第十話 その手つきには、名前がない
広場は、この数日で少し変わった。
劇的に、ではない。
水の出ない井戸のそばに、白い水差しが置かれるようになった。
その横には、ユンが作った帳簿台がある。
帳簿の欄には、まだ新しい文字が並んでいた。
必要な薬。経路。所在。誰が得をしたか。
そして、端の方に、少し曲がった文字で足された欄がある。
帰ってこられる場所。
字はまだ揃っていない。机も少し傾いている。風が強い日は紙が飛ぶ。
誰かが水差しを持っていってしまい、ブラムが眉間にしわを寄せることもあった。
それでも、朝になると、誰かが戻した。誰かが水を足した。誰かが紙を押さえた。
誰かが「少々お待ちください。担当を呼びます」と、少し照れながら言った。
トオルは、それを見るたびに、胸の奥が少しだけ軽くなった。
もちろん、全部がうまくいっているわけではない。
薬は足りない。黄札の記録は増える。マグダスは姿を見せない。
こぼれ市の奥では、別の誰かが同じようなことを始めているらしい。
セラは相変わらず忙しい。
広場に来ても、長くは残らない。
東の路地を見る。井戸の影を見る。帳簿台の前に立つ人の足の向きを見る。
黒札をつけた獣人が近くにいれば、その周りに不用意な輪ができていないかを見る。
そして、最後にトオルを見る。
「よし、今日も喋りすぎていないな」
「挨拶がそれですか」
「確認だ」
「俺、毎回確認される側なんですね」
「不満か」
「妥当です」
「ならいい」
セラはそれだけ言って、また歩いていく。
その背中を見ながら、トオルは少しだけ笑った。
まだ謝罪は受け取られていない。
けれど、会話は戻ってきた。
それだけで、十分な気がした。
広場での出来事は、思っていたより早く名前がつけられた。
誰が言い始めたのかは、わからない。
白い水差し亭の常連は、あの日のことを「井戸の芝居の日」と呼んだ。
街の灯の組合員は、「東門広場の臨時記録」と呼んだ。
風下の街の者たちは、「縄を返せの話」と呼んだ。
子どもたちは、もっと雑だった。
「測量士の日」
そう呼んだ。
トオルは、それを聞くたびに少しだけ困った。
あの日、自分はほとんど何もしていない。
むしろ、何もしないようにしていた。
けれど子どもたちには、そんなことはあまり関係なかったらしい。
赤や黄色の札が出た。
水差しが置かれた。
帳簿が開かれた。
黒札を持ったリナが立った。
カイが「縄、返して」と言った。
セラが人の流れを止めた。
ユンが何かを書いた。
ノアが人を並ばせた。
イリスが、足元を見てから声をかけた。
それらが、子どもたちの中では、ひとまとめにされていた。
困っている人を見つける。
札を出す。
誰かを呼ぶ。
何かを言う。
大人たちが動く。
それが、子どもたちの思う「測量士」だった。
正確ではない。かなり雑だ。
でも、雑なものほど、遊びになるのは早い。
その日の昼過ぎ、広場の端で子どもたちが騒いでいた。
「赤札!」
小さな木切れが高く掲げられる。
「なんでだよ!」
「お前、顔が赤いから!」
「それは走ったからだろ!」
「じゃあ黄色!」
「なんで下がったんだよ!」
「なんとなく!」
子どもたちは笑いながら、赤や黄色や青に塗った木切れを振り回していた。
どれも形はばらばらだ。
赤と言いながら橙色に近いものもある。
青札のはずなのに、片面が緑に塗られているものもあった。
トオルは白い水差し亭の入口で立ち止まった。
「……何をしているんですか、あれ」
水差しを持ってきたユンが、顔も上げずに言った。
「測量士ごっこです」
「俺、あんなことしてます?」
「してません」
「ですよね」
「でも、だいたいあんな感じです」
「してるんですか」
「少し」
ユンは帳簿を抱え直した。
「僕は混ざりません」
「どうして」
「赤札と黄色札の区別が雑すぎるので」
「そこなんですね」
「大事な基準です」
子どもたちの中に、カイもいた。
ただ、輪の中心にはいない。
少し外れたところで、青い布を手に持っている。
昨日から、彼は薬袋の代わりに、劇で使った青い布をよく持ち歩くようになった。
それが何なのか、トオルはまだ聞いていない。
聞かなくてもいい気がしている。
広場の端で、一番声の大きい少年が胸を張った。
「俺が測量士だ!」
「ずるい! 昨日もロッカだった!」
「じゃあ今日は交代!」
「駄目だ。測量士は一人だろ!」
ロッカは赤い木切れを握ったまま、当然のように言った。
その言葉に、トオルの胸が小さく引っかかった。
測量士は一人。
子どもの遊びの言葉だ。
それなのに、妙に重く聞こえた。
カイが輪の外から言う。
「一人じゃないだろ」
「だってトールは一人じゃん」
ロッカが言い返す。
「セラ副官もいる」
「セラ副官は止める人だろ」
「止める人がいないと、測量士は駄目なんだよ」
カイの声は小さい。
でも、以前より少し通るようになっていた。
ロッカは、よくわからない顔をした。
「じゃあ、カイが止める役な」
「なんで」
「似合うから」
「似合わない」
「じゃあ何がいいんだよ」
カイは少し考えた。
「道具係」
「またそれかよ」
子どもたちは笑った。
トオルは笑えなかった。
ユンが横で言う。
「止める役、人気ないですね」
「重要なんですけどね」
「重要な役は、だいたい人気ないです」
ユンは淡々と言った。
あまりにも真理のように聞こえて、トオルは少し困った。
広場の井戸のそばで、一人の女の子がしゃがんでいた。
エマという名前だった。
年はカイより少し年下に見える。
髪を耳の後ろで結び、片方の靴紐だけがいつも少し緩い。
声は小さい。走り出すのが遅い。鬼ごっこの途中で急に止まる。
だから、子どもたちの中では、よく「またエマが止まった」と言われていた。
でも、トオルは何度か見ていた。
エマが止まる時、彼女の目はいつも地面を見ている。
人の足。水差しまでの道。帳簿台の前で詰まる流れ。
井戸端の敷石につまずきそうになる子どもの爪先。
エマは、白っぽい石の欠片で、石畳に線を引いていた。
線は細く、少しかすれている。
それでも、石の上にはちゃんと白い跡が残った。
トオルは、その石を見て少しだけ懐かしくなった。
子どもの頃、似たような石で道路に線を引いたことがある。
みんなはそれを「書ける石」と呼んでいた。
チョークほどはっきりしない。
けれど、石やコンクリートに、薄く、しぶとく、跡が残る。
その石に「蝋石」という立派な名前がついていることを知ったのは、大人になってからのことだった。
どうやらこの世界にも、同じような石があるらしい。
エマはその蝋石で、井戸から水差しまでを結ぶ線を引いていた。
水差しから帳簿台までの線。
走ってきた子どもと、薬の相談に来た老人がぶつかりそうになる場所。
そこに、小さく丸をつけている。
「エマ、また変なの描いてる!」
ロッカが叫んだ。
エマは肩をすくめる。
「変じゃない」
「変だろ。何それ」
「道」
「道ならもうあるじゃん」
「ここ、走るとぶつかるから」
エマは井戸の縁の近くを指した。
ロッカはその石を見た。
確かに、少しだけ出ている。
でも、遊びを止めるほどのものには見えない。
「ぶつかったら避ければいいだろ」
「避ける前に、ここで足が止まる」
「止まればいいじゃん」
「そこじゃない」
エマは蝋石で、石の手前にもう一つ、小さな丸を描いた。
「止まるなら、こっち」
「なんで」
「そこで止まると、後ろの子とぶつかる。こっちなら、横に逃げられる」
ロッカは首をかしげた。
「意味わかんない」
そう言って、彼は走り出した。
井戸の横を抜け、帳簿台の前を横切ろうとする。
その時、ノアが水差しを持って、反対側から歩いてきた。
「あ」
ロッカの足が、エマの丸の上で少し滑った。
ノアが身を引く。
水差しの水が、縁ぎりぎりで揺れた。
ロッカはなんとか踏みとどまった。
「あっぶな」
笑った。
けれど、エマは笑わなかった。
「だから、そこ」
蝋石の先で、さっきの丸を指す。
「そこは、ぶつかるところ」
次に、その少し手前の丸を指した。
「こっちは、先に止まれるところ」
トオルは、その二つの丸を見た。
ぶつかる場所。止まれる場所。
似ているようで、違う。
エマが見ているのは、誰が困っているかではなかった。
どこで一拍置けば、ぶつからずに済むか。
どこなら、安全に流れから外れられるか。
彼女は、人ではなく、流れの間を見ていた。
「やっぱりエマは困ってる人の役だな」
ロッカが、照れ隠しのように言った。
「やらない」
「えー、でもエマ、いつも困ってるじゃん」
「困ってない」
「さっきも止まってた」
「道を見てた」
「ほら、困ってる!」
ロッカが赤い木切れを掲げた。
「エマは赤札!」
「赤札の子!」
「困ってる人役!」
何人かが笑いながら、エマの周りを囲んだ。
悪意がある、というほどではなかった。
少なくとも、子どもたちはそう思っていない顔をしていた。
遊びだった。
測量士ごっこ。
困っている人を見つける遊び。
助ける役になる遊び。
けれど、囲まれたエマの顔から、少しずつ色が引いていく。
「やらない」
声は小さい。
「困ってる人は、やらない」
「でも赤札だし」
「助けてやるからいいじゃん」
「本当のこと言っただけだろ」
「測量士は見えるんだぞ」
トオルの足が、一歩前に出た。
それは違う。
言いかけて、止まる。
その言葉は、あまりにも早く出てきた。
早く出てきすぎた。
トオルは、白冠宮の白い廊下を思い出した。
舞台は、空いた役に人を押し込む。
今、測量士という役が、子どもたちの手に渡ろうとしている。
しかも、手に渡った瞬間から、もう誰かを別の役に押し込もうとしている。
困っている人。赤札の子。助けられる側。
忘れもしない、こぼれ市での出来事。
君は、搾取されている。
あの時、自分は正しいことを言ったつもりだった。
でも、その言葉はカイの帰る場所を奪った。
今、子どもたちがしていることは、それとどれだけ違うのか。
トオルは口を閉じた。
その間に、カイが動いた。
輪の外から、ゆっくりエマの近くへ歩いていく。
走らない。押しのけない。
ただ、エマの少し横に立った。
「やめなよ」
声は大きくなかった。
それでも、子どもたちは少し黙った。
「何だよ」
ロッカが言う。
「困ってるだろ、エマ」
カイはすぐには答えなかった。
手の中の青い布を、少しだけ握り直す。
「エマが、言ってない」
「何を」
「困ってるって」
ロッカは言葉に詰まった。
「でも、赤札だし」
「それ、ロッカの札」
「だって、測量士は見えるんだぞ」
カイは少しだけ顔をしかめた。
「見えても、決めちゃだめ」
それだけ言って、黙った。
それ以上は言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
言わないことにしたのかもしれない。
エマは石畳の線を見ていた。
その線は、誰かの靴底で少しこすれている。
せっかく描いた道は、半分消えかけていた。
ユンが帳簿台から歩いてきた。
「同じ人が毎回、困ってる人役になる遊びは、偏ります」
「偏るって何だよ」
「棚が片側だけ重くなります」
「棚じゃないし」
「棚じゃなくても同じです」
ユンは石畳の線を見た。
「エマさんは、困っている人役をしていたわけじゃないと思います」
「じゃあ、何してたんだよ」
「ぶつかる前に、止まれる場所を見ていました」
ユンは少し考えた。
「広場の道係ですね」
エマが顔を上げる。
「係?」
「今のところ、そう見えます」
「困ってる人じゃなくて?」
「困る時もあると思います」
ユンは真面目に言った。
「でも、それだけではないです」
エマは、少しだけ目を瞬かせた。
カイは青い布を見下ろしたまま、小さく言った。
「違う役、あるから」
その言葉に、トオルの胸が痛んだ。
つぎはぎ座。木箱を抱えたカイ。
ここでは、違う役だから。
あの言葉が、今度はエマの手に渡っている。
ロッカが、赤い木切れを見下ろした。
「じゃあ、エマは道係?」
「それは、本人が決めることですよ」
いつの間にか、広場の入口にイリスが立っていた。
王都警備隊の軽装。
腰には剣。
でも、手は剣にかかっていない。
イリスは走りかけて、止まったらしい。
エマの前ではなく、横へ回る。
逃げ道を塞がない位置にしゃがむ。
ロッカは少しむっとした顔をしたが、エマを見た。
「道係、やる?」
エマはすぐには答えなかった。
蝋石で石畳を軽く叩く。
「ずっとは、やらない」
「え?」
「やめたい時は、やめる」
ロッカは困った顔をした。
「じゃあ、誰が道を見るんだよ」
「知らない」
エマは小さく言った。
「だから、みんなで見るんじゃないの」
子どもたちは黙った。
その沈黙は、少しだけ新しかった。
ユンが余り紙を出した。
「書きます」
「何を?」
子どもたちが覗き込む。
「測量士ごっこの約束です」
「約束?」
「遊びにするなら、遊び方を置く場所も必要です」
ユンは紙を台に置き、ペンを構えた。
カイが最初に言った。
「勝手に決めない」
ユンが書く。
一、勝手に決めない。
エマが、少しだけ口を開いた。
「やめたい時は、降りられる」
ユンはエマを見る。
「そのまま書いていいですか」
エマはうなずいた。
二、やめたい時は、降りられる。
ロッカが赤い木切れを見た。
「じゃあ、赤札は?」
イリスが少し考えてから言った。
「赤なら、呼ぶ人を言う」
「呼ぶ人?」
「誰に来てほしいのかを、先に言うんです。言えないなら、赤札はまだ出せません」
「めんどくさ」
「はい。赤札は、めんどうです」
ユンが書く。
三、赤なら、呼ぶ人を言う。
エマが石畳の線を見た。
「線を引く時は、先に聞く」
ロッカが顔をしかめる。
「道くらい、勝手に引いていいだろ」
「勝手に決めないって、さっき言った」
「ああ、そっか」
ユンが書いた。
四、道を決める時は、先に聞く。
最後に、カイが青い布を握りながら言った。
「一人でやらない」
ロッカが首をかしげる。
「何を」
「測るの」
ユンは少し考えた。
それから、紙の下に一行足した。
五、一人で測らない。
ロッカがそれを読もうとして、少しつっかえた。
「ひとりで、はからない」
カイが横から言い直す。
その言い方の方が、遊びにはすぐ馴染んだらしい。
子どもたちは何度か口の中で繰り返した。
「ひとりで、はからない」
「ひとりで、はからない」
トオルはその言葉を聞いて、少しだけ喉の奥が熱くなった。
その時、背後から声がした。
「置けば終わると思っている顔だな」
黒い外套が、広場の入口に立っていた。
セラだった。
いつからいたのか、わからなかった。
ただ、彼女の目はもう、子どもたちの位置、エマの線、井戸の石、帳簿台、出口の路地を順に見ていた。
「セラさん」
「紙は残していい。だが、紙はすぐに読まれなくなる」
セラは淡々と言った。
「読まれなくなった紙ほど、守っているふりをする」
ユンが紙を見下ろす。
「では、どうしますか」
「遊びに入れろ」
セラは短く言った。
「紙を見るより、遊びの中で覚えた方が早い」
子どもたちがざわめく。
セラは続けた。
「赤札を出したら、誰を呼ぶか言う。言えなければ赤札は出せない。誰かに役をつけたら、勝手につけるなと言われる。聞かずに道を書いたら、やり直し。一人で測ったら、負けだ」
「負け?」
ロッカが反応した。
「一人で測ったら負け」
セラは真顔で言った。
子どもたちの目が光った。
ルールになった。
トオルは、その瞬間を見た。
紙よりも早い。
説教よりも強い。
遊びの中に入ると、言葉は動き始める。
「あと」
セラはエマの線を見た。
「広場の道を、エマ一人に任せるな」
エマが顔を上げる。
「道を見る者が一人だけだと、その者が倒れた時に全員がぶつかる」
ユンが小さくうなずいた。
「棚と同じです」
「だいたい同じだ」
セラは真面目に返した。
それから、ほんの一瞬だけ東門の方を見た。
「道を一人に握らせると、ろくなことにならない」
トオルは、その横顔を見た。
「マグダスのことですか」
セラは答えなかった。
「今は、子どもの遊びの話だ」
そう言って、エマの線へ視線を戻した。
エマは少しだけ笑った。
トオルは、その笑いを初めて見た気がした。
ユンは紙を畳んだ。
「これは、どこに置きますか」
「帳簿の裏でいい」
セラは言った。
「見たい者がめくれば見える。だが、広場の真ん中に飾るな。飾ると、それで守った気になる」
「わかりました」
ユンは紙を帳簿の裏に挟んだ。
子どもたちは、もう新しいルールで揉め始めている。
「赤札!」
「誰呼ぶんだよ!」
「えっと、警備隊!」
「警備隊が来るまでどうするんだよ!」
「待つ!」
「どこで!」
「知らない!」
「じゃあ赤札なし!」
「厳しすぎる!」
「一人で測ったら負けだぞ!」
「今のは二人だった!」
「二人でも聞いてないから駄目!」
「めんどくさ!」
広場に笑い声が広がった。
エマは少し離れた場所で、また石畳に線を引き始めた。
今度は、線を引く前に周りを見た。
「ここ、線を引いていい?」
エマが足元を指すと、そばにいたロッカが首をかしげた。
「なんで聞くんだよ」
「勝手に決めるなって言った」
「ああ、そっか」
ロッカは少し考えて、足をどけた。
「じゃあ、ここは?」
今度はロッカが、井戸の横の石畳を指した。
エマはそこを見る。
「そこは、走るとぶつかる」
「じゃあ、曲げろよ」
「曲げる」
エマは蝋石で、白い線を少しだけ曲げた。
その線を、カイが横から見ていた。
しばらく黙っていたが、やがて小さく言う。
「そこ、まだ近い」
エマは顔を上げた。
「じゃあ、カイも見る?」
カイは青い布を握ったまま、少しだけ首を傾ける。
「少しなら」
「少しって何だよ」
ロッカが言う。
「ずっとはやらないってこと」
カイは短く答えた。
エマはうなずいた。
「じゃあ、少し」
そう言って、線をもう半歩ぶん外へ曲げた。
それは、誰かに気をつけろと言う線ではなかった。
ぶつかる前に、道の方を少しだけ変える線だった。
トオルはそのやり取りを見ていた。
何かが解決したわけではない。
エマが明日もまた、困ってる人役にされないとは限らない。
子どもたちはすぐ忘れる。
ルールもすぐ崩れる。
それでも、崩れた時に戻れる言葉が一つ増えた。
勝手に決めない。
一人で測らない。
やめたい時は、降りられる。
完璧ではない。
けれど、加害になる前に止まれる場所が、ほんの少しできた。
セラが隣に立った。
「よく黙ったな」
「かなり喋りました」
「以前のお前なら、その三倍は喋った」
「基準が」
「大事な基準だ」
聞き覚えのある言い方だった。
トオルは、少しだけ肩の力を抜いた。
「セラさん」
「謝罪なら、まだ受け取らない」
「わかっています」
「ならいい」
それだけ言って、セラは歩き出した。
トオルはその背中を追わなかった。
追わないことにも、少しずつ慣れてきた。
夕方になると、広場の影が長く伸びた。
白い水差し亭の二階の窓から、トオルは外を見ていた。
下では、子どもたちがまだ測量士ごっこをしている。
「赤札!」
小さな子が、木切れを高く掲げる。
前なら、そこで誰かが笑って逃げた。
今日は違った。
「待てよ。赤なら、誰を呼ぶんだっけ」
「ええと……一人じゃ駄目」
「じゃあ、まず本人に聞く」
「何を?」
「困ってるのかって」
「嫌だって言ったら?」
「赤札なし」
「めんどくさい!」
「ひとりで、はかったら負けだぞ!」
答えはまだ、ばらばらだった。
手順も、すぐに崩れた。
途中で一人が鬼ごっこと間違えて走り出し、別の一人が札を持ったまま転んだ。
それでも、誰かが一人で前に出ようとすると、別の子が制した。
「ひとりで、はかるなって」
声は遊びの中に混ざって、すぐに笑い声へ変わった。
子どもたちは、もうこちらを見ていない。
誰が最初に言ったのかも、たぶんすぐに忘れる。
それでいいのだと思った。
広場の向こうで、子どもたちがまた走り出す。
カイも、その後を追った。
エマが石畳に線を引く。
「そこ、ぶつかる」
「じゃあ道を変えろ!」
「勝手に決めるなって!」
「ならエマに聞け!」
誰かが転ぶ。
誰かが笑う。
誰かが手を貸す。
「ひとりで、はかったら負けだぞ」
そんな声が聞こえて、また別の誰かが走り出した。
測量士ごっこは、少しだけ面倒くさい遊びになっていた。
その手つきには、まだ名前がない。
けれど、誰かが誰かを囲みそうになるたび、別の誰かが袖を引く。
井戸のそばで、エマの蝋石がまた一本、線を曲げた。
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