方を間違えるな」
イリスは少しだけ嬉しそうな顔をした。
その顔を見て、セラの目がわずかに曇る。
「イリス」
「はい」
「人の話を信じるな、と言っているのではない」
「はい」
「信じるなら、先に逃げ道を確保しろ」
イリスは一瞬、意味を掴めない顔をした。
「逃げ道、ですか」
「話した後で、その人が戻れる場所だ」
セラは排水路へ続く階段を見る。
「それがない場で本当のことを言わせるな」
トオルは、その言葉を聞きながら、ユイの声を思い出した。
あなたの言葉は、優しいふりをした刃物だよ。
胸の奥に、冷たいものが触れる。
「トール」
セラが言う。
「今の顔のまま降りるな」
「はい」
石段は湿っていた。
王都の下を流れる古い排水路は、今では半分だけ使われているらしい。
残りの半分は、倉庫と通路と、正式ではない市場になっていた。
こぼれ市。
名前の通り、そこにはいろいろなものがこぼれていた。
欠けた鍋。税印のない布。割れた瓶を詰め替えた香油。どこから来たかわからない薬草。
古い通行札。消えかかった家紋の入った短剣。
人も、こぼれていた。
旅の商人。身分札のない労働者。風下の街の者。怪我を隠した荷運び。顔を伏せた女。
そして、親を亡くした子どもたち。
正規の市場より暗い。
でも、暗いからこそ、息ができる人がいる。
壁際では、身分札のない男が、穴の空いた外套を銅貨三枚で売っていた。
その銅貨で、彼は硬いパンを二つ買った。
一つを自分の袋に入れ、もう一つを隣に座る年老いた女へ渡す。
別の露店では、風下の街の老婆が、形の悪い苦草を束にして並べていた。
正規の市では香りが強すぎると嫌がられるものだ。
ここでは、黒札に結ぶ草としても、腹痛止めとしても買い手がつく。
壊れた鍋の底を、薄い鉄板でふさいでいる男もいた。
直せばまだ使える。
使えれば、今日の煮込みは作れる。
助けられている。
奪われている。
その二つが、同じ場所で起きている。
通路の柱には、赤や黄や青の札に似たものがいくつか吊られていた。
街の灯の札ではない。
色も形も似ているが、端の刻みが違う。
ここでは依頼ではなく、荷の扱いや商いの流れを示す符丁らしい。
同じ色でも、通る場所が違えば、意味も少し変わる。
イリスが小さく言った。
「思っていたより、普通ですね」
セラは答えない。
普通。
一見すると穏当に見えるものが、一番怖い。
悪は、もっとわかりやすい顔をしていると思っていた。
でも、ここにあるものは、値札と薬袋と古い札と、疲れた声だった。
「傷洗い、三束で銅貨八枚!」
「東門印なしはこっちだ!」
「通行札の写しなら奥へ行きな!」
「薬院の印がない? なら倍だ。嫌なら正門で待ちな」
最後の声に、トオルの足が止まった。
小さな女の子を連れた女性が、薬袋を握りしめている。
女の子の腕には布が巻かれ、少し血が滲んでいた。
「倍って、昨日は」
「昨日は昨日。今日は橋のせいで荷が止まってる」
「この子が」
「知らんよ。薬院の印を持ってこい」
「身分札がないから、薬院には」
「なら、こぼれ市に来るしかないだろ」
商人は悪びれない。
トオルの中で、何かが熱くなる。
目の前に痛みがある。理由も見える。仕組みも少し見える。
なのに、誰も止めない。
「セラさん」
「まだだ」
「でも」
「まだだ」
セラの声は低い。
トオルは商人を見る。
薬袋。値段。女の子の腕。女性の震える手。
青い板が浮かびかける。
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【補助技能:】
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文字は続かない。
かわりに、別の声がした。
「ここを潰すのか」
振り返ると、壁際に男が立っていた。
黒い外套ではない。灰色の長衣。裾が少し汚れている。
髪は整えられておらず、目の下には薄い隈がある。
片手に革表紙の帳簿。もう片方の手には、かじりかけの硬い果物。
彼は果物を噛み、口の中のものを飲み込んでから言った。
「潰すなら、明日薬を買えなくなる者の名簿を先に作れ」
トオルは眉をひそめた。
「あなたは」
「王立監査院、監査官クロード・ヴァレル」
男は面倒くさそうに名乗った。
「長い肩書きは嫌いだ。クロードでいい」
セラの目が細くなる。
「なぜここにいる」
「仕事だ。東街道の荷の遅れ、薬草の値上がり、通行札の写し、橋の補修費。偶然にしては仲が良すぎる」
クロードは帳簿の端を指で弾いた。
「偶然も三度続けば帳簿になる」
トオルは少し眉をひそめた。
「以前、マティアスさんも似たようなことを言っていました」
クロードの顔が、露骨に歪んだ。
「やめろ」
「何がですか」
「あの男と同じ箱に入れるな。私には下らない笑い話で茶を冷ます趣味はない」
「でも、言っていることは似ています」
「似ていない。執政官は、場がどう誤魔化すのかを見る。監査官は、誤魔化したあと何が残ったかを見る」
イリスが姿勢を正す。
「監査院の方でしたか。失礼しました」
「畏まる必要はない。私はだいたい失礼な場所にいる」
クロードの視線がトオルに移る。
「君が測量士か」
「そう呼ばれています」
「ふうん」
彼はトオルを上から下まで見る。
人を見る目ではない。荷札を見る目に近い。
「痛みを見る男だと聞いた」
「誰から」
「王宮は、必要な情報と不要な情報が同じ速度で届くんだろう?」
レティシアの言葉だった。
トオルは嫌な顔をした。
クロードは少し笑う。
「君は痛みを見る。私は、その痛みに値段をつけた奴を見る」
トオルは商人の方を見る。
「なら、あれも見えているんでしょう」
「見えている」
「止めないんですか」
「止めるだけなら簡単だ」
クロードは果物の芯を近くの木箱に置いた。
「今あの薬袋を取り上げる。商人を縛る。帳簿を押さえる。いい気分だな」
「いい気分の話じゃありません」
「そうだ。明日、同じ薬袋は別の穴で三倍になる。女はそこへ行く。子どもは待つ。君の正義は、値段を上げる」
トオルは言葉に詰まった。
クロードは続ける。
「必要悪という言葉は嫌いだ」
意外だった。
彼のような皮肉屋は、その言葉を好んで使うと思っていた。
「悪が必要なんじゃない。必要を人質に取った悪が居座っているだけだ」
クロードは薬を売る商人を見る。
「水が必要な場所に井戸がなければ、泥水を売る奴が出る。薬が必要な場所に正規の入口がなければ、薬袋に税印ではなく値札を貼る奴が出る。必要は、放っておくと誰かの帳面に囲われる」
帳面。
その言葉に、トオルは反応する。
クロードは気づいているのかいないのか、淡々と続けた。
「監査院は、誰がかわいそうかを最初に決める場所じゃない。何がどこからこぼれ、どの手を通り、最後に誰の帳面へ残ったかを見る場所だ」
「それで、人が助かるんですか」
「すぐには助からん」
クロードは即答した。
「だから嫌われる」
「開き直るんですね」
「事実だからな」
彼は薬袋の並んだ棚を見る。
「問題は、居座っている悪を追い出した後に、必要をどこに置くかだ。置き場所のない正義は、結果的に穴を一つ増やす」
セラが低く言う。
「やり口こそ陰湿極まりないが、この男の理屈には筋が通っている」
「そこの副官さまのほうが、よっぽど現場をわかっていそうだな」
「褒めていない」
「知っている」
この二人は、仲が悪そうだった。
ただ、同じ方向の別のものを見ている。
セラは場の爆発を見ている。
クロードは爆発した後の金の流れを見ている。
トオルは、女の子の腕を見ている。
どれが一番大事なのか。
そんな問いを立てた瞬間、たぶん間違える。
「セラ副官」
イリスが声を出した。
彼女は薬を買えずに立ち尽くす女性の方を見ている。
「せめて、あの子だけでも」
「行くな」
「でも」
「イリス」
セラの声が少し鋭くなる。
イリスは止まった。
その時、女性の隣にいた小さな女の子が、ふらりと膝をついた。
イリスが反射的に動いた。
セラより先に、トオルより先に。
「大丈夫ですか!」
彼女は女の子の側へ駆け寄り、膝をつく。
女性が怯えた顔でイリスを見た。
「警備隊」
「大丈夫です。逮捕しに来たわけじゃありません。困っている人を助けに来ました」
その言葉は、優しかった。
たぶん、イリスの本心だった。
でも、周囲の空気が変わった。
逮捕しに来たわけじゃない。
その一言が、こぼれ市の奥へ流れていく。
商人が、誰かに目配せした。
通行札を売っていた男が、箱に布をかける。
奥の暗がりで、人の動きが増える。
市場が、身を守ろうとしている。
誰かが一人で命じたわけではない。
でも、一つひとつの手が、通路を狭くしていく。
セラの顔から、温度が消えた。
「イリス、戻れ」
「でも、この子が」
「戻れ」
イリスはそこで初めて、自分が何かを間違えたことに気づいた。
しかし、遅かった。
奥から、一人の男が出てきた。
年齢は四十前後。
派手ではないが、仕立ての良い上着を着ている。
金の指輪はひとつだけ。
髪はきちんと撫でつけられていて、靴だけが、排水路の泥で汚れていた。
その男が出てくると、逃げようとしていた露店主が手を止めた。
薬草を抱えた老婆が、少しだけ肩の力を抜いた。
通行札の箱に布をかけていた男は、男の目を見るまで動かなかった。
頼られている。
そう見えた。
だから、なおさら嫌だった。
「セラじゃないか」
男は古い知人にでも会ったように言った。
セラの肩が、ほんの少し固まる。
トオルはそれを見逃さなかった。
「マグダス」
セラの声は低い。
マグダスと呼ばれた男は、柔らかく笑っている。
「久しぶりだな。今度は何を閉じに来た」
閉じに来た。
その言葉が、少しだけ空気を重くした。
クロードが帳簿を開く。
「マグダス・ベイム。こぼれ市のまとめ役。税印のない薬草、通行札の写し、東門倉庫の横流し。どれも噂だが、噂にしては息が長い」
「監査院までいるのか。にぎやかなことだ」
マグダスは楽しそうに両手を広げた。
「だが、逮捕しに来たわけじゃないんだろう? そこのお嬢さんがそう言った」
イリスの顔が青くなる。
セラは何も言わない。
何も言わないことが、逆に怖かった。
「なら、商いの邪魔はしないでくれ。ここは王都のこぼれを拾う場所だ。正門を通れる立派な方々には、必要ない場所だろうがな」
マグダスは女の子の腕を見る。
「薬なら売る。値は上がる。橋が止まれば荷が止まる。荷が止まれば値が上がる。子どもでもわかる」
トオルの中の熱が、また強くなる。
「足元を見ているだけでしょう」
言ってから、セラの視線が刺さった。
今言うな。
でも、もう遅い。
マグダスの目がトオルへ向く。
「測量士様か」
声は笑っているのに、響きだけが蛇のように絡みつく。
「見えるんだろう? なら見てくれ。この市場で薬を買った者、この市場で逃げ札を手に入れた者、この市場で税の印がない布を売って明日の飯を買った者。全部、悪か」
「全部とは言っていません」
「では、どれを残してどれを潰す?」
トオルは言葉に詰まる。
マグダスは笑う。
「ほら。見えるだけでは、商いはできん」
クロードが低く言った。
「マグダス。お前は商いをしているんじゃない。穴の縁に机を置いているだけだ」
マグダスの笑みは崩れない。
「穴に落ちた者へ手を伸ばすための机なら、悪くないだろう」
「手を伸ばすだけならな」
クロードは帳簿の紙面を指で叩いた。
「だが、お前は落ちた者の不安を覚える。必要を覚える。次に何が足りなくなるかを覚える。そして、穴そのものは埋めない」
「監査院はいつから詩人教室になったんだ?」
「帳簿は詩より長生きする。だから嫌いなんだ」
クロードは面倒そうに吐き捨てる。
「こういう穴は、人が代わっても残る。店主が死んでも、札が残る。札が消えても、符丁が残る。符丁が消えても、必要だけがまた誰かに囲われる」
その言葉は、マグダスに向けられている。
けれど、トオルの方にも届いていた。
その時、奥の暗がりから、小さな声がした。
「マグダスさん」
出てきたのは、少年とも少女ともつかない細い子どもだった。
肩から薬袋を下げている。
年はユンより少し下に見える。
トオルの視界が、一瞬だけ歪む。
薬袋。細い腕。擦り切れた靴。
喉の奥で止まっている言葉。
逃げたい。
でも、逃げれば薬が届かない。
薬が届かなければ、誰かが困る。
困った誰かの顔を、自分はもう見てしまっている。
その重さが、細い肩に乗っている。
薬袋の紐には、古い青札が結ばれていた。
街の灯のものではない。端の刻みが違う。
こぼれ市の似せ札だ。
トオルは息を呑んだ。
「君は」
セラが低く言う。
「トール」
止める声だった。
けれど、トオルはもう、その子を見ていた。
「君は、搾取されている」
その場が静かになった。
言ってしまった。
トオルは、自分の声がどこまで届いたかを理解する前に、周囲の変化を見た。
マグダスの笑みが消える。
薬を売っていた商人が目を逸らす。
通行札を扱っていた男の手が、箱の蓋にかかる。
子どもが一歩下がる。
そして、イリスが息を止めた。
「違う」
子どもは小さく言った。
「違う、僕は、届けてるだけで」
その否定は、誰に向けられたものだったのか。
マグダスか。
トオルか。
自分自身か。
わからない。
でも、トオルは、もう踏み込んでいた。
「無理に言わなくていい。でも」
「トール!」
セラの声が鋭く落ちる。
その瞬間、マグダスの部下らしき男たちが動いた。
露店の布が下ろされる。
通路の木箱が押し出される。
割れた瓶を詰めた箱が、足元で傾く。
人の流れが変わる。
逃げ道が、消えていく。
子どもは、さらに一歩下がった。
背中が木箱に当たる。
足元の瓶が割れる。
細い腕が、とっさに壁を探す。
次の瞬間、鈍い音がした。
割れた瓶の縁か、木枠から出ていた錆びた金具か。
トオルには、見えなかった。
ただ、子どもの前腕が斜めに裂けた。
血が、思ったより速く出た。
赤い線が布の袖を越えて広がり、指先へ落ちる。
その場にいた何人かが、同時に息を呑んだ。
イリスが先に動いた。
「押さえます!」
彼女は腰の布を抜き、子どもの腕へ伸ばす。
子どもはびくっと肩を震わせた。
「触らないで」
「でも、血が」
「触らないで!」
その声は、さっきより大きかった。
イリスの手が止まる。
マグダスが低く言った。
「縫える者を呼べ」
奥から女が一人走ってくる。
針箱を持っていた。
慣れた手つきだった。
慣れていることが、怖かった。
クロードが短く言う。
「あの傷は、深いな」
あの傷とは、どの傷のことだろうか。
トオルの中で、熱が白くなる。
やっぱり助けなければ。やっぱり止めなければ。今ここで動かなければ。
そう思った。
その瞬間、自分の視界が狭くなっていることに、トオルは気づかなかった。
血。子どもの腕。マグダス。薬袋。イリスの震える手。
それ以外が、消えていく。
「医者を」
「呼ぶな」
セラが言った。
「なぜですか!」
イリスの声が割れる。
「ここで詰所の医者を呼べば、この子の名が紙に載る」
「紙に載れば、この子はここに戻れなくなる」
「でも、傷が」
「だから、今は奥の縫い手に渡す」
「そんな」
「イリス!」
セラの声が、場を切った。
イリスは震えながら布を握っている。
薬袋の子どもは、血のついた腕を抱えたまま、トオルを見た。
「違う」
小さく、もう一度言った。
「僕は、転んだだけだ」
トオルは何も言えなかった。
「誰のせいでもない」
子どもは血の気の引いた顔で笑おうとした。
笑えなかった。
「だから、見ないで」
あの声が、胸の奥で重なった。
もう、私のことを見ないで。
トオルの足が、動こうとした。
セラが彼の腕を掴む。
「下がるぞ」
「でも、あの子が」
「今は下がる」
「あの子は利用されている!」
「わかっている!」
セラが怒鳴った。
怒鳴った。
トオルは初めて、セラの声が割れるのを聞いた。
それだけで、足が止まる。
マグダスが静かに笑った。
「昔もそうだったな、セラ。お前はわかっていた。だから閉じた」
セラの手が、剣の柄に触れる。
だが、抜かない。
抜けば終わる。
ここで剣を抜けば、こぼれ市は暴力の場になる。
「黙れ」
「正しい処分だった。そうだろう? 東の抜け道を閉じた。税の流れも、薬の流れも、逃げ人の流れも、まとめてな」
イリスがセラを見る。
トオルも見る。
セラはマグダスだけを見ている。
「その後、薬が届かなかった家がいくつあった?」
「黙れ」
「名前を覚えているか」
セラの指が白くなる。
「黙れと言った」
場が、ぎりぎりのところで止まっている。
セラは剣を抜かない。
マグダスも命じない。
クロードは帳簿を閉じずに見ている。
イリスは、自分の言葉が何を開けてしまったのか、まだ理解しきれていない。
トオルだけが、動きたくてたまらなかった。
今、何か言わなければ。
今、あの子を助けなければ。
今、マグダスを止めなければ。
今。今。今。
「青です」
小さな声がした。
薬袋の子どもだった。
彼は、血のついていない方の手で、薬袋の紐に結ばれていた古い青札を握っていた。
端の刻みが違う。こぼれ市で使われている、似せた札だ。
「荷を戻します」
子どもは言った。
「あとで、帳面に」
街の灯の青とは、少し違う意味。
けれど、どこか似ていた。
形式は別の場所へ流れ、意味を変える。
助けになるのか、隠れ蓑になるのか、この場ではまだわからない。
セラは短く判断した。
「退く」
トオルは動けなかった。
セラが彼の腕を掴む。
「退け」
「でも」
「退け!」
その声に、トオルの体が動いた。
イリスを連れ、トオルを引きずるようにして、セラはこぼれ市を出た。
背後で、布が下りる音がした。
商人の声が戻る。
薬の値段を告げる声が、何事もなかったように流れ始める。
石段を上がり、東門の脇道に出たところで、セラはようやく手を離した。
イリスは真っ青な顔で言った。
「私が、言ったから」
セラは答えない。
「逮捕しに来たわけじゃないって、私が」
「イリス」
セラの声は静かだった。
「お前は、詰所へ戻れ」
「でも」
「戻れ」
イリスは唇を噛む。
それでも、命令には逆らわなかった。
深く頭を下げ、走っていく。
その背中は、さっきまでより少し小さく見えた。
トオルは、セラを見る。
「今のでよかったんですか」
セラは振り返らない。
「よくはない」
「あの子、怪我しました」
「見えていた」
「なら」
「だから退いた」
トオルの胸の奥で、何かが切れた。
「見逃したんじゃないですか」
セラの背中が止まる。
クロードが、階段の下から上がってきていた。
彼は何も言わず、少し離れた場所に立つ。
トオルは止まれなかった。
「あそこで言わなきゃ、誰も見ないままです。あの子が搾取されていることも、薬の値が吊り上げられていることも、みんな見えているのに」
「今言えば、あの子は帰る場所を失った」
「でも、黙っていたら変わらない」
「変えるには順番がある」
「その順番を待っている間に、誰かが苦しんでいる」
「待てと言っているのではない」
「じゃあ何ですか」
セラが、ゆっくり振り返った。
その顔を見て、トオルは少しだけ息を止める。
いつものセラではなかった。
冷静な副官の顔ではない。
場を預かる人の顔でもない。
どこか遠いものを押し殺しているような、そんな顔だった。
「昔、私は正しい処分をした」
セラは言った。
「東の抜け道を閉じた。規則どおりに。上官には褒められた。税の流れも戻った。犯罪者も捕まった」
風が、東門の方から吹いてくる。
「その翌朝、薬が届かなかった家が三つあった」
トオルは何も言えなかった。
「私は、名前を覚えている」
セラの声は震えていない。
震えていないことが、かえって怖い。
「だから、出口のない正義を信用しない」
「でも」
「お前は今、あの子を助けたかったんじゃない」
トオルの胸が刺されたように痛む。
セラは続けた。
「お前が、見えてしまったものに耐えられなかったんだ」
それは、正しかった。
正しすぎて、トオルはすぐに否定できなかった。
「それの何が悪いんですか」
声が、自分でも驚くほど硬かった。
「見えてしまったなら、耐えられないなら、動くしかないじゃないですか。今痛い人がいるのに、順番とか、出口とか、帳簿とか、そんなことを言っている間に」
「その言葉で、ユイという女に何をした」
時間が止まった。
トオルは、セラを見た。
「なぜ」
「お前は寝言で何度か名前を呼んだ」
セラは目を逸らさない。
「私は知らない。何があったかも、聞かない。だが、お前の顔は同じだ」
同じ。
あの雨の日の喫茶店。
見えたものを、見えたまま渡した自分。
相手の逃げ道を作らず、ただ正しさを置いた自分。
もう、私のことを見ないで。
トオルは息を吸った。うまく入らなかった。
「セラさんは」
それでも言葉が出た。
「結局、処分されない形にしているだけじゃないですか」
言った瞬間、間違えたと思った。
でも、言葉は戻らない。
セラの表情は変わらなかった。
ただ、ほんの少しだけ、目の奥の光が消えた。
「そう見えるなら」
彼女は言った。
「一度、私なしで見てこい」
「セラさん」
「お前は、私が止めていたものをまだ知らない」
セラはトオルの横を通り過ぎた。
トオルは追おうとして、足が動かなかった。
クロードが、乾いた声で言う。
「行かないのか」
トオルは答えない。
「今なら謝れるぞ」
「あなたには関係ない」
「ある」
クロードは帳簿を小脇に抱えた。
「君が次に何を壊すかで、私の仕事が増える」
トオルは睨む。
クロードはまったく怯まない。
「痛みを見た。悪を見た。過去を刺した。場を壊した。子どもに傷を負わせた。初日としては上々だな」
「馬鹿にしてるんですか」
「している」
即答だった。
トオルは言葉を失う。
クロードは東門の混雑を見る。
「だが、少しだけ安心もした」
「何に」
「君の測量は、ちゃんと危険だ」
トオルは拳を握る。
「危険なものは、扱い方を決められる。安全なふりをしたものより、ずっとましだ」
クロードは続けた。
「監査院が見たいのは、君が善人か悪人かじゃない。何が、どこからこぼれ、誰の手で値段に変わり、誰の帳簿に残るかだ」
「それが何になるんですか」
「次に同じ穴を使う奴を見つける手がかりになる」
クロードはこぼれ市の方を見た。
「記録は、すぐに人を救わない。だから嫌われる。だが、記録がなければ、穴はいつも初めて開いたような顔をする」
トオルは黙った。
こぼれ市の方から、薬草の匂いが流れてくる。
湿った石と、古い油と、安い煙草の匂いに混ざっている。
セラの姿は、もう人混みに消えていた。
手の中には何もない。
札も、記録も、通す場所も。
ただ、誰にも渡せない告発だけが残っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ここからの展開は、見えているものをそのまま突きつけるのではなく、相手が持てる形に置き直すことを扱っています。
トオルたちの手つきが、少しでも心の中に残れば嬉しいです。




