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勇者ではなく、測量士  作者: Chroe


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4/7

第四話 家族だから、わからない



その日の昼、トオルはセラに連れられて、また執政官府にいた。

マティアスの机には、相変わらず書類の山がある。

山というより、今日は少し崩れた丘だった。

その丘の隙間から、冷めた茶と、白い陶器の水差しが見える。


「いつまでも警備隊の兵舎に匿っておくわけにもいくまい」


マティアスは、白い水差しを指で軽く叩いた。


「セラ、白い水差し亭に泊めてやれ」

「ありがとうございます」

「礼にはまだ早い。宿は、泊めるだけならどこでもできる」

「不穏な始まりですね」

「白い水差しの宿は、水が澄んでいるという印だ。旅人に最初に出す水を、客に見えるように白い器へ入れる」

「なんかいい宿って感じですね」

「いい宿だ。少なくとも、客に見せる水は澄んでいる」


マティアスは頷いた。


「ただ、水差しが白いからといって、台所の中まで澄んでいるとは限らん」


セラが依頼書を取る。


「家族経営ゆえ、特定の人員に負荷が偏ってしまっているということですね」

「そう、それだ。私は今そう言った」

「言っていません」

「水差しが白いと言った」

「それは宿の説明です」

「宿の説明は、だいたい家族の説明でもある」


マティアスは困ったように笑った。

いつものように軽い。

その軽さゆえに、こちらは知らぬ間に囲い込まれてしまうわけなのだが。


「白い水差し亭は、古い宿だ。評判も悪くない。飯もうまい」

「よかったです」

「ただな」


マティアスは、冷めた茶を見下ろした。


「水を出せる宿ほど、それを営む者が水を飲む暇をなくしていることがある」


セラは依頼書を折りたたむ。


「宿泊先の手配と、状況確認を兼ねる」

「効率的ですね」

「マティアスの好きな言葉だ」

「効率は好きだぞ」


マティアスが言った。


「ただ、度を越えた効率の追求は、誰かにとっては追及となる」

「それ、宿に行く前に聞きたくない話でした」

「聞いてから行け。知らずに泊まるよりは眠れる」

「眠れますかね」

「床でなら眠れる」


セラが扉へ向かう。


「行くぞ、トール」

「トオルです」

「その訂正も、そろそろ記録した方がいいな」


マティアスが笑った。

笑われているのか、登録されているのか、まだわからない。


夕方、トオルはセラに連れられて、王都の南通りを歩いていた。

市場から少し離れると、道の音が変わる。

荷車の車輪より、人の話し声が多くなる。

酒場の笑い声。鍋の蓋が当たる音。どこかの宿から漏れる煮込みの匂い。

空腹は、だいたい正直だ。


「セラさん」

「何だ」

「俺の今日の報酬は、夕飯に両替できたりしますか」

「できる」

「よかった」

「ただし、まだ足りない」

「何にですか」

「宿代」


トオルは黙った。

異世界に来てから、命の危険より先に生活費が立ちはだかることがある。

それはそれで現実だった。


「俺、王都に来てからずっと借りが増えてませんか」

「増えている」

「どのくらい」

「聞かない方が眠れる」

「聞いたら眠れない額なんですね」

「床でなら眠れる」

「宿代の話から急に床に落とさないでください」


セラは立ち止まった。

目の前に、二階建ての宿がある。

壁は古いが、入口はよく磨かれていた。

看板には、白く塗られた水差しの絵が描かれている。

文字は読める。白い水差し亭。


「白い水差し、ですね」

「昼に聞いただろう」

「復習の機会かと思って」

「必要なら看板を見れば済む」

「セラさん、時々かなり実用一辺倒ですよね」

「実用で足りる時は、それでいい」


セラは看板ではなく、入口の奥を見ていた。

帳場。階段。厨房へ続く戸。客席の間を行き来する盆。

そして、水差しを持ったまま止まっている少年。


「水差しは下がっていない」

「満室ではない、ということですか」

「少なくとも、客を入れる余地はある」


セラの視線が、厨房の戸の前で一度止まった。


「だが、人の余地があるかは別だ」

「人の余地?」

「客を入れる余裕と、働く者が息をする余裕は同じではない」


それだけ言って、セラは扉に手をかけた。


中は、夕飯時の熱で満ちていた。

木の机が六つ。壁際に長椅子。奥に厨房。

客の多くは旅人か商人らしく、荷物が足元に置かれている。


「いらっしゃい!」


最初に声を上げたのは、十代後半くらいの少女だった。

栗色の髪を後ろで束ね、盆を片手に持っている。

笑顔は明るい。

だが、その笑顔があまりにも速く出てくるせいで、少しだけ息苦しい。


「二名様ですね。お食事ですか、お泊まりですか」

「両方だ」


セラが答える。


「マティアス執政官から話が通っているはずだ」


少女の目が一瞬だけ動いた。

帳場。厨房。階段。

誰に確認するかを、頭の中で探している。


「父を呼びます。少々お待ちください」


少女はそう言って、客の間をすり抜けた。

動きが速い。速すぎる。

盆を置き、水を注ぎ、空いた皿を下げ、帳場の横を通って、厨房の戸を開ける。

一つひとつはきれいなのに、全部を一人で拾いに行っているように見えた。


奥から、大柄な男が出てくる。

白い前掛け。太い腕。短く刈った髪。

鍛冶屋のガロンほど荒くはないが、机の角度まで声で直せそうな人だった。


「ブラムだ。この宿の主をしている」

「王都警備隊副官セラ。こちらはトール」

「トオルです」


訂正はした。

もう癖になってきている。

ブラムはトオルを上から下まで見た。


「細いな」

「宿屋の主人と鍛冶場の親方の感想が同じなの、おかしくないですか」

「食って寝れば少しはましになる」

「評価が食材寄りですね」

「客は客だ。腹が減っているなら座れ」


言い方は硬い。だが、追い返す硬さではない。

その後ろから、柔らかい顔の女性が顔を出した。


「あなた、先にお水を」

「わかってる」

「わかってるなら、声を少し小さくして」

「小さくしている」

「していません」


女性はトオルたちに頭を下げた。


「妻のマリエです。すみません、夕飯時で少し騒がしくて」

「少し?」


トオルは周囲を見る。席はほぼ埋まっている。

厨房からは湯気が出ている。

さっきの少女は、すでに別の客に水を注いでいた。

その奥、厨房の入口近くに、少年が立っている。

年齢は十六くらい。手には白い水差しを持っている。

ただ、動かない。

客に呼ばれている。机の上の空の杯も見えている。

厨房からは母親の声が飛んでいる。

それでも、彼はその場で固まっていた。


「ユン!」


ブラムの声が飛ぶ。

少年の肩が跳ねる。


「水だ! 三番だ!」

「はい」


少年は歩き出そうとして、すぐ止まった。

三番の机の手前で、別の客が椅子を引く。

盆を持った少女が横切る。厨房の戸が開く。誰かが笑う。

少年の視線が、全部を追ってしまう。

水差しを持つ手が、少し傾いた。


「ユン!」


ブラムの声がさらに強くなる。

水差しが揺れた。

少女が素早く戻ってきて、少年の手から水差しを取る。


「私が行く」

「姉さん」

「いいから」


少女は笑顔を作り直し、三番の机へ向かった。

トオルは、その流れを見ていた。

見えすぎている。

そう言いかけて、飲み込む。

まだ、何も聞いていない。


席に案内されると、セラは入口と厨房の両方が見える位置に座った。

トオルはその向かいに座る。

白い水差しが置かれた。水は澄んでいる。


「水、おいしいですね」

「水にまで感想を言うのか」

「無料で出てくるものに感謝する習慣を身につけようと思って」

「宿代は無料ではない」

「現実に戻さないでください」


食事はうまかった。

黒パン。豆の煮込み。焼いた鶏。

塩は強めだが、歩き回った体にはちょうどいい。

ただ、食堂の動きはずっと詰まっていた。

ノアと呼ばれていた少女が、ほとんど全部を拾っている。

客が手を上げる前に水を注ぎ、皿が空く前に次を出し、父の声が飛ぶ前に弟の失敗を塞ぐ。

うまい。でも、うまいことが危うい。

うまく塞げる人がいると、穴は穴のまま残る。

白い水差しの水は澄んでいる。

けれど、その水が誰の手から注がれているのかは、客席からは見えない。


食事が一段落した頃、マティアスからの紹介状を読んだブラムが、奥の小部屋へトオルたちを通した。

そこは宿の家族が使う部屋らしい。

小さな丸机。針仕事の籠。壁には古い水差しが飾られている。

ブラム、マリエ、ノア、ユン。四人が向かいに座る。

ノアは立とうとしていたが、セラが目だけで椅子を示すと、渋々座った。


「それで」


ブラムが腕を組む。


「執政官様は、うちの何を見ろと言ったんだ」

「苦情ではない」


セラが言う。


「宿の運営が詰まり始めていると聞いた。人を増やす前に、どこで詰まっているか確認したい」

「人なら足りている」


ブラムは即答した。


「俺とマリエとノアがいれば回る」


ユンの顔が、少し下がる。

ブラムはそれを見ていない。


「ユンももう少し慣れれば使える。男なら、声を出されても動けるようにならんと」


マリエがすぐに言う。


「あなた、そういう言い方をするから」

「事実だ」

「止まりたくて止まってるんじゃないでしょう!」


その声は、いつも柔らかいマリエから出たものとしては強かった。

部屋が止まる。

ユンが目を伏せる。

ノアが口を開いた。


「じゃあ、誰が動くの」


静かな声だった。

マリエがノアを見る。


「ノア」

「ユンが止まる。お母さんは、大丈夫って言う。お父さんは、動けって言う」


ノアは膝の上で手を握っている。


「その間に、客は待ってる。皿は冷める。水は空になる。誰かが動かないといけない」

「だからって、あなたが全部」

「誰も私には、大丈夫って聞かない」


その言葉だけが、部屋の真ん中に落ちた。

マリエの顔が固まった。

ブラムの腕が、少し緩む。

ノアは笑わなかった。


「ユンには、無理しなくていいって言う。お父さんには、言いすぎないでって言う。でも、私が止まったら、誰が水を出すの」


その言葉は、誰かを責めるためだけのものではない。

長く同じ場所に立っていた人の声だった。

トオルは、ノアの盆を持つ手を思い出す。

客の動きより先に動く手。父の声より先に塞ぐ足。母の心配より先に笑う顔。

支える人が、一番支えを聞かれていない。


ユンが小さく言った。


「見えてた」


ノアがユンを見る。


「何が」

「姉さんが、全部やってるの」

「なら、動いてよ」


その言葉は鋭かった。

ユンは肩を縮める。


「動こうとすると、全部見える」


部屋の誰も、すぐには返せない。

ユンは膝の上で指を握った。


「水を頼まれたら、水だけ見ればいいって思う。でも、隣の机の皿も見える。厨房の火も見える。父さんの声も来る。母さんが落としそうな鍋も見える。姉さんがこっちを見るのも見える」


ノアの顔が動く。


「見てない」

「見てる」

「見てないよ」

「見てる。早く、って顔じゃない。大丈夫、って顔でもない」


ユンは顔を上げない。


「姉さんがやるから、いいよ、って顔」


ノアは言葉を失う。

それは、責められたというより、隠していた手順を言い当てられた顔だった。


「でも」


ノアの声が少し震える。


「それでも止まるの、ずるいよ」


ユンは何も言わない。

マリエが手を伸ばしかける。

セラが小さく首を振った。

今は、抱きしめる場ではない。

マリエの手が止まる。

トオルは、その小さな停止を見た。

優しさも、早すぎると相手の言葉を包んで消してしまう。


ユンはやっと顔を上げた。


「今は、見ないでほしい」


ノアが息を止める。


「でも」


ユンは続ける。


「忘れないでほしい」


部屋の空気が変わった。



見ないでほしい。


でも、忘れないでほしい。



それは、かなり難しい注文だ。

でも、たぶん本当の注文だった。


ブラムが低く言う。


「俺は、ユンを甘やかしたいわけじゃない」

「わかります」


トオルは答える。


「男なら動け、と言いたいわけでもない。いや、言っているかもしれないが」


ブラムは顔をしかめる。


「俺は、この宿を渡したいんだ」


古い水差しの飾りが、壁で少し光っている。


「俺の親父もそうだった。声はでかかった。手も早かった。だが、客を飢えさせたことはない。宿は、止まったら終わる。水を出せない宿は、客を泊められない」


その言葉には、宿屋の主としての理がある。

声の大きさの奥に、恐れがある。

この宿を止めたくない。子どもたちに、止まらない身体を持たせたい。

だが、その伝え方でユンは止まり、ノアは止まれなくなっている。

マリエも口を開いた。


「私は、みんなが壊れないでほしいだけなの」

「はい」

「でも、私が大丈夫って言うと、ノアが動くしかなくなってしまうんですね」


ノアは目を伏せる。


「お母さんが悪いって言ってるんじゃない」

「うん」

「でも、お母さんがユンを守るたびに、私は守られない方に行く」


マリエの目が潤む。

セラが机の上にあった紙片を一枚引き寄せた。


「泣くのは後だ」


マリエがびくっとする。


「すみません」

「責めていない。泣くと、ノアがまた動く」


ノアの肩が小さく跳ねた。

マリエは口元を押さえる。

セラは紙片を四つに分けて、机に置いた。


「この宿は、誰が何を見るかが混ざっている」


トオルは頷く。


「ユンは、全部見えて止まる。ノアは、全部拾えてしまうから止まれない。ブラムさんは、宿が止まる怖さを声で押している。マリエさんは、壊れる怖さを大丈夫という言葉で包んでいる」


セラがトオルを見る。


「短く」

「はい」


トオルは言葉を飲み込む。


言い当てることが目的ではない。


使える形にすること。


青い板が、視界の端に浮かぶ。


-------------------------------------------------------------------------------------


【補助技能:家庭内負荷整理】

家族の中で、誰が何を見て、誰が何を背負っているかを分ける技能。



【注意】

愛情があることと、負荷が偏っていないことは別です。


-------------------------------------------------------------------------------------


愛情があることと、負荷が偏っていないことは別。

その文字は、部屋の誰にも見えていない。

だから、言葉ではなく、手順にする必要がある。


「まず、全部を見なくていい場所を作りましょう」


トオルは言った。

ユンがこちらを見る。


「全部を?」

「はい。今日の夕飯時、ユンさんは水差しを持っていました。でも、見ていたのは水だけじゃなかった」


ユンは小さく頷く。


「だから、水だけでいい範囲を決めます」


ブラムが眉をひそめる。


「水だけで宿が回るか」

「回りません」

「なら」

「でも、水も誰かがやらないと回りません」


ブラムが黙る。

セラが紙片に線を引く。


「入口から三番まで、ノア」


ノアが顔を上げる。


「私?」

「全部ではない。入口から三番までだ」


次にセラは別の紙片を置く。


「四番から六番まで、ブラム」

「俺が客席を?」

「声を出すなら、手も出せ」


ブラムが一瞬黙る。

マリエが笑いかけて、慌てて口を押さえた。

セラは続ける。


「火と大皿、マリエ」

「はい」

「棚と帳簿、ユン」


ユンが目を瞬かせる。


「帳簿?」

「お前は見えている。客席では多すぎる。棚と帳簿なら、見えすぎることが役に立つ」


トオルは補う。


「水差しも、最初の半刻だけユンさん。入口から二番まで。三番以降はノアさんかブラムさん」

「半刻だけ?」


「はい。終わりが見えている方が動きやすいと思います」


ユンは少し考えた。


「入口から二番までなら」


ノアが言う。


「でも、三番が呼んだら?」

「少々お待ちください。担当を呼びます」


トオルはそのまま言った。


ユンが繰り返す。


「少々お待ちください。担当を呼びます」

「はい」

「それ、言っていいんだ」


ユンの声には、本気の驚きがあった。


トオルはブラムを見る。

ブラムは腕を組んでいる。

しばらくして、低く言った。


「言え」


ユンの目が少し開く。


「客を待たせることになる」

「待たせたくないなら、俺が行く」


ノアがブラムを見る。


「お父さんが?」

「俺も宿の人間だ」

「それはそうだけど」

「何だ」

「いや、なんか、変」

「変でもやる」


セラが淡々と言う。


「変なのは初日だけだ」


マリエがとうとう少し笑った。

ブラムは不満そうにする。

だが、声は荒くならない。

その時、ユンが机に置かれた紙片を見た。


「席だけじゃなくて、どこまで見ればいいかも書いておきたい」


セラがユンを見る。


「どこまで?」


ユンは小さく頷いた。


「一番と二番は、水を運ぶ。三番から先は、担当を呼ぶ」


そこで、少しだけ言葉を探す。


「そこまでなら、見られる気がします」


部屋が少し静かになる。

ユンは、膝の上で指を動かした。


「頭に置かないために。見えたままだと、全部ここに残るから」


彼は自分の額のあたりを指した。


「水を頼まれたことも、皿が空いたことも、火が強いことも、誰が待っているかも、全部残る。だから、どこまで見ればいいかを、外に置きたいんです」


ユンは机の上の紙片を見た。


「紙に置いたら、少し忘れられる。忘れても、なくならない」


トオルはその言葉を聞いて、息を止めた。

忘れても、なくならない。

それは、ユンのための手順であり、後で誰かのための記録にもなる言葉だった。


青い板がまた浮かぶ。


-------------------------------------------------------------------------------------


【補助技能:可動域設定】

動けない人を広く動かすのではなく、動ける範囲を狭く定める技能。



【注意】

狭くすることは、甘やかすことではありません。

再試行のための足場です。


-------------------------------------------------------------------------------------


狭くすることは、甘やかすことではない。

トオルはその文字を見てから、ユンを見る。


「失敗しても、範囲内でやり直せる方がいいです」


ユンは何も言わない。

でも、さっきより息がしやすそうに見えた。

その夜、白い水差し亭では、小さな試しが行われた。

壁に木片が掛けられる。

入口から三番まで、ノア。四番から六番まで、ブラム。

火と大皿、マリエ。棚と帳簿、ユン。

最初の半刻、水差しもユン。


そしてユンは、水差しを置く棚の脇に、今は使っていない古いまな板を一枚置いた。

刃の跡がいくつも残っている。

もう料理には使っていないものらしい。

その端に、ユンは小さく書いた。

一番、二番、水。三番から先は、担当を呼ぶ。

文字は小さいが、読みやすい。

客に見せるためのものではない。

見えたものを、頭の中に置きっぱなしにしないためのものだった。


それを見て、常連らしい客が笑った。


「何だ、今日は札付きか」


ブラムが睨みかける。

セラが先に言う。


「札を見ろ。今日はその通りに呼べ」

「誰だあんた」

「王都警備隊だ」

「見やすい札だな」


常連はすぐに態度を変えた。

トオルは少し感心した。


「やっぱり権力って武器ですね」

「ああ、雑に使えばすぐに刃毀れする」

「使いどころの見極めが大事ってことですか」

「覚えておけ」

「それは借金にも適用されますか」

「される」

「ですよね」


夕飯の後半、一番の席で客が手を上げた。


「水をくれ」


ユンの身体が固まる。

ノアが反射で動きかける。

その手が、盆のところで止まった。

ユンは壁の木片を見る。

入口から二番まで。水差し。自分。

それから、水差しの棚の脇に置いた古いまな板を見る。

一番、二番、水。三番から先は、担当を呼ぶ。

ユンは水差しを持つ。


一歩目は遅い。二歩目も速くはない。でも、止まらない。

途中で三番の客が手を上げた。


「こっちも水」


ユンの目がそちらへ引かれる。

水差しが少し傾く。

ノアの足が動きかける。ブラムの口が開きかける。マリエの手が胸の前で止まる。

ユンは、息を吸った。


「少々お待ちください」


声は小さい。でも、言えた。


「担当を呼びます」


ブラムが三番の机へ向かった。

ノアは盆を握ったまま、その場に残る。

マリエは厨房の戸の向こうで、鍋を見ている。

セラは入口近くで、誰が動かなかったかを見ている。

ユンは一番の客に水を注いだ。

白い水差しから、澄んだ水が落ちる。

客は何も知らない顔で杯を取る。


「ありがとよ」


ユンは小さく頷いた。


三番の机の方で、ブラムが水を注いでいる。

ユンはそちらへ目を引かれかけて、古いまな板へ戻した。

三番から先は、担当を呼ぶ。

そこに書いてあるから、行かなくていい。

頭の中に広がりかけたものが、板の上で止まったのだとわかった。

トオルは何か言いそうになって、やめた。

よくできました、でもない。

これで大丈夫、でもない。

まして、もう見えているから安心していい、でもない。



今は、見ないでほしい。


でも、忘れないでほしい。



その言葉を思い出して、トオルはセラの後について階段に足をかける。

背中の向こうで、こぽ、と水の注がれる音がした。

確かめに戻りたい、と思った。

ユンがどんな顔をしているのか。

ノアが動かずにいられたのか。

ブラムが声を荒げなかったのか。

マリエが手を出さずにいられたのか。

見れば、たぶん少し安心できる。でも、その安心は、俺のものだ。


トオルは階段の手すりに触れた。

木の表面は、何度も人の手が触れたせいで、少しだけ丸くなっている。

もう一度、こぽ、と水の音がした。



見ない。


でも、忘れない。



その二つが同じ場所に立てることを、トオルはまだ知らない。


知らないまま、白い水差し亭の階段を上った。




ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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