第三話 壁の向こうの獣人区
王都の東側には、風下の街と呼ばれる区画がある。
地図には、別の名前が書かれていた。
獣人区。
人間側の呼び名だ。
そこに住む人たちは、自分たちの街を風下の街と呼ぶ。
鍛冶場の煙。下水の臭い。市場の騒ぎ。干し肉を焼く匂い。
王都のいろいろなものが、風に乗って流れてくるからだという。
夜になると、風下の者たちはさらに別のものを読むらしい。
足音、鐘の響き、荷車の軋み、誰かが息を潜める気配。
同じ場所でも、呼び名が違う。その時点で、もう壁がある。
その日の朝も、トオルはセラに連れられて、執政官府の執務室にいた。
マティアスの机には、昨日より書類が増えている。この国では、問題は紙になるらしい。
紙になった問題だけが、やっと誰かの机に乗る。
「市場の端で、柵が機嫌を悪くした」
マティアスは、冷めた茶を片手にそう言った。
「柵は機嫌を悪くしません」
セラが言う。
「では、人が柵に機嫌を預けた」
「揉め事ですね」
「そう、それだ」
マティアスは満足そうに頷いた。
「最初からそう言ってください」
「最初からそう言うと、ただの報告になる」
「報告してください」
「セラはいつも細かい」
「私のその細かさが、あなたをその座に留めているのかもしれませんね」
セラは皮肉を込めて、にっこりと笑って見せる。
「さて、冗談はさておき」
マティアスは焼き菓子の粉を袖から払った。
本人は飄々としている。だが、雑な言葉の置き方の奥に、妙に逃げられないものがある。
「狼の耳を持つ少女が、人間の子どもを突き飛ばした。人間側は、獣人が乱暴したと言っている。風下の街の者たちは、荷車から助けたのだと言っている」
トオルは言葉を探した。助けたのに責められた。
そう言いそうになって、止める。まだ見ていない。
それに、その言葉はたぶん、誰かの怖さを消してしまう。
「被害は」
セラが聞いた。
「子どもに大きな怪我はない。ただ、母親が強く抗議している。市場の者たちも騒いでいる。風下の街側は、また人間が決めつけていると反発している」
マティアスは依頼書を指で軽く叩いた。
「呼び名が三つある場所は、だいたい揉める」
「呼び名?」
トオルが聞き返す。
「人間は獣人区と言う。獣人は風下の街と言う。そして市場の者は、あの辺りを火薬庫と呼ぶ」
マティアスは困ったように笑った。
「同じ場所に三つ名札がある。どの札を読むかで、見えるものが変わる。厄介この上ない」
セラは依頼書を取る。
「確認の場として扱います。処分は後です」
「そうしてくれ」
マティアスはトオルを見る。
「トール」
「はい」
「わかった顔をするなよ」
「それ、セラさんにも言われそうです」
「なら、二人分だ。よく効くだろう」
セラは扉へ向かいながら言った。
「行くぞ」
部屋を出ると、セラはすぐトオルを見た。
「トール。今日は、わかった顔をするな」
「今、マティアスさんにも言われました」
「足りない」
「二人分でも足りませんか」
「足りない」
「信用が低い」
「観察の結果だ」
セラは一拍置いた。
「それと、獣人区では『耳が痛い』という冗談はやめろ」
「……はい」
王都の市場は、朝から騒がしい。
野菜、肉、布、鍋、香辛料。声が四方から飛んでくる。
笑い声も怒鳴り声も、値切る声も、馬の鼻息も、同じ場所で混ざっている。
その端に、風下の街へ続く細い道があった。
道の入口には低い柵がある。
壁と呼ぶには低い。でも、越えようとする者を一度止めるには十分な高さだ。
柵の近くには、古い石柱が二本立っていた。
人間側の石畳はそこで少し途切れ、向こう側は土と石の混じった道になる。
浅い排水溝。わずかな段差。掲示板。いつも開いている簡素な門。
入れないわけではない。でも、入る時には一歩を意識させる。
そういう入口だった。
その柵の前で、すでに小さな揉め事が起きていた。
「だから、あの獣を出せと言ってるんだ!」
市場の男が叫ぶ。
その言葉に、周囲の空気が一段低くなる。
柵の向こうにいた大柄な獣人が、一歩前に出た。
熊に似た耳。厚い肩。太い腕。
腰紐には、黒く磨かれた小さな牙のような飾りが下がっている。
護符なのか、合図なのか、トオルにはわからない。
ただ、それを見た市場の男が、ほんの少しだけ口を閉じた。
指先の爪が、柵の木に食い込む。ぎし、と音がした。
それだけで、近くにいた人間の子どもが泣き出す。
市場の男は半歩下がった。それでも口だけは止まらない。
「ほら見ろ。そういうところだろうが」
獣人の男は、笑わなかった。
「次にその呼び方をしたら、この柵は意味を失う」
脅しだった。
ただの脅しではない。実際にできる者の声だ。
市場の男の顔から血の気が引く。
近くの門番が剣に手をかけた。
その瞬間、セラが短く言う。
「抜くな」
門番の手が止まった。
セラは男と獣人の間にすぐ割って入らない。
先に見るのは、距離だ。
柵、剣、子どもの位置、逃げ道。
それから、自分の剣を鞘ごと外し、トオルに渡す。
重い。
「セラさん?」
「こちらが先に危険を下げる。話はそれからだ」
獣人の男が鼻を鳴らした。
「剣を外せば入れると思うのか」
「思っていない」
「なら帰れ」
「それもできる。だが、帰れば市場の連中は、また勝手に話を作る」
男の爪は、柵から離れない。
「人間はいつもそうだ。怖がる。決める。呼ぶ。囲む。それで、こちらが唸れば、やはり獣だと言う」
その声には怒りがある。でも、怒りだけではない。
同じ場所に何度も押し戻された者の声だった。
セラは表情を変えない。
「王都警備隊副官セラだ。状況確認に来た。処分はしない。だが、脅しをそのままにもできない」
男の目が細くなる。
「俺を処分するか」
「今はしない。だが、今ここで柵を折れば、私が止める」
「剣もなしに?」
「剣を抜けば、そちらもこちらも引けなくなる。だから外した」
男は、しばらくセラを見ていた。
その視線は、剣を持っているかどうかではなく、言ったことを守る人間かどうかを測っているように見える。
「バルクだ」
男はようやく名乗った。
「入れ。だが奥までは行くな。俺の後ろに立つな。耳に触るな。子どもに近づくな」
「わかった」
「その男は」
バルクがトオルを見る。
「トール。測量士だ」
セラが答えた。
「測量士?」
「勝手に決める前に、分けて見る」
バルクは鼻で笑う。
「人間は、分けたあとに値をつける」
その言葉が刺さる。
トオルは「違う」と言いかけた。
でも、それは自分の都合だ。
ここで否定しても、バルクの中にある過去は消えない。
「そう見えることは、あると思います」
バルクはトオルを見た。
「なら、そう見えないようにしろ」
「はい」
「はい、で済むと思うな」
「思っていません」
バルクは笑わない。
けれど、柵から手を離した。木には、爪の跡が深く残っている。
トオルはその跡を見る。
人間側が怖がる理由は、ある。
それをなかったことにすると、また届かない。
風下の街は、市場とは匂いが違った。
煙。毛皮。煮込み。湿った布。
人間の市場では隠されていたものが、ここでは隠されずにある。
子どもたちがこちらを見る。
笑ってはいない。怯えてもいない。ただ、距離を測っている。
問題の少女は、細い路地の奥にいた。
狼の耳。痩せた身体。鋭い目。年の頃は十五、くらいだろうか。
トオルの世界の基準で考えていいのかはわからない。
「リナ」
バルクが呼ぶ。
少女は舌打ちした。
「連れてきたのか」
「確認だ」
「決めつけるの間違いだろ」
リナの耳は、トオルたちの方を向いていない。
市場の方へ向いている。
遠くの鐘。人の声。荷車の軋み。
彼女は、それらを全部拾っている。
見えてしまう人間がいるなら、聞こえすぎてしまう人間もいる。
そんなことを思って、すぐに飲み込む。
それはトオルの言葉だ。リナのものではない。
トオルが一歩進もうとした瞬間、リナの尾が跳ねた。
「そこ」
鋭い声だった。
トオルは足を止める。
「ここですか」
「それ以上来るな」
「わかりました」
リナの目が少しだけ細くなる。
「そこで止まるのか」
「止まれと言われたので」
「人間はだいたい、もう一歩来る」
トオルは足元を見る。
石の割れ目。柵の影。リナまで、およそ五歩。
「どこからなら話せますか」
「何が」
「俺の位置です。近いと嫌なら、ここで止まります。遠い方がいいなら、下がります」
リナは一瞬、意味がわからないという顔をした。
バルクも黙る。
セラは何も言わない。
ただ、トオルとリナの間に誰も入らない位置へ半歩ずれた。
「……そこ」
リナが言う。
「柵の影から出るな」
「はい」
「耳を見るな」
「見ません」
「わかった顔をするな」
それは、セラにもマティアスにも言われた。
胸の奥が少し鳴る。
「……気をつけます」
リナの耳が動いた。
「怒らないのか」
「何にですか」
「こっちが条件ばっかりつけてる」
「話すための条件なら、先にあった方がいいです」
リナは少しだけ目を細めた。
「変なやつ」
「よく言われます」
「何が?」
「返し方が変だと」
「自覚あるのか」
「最近、増えてきました」
「やっぱり変」
リナは壁にもたれた。まだ警戒は解いていない。
でも、言葉を投げる距離には入ったらしい。
「人間の測るやつだろ」
「たぶん」
「測るって、切ることだろ。見るのも同じだ」
返す言葉が、一瞬遅れた。
その言葉を、知らなかったわけではない。
測ることは、切ること。この世界に来る以前、トオル自身もそう思ったことがある。
けれど、リナの言うそれは、トオルが考えていたものと向きが違った。
トオルにとっては、混ざったものを扱える大きさに分けるための切断だった。
リナにとっては、人間の言葉で分けられ、値をつけられ、自分の形から切り離されることだった。
「長さを決める。重さを決める。値段を決める。こっちのことを、そっちの言葉にする」
トオルは「違う」と言いかけた。
でも、違うと言うには、彼女の言葉は正しすぎた。
「……そう見えることは、あると思います」
リナの目が細くなる。
「ある、じゃない。あったんだよ」
その言葉で、トオルはもう一度黙った。
「それで、あんたも『本当は助けたんですね』って言うのか」
言いそうだった。
その言葉は、リナを守る顔をして、彼女を別の箱に入れる。
トオルは飲み込む。
「言いません」
「どうして」
「見ていないからです」
「じゃあ、何を聞くの」
「あなたが話せるところからです。無理なら、話さなくてもいいです」
「話さなきゃ、人間は勝手に決める」
「はい」
「はい、じゃない」
「はい」
リナが顔をしかめた。
「腹立つ」
「すみません」
「謝るな」
「はい」
バルクが低く言う。
「お前、わざとか」
「いいえ」
セラが短く言った。
「半分は性格だ」
「残り半分は」
「まだ測っている途中だ」
「セラさんまで」
リナが、ほんの少しだけ息を吐いた。
笑ったわけではない。でも、張りつめていた線が一瞬だけ緩む。
リナは壁にもたれたまま、短く話し始めた。
荷車が下り坂で揺れたこと。車輪が石に乗り上げたこと。
人間の子どもが、母親の手を離れて前へ出たこと。馬の鼻息が変わったこと。
「荷車の音が変だった」
リナは耳の後ろを押さえる。
「木が割れる音。車輪が滑る音。子どもの足音。全部、同じ方に寄った」
彼女の指が壁をかすめる。
「母さんが言ってた。音が一つの場所に寄ったら、先に体を動かせって。考えるのは後でいいって」
その言い方だけ、少し幼くなった。
「来ると思った。来る前に、体が動いた」
「それで、突き飛ばした」
「突き飛ばしたんじゃない」
リナの尾がぴんと張る。
トオルは言い直す。
「横へどかした」
「そう」
「でも、子どもは飛んだ」
リナの口が止まる。
「……飛んだ」
それは、彼女の中でも消せない事実らしかった。
「軽かった。人間の子どもは、思っていたよりずっと軽い」
その言い方は危うい。でも、たぶん本当だ。
助けるつもりの力が、相手には強すぎることがある。
善意でも、身体の差は消えない。
「それで、みんな叫んだ」
リナの指が、耳の後ろを強く押す。
「女の人が叫んで、誰かが鐘を鳴らして、鍋を落としたやつがいて、馬が鳴いて、全部こっちに来た」
全部こっちに来た。
その言い方を、トオルは知っていた。
見えたものや聞こえたものが、外ではなく、自分の中へ直接入ってくる感じ。
誰かの怒りや不安が、ただの音ではなく、自分に向けられたものみたいに刺さる感じ。
似ている、とは言いたくなかった。
言いたくはなかったが、目も耳も逸らせなかった。
「それで、その場を離れた」
「逃げたんじゃない」
「はい」
「でも、ここにいたら耳が潰れると思った」
その両方が、本当なのだろう。
トオルは頷きかけて、途中で止めた。
頷くことさえ、近すぎる時がある。
かわりに、足の位置を変えなかった。
市場へ戻ると、人間側の母親はまだ怒っていた。
子どもは母親の後ろに隠れている。大きな怪我はない。
けれど、腕に擦り傷があり、目は赤い。
「獣人に突き飛ばされたんです!」
母親の声は震えている。
怒りだけではない。怖かったのだ。
自分の子どもが、知らない力で飛ばされた。
それは、たとえ助けるためのものだったとしても怖い。
「お子さんは、怖かったんですね」
トオルが言うと、母親は強く頷いた。
「当たり前です!」
「はい」
「助けたなら、何をしてもいいんですか」
「いいわけではありません」
リナが何か言いかける。
セラの視線が先に止める。今ではない。
トオルは子どもの高さまでしゃがむ。
「何が一番怖かった?」
子どもは母親の服を握る。
「目」
「目」
「あの子の目。あと、うなった声」
リナの耳が伏せる。
「うなってない。耳が痛かっただけ」
母親が言い返しかける。
「うちの子は」
セラが間に立つ。
彼女は誰かの顔ではなく、立ち位置を見る。
母親とリナの間に子どもが入らないよう、半歩ずらす。
バルクが前に出すぎないよう、視線で止める。
「今は言い返す場ではない。順に置く」
母親を見る。
「子どもは怖かった。それは残す」
リナを見る。
「リナは危険を避けた。それも残す」
市場の責任者を見る。
「坂道に止め木を置け。今日中だ」
責任者が慌てる。
「いや、今までは問題なく」
「今日問題が起きた」
それだけで黙る。
セラはバルクを見る。
「鐘の音が痛い者がいるなら、危険の知らせ方を増やす」
バルクは腕を組んだ。
「人間がそんなもの覚えるか」
市場の責任者が言う。
「こちらにも都合がある。全部獣人に合わせろというのか」
空気がまた硬くなる。トオルは周囲を見る。
叫ぶと揉める。黙ると伝わらない。近づくと怖がられる。離れると逃げたと言われる。
だったら、声より先に出せるものが要る。
市場の端に、果物箱の壊れた板があった。
トオルはその木片を拾う。
リナが眉をひそめる。
「何してる」
「叫ぶ前に置けるものを作っています」
「変なの」
「どちらにとってもちょっとだけ変なものが、今この場には必要なのかもしれません」
市場の染料売りに、余った色粉を少し分けてもらう。
金はなかったので、セラが支払った。
「また借りですか」
「増えているな」
「返済計画が未定です」
「生きていればいつかは返せる」
この人はたまに、雑に重いことを言う。
トオルは木片を三つ並べた。
「俺だけでは、意味を決められません」
市場責任者が眉をひそめる。
「どういうことだ」
「人間側でわかる印と、風下の街側でわかる印は、たぶん違います」
バルクが鼻を鳴らす。
「たぶん、ではない。違う」
「はい。だから、決めてください」
「人間に決めさせる気はない」
「俺にも決められません」
リナが木片を見る。
「なら、何を作るの」
「最初は、止まるための札です」
「止まる?」
「すぐ殴るとか、すぐ叫ぶとか、すぐ決めるとか、その前に止まるためのものです」
セラが補う。
「札は証明ではない。話を始める合図だ」
トオルは一つ目の木片に黄色を塗ろうとした。
「これは、音や刺激が強すぎる時の札にしたいです」
リナが木片を取る。
「黄色だけじゃ見えない時もある」
「見えない?」
「目を閉じる時がある。耳が痛い時は、目も細くなる」
バルクが腰の袋から細い骨片のようなものを取り出した。
だが、リナが首を振る。
「骨は嫌」
「なら、刻め」
リナは木片の端に、耳を押さえるような短い線を二つ刻んだ。
「これなら、見なくても指でわかる」
市場責任者は難しい顔をする。
「人間側では、黄色は注意の印だ。鐘のそばに置けば、意味は通る」
「なら、黄札」
セラが言った。
「鐘を鳴らす前、または音を下げる必要がある時の札にする。市場側の掲示にも書く」
次に、トオルは黒い木片を手にした。
「これは、近づかないで、触らないで、の札にしたいです」
リナが黒い木片をつまむ。
「夜毛の色だな」
「夜毛」
「夜に狩る毛の色。近づくな、には合ってる」
リナは黒い札を指で弾いた。
「でも、匂いもつけろ。見えない時もある」
「匂い?」
バルクが、腰の袋から乾いた草を少し取り出す。
「苦草だ。風下では、この草を結んだ縄には触らない」
彼は黒い木片の端に、苦草を巻こうとした。
太い指が、慣れた手つきで草を折り、結び目を作りかける。
リナがそれを見て、手を伸ばした。
「違う」
バルクの手が止まる。
「何がだ」
「母さんの結び方と違う」
その声だけ、さっきより少し低かった。
バルクの目がわずかに動く。
「なら、お前が結べ」
リナはしばらく黙ってから、黒い木片を受け取った。
指の動きだけが、さっきより少し丁寧になった。
苦草を一度ねじり、木片の角に沿わせる。
結び目は小さい。だが、指で触ると向きがわかる。
「これなら、見なくてもわかる」
トオルは黒い木片を見る。
色。刻み。匂い。人間の札は、目で読むものだった。
風下の街の札は、目だけでは足りない。
セラが短く言う。
「札を増やすな。読み方を増やせ」
その一言で、木箱の上に置かれていた木片が、少しだけ別のものに見えた。
黄には、刻み。
黒には、苦草。
人間側の文字の横に、風下の街の印が足されていく。
最後に、トオルは白い木片を手に取った。
「これは、代表者を呼ぶ札にしようと思っていました」
バルクが低く止める。
「白とはどれだ」
トオルは染料の皿を指す。
「これです」
バルクは目を細めてそれを見た。
「乾き骨の色だな」
「乾き骨」
「風下では、骨が日に晒されて匂いを失った色をそう呼ぶ。代表を呼ぶ色には向かん」
市場の責任者が顔をしかめる。
「白は、こちらでは正式な合図に使う」
「そちらではな」
バルクの爪が木箱の縁を軽く叩いた。
「こちらで乾き骨を掲げられたら、話し合いではなく、死んだものを数える合図に見える」
トオルは口を開きかけて、閉じた。
白は白だと思っていた。だが、色はただの色ではない。
どこで、何と一緒に見てきたかで、別のものになる。
セラが白い木片を手に取る。
「では、人間側の記録には白札と書く。風下では何ならよい」
バルクはしばらく考えた。
「灰だ」
「灰」
「火が終わったあとの色だ。まだ匂いは残る。だが、燃えてはいない。話を止めて、二人で見るなら、その方がいい」
セラは頷いた。
「なら、人間側の記録には白札。風下の街では灰札。札には丸を二つ刻む。代表二人の印だ」
バルクは木片を受け取り、爪で二つの丸を刻んだ。
「これなら、まだ見られる」
市場責任者が腕を組む。
「代表者を呼ぶと言っても、誰が来る」
ここで、セラが前へ出た。
トオルではなく、セラが決める場所だった。
「灰札が出た時、最初に来るのは警備隊ではない。市場責任者と風下の街の代表だ」
「兵士は来ないのか」
バルクが聞く。
「暴力が起きれば来る。だが、灰札だけでは来ない」
「誰が守る」
「記録する」
セラは市場の掲示板を指す。
「市場の掲示板と、風下の街の入口、両方に貼る。灰札が出たら、代表二人が来る。札を無視した側は、その責任が記録される」
市場責任者が顔をしかめる。
「こちらだけが責められるのは困る」
「両方だ」
セラはバルクを見る。
「灰札を出して代表が来た後で柵を折れば、そちらの責任になる」
バルクの爪が動く。
「わかっている」
「なら、書ける」
リナが黒札を手に取る。
「黒札を出してるのに、近づいたら?」
「近づいた側の責任として記録する」
「黒札を出した方が、後から追いかけたら?」
「それも記録する」
リナはしばらく黒札を見ていた。
「都合よく使えないってことか」
「使おうとすれば、使ったことが残る」
セラの答えは短い。けれど、そこでようやく、札がただの木片ではなくなった。
母親はまだ納得していない顔をしている。
「でも、怖かったのは本当です」
「はい」
トオルは頷く。
「それも、置く場所が要ると思います」
母親が戸惑う。
「怖かった、を?」
「はい。助けられた側にも、怖かったと言う場所が要ります」
セラがこちらを見る。
一瞬、言いすぎたかと思った。だが、彼女は止めない。
市場の責任者が、小さな赤茶色の木片を差し出す。
「これなら余っている」
そこに、子どもが小さく絵を描いた。
丸い目。震える線。茶。
怖かった。
バルクがその札を見る。
「土濡れの色だな」
「土濡れ?」
「踏まれた土が、まだ乾いていない色だ」
母親は不安そうに子どもを見る。
リナはそれを見て、顔をしかめる。
「……怖かったのか」
子どもは母親の後ろで頷いた。
リナはしばらく黙る。
「痛かった」
誰もすぐには返さなかった。
リナは黄札を指で弾く。
「耳が痛かった」
子どもは茶色の札を握る。
「こわかった」
二つの札が、同じ木箱の上に置かれる。
仲直りではない。許しでもない。
どちらかが正しかった、という話でもない。
でも、どちらか一方だけが消されるよりは、少しましだった。
青い板が視界に浮かぶ。
-------------------------------------------------------------------------------------
【補助技能:反響読解】
怒り、沈黙、拒絶、距離を、相手の本音そのものではなく、壁に返った音として読む技能。
【注意】
反響は答えではありません。
「わかった」と言わず、戻って確かめてください。
-------------------------------------------------------------------------------------
反響は答えではない。
それは、たぶんトオルに必要な注意だった。
市場の責任者は、坂道に止め木を置くことになった。
鐘のそばには、黄札を吊るす場所が作られる。
風下の街の入口には、灰札を置く箱が置かれた。
揉めた時、誰かが代表者を呼ぶための箱だ。
黒札は、風下の街の側でいくつか試すことになった。
苦草の結び方は、リナが決める。
人間側の掲示には、セラが短い文を書いた。
札は証明ではない。その場で決める前に、止まるための合図である。
完璧ではない。たぶん、また揉める。
それでも、次に揉める時、叫ぶ以外のものが一つある。
帰り際、リナがトオルを呼んだ。
「人間」
振り返る。
「わかった顔はしなかったな」
「はい」
「でも、まだ人間だ」
「はい」
「それでいい」
その言い方には、少しだけ棘がある。
でも、棘が抜かれていないことに、トオルは少し安心した。
誰かに理解された顔をされるより、棘が残っている方が安全な時もある。
リナは黄札を手の中で回した。
「これ、持ってく」
「はい」
「使うかどうかは、こっちで決める」
「はい」
それでいい。
セラは、トオルがそれ以上言わないのを見ていた。
市場を出ると、彼女が言う。
「トール。今日は、止まったな」
「何回か、言いそうになりました」
「見えていた」
「でしょうね」
「特に、リナに似ていると言いそうになった時」
トオルは黙る。
セラは前を向いたまま続ける。
「似ていると思うことは悪くない。だが、それを相手に渡すな」
「どうしてですか」
「相手は、お前の鏡ではない」
足元の石畳が、少しだけ熱を持っている。
昼の市場の熱が、まだ残っているのだ。
「はい」
「それと、札を増やしすぎるな」
「はい」
「札は壁を消さない」
「………そうですね」
「壁があることを忘れないために使え」
風下の街から流れてきた煙が、夕方の空に混じる。
その匂いは、市場を抜けても、少しだけ服に残っていた。
門へ戻る道で、遠くから鐘が鳴る。
リナには、あれがどんなふうに聞こえるのだろう。
そう思った。でも、答えを決めるのはやめた。
リナの手の中で、黄札が小さく揺れていた。
その腰紐には、苦草を結んだ黒札も下がっている。
近づくな、という札。
その匂いだけが、夕方の市場の中で、しばらく消えなかった。
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