表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇者ではなく、測量士  作者: Chroe


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/7

第二話 怒鳴る鍛冶屋と泣かない弟子



執政官府は、静かな場所ではなかった。

怒鳴り声はない。けれど、紙の音がする。

羽根ペンが走る音。封蝋を押す音。書類を束ねる紐の音。

誰かが小声で説明し、別の誰かが「その欄はありません」と返す声。


静かに、人が止められている。そういう場所だった。


白冠宮の外郭にある執政官府の一室で、俺は椅子に座らされていた。

机の上には書類の山がある。山、というより小さな丘だった。

その丘の向こうで、老人が茶を飲んでいる。

白髪まじりの髪を後ろへ流し、細い眼鏡を鼻の低い位置にかけている。

服は上等だ。ただし、袖に焼き菓子の粉がついていた。


執政官マティアス。


この部屋で一番偉い人のはずだが、一番忙しそうには見えない。


「で」


マティアスは俺ではなく、セラを見た。


「拾ったのか」

「拾いました」

「人を拾うな。犬でも面倒なんだぞ。餌代、寝床、噛んだ時の責任。人ならもっと面倒だ」

「噛みません」


俺が言うと、マティアスはようやくこちらを見た。


「噛む奴ほど、最初はそう言う」

「俺、もうその扱いなんですね」

「まだ扱いが決まっていない。だから面倒なんだ」


マティアスは紙を一枚引っ張り出した。


「身分証なし、所持金なし、宿なし、出身地不明、通行履歴なし」

「改めて並べられると、かなりひどいですね」

「ひどいからこうして並べているわけだが」


マティアスは羽根ペンを持ち、紙の空いたところに大きく書いた。


拾得旅人。


セラが眉を寄せた。


「執政官」

「なんだ」

「人間に拾得は使いません」

「では何だ」

「身元確認中の旅人、です」

「長い」

「正確です」

「正確な言葉は、たいてい長いな」


マティアスはため息をつき、拾得旅人の横に線を引いた。

その隣に、改めて書く。


身元確認中の旅人。


「これでいいか」

「はい」

「面倒なことだ」

「私ではなく、この人が面倒です」

「そこはほれ、管理責任というやつだ」


セラは否定しなかった。


してほしかった。


「この国ではな」


マティアスは、焼き菓子の粉を袖から払った。


「欄がない者は、ときどき、いない者みたいに扱われる」


軽い声だった。なのに、そこだけ急に冷たい水をかけられたように響いた。


「よくない。よくないが、紙はそういう顔をする。だから欄を作る。欄を作ると仕事が増える。仕事が増えると、私の茶が冷める」

「最後だけ急に小さくなりましたね」

「人助けとは、だいたい誰かの茶を冷ますことだ」


マティアスはそう言って、もう冷めきった茶を飲んだ。


「で、名は」

「トオルです」

「トール、と聞いたが」

「セラさんがそう呼びます」

「なら、しばらくはトールで通るだろう」

「本人確認が軽いですね」

「本人確認は、後で書面にする」


セラと似たことを言う。この国では、存在はまず書面にされるものらしい。

少なくとも、俺はまだ書面より軽い。


マティアスは紙の端を指で叩いた。


「通常なら警備隊預かりだ。だが、門前で少し役に立ったらしい。セラ副官の現場保証もある。だから、ひとまずここに置く」

「現場保証」


俺は小さく呟く。


「人間にも、そういう保証があるんですね」

「人間だからある」


マティアスは答えた。


「物なら刻印で済む。人は動く。だから、誰がどこで何を見たかを残す」


セラは壁際に立っていた。

彼女は椅子に座らない。扉の位置、窓、机の間隔、部屋の出入りを見ている。

白冠宮の中でも、やはり出口を見ている。


マティアスは机の上に王都の簡略図を広げた。


白冠宮。門。倉庫街。鍛冶街。水路。市場。各区画の境目。


「王は最後に印を押す。執政官府は、日々の面倒を見る」

「面倒」

「道が壊れた。門が詰まった。倉庫が足りない。税が足りない。配給が遅い。工房が怒鳴っている。だいたい、どれも面倒だ」

「かなり大雑把ですね」

「細かく言うと日が暮れる」


マティアスは王都図を雑に指でなぞった。


「まだ罪でも、不正でも、政策でもないものがある。誰かが困っている。何かが止まっている。けれど、どの役所の仕事か決まっていない。そういうものを、まず机の上に乗せる。まあ、執政官府はそういうところだ」


雑なのに、少しわかってしまう。


「王都警備隊は?」

「人が動く場所を見る。門、道、火事、喧嘩、暴動、避難。紙では間に合わんところだ」


セラは表情を変えない。


「監査院は?」


俺が聞くと、マティアスの指がぴたりと止まった。


「紙の中で人を殺す奴を見る」


部屋の空気が、少しだけ変わった。


「帳簿、倉庫、通行札、税、配給、契約。王立監査院は、そういうものを開ける。当然、ここの帳簿もな」

「執政官府の帳簿も」

「そうだ」

「仲が悪そうですね」

「必要な距離がある、ということにしておけ」


言い方が大人だった。

つまり、たぶん仲が悪い。


マティアスは焼き菓子の欠片を口に入れ、顔をしかめた。


「湿気ているな」

「今、その話ですか」

「湿気た菓子も、湿気た帳簿も、放っておくとよくない。ただな」


マティアスは、指先で王都図の鍛冶街を叩いた。


「何でもすぐ院へ渡せばいいわけでもない。院は開ける場所だ。開ければ、中身は見える。だが、開けるだけで壊れるものもある」

「壊れる」

「工房とか、人間関係とか、言い訳でなんとか立っている古い棚とかだ」

「最後のは、かなり具体的ですね」

「具体的な棚ほど倒れる」


彼は、机の端に置いていた別の依頼書をこちらへ滑らせた。


「その説明にちょうどいい鍋がある」

「鍋」

「ガロン工房が煮えている」


俺は紙を見る。ガロン鍛冶工房。鍋ではない。


「工房ですよね」

「鍋みたいなものだ。火が入り、圧がかかり、中身が跳ねる」

「わかるような、わからないような」


セラが依頼書を取った。


「ガロン工房で、怒鳴り声が増え、納期が遅れ、その過程で弟子のアッシュが火傷を負っている可能性がある、ということですね」

「そう、それだ。私は今それを言った」

「言っていません」

「だいたい言った」

「鍋としか言っていません」


マティアスは笑った。


「セラは細かいな」

「あなたが雑すぎるんです」

「雑に掴まないと、面倒は見えん」

「雑に掴んだまま投げるから、現場が潰れます」

「だからお前を呼んだんだろう」


セラは少しだけ眉を寄せた。嫌そうだが、否定はしなかった。


マティアスは王都図の門のあたりを太い指で叩いた。


「昨日、お前たちが門の流れを変えた」

「はい」

「あれで門は少し楽になった。代わりに、門を直す金具が要るようになった」

「俺たちのせいですか」

「せい、ではない。流れだ。水をこっちへ逃がせば、次はそっちが濡れる」


大味な言い方だった。でも、わかりやすかった。

門前の列を分けた。怪我人と子連れを日陰へ移した。荷車を井戸の横へ寄せた。

そのためには、柵がいる。金具がいる。支柱がいる。

俺が見た詰まりは、消えたのではない。別の形で、別の場所へ移っただけかもしれない。


マティアスは依頼書を指で弾いた。


「ガロンは怒鳴る。昔からだ」

「それを知っていて放置していたんですか」

「怒鳴るだけなら職人街の名物で済む。だが、今回は鍋の蓋が浮いている」

「また鍋」

「弟子が逃げる。納期が遅れる。門の金具も足りない。そろそろ吹きこぼれる」


セラが補足する。


「つまり、追加発注と通常納品と弟子の訓練が、同じ工房に重なっている」

「それだ」

「親方の怒鳴り声だけを止めても、発注圧が残る」

「たぶん、そうだ」

「材料や帳簿に不審があれば、監査院案件になる」

「なるかもしれん」

「ただし、今呼べば工房が潰れる可能性がある」

「大いにある」


マティアスは焼き菓子の皿を脇へ寄せた。


「強い道具はな、強いんだ」


急に、声が少しだけ低くなる。


「監査院は必要だ。だが、早すぎる監査は、治療ではなく解剖になることがある」


軽い老人の顔から、ふっと余分なものが消えた。けれど、それも長くは続かない。

マティアスはすぐに困ったように笑った。


「まあ、困ったもんだな」


袖の粉をもう一度払う。


「ガロンを切れば、いい工房が一つ消える。放っておけば、弟子が先に消える。監査院を呼べば、工房が帳簿ごとひっくり返るかもしれん」

「結局、どうしろと」


セラが聞く。


「そこを考えるのが、お前たちというわけだ」

「雑ですね」

「だからお前たちに頼んでいるではないか」


マティアスは俺を見る。


「トール」

「はい」

「この国で測量士として生きていくなら」

「見たものを、すぐ人にするなよ」


俺は言葉に詰まった。


マティアスは紙を一枚こちらへ差し出す。


そこには、近隣からの聞き取りが短く並んでいる。


昨日から怒鳴り声が止まらない。

弟子のアッシュが朝、水場で手を冷やしていた。

その後も炉に戻っている。


「怒鳴る親方。泣かない弟子。遅れる納期。増えた発注。どれか一つを悪者にすると、たぶん楽だ」


マティアスは軽く言った。


「楽な答えは、だいたい後で高くつく」


今度は、セラも何も言わなかった。


工房へ向かう道は、王都の中でも音が多かった。

車輪の軋み。馬の蹄。行商人の声。鍛冶場から漏れる金属音。

セラは人混みの中でも歩く速さを変えない。ただ、先に道を見る。

人を見るのではなく、人が詰まりそうな場所を見る。

門の時と同じだ。


俺は隣を歩きながら聞いた。


「マティアスさんは、いつもあんな感じなんですか」

「だいたいそうだ」

「執政官として大丈夫なんですか」

「大枠を見る目はある」

「細かいところは?」

「周りが死ぬ」

「死ぬ」

「だから私が補う」


セラは前を見たまま言った。


「マティアスは、止まっている場所を見つけるのが早い。だが、どう動かすかは大味だ」

「それで、セラさんが細かくする」

「私は現場で動く形にするだけだ」


少しだけ、二人の関係がわかった気がした。

マティアスは、大きく見て、大きく置く。セラは、それを人が踏める幅に切る。


「ガロンさんは、怖い人ですか」

「怖い顔をしている」

「それは怖い人とは違うんですか」

「違う。怖い顔をしている人間の半分は、怖がっている」


意外な言葉だった。


「セラさんもですか」

「私は怖い顔をしているだけだ」

「説得力があります」

「褒めていないな」

「観察です」

「便利に使うな」


そう言いながら、セラの口元がほんの少し動いた。


「監査院が入ると、本当に工房は潰れるんですか」

「潰れることもある」

「帳簿を見るだけで?」

「帳簿だけではない。契約、材料、借り入れ、納品記録、税、通行札。全部を見る」

「全部」

「全部見なければ、紙の中に隠れた暴力は見つからない」

「でも、全部見られたら」

「息ができなくなる者もいる」


セラは工房街の入口を見る。


「だから、呼ぶ順番を間違えるな。監査院は必要だ。だが、早すぎれば、とどめになる」


工房に近づくと、金属音が空気を裂いた。

カン、カン、カン。その間に怒鳴り声。


「違う! そこじゃない!」

「すみません!」

「すみませんで鉄が戻るか!」


熱が顔に来る。

煤の匂い。汗の匂い。熱された鉄の匂い。

炉の赤が、昼間なのに夜の火みたいに見える。

入口の横には、執政官府の発注札が掛かっていた。

槍頭。補修金具。仮柵用留具。納期。朱で引かれた線。

紙の上の線が、炉の熱になっている。

そう見えた。


炉の前に、灰色の髪の大男がいた。

太い腕。煤だらけの前掛け。肩の幅だけで、入口をふさげそうだ。

ガロンだろう。


その前で、細身の少年が槌を握っている。

歳は十五か十六くらい。腕は震えているのに、目だけは鉄から離れない。

右手の甲が、赤い。水で冷やした跡が、まだ少し残っている。

けれど、少年は泣いていなかった。


泣けないのだ、と思った。

泣くと、見ていたものを失う。

泣くと、自分が何を見ていたのかまで疑われる。

その感じには、見覚えがある。


「ガロン」


セラの声に、親方が振り返る。


「セラ副官。納期ならわかっている」

「今日は納期の催促ではない。この男が見る」


ガロンの視線がこちらに来る。


「細いな」

「よく言われます」

「鍛冶場に細い理屈はいらん」

「たぶん、その通りです」


ガロンの眉が少しだけ動いた。


「で、何を見る」


俺は少年へ向く。


「名前を聞いてもいいですか」

「アッシュです」


少年の声は小さい。でも、返事は速い。

言われたことにすぐ反応する癖がついている。


「どこで止まりましたか」


ガロンが先に答える。


「火入れだ。何度言っても温度を見る目が甘い」


アッシュは鉄を見る。

その目は、見ていない目ではなかった。


「火は見ました。でも、親方の声が来ると、どこを見ていたかわからなくなります」


工房の空気が少し固くなる。ガロンの顔が険しい。


「俺のせいだと言うのか」


アッシュの肩が跳ねる。

俺は口を開きかける。違います、と言いたくなる。でも、違わない部分もある。

ここで俺がアッシュを守る形を取れば、ガロンは敵になる。

アッシュは、親方の前で守られた弟子になる。

それはたぶん、彼が望む形ではない。


セラが一歩前に出た。

彼女の視線は、ガロンの顔ではなく、炉と槌とアッシュの指先を見ている。


「ガロン。怒鳴るなら炉から離れろ」

「あ?」

「火の前で声を荒げるな。手元がぶれる」


説教ではない。安全の話だ。

その置き方だから、ガロンは反論しにくい。

ガロンは舌打ちをした。それでも、半歩だけ炉から離れる。

半歩。でも、アッシュの肩にはその半歩分の空気が入る。

俺はアッシュの槌を見る。


「その槌、重くないですか」


アッシュは驚いた顔をする。


「親方の槌なので」

「同じ槌を?」


ガロンが言う。


「当たり前だ。槌に慣れなければ話にならん」

「親方と同じ体格になる予定は?」

「あるわけないだろう」

「では、同じ槌で同じ動きをさせるのは、親方の複製を作ることになります」


言葉が少し鋭い。喉の奥で、遅れて危ないとわかる。

でも、もう出ている。

ガロンの目に火が映る。

セラは止めない。

ここは通る、と見ているのかもしれない。

あるいは、俺にここで失敗させるつもりなのかもしれない。

どちらにしても怖い。


「ガロンさんは、自分と同じ人を作りたいんですか。それとも、工房を続けたいんですか」


金属音が止まった。

工房の奥にいた職人たちも、こちらを見ている。

炉の音だけが残る。

ガロンはしばらく黙っていた。怒鳴られるかと思った。

だが、彼は炉を見たまま言う。


「俺は、怒鳴られて覚えた」

「はい」

「泣けば殴られた」

「はい」

「それでも覚えた」

「はい」

「だから、俺のやり方で覚えられん奴は、鍛冶屋には向かん」


その言葉は、誇りに見える。でも、誇りだけではない。

自分が耐えて得たものが、もう通じないかもしれない怖さ。

自分のやり方を否定されると、自分の人生まで崩れるような怖さ。


ガロンも、たぶん見えてしまう人ではある。

鉄の色。音。火の呼吸。弟子の浅い打ち込み。

見えてしまうから、見えない人間が許せない。

その困り方にも、少しだけ見覚えがある。


俺は言葉を選ぶ。


「親方のやり方で親方が残った。それは本当です。でも、親方のやり方で逃げた人もいます」


ガロンは目を伏せない。


「いるな」

「残った親方だけを証拠にすると、逃げた人の数が見えなくなります」


アッシュの手が槌の柄を握り直す。

ガロンは低く聞く。


「では、どうしろと」

「今日の失敗を、人ではなく作業に分けたいです」


俺は床に炭で書く。

発注が増える。納期が詰まる。炉の前に立つ。火を見る。色を見る。音を聞く。槌を振る。

親方の声を聞く。怖くなる。手元が浅くなる。

炭の線は、思ったより黒い。

床に書くだけで、失敗が少しだけ身体から離れる。


「アッシュさんは、全部できないわけではありません。火は見ている。でも声が来ると、火から目が外れる。槌も重い。なら、直す場所は根性ではなく、声の出し方と槌の重さです」


アッシュは床の炭の線を見ている。自分が責められているのではなく、起きたことが並べられている。

その違いに、まだ戸惑っている顔だ。


青い板が視界の端に浮かんだ。


-------------------------------------------------------------------------------------


【補助技能:工程分解】

失敗を人格ではなく、作業のどこで起きたかへ分ける技能。



【注意】

失敗を分けることは、責任を消すことではありません。

直せる場所を探すためのものです。


-------------------------------------------------------------------------------------


この世界の能力は、本当に説教つきである。


ガロンが言う。


「俺に声を出すなと?」


セラがすぐに入る。


「出すなとは言っていない。炉の前では短くしろ」

「短く?」

「危ない、止めろ、離れろ。火の前ではそれだけでいい。細かい話は鉄を置いてからだ」


ガロンは俺ではなく、セラを見る。

現場の言葉だからだ。


「細かい話を後にしたら、忘れる」

「なら、置いてから言え。忘れないように、言う場所を決めろ」


セラは工房の壁際を見る。


「炉の横ではなく、そこの台だ。鉄を置いた後なら、アッシュも手元を見失わない」


ガロンの目が、壁際の作業台に動く。彼は反論を探している。

でも、完全な拒否ではない。

俺は発注札を見る。


「それと、納期も分けた方がいいと思います」


ガロンの眉が動く。


「納期は執政官府が決める」

「はい。でも、全部を一つの遅れにすると、全部が親方の怠慢になります」

「怠慢だと言うのか」

「違います。だから分けた方がいいです」


俺は炭で、床の端にもう一つ線を引く。

槍頭。補修金具。仮柵用留具。訓練中の工程。


「警備隊に必要な槍頭と、昨日追加された門の金具と、アッシュさんの訓練が同じ炉の前に乗っています。全部を同じ急ぎ方にすると、怒鳴るしかなくなる」


セラが発注札を見た。


「ガロン。分割納品の申請を書け」

「書類は嫌いだ」

「好きかどうかは聞いていない」

「書いたところで納期が伸びるのか」

「伸びるとは限らない。だが、書かなければ、遅れは全部お前の怠慢になる」


ガロンは黙った。職人たちも黙っている。


「できない理由を書くな」


セラは続けた。


「先に出せるもの、遅れるもの、遅れる理由、代わりに出せる数。それを書く。執政官府は、できないと言う紙より、どこまでできるか書いた紙を優先して読む」

「面倒だな」

「面倒を嫌うなら、全部怒鳴り声になる」


その言葉は、少しだけ工房の奥まで届いた。

ガロンは低く舌打ちをした。それから工房の奥へ行き、少し軽い槌を持って戻ってくる。


「昔の試作用だ。軽すぎるが、今のアッシュにはましだろう」


アッシュがそれを受け取る。肩が少し下がる。

道具が身体に合うと、呼吸まで変わるのだと思った。


「もう一度だ」


ガロンが言う。声は大きい。でも、さっきより炉から離れている。

アッシュは鉄を見る。火を見る。色を見る。槌を上げる。


ガロンの口が動きかけた。

セラの視線が、ガロンの足元へ落ちる。炉からの距離を測っている。

ガロンは舌打ちして、言葉を短くした。


「浅い。もう半拍待て」


アッシュの手が止まらない。

もう半拍。鉄の色が変わる。槌が落ちる。

音が、さっきより少しだけ澄んだ。

完璧ではない。槍頭は、少し歪む。

ガロンはそれを拾い、長く眺める。


「これは売れん」


アッシュの顔が沈む。

俺は言いかける。でも、と。

その言葉は飲み込む。

ガロンが次に言う場所を奪ってはいけない。

ガロンは槍頭を作業台に置いた。


「だが、どこで歪んだかは見える。失敗の見本にはなる」


アッシュが顔を上げる。


「見本?」

「明日、これを見ながら打て」


ぶっきらぼうな態度は変わらない。けれど、失敗がアッシュの人格から少し離れた。


その時、青い板がまた淡く光る。


-------------------------------------------------------------------------------------


【補助技能:自己保持設計】

「すごさ」や「耐えた過去」に支えられた誇りを、壊さずに別の形へ移す技能。



【注意】

誇りを奪ってはいけません。

一人で背負わせない形へ変えてください。


-------------------------------------------------------------------------------------


誇りを奪ってはいけない。板の文字は、時々こちらの古傷をまっすぐ抉る。

ガロンは工房の奥の職人たちへ言う。


「明日から、炉の前での声は三つにする」


職人たちが顔を見合わせる。


「危ない、止めろ、離れろ。細かい話は台の前だ」


アッシュの目が大きくなる。

ガロンはさらに続ける。


「アッシュ。お前は今日から、その軽い槌を使え」

「でも、親方の槌じゃ」

「俺の槌は俺の腕に合っている。お前の腕には合っていない」


それは、かなり大きい言葉だった。

アッシュはすぐには返事をしない。たぶん、受け取る場所を探している。

やがて、小さく頷く。


「はい」


ガロンは壁の発注札を見る。


「書類は、どう書けばいい」


セラは俺を見た。俺は少しだけ考える。


「できないことから書かない方がいいと思います」


「では、何を書く」


ガロンが聞く。


「先に出せるものから」


俺は炭で床に書いたものを見る。


「槍頭のうち、形が揃っているものを先に納める。補修金具は、仮柵用留具を優先する。遅れるものは、材料と炉の都合を書く。アッシュさんの訓練分は納品数に入れない」

「訓練分」


アッシュが小さく言う。


「失敗の見本は、納品物ではありません」


ガロンは鼻を鳴らした。


「当たり前だ」


けれど、その当たり前は、さっきまで紙のどこにもなかった。

セラは工房の端にあった古い木札を一枚取り、そこへ短く書きつける。

現場確認済。分割納品申請。

警備隊副官セラ。


「これを執政官府へ出せ。マティアスなら読む」

「執政官は嫌いだ」

「向こうも、お前の怒鳴り声は嫌いだろう」

「余計なことを言うな」

「現状報告だ」


ガロンは俺を見る。


「細い理屈も、たまには使える」

「ありがとうございます」

「細いままでいいという意味じゃないからな」

「いつかは、どちらも運用できるようになりたいものです」

「フン、口だけは一人前のようだ」

「測量士、ですからね」



工房を出ると、夕方の風が熱を冷ましてくれた。

セラは少しだけ煤のついた袖を払う。


「トール。今日は、言いすぎる前に止まったな」

「何回か、危なかったです」

「見えていた」

「でしょうね」

「特に、アッシュをかばおうとした時」


俺は足を止めかける。

セラは前を向いたまま続ける。


「助けたい顔をしていた」

「それは、だめですか」

「だめではない。だが、相手によっては圧になる」


圧。その言葉は少し痛い。


「ユイ……」


名前が、喉の奥で形になりかける。


出さない。

まだセラに渡す場所ではない。


「何か言ったか」

「いえ」


セラはこちらを見ない。見ないまま、少しだけ歩調を落とす。


「人は、助けられる形も選びたい」

「はい」

「お前は、見えたものを置こうとする。悪くはない。だが、置く場所を相手の手の中に決めるな」


夕方の道は、昼より少し涼しい。

鍛冶場の熱が、まだ服に残っている。


「セラさんは、よく見ていますね」

「私は奥は見ない」

「でも、場は見ている」

「場を見なければ、人は通せない」


短い答え。

その短さが、少しずつ頼もしくなっているのが悔しい。

工房の方から、また金属音が聞こえる。


カン。


少し間があく。


カン。


さっきより、ほんの少しだけ音が落ち着いている。その音の間に、別の音が混ざった。

木札に何かを書きつける音。

工房の奥で、誰かが執政官府へ出す紙を用意している。

鉄の歪みと、納期の歪み。どちらも、怒鳴るだけでは直らない。

俺は振り返らなかった。



振り返らなくても、アッシュが今、火を見ている気がした。




ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

少しでも何かが残りましたら、評価やブックマークで応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ