第六話 王女の笑えない冗談
「これは服ですか」
トオルは、鏡の前でしばらく黙ったあと、真顔で言った。
「これは服ですか。それとも拘束具ですか」
「礼装だ」
セラは短く答えた。
「礼装って、だいたい拘束具なんですね」
「王宮では、動きやすい服の方が危ない」
「なぜですか」
「余計なことをする者が増える」
「俺、もう服で疑われてません?」
「安心しろ。服がなくても疑われている」
安心できる要素が一つもなかった。
白冠宮の控え室は、白い。
壁も柱も、床に敷かれた石も、淡い白を基調にしている。
ただ、その白は新しい白ではなかった。
何度も磨かれ、何度も傷を隠し、何度も人の手で保たれてきた白だった。
窓の外では、王宮の庭が静かに整えられている。
静かすぎる。
白い水差し亭の朝の騒がしさや、街の灯の雑多な声や、風下の街の苦草の匂いを知ってしまうと、この静けさは少し怖い。
「白冠宮って」
トオルは襟元を直しながら言った。
「冠が白いんですか」
「初代王が、血のついた冠を白い布で包んだのが由来だと言われている」
「血のついた冠」
「戦が終わったあと、勝った者の冠をそのまま戴けば、勝利の王になる。白い布で包めば、弔いの王になる」
「……街の灯とはまた、違った重みですね」
「王宮の名前が軽かったら、国家という政体は保てない」
セラは窓ではなく、扉の方を見ていた。
廊下の足音。外の警備の位置。控え室に入ってくる可能性のある者。
逃げる必要がある時に、どこから出るか。
王宮に入ってから、セラはずっと扉を見ている。
トオルは、自分の襟元より、セラの視線の方が気になった。
「今日、俺は何をすればいいんですか」
「まだ何もしなくていい」
「一番難しいやつですね」
「わかっているならいい」
セラは卓上の紙を一枚取った。
「レティシア王女が、昨夜の小夜会でこう言った」
彼女は紙を見ずに暗唱した。
「東街道の橋も、王宮前に移せば修理していただけるのではありませんか」
トオルは一瞬、意味を取り損ねた。
「……冗談ですか」
「冗談として言った」
「全く笑えない」
「その通りだ」
セラは紙を卓上に戻した。
「東街道の橋は、街の灯から何度も黄札が出ている。橋の通行自体は止まっていない。だが、荷の分割や時刻変更が続いている。崩れれば薬草荷も止まる。旅人も止まる。王宮にも報告は上がっている。だが、修理は王宮前の門飾りより後に回された」
「それを王女様が皮肉った」
「そうだ」
「正しいように聞こえます」
「確かに、正しい」
セラはすぐに言った。
「だが、王宮では正しいだけでは足りない。誰が、どこで、誰の前で、誰を刺す形で言ったかが問われる」
聞き覚えのある言葉だった。
場によっては、それで人が処分される。
セラは続けた。
「財務卿の前で言えば、予算批判になる。門の修繕を担当した者の前で言えば、職務怠慢の告発になる。王の前で言えば、王の判断への異議になる。笑った者がいれば、その者も派閥に数えられる」
「冗談なのに」
「王宮では、冗談であればあるほど危ない」
トオルは白い壁を見た。
冗談が、冗談で済まない場所。
笑うことすら、立場になる場所。
「レティシア様は、いつもそういう冗談を?」
「最初からではない」
セラは少しだけ声を落とした。
「以前は、もっとまっすぐ言っていた」
控え室の白い壁に、セラの声だけが残る。
「半年前、東街道で薬草荷が三日遅れた。大きな事故ではない。だが、北の療養院で熱冷ましが足りなくなった。死者は出なかったが、子どもが二人、危うかった」
「それで」
「レティシア様は、王の前で言った。東街道の橋と荷車道の修繕を、王宮前の門飾りより先にするべきだと」
セラは、そこまでを報告のように言った。
けれど次の言葉だけ、少しだけ苦くなった。
「王は、否定しなかった」
「いいことでは?」
「否定しなかった。だが、政治の話としては受け取らなかった」
セラの視線が、扉から少しだけ外れる。
「王は言ったそうだ。お前は、民をよく思う優しい子だ、と」
トオルは黙った。
優しい子。
その言葉は、褒め言葉の形をしている。
けれど、それで話が終わるなら、橋は残らない。
「レティシア様の言葉は、橋の修繕要求ではなく、王女の慈悲にされた」
「王様は、悪意で言ったんですか」
「おそらく違う」
「だから、余計に難しい」
「そうだ」
セラは短く答えた。
「その場に、王都警備隊長もいた。グレン隊長だ」
「セラさんの上司ですか」
「そうだ」
セラの声に、少しだけ違う硬さが混じる。
「王の間を出たあと、レティシア様は廊下で隊長に声をかけた。あなたも、橋を後回しにしてよいと思うのか、と」
「隊長は、何と」
「正しい、と言った」
トオルは顔を上げた。
「言ったんですか」
「言った。ただし、そのままでは兵が動けない、とも言った」
セラは続ける。
「王女の言葉で橋を動かせば、兵は王命と王女の言葉の間に立つ。財務を通さず動けば越権になる。財務を責めれば、次の修繕はさらに遠くなる。門を敵にすれば、門を直す者たちの誇りまで敵に回る」
「正しいのに」
「正しいからこそ、置き方を間違えると、味方まで切る」
トオルは、白い水差し亭のノアを思い出した。
街の灯のミロを思い出した。
正しさが、混ざったまま出ていく時の危うさ。
「それで、レティシア様は冗談を言うように?」
「おそらくな」
セラは紙を折り直した。
「正面から言えば、王女の不満になる。文書にすれば、誰かが握りつぶす。兵に言えば、兵を板挟みにする。なら、誰も正式に受け取らなくて済む形で、耳に残す」
「冗談」
「そうだ」
「でも、それも刃になる」
「だから、今日呼ばれた」
「俺が?」
「お前が何を見るかを、レティシア様は見たいらしい」
「試験みたいですね」
「王宮はだいたい試験だ」
「不合格だと?」
「何も起きない」
「本当ですか」
「何も起きない顔で、何かが起きる」
帰りたい。
トオルはかなり本気でそう思った。
その時、控え室の隅に掛けられていた古い板が目に入った。
白い壁に、黒い文字。
古い法文らしい。
セラの視線がそれに気づく。
「読むな」
「もう読んでます」
「遅かったか」
文字は少し古いが、読めた。
異邦より来たりし者、王の庇護なくして民を導くべからず。
トオルは黙った。
言葉が、妙に体の奥へ沈んだ。
「これは」
「古い戦時法だ」
セラは低く言った。
「外から来た魔術師、預言者、漂流者。そうした者を地方領主が囲い込み、民を動かした時代があった。王権への対抗にも、戦の道具にもなった」
「だから、王の庇護なくして民を導くな」
「そうだ」
「俺も、そこに入りますか」
セラはすぐには答えなかった。
扉を見る。窓を見る。そして、トオルを見る。
「まだ、誰も決めていない」
その答えは、安心ではなかった。
「王宮は」
セラは言った。
「決める場所だ」
その瞬間、青い板が浮かびかけた。
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【対象分類:異邦人】
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文字はそこまで出て、揺らいだ。
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【警告:分類未確定】
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次の文字は続かなかった。
青い板は、白い壁に溶けるように消えた。
トオルの胸の奥に、名前のない重さだけが残った。
扉が叩かれた。
セラが一歩前に出る。
「入れ」
侍女が頭を下げる。
「レティシア殿下がお待ちです」
レティシア王女は、庭に面した小部屋にいた。
年はトオルより少し下に見える。
淡い金の髪を結い、薄い青のドレスを着ている。
手には扇。姿勢は美しい。
けれど、その美しさの奥に、じっと刃を隠しているような目があった。
「あなたが、測量士?」
「トオルです」
言ってから、少し迷う。
「こちらでは、トールと呼ばれています」
「どちらが本当?」
レティシアはすぐに聞いた。
トオルは答えに詰まった。
セラが横で軽く眉を動かした。
「どちらも、今のところ本当です」
トオルはそう答えた。
レティシアは少しだけ笑った。
「便利な答えね」
「便利というより、まだ整理できていません」
「正直なのね」
「嘘をつくほど王宮に慣れていません」
「それは危ないわ」
レティシアは扇を開いた。
「王宮では、嘘をつけない人間より、嘘をつかないと決めている人間の方が疑われるの」
「難しい場所ですね」
彼女は庭の方を見た。
「ここには必要な情報と不要な情報が同じ速度で届く。だから皆、必要なことにだけ黙る」
トオルは、その言葉を受け止めた。
昨日までなら、すぐに頷いていたかもしれない。
見えています、と言いたくなったかもしれない。
でも、ここは王宮だ。
セラが横にいる。
トオルは一度、言葉を飲み込んだ。
「橋のことを、言いたかったんですか」
「言ったわ」
「届きましたか」
レティシアは扇を閉じた。
「誰も笑わなかった」
「黙ったんですね」
「そう」
「黙ったのは、通ったとは少し違う気がします」
レティシアの目が細くなる。
「どう違うの」
「止まったんだと思います」
「止まった」
「橋の話として流れずに、誰を責めた言葉なのかに引っかかった」
トオルは慎重に言葉を選ぶ。
「レティシア様の冗談は、橋の話としては本当だと思います。でも、王宮の場では、橋より先に、誰が刺されたかが見えてしまう」
「なら、笑いにするしかないでしょう」
レティシアの声が少し鋭くなった。
「真正面から言えば、王女の不満になる。文書にすれば、誰かが握りつぶす。兵に言えば、兵が板挟みになる。黙っていれば、橋は落ちる。なら、笑いにするしかないでしょう」
トオルは何か言おうとした。
青い板が浮かびかける。
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【補助技能:宮廷発話整理】
【分類候補:皮肉/直訴/告発/余興】
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次の瞬間、板は薄くなった。
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【警告:場の形式が不足しています】
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消えた。
トオルは喉の奥に残った言葉を飲み込む。
「俺の札では、たぶん足りません」
「札?」
「こちらの話です」
「妖術や呪術の類ではないの?」
「いいえ。使うにはこちらも相応の代償を支払わなくてはなりません」
レティシアはそこで、初めて少し興味を持った顔をした。
「異邦人なのに、自分の力を疑うのね」
「疑うというより、使う前に一度止まるようにしています」
「なかなかの珍種よ、あなた」
「珍しいんですか」
「たいていの異邦人は、記録の中では、すぐに賢者か災厄になる」
その言葉は軽くなかった。
トオルは古い法文を思い出した。
異邦より来たりし者。
民を導くべからず。
その時、部屋の隅から軽い音がした。
ちりん。
トオルが振り返ると、白い柱の陰に男が立っていた。
宮廷道化師、ピエル。
白粉を塗った顔。鮮やかな衣装。足元の鈴。
いつからいたのか、まるでわからなかった。
「殿下。異邦人をあまり苛めると、また一つ物語が始まってしまいます」
レティシアは眉を上げた。
「あなた、最初からいたの?」
「愚者は、いるべき時にはおりませんし、いないはずの時にはおります」
「つまり?」
「怒られない程度には、いました」
レティシアは呆れた顔をした。
ピエルはトオルの方へ向き直る。
「異邦人が王宮に呼ばれ、王女の困りごとに出会い、誰も言えない真実を見抜く」
彼は鈴を指先で転がした。
「たいへん立派な一幕目です」
「……一幕目?」
「ええ。次は、異邦人が勇ましく真実を告げ、王宮中が感心する。大臣は改心し、橋は直り、王女は微笑む」
「そんなに都合よくいきませんよ」
「それがわかっているなら、あなたはまだ舞台から落ちずに済みます」
トオルは言葉を失った。
ピエルの言い方は冗談めいている。
けれど、冗談だけではなかった。
「舞台から落ちる、ですか」
「ええ。王宮は、人を舞台に上げたがります」
ピエルは柱にもたれ、軽く首を傾けた。
「王宮は、真実を欲しがっているようで、実のところ役を欲しがります」
「役?」
「王女。大臣。忠臣。愚者。裏切り者。異邦人」
ピエルはそこで、わざとらしくトオルを見た。
「明快な役ほど、着心地がよい。着心地がよい役ほど、脱ぐのが難しい」
「俺も、そういう役に入りますか」
「入れる者がいれば、入れようとします」
ピエルは笑った。
「舞台は、空いた役に人を押し込みますから」
セラがわずかに目を細めた。
レティシアは扇を閉じる。
「それで、愚者は何をしに来たの」
「もちろん、愚かな話をしに」
ピエルは恭しく頭を下げた。
「殿下の橋の冗談は、まさしく伝家の宝刀です」
「伝家?」
「ええ。よく磨かれ、よく切れ、そして滅多に抜いてはいけない」
ピエルは扇の代わりに、鈴をそっと掲げた。
「抜けば皆、刃を見ます。橋は見ません」
レティシアは黙った。
「では、道化が言えば?」
トオルが聞いた。
ピエルは鈴を鳴らさず、指先で押さえた。
「私が言えば、愚者の鈴になります」
「鈴」
「鈴は、人を斬りません。ただ、振り返らせる」
彼は少しだけ歩く。
靴の先についた鈴が鳴りそうで、鳴らない。
「王宮には、古い遊びがあります。愚者の戯言」
レティシアが静かに息を吐いた。
「今では、ただの余興よ」
「はい。実益の伴う遊びほど、飾りにされますから」
ピエルは笑った。
「けれど、もともとは違います」
彼はトオルの方へ向いた。
「王宮では、道化が愚者として語る間だけ、その言葉は侮辱ではなく、愚か者の取り違えとして扱われる。相手を名指ししない。罪を問わない。ただ、愚かな話として場に置く」
「それで、真実を言うんですか」
「真実そのものを置くと、重すぎて床が抜けます」
ピエルは軽く肩をすくめた。
「だから、少し似た形の愚かな話を置くのです」
セラが言う。
「使いすぎれば塞がれる」
「ええ」
ピエルは嬉しそうにうなずいた。
「抜け道というものは、みだりに使いすぎると塞がれます」
レティシアは窓の外を見た。
「つまり、私は言い方を間違えた」
「間違えた、というより」
ピエルは少し考えた。
「殿下の言葉は、王女として強すぎた」
「弱くしろと言うの」
「いいえ。弱くする必要はありません」
ピエルは、今度はトオルの方を見た。
「ただ、強い言葉には、先に鳴らす鈴が要ることがあります」
トオルはその言葉を受け取った。
レティシアの言葉は弱くしなくていい。
ただ、誰が先に鳴らすか。
それで届き方が変わる。
トオルはまだ言わなかった。
言う場所ではない気がした。
ピエルは鈴を一度だけ鳴らした。
ちりん。
「今宵の夜会で、愚者の戯言を一つ置きましょう」
「橋の話を?」
「直接には申しません」
「何の話にするの」
レティシアが問う。
ピエルは胸を張り、扇も持っていないのに、あるような仕草で口元を隠した。
「たいへん身だしなみに厳しい門と、たいへん働きすぎた橋の話です」
夜会は、白冠宮の大広間で開かれた。
壁には白い布が垂れ、燭台には柔らかな火が灯っている。
楽師たちは静かに弦を鳴らし、貴族たちは声を低くして笑っている。
トオルは、部屋の端で立っていた。
動きにくい礼装は、やはり拘束具に近い。
けれど、動きにくいおかげで、余計なことをしにくい。
それだけは少し助かった。
セラは隣にいる。
目だけが動いていた。
レティシア王女は、広間の中央より少し外れた位置にいる。
扇を閉じ、誰とも深く話し込まない。
王は、上座にいた。
遠かった。
遠いのに、そこにいるだけで広間の重心が決まる。
王の隣では、財務卿ヘンリックが静かに立っていた。
飾りの少ない礼服を着ている。
だが、袖口の留め具ひとつまで、無駄なく整っていた。
彼の視線は、話している人間ではなく、話がどの帳面へ落ちるかを先に見ているように見えた。
その少し後ろに、彼の補佐をする官吏たちが控えている。
別の柱のそばには、王都警備隊長グレンがいた。
鎧は着ていない。
けれど、礼服の上からでも、隊列を崩さない人だとわかる。
立っているだけで、そこが通路になるような人だった。
セラの視線が、一瞬だけグレンに向く。
グレンは、わずかに頷いた。
それだけだった。
命令でも、合図でもない。
けれど、セラの肩が少しだけ下がった。
「隊長さんですか」
トオルが小声で聞く。
「そうだ」
「セラさんみたいですね」
「違う」
セラは短く言った。
「私は、現場で人が詰まる場所を見る。出口、距離、剣を抜く位置、子どもが巻き込まれる場所。人が動けなくなる前に、通れる幅を作る」
「隊長さんは?」
「兵が、どこに立たされるかを見る」
セラの声は低かった。
「王の命令なのか。王女の願いなのか。財務の責任なのか。現場の判断なのか。そこが曖昧なまま兵を動かせば、兵が責任の隙間に立つことになる」
「責任の隙間」
「一番危ない場所だ」
セラはもう一度、グレンを見た。
「隊長は、兵をそこに立たせない」
マティアスは夜会の途中で現れた。
いつものように、紙束を持っている。
「遅くなった」
「わざとですか」
セラが聞く。
「もちろん」
マティアスは悪びれなかった。
「早く来ると、私が場を作ったことになる。遅れて紙を出す方が、紙の存在が自然になる」
「自然って何でしたっけ」
トオルが小さく言うと、マティアスは楽しそうに笑った。
「王宮では、不自然なものも三人が見逃せば自然になる」
「怖い」
「覚えておけ」
覚えたくなかった。
やがて、広間の隅で鈴が鳴った。
ちりん。
会話が少しだけ弱まる。
ピエルが中央へ出る。
白粉の顔。鮮やかな衣装。足元の鈴。
彼は深く頭を下げた。
「今宵は、愚者の戯言をひとつ」
何人かが笑った。
古い余興が始まると思ったのだろう。
ピエルは急に胸を張った。
顎を上げ、両肩を広げ、目に見えない飾り紐を左右に整える。
「昔々、たいへん身だしなみに厳しい門がありました」
軽い口調だった。
「朝は金具を磨き、昼は白石の照りを確かめ、夜は番兵に尋ねました。『今日の私は、月より白かったか』」
ピエルは番兵の真似をして、背筋をぴんと伸ばした。
「番兵は毎晩、こう答えました。『もちろんです。月は本日、雲で欠席しております』」
広間に笑いが起きた。
ピエルは満足げに頷く。
「門は言いました。『よろしい。では明日は、雲にも勝とう』」
笑いが少し大きくなる。
門の修繕に関わる者たちも、まだ顔を固くしてはいない。
ピエルは今度は腰を曲げ、両腕を横に広げた。
「同じ町のはずれには、たいへん働き者の橋がありました」
声色が少し変わる。
「その橋は毎日、人を渡しました。商人を渡し、薬草を渡し、旅人を渡し、逃げた鶏を三羽渡し、恋文を二通渡し、なぜか片方だけの靴も渡しました」
また笑いが起きる。
「橋は思いました。『私は橋なのか、落とし物係なのか』」
ピエルは片足を上げ、靴を探すように床を見る。
「そしてある朝、橋の板が一枚、こう言いました。『そろそろ自分の将来について考えたい』」
貴族の一人が吹き出した。
ピエルはその笑いを拾うように、板の真似をして横たわりかけ、寸前で姿勢を戻す。
「橋は慌てました。『考えるな。お前が考え始めると、通る者が落ちる』」
笑いが続く。
「そこで橋は役人にお願いしました。『すみません。板が哲学を始めました。早めに直していただけませんか』」
ピエルは今度、役人の真似をした。
眉を寄せ、手元の見えない書類をめくる。
「役人は言いました。『それはたいへんだ。だが今、門の飾り紐が左右で三寸違う。王都の顔が、少し首を傾げて見える』」
また笑い。けれど、笑いは少しだけ細くなる。
ピエルはにこやかなまま続けた。
「門は美しい。とても美しい。白く、まっすぐ、誰もが見上げる。橋は古い。少し曲がり、少し鳴り、誰もが踏んでいく」
広間の空気が、ほんの少し変わる。
「ある日、橋の向こうで薬草を待つ子どもが咳をしました」
笑いが止まった。
ピエルの声は、まだ軽い。
けれど、鈴は鳴らなかった。
「橋は門に言いました。『あなたは美しい。けれど、私は今日も薬草を渡します。私が落ちたら、その美しい門へ、薬草は届きませんよ』」
沈黙。
ピエルは少し首を傾げた。
「そこで愚かな者は考えました。美しい門と働き者の橋、どちらが大事なのか」
ピエルは、鈴を一度鳴らした。
「けれど、もっと愚かな者は、こう考えました。どちらを放っておくと、誰が困るのか」
沈黙。
その沈黙を、レティシアが拾った。
「財務卿ヘンリック」
扇は閉じたままだった。
声は高すぎず、低すぎない。
「王宮前の門と東街道の橋。どちらを先に直すべきかではなく、どちらを放置すれば何が失われるかを、改めて聞かせていただけますか」
広間が、完全に止まった。
財務卿ヘンリックは、すぐには答えなかった。
レティシアは誰も名指しで責めていない。
ピエルの話も、橋と門の話だった。
マティアスは静かに紙束を差し出す。
「街の灯より、東街道の黄札記録です。従来の依頼札と斥候報告の暫定運用分を合わせ、直近十日で三件、薬草荷に関わる遅延が出ています」
ヘンリックは紙を受け取った。
紙の角をそろえ、最初の一枚だけをめくる。
「……確認しよう」
短い言葉だった。
でも、紙は受け取られた。
その時、官吏の列から一人の男が半歩前に出た。
施政局長官ハインだった。
派手さはない。
王宮の礼装を着ていても、どこか道幅や石の厚みを先に見ているような人だった。
「北門三番橋も、石の割れが進んでおります。東斜面の荷車道と合わせ、優先順位の再整理が必要かと」
橋の話が、橋の話として残った。
王は黙っていた。
その沈黙は、先ほどの沈黙とは違った。
誰かを刺された沈黙ではない。
紙を受け取らせるための沈黙だった。
グレン隊長が、ほんの少しだけ視線を動かす。
東街道。北門。薬草荷。橋。
そのどれもが、兵の仕事だけでは動かない。
けれど、兵が見ている場所でもあった。
レティシアは、ヘンリックではなく、王の方へ一礼した。
「王宮の門を軽んじるつもりはございません。ただ、門へ至る道が痩せております」
王は、短く答えた。
「聞いた」
それだけだった。
けれど、王が聞いたと言えば、それは場に残る。
トオルはそれを見ていた。
ピエルが先に鳴らした。
レティシアが拾った。
マティアスが紙を出した。
ヘンリックがそれを受け取った。
ハインが実務へ繋いだ。
グレンが部下を責任の隙間に立たせない位置を見ていた。
そしてセラが出口を見ていた。
一人の言葉ではなかった。
だから、残った。
夜会が終わる頃、レティシアは白い廊下に出ていた。
トオルとセラ、ピエルもそこにいる。
少し離れたところに、グレン隊長が立っていた。
遠くで使用人たちが灯りを落としている。
「私は」
レティシアは扇を見下ろした。
「道化の真似すら下手だったのね」
「殿下が道化になる必要はありません」
ピエルが言った。
「王女には、王女の鳴らし方があります」
「私の言葉は強すぎる」
「強いのは罪ではありません。強い言葉を、強いまま置ける場が少ないだけです」
レティシアは、少し離れたグレンを見た。
「隊長」
「はい」
「私は、また兵を板挟みにした?」
グレンはすぐには答えなかった。
セラと同じように、場を見る。
誰が聞いているか。どこまで言えるか。
そして、短く言った。
「今日は、板挟みにはしておりません」
レティシアの指が、扇を強く握った。
「本当に?」
「はい。殿下は命じておられません。責めてもおられません。問いを置かれました」
「問い」
「兵は問いだけでは動けません。ですが、問いが置かれれば、動くべき者が紙を見ることがあります」
それは称賛や恭順ではない。けれど、否定でもなかった。
レティシアは小さく息を吐いた。
「前に、あなたは言ったわね。私の言葉は、兵を王命と王女の言葉の間に立たせると」
「申し上げました」
「今も、そう思っている?」
「殿下が一人で橋の修繕を命じれば、そうなります」
グレンは迷わず言った。
「ですが、今日は違います。愚者が鳴らし、殿下が問い、執政官が記録を出し、財務卿が受け取り、施政局長官が実務に接続しました。それは兵を望まぬ場に立たせる言葉ではありません」
レティシアは黙った。
それから、トオルを見る。
「測量士は、どう見たの」
トオルは一度、セラを見た。
セラは何も言わない。
言っていい、という意味ではない。
自分で置け、という意味に見えた。
トオルはゆっくり言った。
「王女様の言葉は、弱くしなくていいと思います」
レティシアの目が動く。
「ただ、誰が先に鳴らすかで、届き方が変わる」
ピエルがかすかに笑った。
「一人では駄目なのね」
「一人だと、その人の言葉になります」
トオルは言った。
「でも、何人かで置けば、そこは場になる」
レティシアは少し黙った。
それから、庭の方を見た。
「門を悪者にしないで」
トオルは目を瞬いた。
「門も必要なの。王宮前の門は、王都の顔だから。そこを整える仕事にも、誇りを持っている人たちがいる」
「はい」
「橋を直すために、門を馬鹿にしたいわけじゃない」
「はい」
「それを、今日は言えた気がする」
彼女は扇を閉じたまま、胸の前で持った。
ピエルは深く頭を下げる。
「殿下の鈴は、よく鳴りました」
「私は鈴じゃないわ」
「では、扇ということで」
「もっとまともに褒めなさい」
「王宮でまともに褒めると、だいたい誰かの敵になります」
レティシアは、少しだけ笑った。
その笑いは、夜会で聞いたどの笑いよりも自然だった。
レティシアが去ったあと、トオルはピエルに聞いた。
「ピエルさんは、最初からこうなると思ってたんですか」
「まさか」
ピエルは即答した。
「愚者に未来は読めません」
「知っているのではなく、型を見ています」
「型?」
「人は、困ると役に逃げます。王女は王女に。大臣は大臣に。異邦人は異邦人に。道化は道化に」
ピエルは鈴を指先でつまんだ。
「役は、人を守ります。けれど、役に飲まれると、自分の声がわからなくなる」
「だから、愚者がいるんですか」
「愚者は、役の縫い目を少しだけほどく係です」
彼は笑った。
「ほどきすぎると処刑されますが」
「笑えないです」
「知ってるでしょう。王宮の冗談は、たいてい笑えません」
ピエルは白い廊下の奥を見る。
そこにはもう、人影は少ない。
「異邦人殿」
「はい」
「今日、あなたはよく黙りました」
「それは喜んでいいんでしょうか」
「王宮では、余計な真実を言わないことも芸です」
ピエルは鈴を鳴らさなかった。
「ただ黙っているだけなら置物ですが、あなたは、少しだけ場を見ていた」
「少しだけですか」
「多くを見た者ほど、少しだけと言うのが礼儀です」
トオルはその言葉を、すぐには理解できなかった。
でも、胸のどこかに残った。
夜会の灯りが、一つずつ落とされていく。
レティシアの扇は、閉じられたままだった。
トオルとセラが廊下の角を曲がると、背後で小さく鈴が鳴った。
振り返ると、ピエルが一人、白い柱にもたれていた。
顔の白粉は落ちていない。
笑みも、まだ残っている。
けれど、その笑みを見ている者は、もう誰もいなかった。
ピエルは鈴を指先でつまみ、音が鳴らないように押さえた。
「さて」
誰に聞かせるでもなく、彼は言った。
「次は誰に笑われに行こうか」
白い廊下に、鳴らなかった鈴の余韻だけが残った。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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