第五話 困った人が灯す街の灯
翌朝、トオルはまたしてもマティアスの執務室にいた。もとい、連行されてきた。
窓の外では、王都の朝が動き始めている。
荷車の音。鐘の音。遠くの市場の声。
そのどれもが、まだ今日の問題になる前の音だった。
マティアスの机には、昨日とは別の種類の書類が置かれている。
宿や市場の苦情書ではない。
角がそろい、印も押され、記載欄も埋まっている。
きれいな書類だった。
「今日は、街の灯から相談が来ている」
「街の灯?」
トオルが聞き返すと、マティアスは窓の外へ視線を向けた。
「王都の外は、白冠宮の廊下とは違う」
「廊下」
「白冠宮の廊下なら、誰が掃いたか、誰が倒れたか、誰が壺を割ったか、だいたい記録が残る」
「壺を割る前提なんですね」
「なぜだろうな。高い壺ほど、よく割れる」
マティアスの哄笑が執務室に響く。
「だが城壁の外では、そうはいかん。道が崩れる。橋が腐る。獣が動く。天気が変わる。人が帰ってこない」
「帰ってこない者の家族は、門まで来る。門を越えれば、それは王都の問題になる」
セラが続ける。
「正式には、王都外路安全組合。執政官府の認可を受けた半公的組合だ。街の外へ出る者たちの依頼、護衛、採取、斥候、帰還記録を扱う」
「冒険者ギルド、みたいなものですか」
「そう呼ぶ者もいる。だが、街の灯ではあまり好まれない」
「どうしてですか」
「冒険などと呼べるのは、帰ってきた者たちだけだからだ」
トオルは黙った。
外へ出る。帰ってくる。
帰ってこない時は、記録になる。
この世界では、灯りの名前にも重さがある。
「今は組合だ」
マティアスが、机の端に置かれた古い灯皿を指で軽く叩いた。
「依頼も審査も帰還記録もある。だが、古い者は今でも、あれをただ"灯"と、そう呼ぶ」
「ただの灯」
「夜道で困った者が、次に困る者のために残した火だ。名前が立派になる前は、だいたいそういうものから始まる」
マティアスは書類を一枚、机の上に滑らせた。
「問題は、ミロという若い斥候だ」
「斥候」
「危険を見つける目はある。実際、先月の東斜面の崩落は、彼の報告で被害を避けた」
「なら、優秀なのでは」
「報告が長すぎる」
マティアスは短く言った。
「長すぎて、受付が止まる。危険と不安、観測と推測、過去の事故と今日の天気が、すべて同じ報告書に入っている。安全審査官は現行書式では受理できないと言い、受付係はその長すぎる報告を聞き続けて業務が止まっている」
トオルは少し黙った。
見えたものを全部出そうとする人。
その言葉が、胸の奥で形になりかける。
出さない。
自分はまだ、見ていない。
「処分するんですか」
セラが聞く。
「ロイドは処分を望んでいない。街の灯の組合長だ。彼は、ミロを切れば危険情報源を失うと見ている。だが放置すれば、組織そのものが機能不全になる」
マティアスは眼鏡の奥からトオルを見た。
「そこで測量士の出番というわけだ」
「どこで詰まっているのかを見に行くんですね」
「そうだ。ただし、ミロを慰めに行くなよ」
「慰め」
「困っているのは、ミロだけではない」
セラはすでに扉の方を見ていた。
「確認の場として扱います。処分は街の灯の判断に戻す」
「頼む」
街の灯は、王都の北門に近い通りにあった。
城壁が近くなるにつれて、道を歩く人の荷物が変わる。
市場の籠ではなく、背負い袋。
買い物の布包みではなく、縄、革袋、小型の槌、折り畳んだ地図。
街の外へ出る者の道具だ。
看板には、小さな灯火の絵が描かれていた。
剣でも、盾でも、竜でもない。
灯。
看板の下には、古い灯籠が一つ吊られている。
昼なので火は入っていない。
けれど、内側には煤の跡が残っていた。
入口の脇には、水桶と古い長椅子が置かれている。
歩き疲れた者が最初に腰を下ろす場所に見えた。
あるいは、帰ってきた者が、帰ってきたことを確かめる場所にも。
「名前、いいですね」
トオルが言うと、セラは看板を見上げたまま答える。
「外へ出る者のためだけではない。帰ってくる場所を表す灯でもある」
「そう聞くと、責任が重いですね」
「重い。だからこそ、軽く扱う者が出ると困る」
「ミロさんのことですか」
「まだ決めるな」
「はい」
セラは扉を開ける前に、中の混み方を見た。
受付の列。壁の地図。奥の記録棚。出口へ向かう荷運びの人数。
そして、列の途中で明らかに詰まっている一点。
「依頼にあった斥候は、あれだろう」
「たぶん」
「見る前から同情するな」
「してません」
「顔に出る」
「そんなに出ますか」
「出る」
扉を開けると、紙と革と乾いた土の匂いがした。
壁一面に地図が貼られている。
街道。森。橋。沢。崖。古い砦跡。
場所ごとに紐が張られ、小さな札がいくつも下がっていた。
受付では、短剣を下げた若者、荷馬車の主、薬草採りらしい老人が、それぞれ違う種類の不安を持ち寄って並んでいる。
受付の前では、薬草採りらしい老人が、小さな木札を差し出していた。
「北門から半日、白根草を二束。同行は孫と荷持ち一人。帰りは夕刻前です」
受付の女性は依頼書に目を通し、壁の地図へ視線を走らせた。
「北の草原ですね。十日以内の事故記録なし。帰還予定あり。装備も足りています」
彼女は青い札を依頼書の上に置いた。
「青です。通常受付で進めます」
老人はほっとしたように頷いた。
次に並んでいた荷馬車の主が、厚い紙束を出す。
「東街道へ材木を運ぶ。急ぎだ」
受付の女性は紙を受け取り、途中で手を止めた。
「人数は二人。荷は多め。帰還予定は明後日。東街道は、昨日の雨で状態確認が必要です」
彼女は黄色い札を置いた。
「黄です。審査官確認へ回します」
荷馬車の主が顔をしかめる。
「またか」
「条件が合えば通ります。荷を減らすか、出発時刻を変えるか、確認してください」
そのさらに後ろで、若い男が地図も持たずに言った。
「霧谷まで夜のうちに行きたい。帰りは、まあ、戻れたら」
受付の女性の手が止まる。
笑顔は崩れない。
けれど、青い札にも黄色い札にも触れなかった。
赤い札を、依頼書の上に置く。
「赤です。組合長判断になります」
「なんでだよ」
「帰還予定なし。夜間。霧谷。護衛なし。受付では通せません」
赤、黄、青。
依頼そのものを、どこへ流すかを決める札。
トオルはそれを見てから、列の奥で早口に話す少年の方を見た。
「ですから、その隊は北門から出るなら三番橋で荷を分けた方がいいです。昨日の雨で東斜面の土が緩んでいますし、三番橋の西側だけ橋板の音が軽いんです。釘も三本浮いていました。それだけならまだ黄で済むんですけど、黒鹿の足跡が南へ降りています。あの群れは普段、岩尾根から降りない。黒鹿が南へ降りる時は、上の岩場で地水が上がるか、夜のうちに石鳴りがあった時で、それに今朝は沢虫が鳴いていませんでした。沢虫が鳴かない朝は、水が濁る前で、鳥も一羽も飛んでなくて」
「ミロさん」
受付の女性が、困ったように微笑んだ。
「まず、一つずつ」
「一つにしたら残りで死にます」
少年は即答した。
その声は大きくはない。けれど、必死だった。
喋りたいのではない。止めたいのでもない。
ただ、全部言わなければ誰かが死ぬと思っている声だ。
受付の女性は羽ペンを持ったまま、何度も頷いている。
笑顔は崩れていない。
でも、机の端には未処理の札が積み上がっていた。
彼女がミロの話を聞いている間、列のほかの者たちは進まない。
トオルは、その積まれた札を見る。
聞く人が一人に固定されると、その人の机にだけ重さが積もる。
見覚えがある、と思った。
ただし、白い水差し亭のノアとは違う。
ここでは血縁ではなく、職務が人を座らせている。
「困っているのは、彼だけではない」
セラが小さく言う。
その視線は少年ではなく、受付の女性の手元に向いていた。
羽ペンの先が乾きかけている。
記録したいのに、記録の形になっていない。
受付の奥から、背の高い男が歩いてきた。
灰色の制服。乱れのない襟。磨かれた靴。
髪は後ろで整えられ、腰には剣ではなく、革表紙の規則帳が下がっている。
男は声を荒げなかった。
怒ってもいない。
ただ、まっすぐミロの前に立つ。
「ミロさん」
丁寧な声だった。
「こちらの報告書ですが、受理できません」
男は、束になった紙の角をそろえ、ミロへ差し出した。
それだけの動作が、ひどくきれいだった。
きれいな拒絶。
ミロの顔が強張る。
「読んでくれたんですか」
「はい。全て読みました」
「だったら」
「観測と推測が同じ欄に混在しています。時刻の記載も三箇所でずれています。危険種別も、橋、斜面、獣、天候が一つの申請に入っています」
「全部つながっています」
「つながっていることと、同じ欄に書けることは別です」
静かだった。
だから余計に、言葉が逃げ場なく届く。
ミロの手が、報告書を握る。
受付の女性が何か言いかける。
「ケイン審査官」
男、ケインは彼女を見る。
「フィアさん。あなたが聞いてくださること自体は、職務として間違っていません。しかし、受付の列が止まっています」
フィアと呼ばれた女性は、困ったように笑った。
「はい」
「ミロさんの報告をすべて口頭で受けるなら、別窓口が必要です。別窓口がない以上、この場で続けることはできません」
「はい」
「あなたの善意を責めているのではありません」
「承知しています」
彼女の対応は、終始淡々としていた。
疲労というより、劣化。そんなイメージがトオルの頭に浮かぶ。
フィアは聞ける。けれど、聞いたものを流す水路がない。
受付はあくまで入口であって、全部を溜める池ではない。
それでも水路がなければ、入口に溜まるしかない。
ケインはミロに向き直る。
「外路危険報告書には、区間、時刻、観測事実、危険種別、予想される被害、推奨措置、責任者の欄があります」
彼は報告書の一枚を開いた。
「北門三番橋。今朝、第二区間。橋板西側の異音。釘三本の浮き。前日の雨。これらは、観測事実として書けます」
「なら」
「しかし、黒鹿の南下、沢虫の沈黙、鳥の不在は、このままでは三番橋の通行停止根拠にはなりません」
「黒鹿は地水を避けます」
「その場合は、獣類行動記録または季節記録に接続する必要があります」
「橋が落ちてから記録しても遅い」
「橋の通行を止めるなら、橋の危険として責任者が判断できる形にしてください」
「命より書式ですか」
「命を守るために、書式が必要です」
ケインの声は、最後まで丁寧だった。
丁寧だからこそ、壁に見える。
怒鳴る親方。柵を折れそうな獣人。厳しい宿屋の主。
そういう圧とは違う。
この人は、怒鳴らない。粗暴でもない。
たぶん、公平で、真面目で、善良だ。
それでも、書式の外にあるものを、机の上に置けない。
トオルは言いかけた。
ミロさんの報告には意味があります。
でも、飲み込む。
意味があることと、組織が使えることは違う。
それをいきなり否定すると、ケインの見ている責任まで消してしまう。
セラが受付の横へ進んだ。
「王都警備隊副官セラだ。執政官マティアスより、状況確認の任を受けて来た」
ケインはすぐに姿勢を正した。
「街の灯、安全審査官ケイン・グレイです」
所作がきれいだった。
トオルは少し驚く。
この世界には、威圧でなく礼儀で人を押し返してしまうような、そんな人がいる。
「奥で話せるか」
セラが聞く。
「現在、出発審査が三件、帰還報告が二件、未処理受付が七件あります」
「つまり」
「奥で話すには、代理を立てる必要があります」
セラは受付の列を見る。
それから、奥の階段を見た。
「ロイドはいるか」
「組合長なら二階です」
「呼べ。これは受付の問題ではない」
ケインは一瞬だけ黙る。
そして頷いた。
「承知しました」
二階の会議室には、丸い机と大きな地図があった。
壁際には、帰還記録と未帰還記録が別々の棚に並んでいる。
未帰還。
その文字だけで、部屋の温度が少し下がる。
棚の一番上には、古い灯皿が置かれていた。
今は使われていないのだろう。縁は欠け、内側には黒い煤がこびりついている。
組合長ロイドは、太い指で地図の端を押さえながら話を聞いていた。
年齢は四十代半ばくらいだろうか。
声は低いが、ガロンやブラムのように前へ出る圧ではない。
部屋全体の重さを背中に乗せている人だった。
「またミロか」
その言い方に、うんざりはある。
だが、切り捨てる軽さはない。
フィアが小さく頭を下げる。
「申し訳ありません。私が受付で止めてしまって」
「フィアを責めてはいない」
ロイドはすぐに言った。
「聞かなければ、誰も聞かないのだろう」
フィアの顔が少しだけ揺れる。
「はい」
「だが、聞き続ければ受付が止まる」
「はい」
ミロは報告書を抱えたまま立っている。
ケインは椅子に座らず、規則帳を手にしたまま壁際に立っていた。
セラは扉の近くにいる。
逃げ道と入ってくる者の両方が見える位置だ。
トオルは地図の前に立った。
ミロの報告書には、細かい字がぎっしり詰まっている。
北門三番橋。橋板西側の異音。釘三本の浮き。昨日の雨。黒鹿の南下。沢虫の沈黙。鳥の不在。去年の秋の崩落。二日前の霧。地図と実際の道幅の違い。
長い。長すぎる。
でも、その長さの中に、捨ててはいけないものが混じっている。
俺はそれを知っている。
見えたものを全部出そうとすると、相手にはただの洪水になる。
洪水の中では、本当に大事なものまで流れていく。
ロイドがケインを見る。
「先月、東斜面の崩落を当てたのはミロだったな」
「はい」
「その前の週、何も起きなかった停止申請は」
「八件です」
「八件」
ロイドは額に手を当てる。
「出発を止めれば依頼主に損害が出る。止めなければ怪我人が出る。ミロを処分すれば危険情報源を失う。しかし、放置すれば街の灯が消える」
ミロが顔を上げる。
「僕は、止めたいわけじゃ」
「わかっている」
ロイドは遮らない。
ただ、受け止める場所を変えるように言った。
「だが、お前の報告は、今のままでは使えない」
ミロの顔が固まる。
トオルは言いかけた。
でも。
その言葉を飲み込む。
違わない。
見えていることと、使える形で渡せていることは違う。
ケインが静かに言う。
「全ての兆候を出発停止や通行停止の根拠として扱えば、誰も外へ出られません。逆に、根拠の弱い停止が重なれば、本当の危険が来た時にも止まれなくなります」
正しい。あまりにも正しい。
正しすぎて、ミロの顔から血の気が引いていく。
トオルは机の上に置かれた未使用の札を見た。
赤、黄、青。
「依頼では、青なら通常処理、黄なら条件確認、赤なら停止か再審査なんですね」
トオルが言うと、ケインは短く頷いた。
「はい。依頼全体をどの経路へ流すかを示す札です」
「なら、ミロさんの報告にも、同じように経路を作れませんか」
ケインの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「報告に?」
「はい」
トオルはミロを見る。
「ミロさん。今朝の報告で、今すぐ止めたいものはどれですか」
「全部です」
即答だった。
「全部、同じ強さですか」
ミロは口を開きかけて、止まる。
「同じでは、ないです」
「捨てられない?」
「捨てたら、そこから死ぬかもしれない」
その言い方は、トオルの胸の奥を叩いた。
捨てたところから死ぬ。
だから全部持つ。全部出す。全部渡す。
でも、渡された相手は持てない。
「捨てるのではなく、置き場所を分けるのはどうですか」
ミロが眉をひそめる。
「置き場所?」
トオルは赤い札を一枚取った。
「赤。今すぐ止めるもの」
次に黄色い札。
「黄。止めはしないけれど、条件を変えるもの」
青い札。
「青。今は止めないけれど、帰ってから記録に残すもの」
ケインがすぐに言う。
「色だけでは記録として残せません」
予想通りだった。
トオルは頷く。
「色は結論ではなく、入口です」
ケインの目が少しだけ動いた。
「入口」
「はい。赤は停止申請。黄は条件変更申請。青は帰還後記録。それぞれ、必要な欄を変えます」
「色の意味が増えます」
「意味を増やすんじゃなくて、流す先をそろえるんです」
トオルは机の上の三つの札を見た。
「依頼では、青は通常受付、黄は審査官、赤は組合長へ流れる。報告でも同じです。青は記録へ、黄は条件変更へ、赤は責任者判断へ流す」
ケインは黙った。
ロイドが腕を組む。
「続けろ」
「赤は強い形式にします。区間、時刻、観測事実、予想される被害、停止理由、責任者。全部必要です」
ケインが答える。
「それなら現行の停止申請に近い」
「黄は条件変更です。道を変える、荷を軽くする、同行者を増やす、出発時刻を遅らせる。全部を止めるのではなく、進み方を変える」
「それなら、依頼主との調整記録が必要です」
「青は、今は止めません。帰還後に地図や季節記録へ回します」
ミロが強く言う。
「青にした情報で誰かが死んだら?」
部屋が止まる。
トオルはすぐに答えない。
答えられない。
セラが低く言った。
「赤にしなかった責任は、誰かが持つ必要がある」
ケインが頷く。
「はい」
ミロの手が震える。
「じゃあ、僕が」
「全部持つな」
ロイドの声だった。
強くはない。だが、部屋の奥まで届く。
「お前一人に、街の外で起きる全部の責任を持たせるための組合ではない」
ミロが黙る。
ロイドは、壁の未帰還記録棚を見た。
「俺が子どもの頃は、街の灯なんて立派な名前じゃなかった」
ミロが顔を上げる。
「そうなんですか」
「ああ。北門の外に、古い灯籠が三つあった。雨の日は消え、風の日は揺れた。それでも、帰ってくる者はそれを探した」
ロイドは、棚の一番上に置かれた古い灯皿へ目を向けた。
「灯が見えれば、帰る者は今夜、街まで戻れる。灯のところまで来られなければ、誰かが探しに行く。最初は、それだけだった。」
ケインが静かに言う。
「現在は、依頼、審査、帰還記録、未帰還記録を扱う組合です」
「わかっている」
ロイドは頷いた。
「灯だけでは、人は守れん。記録が要る。札が要る。責任者も要る」
それから、机の上の赤、黄、青の札を見た。
「だが、札を守るために灯があるんじゃない。帰ってくる者が迷わないように、札を作ったんだ」
部屋が少し静かになる。
ロイドは続けた。
「街の外で誰かが戻らなければ、待つ者は灯の前に来る。名前を呼ぶ者がいる。探しに行けと怒る者がいる。せめて、どこまで行ったのか教えてくれと座り込む者がいる。だから街の灯がある」
その声には、疲れがあった。
だがその疲れは紛れもなく、灯の側で消えぬよう気を張り続けてきた人のものだった。
「責任を一人に押しつけないための組合だ。責任を無いことにするための組合ではない」
ロイドはケインを見る。
「仮に回せるか」
ケインは規則帳を開いた。
紙をめくる音がする。
「正式制度にはできません。ですが、区域と期限を限定した暫定運用なら可能です」
「期間は」
ロイドが聞く。
ケインは即答しなかった。
規則帳ではなく、壁の帰還記録棚を見る。
出発した者が、すぐ戻るとは限らない。
青に分けた情報は、帰ってきた者の報告と照らし合わせなければ意味がない。
「十日」
「十日か」
「三日では、帰還記録が戻りません。一月では、事故が起きた時に責任範囲が広がりすぎます。北門と東街道に限り、十日間。赤は組合長決裁、黄は審査官確認、青は帰還後記録に接続。毎夕、件数と結果を集計します」
ロイドは少しだけ笑った。
「慎重だな」
「慎重でなければ、この職には向きません」
ケインは表情を変えずに言った。
「責任者は俺だ」
ロイドが続ける。
「記録は私が管理します」
ケインが即座に答えた。
フィアが顔を上げる。
「あの、受付は」
セラが答える。
「フィアの机に全部置くな。青は報告箱。黄は審査官。赤は組合長へ直通。受付は色を受けるだけにする」
フィアの肩が、ほんの少し下がった。
それは安堵に見えた。
同時に、自分だけが聞かなくてもいいのかという戸惑いにも見える。
セラはロイドを見る。
「これは街の灯の運用だ。警備隊の命令ではない」
「わかっている」
ロイドが頷く。
「だが、外から言われねば、受付の上に積もり続けていた」
青い板が、視界の端に浮かんだ。
-------------------------------------------------------------------------------------
【補助技能:報告分流】
混ざった危険情報を、即時停止・条件変更・記録蓄積へ分ける技能。
【注意】
短くすることは、捨てることではありません。
長いまま渡すことも、守ることではありません。
-------------------------------------------------------------------------------------
長いまま渡すことも、守ることではない。
トオルは、その文字を少し長く見てしまった。
ケインは机の上に赤、黄、青の札を並べる。
動作に無駄がない。
「では、暫定運用の前に試験します。ミロさん。今朝の北門輸送隊について、色を一つ選んでください」
ミロは札を見る。
赤へ手が伸びかける。止まる。
黄色の札を取った。
「黄」
声が少し震えている。
「理由を」
ケインが言う。
「北門三番橋。馬車は通れます。でも、荷を半分にしてください。橋板の西側の音が軽い。釘が三本浮いていました。昨日の雨の後なので、重い荷だと割れるかもしれない」
ケインはすぐに書き取る。
「区間。北門三番橋。時刻。今朝。観測事実。橋板西側の異音。釘三本の浮き。前日の雨。危険種別。橋。推奨措置。荷の半量化。予想される被害。橋板破損、荷馬車転倒。ほかには」
ミロの口が動く。
「黒鹿の足跡が」
ケインがペンを止める。
「それは、この黄に必要ですか」
ミロは苦しそうにする。
「森の奥の地水と関係して」
「北門三番橋の通行条件に必要ですか」
ミロは札を見る。黄色。条件変更。
それから、青い札を見る。
「青にします」
ケインは頷いた。
「黒鹿の南下。沢虫の沈黙。鳥の不在。帰還後記録へ送付」
フィアが青い札を受け取り、小さな箱へ入れる。
ミロはまだ何か言いたそうだった。
でも、口を閉じる。
それは、言葉を諦めた顔ではなかった。
言葉を後で置く場所を、かろうじて見つけた顔だった。
階下から声が上がる。
「北門輸送隊、出発確認を!」
ケインは黄札を持って階段を下りる。
トオルたちも続いた。
組合の入口では、荷馬車が二台並んでいる。
隊長らしき女性が、不満そうに腕を組んでいた。
「またミロか」
ミロの肩が跳ねる。
ケインが前に出る。
「黄の条件変更申請です。出発停止ではありません」
隊長の顔つきが少し変わる。
「止めないのか」
「止めません。ただし、北門三番橋通過時、荷を半量に分けてください。橋板西側に異音と釘浮きの観測があります」
「面倒だな」
「記録上、条件変更を伝達しました。従わず破損した場合、街の灯は補償しません」
言い方が硬い。でも、現場には通じる硬さだった。
隊長は舌打ちする。
「半分に分ける。時間は食うが、止まるよりましだ」
ミロが息を吐く。
斥候としての実力を評価されたわけでも、
正しかったと認められたわけでもない。
ただ、情報が使われた。
それだけだった。
夕方、北門輸送隊から伝令が戻った。
橋は落ちなかった。
荷を分けたため、少し遅れた。
西側の橋板は、荷のない馬で踏んだだけでも音が鳴ったという。
修理札が一枚、街道管理へ回された。
ミロは伝令の報告を聞きながら、机の端を握っていた。
喜ぶ顔ではない。
助かったのかもしれない。
でも、彼にはまだ黒鹿の足跡も、沢虫が鳴かなかったことも、鳥が飛ばなかったことも残っている。
消えないものは、消えない。
フィアが青い箱を開ける。
「それは、帰ってから書きましょう」
ミロは彼女を見る。
「今じゃなくて?」
「今は、黄が通りました」
フィアの声は柔らかい。
けれど、前のように全部を受け止める柔らかさではない。
机の上には、赤、黄、青の三つの箱が並んでいる。
「青は、ここです」
ミロはしばらく青い箱を見ていた。
それから、紙を一枚取る。
黒鹿の南下。沢虫の沈黙。鳥の不在。
まだ長くなりそうだった。
ケインが横から言う。
「青は、帰還後記録です。観測は観測欄へ。経験則は経験則欄へ。推測は推測欄へ」
「はい」
「時刻も」
「はい」
「嫌な感じは」
ミロが少し身構える。
ケインは眼鏡を直した。
「備考欄を作ります」
ミロの目が上がる。
「いいんですか」
「現行書式にはありませんでした。暫定運用の間だけです」
ケインは声を荒げない。
笑いもしない。
「ただし、備考欄だけで赤にはできません」
「はい」
「あなたの熱意は疑っていません。ですが、街の灯は熱意だけでは動けません」
ミロは少しだけ俯いた。
「はい」
その返事は、さっきより小さい。
でも、折れた音ではなかった。
セラがトオルの横に立つ。
「トール。今回は、言葉を削る話ではなかったな」
「はい」
「置き場を増やす話だった」
「はい」
「お前にも必要だ」
横から刺された。
「最近、刺し方が静かになってきましたね」
「慣れろ」
「それはそれで嫌です」
セラはわずかに口元を動かした。
街の灯の中で、夜の準備が始まる。
地図の前に灯が入れられ、受付の札が整理され、未帰還記録の棚に布がかけられる。
入口の古い灯籠にも、小さな火が入った。
外へ出る者のためというより、戻ってくる者が遠くから見失わないための火に見えた。
フィアは青い箱を受付の端ではなく、奥の記録机へ移した。
ミロは地図の前に立っている。
また何かを言いかけた。
北の森。黒鹿。沢虫。鳥の不在。
言葉が口元まで来ているのが見えた。
ケインが、書類から顔を上げずに言う。
「色を」
ミロは息を止める。
赤い札を見る。黄色い札を見る。青い箱を見る。
それから、両手で地図の端を押さえた。
「青です」
声は、まだ少し震えていた。
「帰ってから、書きます」
ケインのペンが、一度だけ紙の上で止まる。
「受理します」
ミロは頷いた。
そして、次の言葉を飲み込んだ。




