表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇者ではなく、測量士  作者: Chroe


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/16

第九話 帰ってきた測量士たち



朝の広場は、思っていたより広かった。

王都の東門から少し戻ったところにある、古い井戸の残った広場だった。

石畳はところどころ浮き、井戸の縁には苔が残っている。

今では水は出ないらしい。

ただ、井戸の周りだけは、昔の名残で人が集まりやすい。


トオルは広場の端で、つぎはぎ座の役者たちが幕を張るのを見ていた。

赤い布。青い布。

昔は白かったらしい布。

どこかの旗だったもの。

旅人の外套だったもの。

それらが朝の光を受けて、少しだけ明るく見える。


昨夜の劇場では、あの幕は心を包むものだった。

広場では、もっと目立つ。

目立つということは、見つかるということでもある。


「顔が硬い」


背後から声がした。

振り返ると、マーヤが針箱を抱えて立っていた。


「緊張しています」

「緊張している顔じゃないね。舞台袖で拍手の音だけ聞いている顔だ」

「どういう顔ですか」

「出たい。でも出たら邪魔になる。だから我慢している顔」

「……見抜かないでください」

「劇場では、それを稽古の成果と言うんだよ」


相も変わらず、基準が低い。

けれど、人には低い基準が必要な時もある。

最近、トオルはそれを少しだけ知ってしまった。


舞台の横では、ピエルが役者たちに立ち位置を指示している。

道化師の白粉はない。

鈴もまだ鳴らしていない。

それでも、彼が片手を上げるだけで、場の空気が少し変わる。


「井戸番は出すぎない。嫌な奴は、出すぎるとただの嫌な奴になる」

「結局、嫌な奴に変わりないのでは?」

「嫌な奴だからこそ、客が自分の知っている誰かを重ねられるのです。ただし、名指ししないこと。刺しすぎないこと。そして、笑い口を残すこと」

「笑い口?」

「笑ってから、痛かったのは自分の傷だと気づく場所です」


役者が妙に納得した顔をした。

トオルはその横顔を見て、何も言わなかった。

今日の役は、台詞を持たない役。

自分の言葉で場を動かすのではなく、誰かの言葉が出る場所を守る役。

ピエルにそう言われた。

簡単なようで、難しい。

何しろ、言いたいことはすでに喉の奥で列を作っている。

マグダスのこと。カイのこと。薬のこと。通行札のこと。昨日の自分のこと。

セラのこと。

全部、言いたい。

だから、自分の台詞にしない。

その我慢だけで、朝から疲れた。


「トオルさん」


声をかけたのはノアだった。

白い水差し亭から、大きな水差しを二つ抱えて来ている。

後ろにはユンがいて、木箱と帳簿を抱えていた。


「来てくれたんですか」

「マーヤさんに頼まれました。役者の喉が枯れるから、水を置かせてくれって」

「宿の仕事は」

「朝の山は越えました。昼前には戻ります」


ノアは手際よく、井戸の近くに小さな机を置いた。

水差しを並べる。杯を重ねる。布を敷く。

それだけで、そこが“ただの石畳”ではなくなる。


「ユンくんも」

「姉さんが、僕も来た方がいいって」


ユンはそう言って、木箱を置いた。

ノアは少しだけ肩をすくめる。


「私だけだと、たぶん全部拾いに行くので」

「僕だけだと、たぶん全部見て止まります」


ユンは帳簿を開いた。


「なので、二人です」


トオルは何か言いかけて、閉じた。

台詞を持たない役。

ユンは机の端に紙を置き、筆を揃える。

そして、少し考えてから、紙の上に大きく三つの欄を作った。


必要な薬。経路。所在。

トオルはその文字を見て、息を止めた。


「ユンくん」

「何ですか」

「それ」

「昨日、姉さんが言ってました。困ってることは、だいたい一つじゃないって」


ユンは筆先を整えながら言う。


「薬が必要でも、そこまでの道がなければ届きません。道があっても、その人がどこにいるのかわからなければ探せません」


ノアが水差しを置きながら言った。


「だから、まずは三つです。必要な薬、経路、そして所在」


ユンは少しだけ頷く。


「最初は、です」

「最初は?」

「書いてみないと、足りない欄はわからないので」


トオルはまた何か言いかけた。

でも、言わなかった。

ユンはちらりとこちらを見る。


「今のは、褒めてもいいところです」

「……すごいと思いました」

「それくらいでいいです」

「はい」


少し離れた場所で、ノアが笑いを噛み殺していた。

広場の反対側から、街の灯の徽章をつけた一団が来た。


先頭はロイドだった。

隣にケイン。少し後ろにミロがいる。

ミロは大きな筒を抱えていた。地図だろう。

筒を抱える指が少し白い。


「おい、測量士」


ロイドが低い声で言った。


「はい」

「今日は何を壊す予定だ」

「壊さない予定です」

「何事も予定通りにはいかない」

「街の灯の組合長がそれを言いますか」

「違う、組合長だから、言うんだ」

「覚えておきます」


ケインが眼鏡の位置を直した。


「本日の広場活動について、街の灯としては公式行事とは認定していません。ただし、東街道の橋と薬草流通に関する情報収集の一環として、観察と記録を行います」

「つまり?」


トオルが聞くと、ケインは少しだけ眉を寄せた。


「正式ではありませんが、見て見ぬふりもしません」

「わかりやすいです」

「本当ですか」

「今のはかなり」


ケインは困った顔をした。


ミロがそっと地図筒を差し出す。


「あの、橋の記録です。赤と黄が、昨日より増えました」

「見てもいいですか」

「はい。でも、全部読むと長いので」


ミロは言いかけて、自分で一度息を止めた。


「今日は、黄色だけです」


その言葉に、ケインが少しだけ目を動かした。


「良い判断です」


ミロの肩が小さく下がる。

褒められ慣れていない人の下がり方だった。

トオルはまた何か言いたくなった。

でも、言わなかった。

代わりに、ユンの紙の横に黄色い札が置かれるのを見た。

必要な薬。経路。所在。

その横に、橋の黄色。

少しずつ、点が線になっていく。


次に来たのは、クロードだった。

灰色の長衣。今日も裾が少し汚れている。

手には帳簿。もう片方の手には、硬い果物ではなく、細長いパンがあった。


「朝からよく集まるな」


クロードは面倒くさそうに言った。


「あなたも来てますけど」

「私は働いている。君たちは騒いでいる」

「芝居です」

「まあ、騒ぎの中では比較的ましな部類だな」


クロードはユンの作った三つの欄を見た。

目が少しだけ止まる。


「誰が作った」

「僕です」


ユンが小さく答える。


「名前は」

「ユンです」

「ユン。欄が少ないな」


ユンの肩がこわばる。

クロードは続けた。


「だが、多すぎるよりましだ」

「……どうも」

「もう一つ足せ」


クロードは紙の端を指で叩いた。


「誰が得をしたか」


ユンは一瞬、顔を上げる。


「得?」

「薬が高くなった。道が詰まった。誰かの所在が曖昧になった。それで得をした者の名前を書く欄だ」


トオルはクロードを見た。

クロードは視線を返さない。


「善意は勘定科目にない。だから一番横領されやすい」


ユンはしばらく黙ってから、四つ目の欄を作った。


誰が得をしたか。


その文字は、他の三つより少し小さかった。

でも、消えない太さで書かれている。


広場の入口が、少しざわめいた。

風下の街の者たちだった。


バルクが先に立っている。

大きな体。太い腕。

ただ、今日は前より少し距離を取っている。

その後ろにリナがいた。

腰紐には、黒札が提がっている。

苦草の匂いが、風に乗ってかすかに届いた。


「話は風下まで届いている」


バルクが低く言った。


「黒札を勝手に使われたくない。だから見に来た」


リナが腰紐の黒札を指で弾く。


「こぼれ市の連中も、人間も、すぐ印を便利に使うから」


トオルは頷いた。


「今日は、近づいてほしいとは言いません」

「言ったら帰る」

「言いません」


リナがじっとトオルを見る。


「本当に?」

「……言いたくなるかもしれません」

「正直だな」

「台詞を持たない役なので」

「何それ」


リナは少しだけ眉を寄せた。

トオルは答えに迷う。

代わりに、腰紐の黒札を見た。


「その札、使わせてもらうかもしれません」


リナの目が細くなる。


「何に」

「近づくな、を人前に置くために」

「見せものにするようなら噛む」

「しませんし、させるつもりもありません」


言ってから、少し怖くなった。

自分がそう思っていることと、そうならないことは違う。


その時、背後から声がした。


「見せものにしないために、私が来た」


黒い外套。

トオルの胸が止まりかけた。

セラだった。

いつものように姿勢はまっすぐで、髪も乱れていない。

けれど、目の下に少しだけ疲れがある。

彼女はトオルを見なかった。

まず、広場を見た。

東の通り。西の路地。井戸の縁。役者の舞台。水差しの机。ユンの帳簿。

街の灯の立ち位置。風下の街の者たち。子どもが集まり始めている場所。

逃げ道になりそうな裏通り。

場を見る。


それから、セラは短く言った。


「舞台は井戸を背に。観客は半円。東側の通路は塞ぐな。西の路地は退路として残す。薬の話をする者は一人で受けるな。必ず二人で聞け。記録する時は、名前を聞く前に、話せることと話せないことを確認しろ」


イリスが後ろから姿を見せた。

顔は硬い。

でも、逃げてはいない。


「イリス」

「はい」

「今日は、助けると言うな」


イリスの肩が震えた。


「はい」

「代わりに、こう言え」


セラはユンの帳簿を見る。


「今は、話さなくて大丈夫です。必要なことだけ、先に確認します」


イリスは少しだけ目を見開いた。

その言葉を、口の中で一度転がす。


「今は、話さなくて大丈夫です。必要なことだけ、先に確認します」

「それでも強い。だから、言う前に相手の足の向きを見る」

「足の向き、ですか」

「逃げようとしている人間に、出口を塞いで話しかけるな」

「はい」


イリスは深くうなずいた。


トオルはセラを見た。

謝りたい。

でも、ここは謝る場所ではない。

たぶん、まだ。


セラはようやくトオルの方を見た。


「今日の役は」

「台詞を持たない役です」

「いい役だ」


それだけだった。

許されたわけではない。

でも、追い返されもしなかった。

トオルはそれで、十分息ができた。


ピエルが鈴を鳴らした。

ちりん。

広場のざわめきが、少しだけ静まる。


「皆様、本日は井戸のお話をいたします」


ピエルは軽く頭を下げた。


「よくある井戸です。どこにでもある井戸。誰の家にもなく、誰のものでもないはずなのに、なぜか誰かが縄を握っている井戸の話」


笑いが少し起きる。

その笑いの中に、こぼれ市の商人らしき顔もあった。

何人かは腕を組み、何人かは面白がっている。

マグダスはいない。少なくとも、まだ。


芝居が始まった。

井戸番が登場する。

大きな帽子。やたらと長い鍵束。腹に巻いた縄。


「水が欲しいなら、俺に言え!」


子どもたちが笑う。


「俺は親切だ! 俺がいなけりゃ、お前らは水も汲めない!」


笑いが少し大きくなる。

背の低い村人が出てくる。縄に手が届かない。

井戸番は大げさにため息をつき、代わりに水を汲んでやる。


「銅貨二枚」

「昨日は一枚だった!」

「今日は縄が重い!」

「縄が太ったのか!」


広場が笑った。

笑いは、思っていたより素直だった。

トオルは舞台袖の後ろに立ち、口を閉じている。

井戸番が銅貨を二枚取る。

雨が降らず、縄がさらに短くなる。

怪我をした村人が、水を汲めない。

そこで笑いが少し減る。

笑いの減り方が、劇場とは違った。


広場には、本当に水を汲めなかったことのある人がいる。

薬を買えなかった人がいる。

通る道のなかった人がいる。

物語は距離を作る。

でも、距離は完全に隠すわけではない。


井戸番が胸を張った。


「俺がいなけりゃ、お前らは水も汲めないくせに」


広場が静かになった。

その静けさの中で、村の子どもが出てくる。

昨日、カイが直した台詞。

役者の少女は、井戸番を見上げて言った。


「縄、返して」


誰も笑わなかった。

けれど、その言葉は広場に落ちた。

重い石ではない。

小さな種のように。


「縄は俺のものだ!」

「井戸は、村のものだよ」


その時、広場の後ろで誰かが言った。


「きれいごとだな」


ざわめきが広がる。

トオルの体が反応した。

声の方を見る。

マグダスだった。

仕立てのよい上着。金の指輪。

笑っているのに、目は笑っていない。

彼は数人の男を連れて、広場の端に立っていた。


「芝居で腹が膨れるのか。縄を返せば、水が増えるのか。薬が湧くのか。道が開くのか」


声は笑っている。

だが相変わらずその響きだけが、獲物を探す蛇のように広場を這いまわっていた。

役者たちが一瞬止まる。

トオルは前に出かけた。

その袖を、ユンが掴んだ。

驚いて振り返る。

ユンはトオルを見ていない。

帳簿を見たまま、静かに言った。


「台詞を持たない役、でしょう」


トオルは奥歯を噛んだ。

前に出ない。

出ないだけで、体が震える。


マグダスは笑った。


「測量士様は、今日はお静かだな」


その言葉にも、トオルは答えなかった。

代わりに、セラが一歩出た。


「マグダス・ベイム」

「セラ。今度は芝居を連れて来たのか」

「王都警備隊副官セラだ。執政官マティアスより、東門周辺の混雑と薬草流通の状況確認を命じられている」


セラの声は、広場の石に落ちるように響いた。


「この場は処分ではなく、事実確認として扱う」


いつもの言葉。

けれど、今日は少し違った。

彼女は続けた。


「ただし、事実を言った者が帰れなくなるような場にはしない」


マグダスの笑みが、少しだけ細くなる。


「立派なことだ」

「立派かどうかは知らない。必要だからやる」


マグダスは広場を見回した。


「では聞こう。誰が薬を出す。誰が道を通す。誰が身分札のない者を引き受ける。井戸が村のものなら、村は井戸に落ちた者を引き上げるのか」


その問いは、痛いところを突いていた。

広場の何人かが視線を逸らす。

トオルも同じことを考えた。

マグダスの言葉は嫌いだ。でも、問いの形だけは正しい。

誰がやるのか。

そこを空欄にしたまま、縄を返せとは言えない。


「薬は」


ロイドが前に出た。

街の灯の組合長は、芝居の舞台より少し横に立った。


「街の灯で、東門通行の遅れを記録する。橋の黄札が三日続いた場合、薬草荷を優先通行として扱うよう、組合から王宮へ申請する」


「申請?」


マグダスが笑う。


「病人に申請をすり潰して飲ませるのか」

「今日の薬ではない」


ロイドは揺れない。


「だから今日の分は別に置く」


彼は後ろを振り向いた。

白い水差し亭のマリエが、少し緊張した顔で小さな箱を抱えていた。

ブラムもいる。顔は険しいが、腕の中には包みがある。


「うちの宿で余らせてる分だけです」


マリエは言った。

「喉の薬と傷洗い。多くはないです。だから、薬師さんに見てもらって、本当に今日必要な人から」


隣に、薬師らしき老女が立っていた。


「印のない薬は見ないよ」


老女は最初に言った。広場が少しざわつく。

彼女は続ける。


「見ない。売らない。使わせない。でも、これは見てやる」


マリエの箱を指す。


「印があるからね」


クロードが帳簿を開いた。


「代金は後で計上する。誰が出したか、誰が受けたか、誰が値を上げた時に得をしたか、全部書く」

「監査院の脅しか」


マグダスが言う。


「違う」


クロードは淡々と返した。


「帳尻だ」


それだけで、マグダスの部下の一人が目を逸らした。

ユンは四つの欄を前に、筆を持ったまま固まっていた。

ノアがそっと横に立つ。


「ユン」

「はい」

「一人で聞かない」

「はい」


ノアは広場に向けて声を出した。


「薬のことで困っている人は、こちらへ。名前を言いたくない人は、言わなくて大丈夫です。必要な

ものと、通行可能な道と、いまの所在だけ、先に確認します」


その声は、宿の客を案内する時の声に似ていた。

穏やかで、よく通る。


イリスがその横に立った。

緊張で指が震えている。

それでも、彼女は言った。


「今は、話さなくて大丈夫です」

少し間が空く。

「必要なことだけ、先に確認します」


少し強い。

でも、昨日の「困っている人を助けに来ました」より、ずっとましだった。


セラがイリスの足元を見る。

イリスは一歩、横にずれた。

人が逃げられる道を塞がない位置。

それを見て、セラは何も言わなかった。

だがその沈黙が、今のイリスにとってはどんな称賛よりも心強かった。


「道は」


ケインが前に出た。

彼はいつも通り背筋を伸ばし、紙束を持っている。


「身分札のない者について、街の灯は通行許可を出せません」


広場が少し冷える。

ケインは続けた。


「出せません。ですが、通行できなかった事実は記録できます。どこで止められ、何が足りず、誰が困ったのか。推測ではなく、観測として残します」


ミロが黄色の札を掲げた。


「危険です、で止めるんじゃなくて」


声は震えていた。


「どこが危ないかを書きます。そうしたら、全部赤にしなくて済みます」


ケインがうなずく。


「黄札は、止めるためだけの札ではありません。条件を変えれば通れることを示す札です」


トオルはミロを見た。

ミロはトオルを見ない。

 札を見ている。

それでいいのだと思った。


「所在は」


声を出したのは、バルクだった。

広場の空気が変わる。

人間たちの中には、獣人が話すだけで身構える者がいる。

それを、リナはすぐに見た。

腰の黒札に手をかける。


セラが一歩だけ、広場の中央へ進んだ。


「この場は私が預かる」


低い声。

ざわめきが止まる。

バルクはセラを見てから、続けた。


「風下の街は、王都の廃棄場じゃない。何でも受け入れるわけじゃない」


強い声だった。

けれど、怒鳴り声ではない。


「だが、どこに行くべきかもわからない者を、そのまま穴に落とすのは嫌いだ」


リナが黒札を外した。

周囲の何人かが身構える。

リナはそれを見て、鼻で笑った。


「近づくな、は、消えろじゃない」


黒札を指先で持ち上げる。


「踏み込まれたくない場所があると、先に示す札だ。示せるなら、噛まなくて済む」


広場が静かになる。

リナは続けた。


「風下の街にも、入っていい場所と駄目な場所がある。話していい時と、駄目な時がある。ルールを共有できるなら、少しくらいは受け入れられる」


バルクが腕を組んだ。


「少しだ」

「少しで十分です」


トオルは思わず言った。

言ってから、しまったと思った。

でも、それは誰かを刺す言葉ではなかった。

バルクはじろりとトオルを見る。


「少しを大きく言うなよ」

「はい」

「ならいい」


それだけだった。


マグダスは、広場の中央に集まっていく言葉を眺めていた。

必要な薬。経路。所在。誰が得をしたか。全部、まだ仮だ。

薬の箱は小さい。黄札の記録は遅い。風下の街は全員を受け入れない。

イリスの言葉はまだ少し硬い。ユンの帳簿には空欄が多い。

でも、空欄が見える。

見える空欄は、それ自体が有力な情報だった。


「まるで子どもの遊びだな」


マグダスが言った。


「水差しの薬箱。子どもの帳簿。獣人の札。芝居の縄。こんなもので、こぼれ市の代わりになると思うのか」


トオルは息を吸った。

言わない。

今日は、台詞を持たない。

誰かの言葉が出る場所を守る。


その時、舞台の幕の後ろから、小さな影が出てきた。

カイだった。

青い布を握っている。

広場が少しざわつく。

マグダスの目が細くなった。


「カイ」


その声だけで、カイの肩がこわばる。

トオルの足が前に出そうになる。

ユンの手がまた袖を掴む。


「台詞を、持たない役です」


今度は、トオルも頷けた。

カイは舞台の端に立った。

顔は青い。手も震えている。

それでも、逃げなかった。

マーヤが少し離れた場所に立つ。

ピエルは鈴を鳴らさない。


カイは言った。


「僕は、届けてただけ」


昨日と同じ言葉。

でも、広場では少し違って聞こえた。


「薬も、札も、名前も。届けてただけ」


マグダスの部下が動きかける。

セラの視線がそこへ飛ぶ。

男は止まった。


「でも」


カイは青い布を握りしめた。


「届けた後に、帰る場所がなかった」


広場が静かになった。


「戻ると、また頼まれる。逃げると、薬が届かない。断ると、誰かが困る。だから、届けてただけ」


カイの声は大きくない。

でも、広場の人々は聞いていた。


「搾取されているって言われた時、違うと思った」


トオルの胸が痛む。


「だって、僕は運んでた。役に立ってた。頼まれてた。だから、違うと思った」


カイは一度、言葉を切った。

トオルを見なかった。

それでよかった。

青い布を少し持ち上げる。


「薬だと思ってた」


カイは言った。


「でも、昨日の芝居を見て」


少し、息を吸う。


「僕が持ってたの、縄だったのかもしれないって思った」


マグダスの笑みが消える。


「カイ」


声が低くなる。


「誰に何を吹き込まれた」


カイの体が震える。


すぐに、リナが黒札を出した。

苦草の匂いが広がる。


「近づくな」


リナは短く言った。

セラが続ける。


「マグダス・ベイム。一歩でも近づけば、この場を事実確認から保護対応に切り替える」

「脅しか」

「手順だ」


セラの声は冷たい。

けれど、昨日ほど割れていない。

カイは息を吸った。


「縄、返して」


広場のどこかで、子どもが同じ言葉を真似した。


「縄、返して」


別の子どもが笑いながら続ける。


「縄、返して!」


笑いが起きる。

けれど、それは軽い笑いだけではなかった。

言葉が広がる。

芝居の台詞として。

子どもの真似として。

大人がまだ口にできない問いとして。


縄、返して。


マグダスは広場を見回した。

自分が握っていたものが、いま名指しされずに指されている。

直接的な告発ではない。

だから、潰しにくい。

それが、トオルにもわかった。

マグダスは笑い直した。


「好きにしろ。だが、今日の夜に薬が足りなくなったら、結局うちに来る」


痛い言葉だった。

誰もすぐには返せない。

ロイドが低く言う。


「足りなくなる」


広場が少し揺れる。


「だから記録する。足りなかった分を、明日も足りないままにしないために」


クロードが続けた。


「足りなかった数と、足りなくした者の取り分を書く」


ケインが紙束を押さえた。


「受理可能な形にします」


イリスが小さく言った。


「一人で、信じません」


セラがそれを聞いていた。


イリスは続ける。


「信じたいから、二人で聞きます。信じたいから、先に、必要なことだけ確認します」


その声はまだ震えていた。

でも、昨日よりもずっと強かった。

マグダスは舌打ちした。


「それはそれは、ご立派なことで」


彼は踵を返す。


男たちが後に続く。

けれど、広場の端で、薬袋を抱えた女性が動かなかった。

昨日、こぼれ市で薬を買えなかった女性だった。

腕に布を巻いた女の子を連れている。

マグダスの部下の一人が手招きする。

女性は一度だけそちらを見た。

それから、ノアとユンの机の方へ歩いた。

広場が、息を止めた。

彼女は机の前で立ち止まる。

ノアが柔らかく言った。


「話しても大丈夫なことからでいいです」


女性は小さくうなずいた。


「傷洗いの薬が、今日要ります」


ユンが筆を取る。


「必要なもの」


彼は欄に書いた。


「傷洗いの薬」


続けて、顔を上げる。


「経路は?」

「薬院には、身分札がなくて」

「所在は?」


女性は女の子の手を握った。


「東門の外。橋の手前の小屋です」


ユンの筆が止まる。

ミロが黄色の札を見た。


「橋の手前なら、昨日の黄札の場所です」


ケインが紙を見る。


「記録できます」


薬師の老女が女の子の腕を見る。


「布を外しな。見ないと薬は出せない」


女の子は怯えた。

イリスが一歩出かけて、止まる。

足を見る。

逃げ道を塞いでいないか確認する。


「ここで外すのが嫌なら」


イリスはゆっくり言った。


「幕の裏を使えます。お母さんと、薬師さんと、もう一人だけで」


セラがうなずく。


「私が外に立つ」


女性は少し迷った。

それから、女の子を連れて幕の裏へ向かった。


マグダスは、それを見ていた。

笑っていなかった。

トオルは、その顔を見て、ようやく胸の奥に息が入るのを感じた。

マグダスはまだ捕まっていない。

こぼれ市も残っている。薬も足りない。道も足りない。

所在が書けない人も、まだいる。

でも、いま一人が、彼の方へ戻らなかった。

それだけで、広場の空気が変わった。

芝居は、最後まで続いた。


村人たちは井戸番を追い出さなかった。

代わりに、縄を結び直した。

井戸番は怒った。叫んだ。俺の縄だと言った。

でも、村人たちは縄を切らなかった。

ただ、結び目を増やした。

背の低い者でも持てる結び目。

怪我をした者が腰かけられる石。

水を汲めない者が頼む時の札。

誰が水を独り占めしていたかを書く帳面。


芝居の中で、井戸番は最後まで謝らなかった。

それでよかった。

謝らなくても、縄は一人のものではなくなった。

芝居が終わると、拍手が起きた。

大きくはない。

ばらばらで、少し戸惑っている。

けれど、逃げるような拍手ではなかった。


ピエルが深く頭を下げた。


「本日の井戸は、まだ水が出ません」


笑いが少し起きる。


「ですので、皆様。水が出ない井戸の前で、誰が縄を持つべきか、少しだけ考えてからお帰りください」


彼は鈴を鳴らした。

ちりん。

その音を合図にしたように、広場の人々が少しずつ動き始める。


水差しの机に数人が並ぶ。

薬の箱の前に、薬師とマリエが座る。

ユンは緊張した顔で筆を動かし、ノアが隣で人の流れを整える。


「少々お待ちください。担当を呼びます」


白い水差し亭の言葉が、広場でも使われていた。

ミロは橋の黄色を説明し、ケインがそれを短く書き直す。

ロイドは腕を組み、全体を見ている。

クロードは誰かの名前を帳簿に書き、パンをかじり忘れている。

リナは黒札を出したまま、カイの近くに立っていた。

バルクは何も言わず、その少し後ろにいる。

イリスは、女性と女の子が幕の裏から出てくるまで、入口を塞がない位置に立っていた。


トオルは、広場の端でそれを見ていた。

何もしていない。

そう思った。

でも、何もしていないのではない。

台詞を持たない役をしている。

誰かの言葉が出る場所を、邪魔しないでいる。

それは思っていたより難しく、思っていたより必要だった。


セラが隣に来た。

トオルは、すぐには顔を向けられなかった。


「今日は」


セラが言う。


「皿を割らなかったな」

「基準が低くないですか」

「大事な基準だ」


同じことを、ピエルにも言われた。

トオルは少しだけ笑いそうになって、やめた。


「セラさん」

「謝罪なら、今は受け取らない」


先に言われた。

胸が痛む。でも、少しだけ楽でもあった。

謝罪を受け取らせずに済んだ。


「はい」

「だが、今日の立ち方は悪くなかった」


トオルは息を止めた。


「……ありがとうございます」

「調子に乗せすぎると、また喋るからな」

「否定しにくいです」


セラは広場を見る。


「ここは、危うい」

「はい」

「薬は足りない。記録も荒い。マグダスは引かない。王宮にも、都合よく使おうとする者が出るだろう」

「はい」

「それでも」


セラは少しだけ間を置いた。


「昨日より、戻れる場所はある」


トオルは井戸のそばを見る。

水の出ない井戸。

その周りに、水差しが置かれ、帳簿が置かれ、札が置かれ、幕が張られている。

井戸そのものは、まだ壊れている。

でも、人はそこへ戻ってきている。


「セラさん」

「何だ」

「この場は、誰が預かるんですか」


セラはすぐには答えなかった。


少し前の彼女なら、迷わず場を預かっただろう。

実際、今日もそうしかけた。

けれど、ここで同じことを繰り返せば、また自分の判断だけで場を閉じることになる。

だから、今日は答えを急がなかった。


井戸の横で、ユンが筆を落とした。

ノアが拾う。

イリスが女性の足元を見て、一歩下がる。

ミロが黄札を持ち直す。

リナが苦草を結び直す。

ピエルが鈴を鳴らさずに袖へしまう。

それらを見てから、セラは言った。


「一人では預からない」


それは、宣言というより確認に近かった。

トオルはうなずいた。

広場の端で、カイが青い布を畳んでいた。

薬袋は肩にかけていない。

代わりに、小道具箱を抱えている。

彼は一度、マグダスが消えた路地を見た。

それから、井戸の横の机を見る。

少し迷って、青い布を机の端に置いた。

ユンが顔を上げる。


「これは?」


カイは小さく言った。


「帰る時の目印」


ユンは帳簿を見る。


「所在欄に記載する?」


カイは首を振った。


「そうじゃなくて」


言葉を探すように、青い布を指で押さえる。


「帰ってきてもいいって、思える場所」


ユンはしばらく黙った。

それから、帳簿の端に、新しい小さな欄を作った。

帰ってこられる場所。

その文字は、少し曲がっていた。

けれど、誰も消そうとはしなかった。


水の出ない井戸のそばで、静かに光る白い水差し。

風がつぎはぎの幕を揺らす。


破れた布の縫い目が、朝の光を細く通していた。





ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

少しでも何かが残りましたら、評価やブックマークで応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ